tag:blogger.com,1999:blog-88157829228027234882024-03-05T16:56:21.860+09:00Eureka!一を聞いて、一を聞くUnknownnoreply@blogger.comBlogger800125tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-63814574428372950152021-04-27T07:44:00.000+09:002021-04-27T07:44:03.849+09:00正史『三国志』姜維伝<p> </p><p><a href="https://amzn.to/3aJrANj" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3aJrANj" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A3%E5%8F%B2+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%EF%BC%95&qid=1619476408&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=afbd4d05964be10e7e796e6247e1b96f&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>蜀書</p><p><b>姜維伝</b></p><p><br /></p><p>姜維は字を伯約といい、天水郡冀県の人である。</p><p><br /></p><p>幼くして父を失い、母と暮らした。鄭玄(ていげん)の学問を好んだ。郡に出仕して上計掾(じょうけいえん)となり、州に召し出されて従事に任命された。父の姜冏(きょうけい)は昔、郡の功曹であったとき、羌族の反乱に遭遇し、身をもって郡将を守って戦場で死亡した。そのため姜維に中郎の官を贈り、本郡の軍事に参与させた。</p><p><br /></p><p>建興六年(228)、丞相諸葛亮の軍が祁山に向った。そのとき、天水の太守はたまたま巡察に出かけ、姜維および功曹の梁緒(りょうしょ)、主簿の尹賞(いんしょう)、主記の梁虔(りょうけん)らが随行していた。太守は蜀軍が今にもおし寄せんとしており、諸県も呼応していると聞くと、姜維らすべてが異心を抱いているのではないかと疑った。そこで夜半逃亡して上邽(じょうけい)にたてこもった。</p><p><br /></p><p>姜維らは太守が逃亡したのに気づくと追いかけたが、城門にたどりついたころには、城門はすでに閉ざされ、中に入れてくれなかった。姜維らが連れだって冀県に帰ってくると、冀県もまた姜維を入れてくれなかった。姜維らはそこでいっしょに諸葛亮のもとへ赴いた。</p><p><br /></p><p>たまたま馬謖が街亭で敗北し、諸葛亮は西県を陥して千余軒の住民を連れ出し、姜維らを率いて帰還した。そのため姜維は母と離ればなれになってしまった。諸葛亮は姜維を召し出して倉曹掾(そうそうえん)とし、奉義将軍の官位を加え、当陽亭侯に封じた。時に二十七歳であった。</p><p><br /></p><p>諸葛亮は留府(りゅうふ)長史の張裔(ちょうえい)、参軍の蔣琬(しょうえん)に手紙を送って、「姜伯約(維)は与えられたその時の仕事を忠実に勤め、思慮精密であり、彼のもっている才能を考えると、永南(李邵)。季常(馬良)らの諸君る及ばないものがある。この男は涼州における最高の人物である」と述べた。</p><p><br /></p><p>また、「まず中虎歩軍の兵五、六千人を教練する必要がある。姜伯約は軍事にはなはだ敏達していて、度胸もあるうえ、兵士の気持を深く理解している。この男は漢室に心を寄せ、しかも人に倍する才能を有しているゆえ、軍事の教練が終ったら、宮中に参上させ、主上にお目通りさせてもらいたい」ともいった。後に中監軍・征西将軍に昇進した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-50-%E5%AD%94%E6%98%8E%E5%8C%97%E4%BC%90%E8%A1%8C-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-151/dp/4267901503?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E5%B8%8C%E6%9C%9B&qid=1619476558&sr=8-106&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=195cf76bf7e6c0287399e66c0ba586f9&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901503&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901503" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>十二年(234)、諸葛亮がなくなると、姜維は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍となって、諸軍を統率し、平襄侯に爵位をあげられた。</p><p><br /></p><p>延照元年(238)、大将軍蔣琬に随行して漢中に駐屯した。蔣琬が大司馬に昇進した後、姜維は司馬に任命され、たびたび一軍を指揮して、西方へ侵入した。</p><p><br /></p><p>六年(243)、鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史を兼任した。</p><p><br /></p><p>十年(247)、衛将軍に昇進し、大将軍の費禕とともに録尚書事となった。この年、汶山(びんざん)郡平康県の蛮族が反乱を起し、姜維は軍勢を率いてこれを討ち平定した。また隴西・南安・金城の諸郡の地に出陣し、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮水(とうすい)の西で合戦した。蛮王の治無戴(ちぶたい)らが全部落をあげて降伏したので、姜維は彼らをつれて帰還し 〔成都の近くの繁県に〕安住させた。</p><p><br /></p><p>十二年(249)、姜維は節を与えられ、ふたたび西平に出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。姜維は西方の風俗に習熟しているという自信のうえに、軍事の才があると自負していたから、各種の羌族を誘い入れ友軍にしようとの望みを抱き、そうなれば隴より以西の地は魏から切断して支配できると考えた。〔姜維が〕大軍を動かそうと望むたびに、費禕はつねに制約を加えて思いどおりにさせず、わずか一万の兵を与えるだけだった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E5%A7%9C%E7%B6%AD%E4%BC%9D-%E8%AB%B8%E8%91%9B%E5%AD%94%E6%98%8E%E3%81%AE%E9%81%BA%E5%BF%97%E3%82%92%E7%B6%99%E3%81%90%E8%80%85-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B0%8F%E5%89%8D-%E4%BA%AE-ebook/dp/B00T683SRO?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%A7%9C%E7%B6%AD&qid=1619476606&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=68d9a64d6d03330e35625f74d180c274&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B00T683SRO&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B00T683SRO" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>十六年(253)春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて〔武都より〕石営(せきえい)に出、董亭(とうてい)を経て、南安を包囲したが、醜の雍州刺史陳泰(ちんたい)が包囲を解かんとして洛門(南安の東南にある)に到達し、姜維は兵糧尽きて撤退帰国した。</p><p><br /></p><p>翌年、督中外軍事の官位を加えられた。ふたたび隴西に出陣したところ、狄道(てきどう)を守備していた県長の李簡(りかん)が城を挙げて降伏した。進攻して襄武を包囲し、魏の将徐質(じょしつ)と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は敗退した。姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降伏させ、河関(かかん)・狄道・臨洮(りんとう)の三県の住民を控致して帰還した。</p><p><br /></p><p>のち十八年(二五五)、また車騎将軍夏侯覇らとともに狄道に出、洮水の西において魏の雍州刺史王経(おうけい)をさんざんにうち破った。王経の軍勢の死者は数万人に及んだ。王経が退却して狄道城にたてこもると、姜維はそれを包囲した。魏の征西将軍陳泰が軍勢を進めて包囲を解いたので、姜維は退却して鍾題(しょうだい)に駐屯した。</p><p><br /></p><p>十九年(256)春、遠征先において姜維を大将軍に昇進させた。さらに戦闘準備をととのえ、鎮西大将軍の胡済(こせい)としめし合わせて上邽で落ち合う手はずであったが、胡済は約束を破ってやってこなかった。そのために姜維は段谷(だんこく)において魏の大将鄧艾にうち破られ、軍兵はちりぢりになって逃げまどい、多大の戦死者を出した。人々はそのためひじょうに怨み、隴以西の地で騒乱がおこり不安定になった。姜維はあやまちを謝し責めを負って、みずから官を下げてほしいと願い出、後将軍・行大将軍事となった。</p><p><br /></p><p>二十年(257)、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反逆し、関中の兵を分けて東方へ下った。姜維はその虚に乗じて秦川(しんせん)へ向おうと欲し、またも数万の軍勢を率いて駱谷(らくこく)に出、ただちに沈嶺(ちんれい)に到達した。当時長城(沈嶺のすぐ北にある城)にはたいへん多くの穀物が貯蔵されていたのに、魏の守備兵は少数であったので、姜維がやってきたと聞き、人々は恐れおののいた。魏の大将軍の司馬望(ぼう)が守備に当り、鄧艾もまた隴右より駆けつけ、みな長城に陣を張った。姜維は前進して芒水(ぼうすい)に駐屯し、すべて山を利用して陣営を築いた。司馬望・鄧艾は渭水にそって防禦のとりでを固めた。姜維は何度も戦いを挑んだが、二人は応戦しなかった。</p><p><br /></p><p>景耀元年(258)、姜維は諸葛誕の敗北を聞くと、成都に帰還した。ふたたび大将軍に任命された。</p><p><br /></p><p>昔、先主は漢中のおさえとして魏延を駐留させ、外敵を防ぐために諸陣営には充分な兵を置き、敵が来攻してる、侵入できないように配慮しておいた。興勢(こうせい)の役のとき、王平が曹爽に対抗できたのも、すべてこの制度が続いていたおかげであった。</p><p><br /></p><p>姜維は建議して次のように述べた、「諸陣営を交錯させて守備するのは、〔乱暴な侵入者に備えて〕『門を幾重にも設け』たという『周易』(繋辞伝下)の趣旨に合致してはおりますが、しかし、敵の防禦にはさわしい対策であっても、大勝を博するわけにはまいりません。敵が来るとしても、諸陣営はすべて武器をとりまとめ兵糧を集め、引き退いて漢・楽の二域に行き、敵の平地への侵入を許さず、さらに関所の守りを大切にして防禦に当らせるのがよいでしょう。有事の際には、遊撃隊(ゲリラ)を両城からくり出して敵の隙をうかがわせます。敵軍は関所を攻撃しても抜くことができず、野に放置された穀物もないとなると、千里の彼方から兵糧を運ぶことになり、自然に疲弊欠乏するでしょう。撤退のときにはじめて諸城からいっせいに出撃し、遊撃隊と力をあわせてたたき伏せる、これこそ敵を顧滅する方策です。」</p><p><br /></p><p>その結果、督漢中の胡済(こせい)を漢寿(かんじゅ)まで退かせ、監軍の王含(おうがん)に楽城を守らせ、護軍の蔣斌(しょうひん)に漢城を守らせた。また西安・建威・武衛・石門・武城・建昌。臨遠においてすべて防禦陣を築いた。</p><p><br /></p><p>五年(262)、姜維は軍勢を率いて侯和(こうわ)に出、鄧艾に撃破され、引き返して沓中(とうちゅう)に駐屯した。姜維はもともと故郷を離れて蜀身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら功績を立てることができずにいるうち、臣官の黄皓(こうこう)らが宮中にいて権力をわがものとし、右大将軍の閻宇(えんう)が黄皓と結託した。しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もまたそれを疑っていたので、危倶の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-60-%E8%9C%80%E6%BC%A2%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BE%8C-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-181/dp/4267901600?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E5%B8%8C%E6%9C%9B&qid=1619476506&sr=8-39&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=add7d582cfa4430a2a8ba475484b7534&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901600&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901600" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>六年(263)、姜維は後主に上表して、「聞きますれば、鍾会は関中で出動の準備をととのえ、進攻の計画を練っているとか。張翼・廖化の二人に諸軍を指揮させ、陽安関の入口と陰平橋のたもとをそれぞれ固めさせ、危険に対して未然に処置なさいますように」と述べた。</p><p><br /></p><p>黄皓は鬼神や座の言葉を信用し、敵は絶対にやってこないと考え、後主にその進言をとりあげないように言上したが、群臣は何も知らなかった。</p><p><br /></p><p>鍾会が駱谷に向い、鄧艾が沓中に侵入しようというときになってはじめて、右車騎将軍の廖化を沓中にやって姜維の援軍とし、左車騎将軍の張翼、輔国大将軍の董蕨(とうけつ)らを陽安関の入口に向わせ、諸陣営の外にぁって救援態勢をとらせることにした。陰平(沓中への道筋に当る)まで来たとき、魏の将諸葛緒(しょかつしょ)が建威に向ったと聞いたため、留まってこれを待ち受けた。</p><p><br /></p><p>一ヵ月あまりたって、姜維は鄧艾に撃破され、陰平に引き退いた。鍾会が漢・楽二城を攻撃包囲し、別将を派遣して関口(陽安関口)に進撃させたため、蔣舒(しょうじょ)は城を開け渡して降伏し、傅僉は格闘して戦死した。鍾会は楽城を攻撃したが、落すことができないまま、関ロがすでに落ちたと聞き長駆して進撃した。張翼・董厥(とうけつ)がやっと漢寿に到達したところで、姜維・廖化は陰平を捨てて退却してきて、ちょうど張翼・董厥らと出会い、そろって引き退き剣閣にたてこもって鍾会に対抗した。</p><p><br /></p><p>鍾会は萎維に文書を送り述べた、「あなたは文武両面にわたる才能をもたれ、世人をしのぐ策略を胸に抱かれ、功業を巴・漢の地にあげられ、名声は中華の地にまで聞えわたり、遠きも近きもあなたに心を寄せないものはございません。過去に思いを馳せるたびに、かつては〔国を異にしても〕大きな理想に心を通わせたことを考えるのです。呉の季札(きさつ)と鄭(てい)の子産(しさん)の交情(春秋時代、二人は国を異にしながらよく理解しあった)は、友情のあり方というめのを理解しておりました。」</p><p><br /></p><p>姜維は返書を出さず、軍営をつらね要害を固めた。鍾会は抜くことができず、はるか遠方から兵糧輸送を行なっているため、帰還の相談をしようと考えた。</p><p><br /></p><p>ところが鄧艾は陰平から景谷道を通って〔剣閣の〕脇から侵入し、かくて綿竹においてし諸葛瞻(しょかつせん)を撃破した。後主が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都を占領した。</p><p><br /></p><p>姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、後主は成都を固守するつもりでいるとか、東方の呉に入国するつもりであるとか、南方の建寧(けんねい)に入るつもりであるとか、いろいろの情報が流れた。そこで軍を引いて、広漢・郪(し)の街道を通りつつその真偽を確認しようとした。ついで後主の勅令をうけたので、武器を投げ出しよろいをぬいで、鍾会のもとに出頭し、浩の陣営の前まで赴いた。将兵はみな怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切った。</p><p><br /></p><p>鍾会は姜維らを手厚くもてなし、かりの処置として、彼らの印璽・節・車蓋をみな返してやった。鍾会は姜維と外出するときには同じ車に乗り、座にあるときには同じ敷物に坐り、長史の杜預(とよ)に向って、「伯約(姜維)を中原の名士と比較すると、公休(諸葛誕)や太初(夏侯玄)でも彼以上ではあるまいな」といった。</p><p><br /></p><p>鍾会は鄧艾を罪に陥れ、鄧艾が護送車で召還されたのち、そのまま姜維らを率いて成都に至り、勝手に益州の牧と称して反旗をひるがえした。姜維に兵士五万人を授け、先鋒をつとめさせるつもりだったが、魏の将兵は憤激して、鍾会と姜維を殺害した。姜維の妻子もみな処刑された。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E8%9C%80%E6%BC%A2%E3%81%AE%E5%A4%A2-%E5%A7%9C%E7%B6%AD%E4%BC%9D-%E4%BA%8C-%E4%B9%85%E4%BF%9D%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%A4-ebook/dp/B08NHTJGLX?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%A7%9C%E7%B6%AD&qid=1619476606&sr=8-6&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=37d56d437607e7c5b4a416b960d35adf&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B08NHTJGLX&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B08NHTJGLX" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p>郤正は論文を書いて姜維について述べた、「姜伯約は上将の重責を占め、群臣の上に位置していたが、粗末な家に住み、余分な財産を持たず、別棟に妾を置く不潔さもなく、奥の間で音楽を奏させるたのしみももたず、あてがわれた衣服をまとい、備えつけの車と馬を使用し、飲食を節制して、ぜいたくもせず倹約もせず、お上より支給された俸禄の類を右から左へ使い果たした。彼がそうした理由を推察すると、それによって貪欲な者や不潔な者を激励しょうとしたり、自己の欲望を抑制し断ち切ろうとしたのではない。ただそれだけで充分であり、多くを求める必要はないと考えたからであった。およそ人の議論というるのは、つねに成功者をたたえて失敗者をけなし、高いものをさらにもちあげ、低いのをさらに抑えつけるものであって、誰も彼も姜維が身を寄せる場所もなく、その身は殺され一族は根絶やしにされたことをとりあげ、それを理由に非難をあびせ、もう一度検討しなおそうとはしないが、これは『春秋』が示す価値判断のたてまえとは違ったものである。姜維のように学問を楽しんで倦むことなく、清潔で質素、自己を抑制した人物は、当然その時代の模範なのである。」</p><p><br /></p><p>昔、姜維といっしょに蜀にやってきた人たちのうち梁緒(りょうしょ)は大鴻臚(だいこうろ)に、尹賞(いんしょう)は執金吾に、梁虔(りょうけん)は大長秋にそれぞれ官位が上がったが、みな蜀の滅亡より先に没した。</p><p><br /></p><p>評にいう。蔣琬は万事きっちりしていて威厳があり、費禕は寛容で人を差別なく愛し、ともに諸葛亮の定めた規範をうけ継ぎ、その方針に沿って改めなかった。そのために辺境地帯は安定し、国家は和合した。しかしながら、小さな町を治める道を充分にわきまえず(広都の長であったころの蒋腕をさす)、公務以外の場における身の処し方を充分わきまえていなかった(魏の降人に殺された費禕をさす)。</p><p><br /></p><p>姜維はほぼ文武両面の才を備え、功名をあげることを志したが、軍勢を軽々しく扱い、むやみに外征をくり返し、明晰な判断を充分にめぐらすことができず、最後は身の破滅を招くことになった。『老子』に、「大きな国を治めるのは、小さな魚を煮るのに似る(小さな魚を煮るのにつつきまわしてはいけないように、煩瑣な法令で民に干渉してはならない)」と述べている。ましてせせこましい小国において、たびたび民の生活を乱すような行動をおこしてよいものだろうか。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A3%E5%8F%B2+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%EF%BC%95&qid=1619476408&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=afbd4d05964be10e7e796e6247e1b96f&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3aJrANj" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3aJrANj" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-71740356294790412282021-04-24T08:56:00.003+09:002021-04-24T08:56:47.908+09:00正史『三国志』黄忠伝<p> </p><p><a href="https://amzn.to/3veLffJ" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3veLffJ" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p><p>蜀書</p><p><b>黄忠伝</b></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%A1%E3%82%83-ETL-TOYS-PVC%E8%A3%BD-%E5%A1%97%E8%A3%85%E6%B8%88%E3%81%BF%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A2/dp/B0927Q8RDQ?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E9%BB%84%E5%BF%A0&qid=1619221949&sr=8-17&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=089b8b40c7fb042ca46e44ab0593e270&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B0927Q8RDQ&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B0927Q8RDQ" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>黄忠は字を漢升といい、南陽郡の人である。</p><p><br /></p><p>荊州の牧劉表は彼を中郎将に任じ、劉表の従子の劉磐(りゅうばん)とともに長沙の攸(ゆう)県を守らせた。</p><p><br /></p><p>曹公は荊州をうち破ると、かりに裨(ひ)将軍の官につけ、そのまま元の任務を取りおこなわせ、長沙太守の韓玄の統制下においた。</p><p><br /></p><p>先主が南方の諸郡を平定すると、黄忠は臣下の礼をとり、つき従って蜀に入国した。葭萌(かぼう)より任を受け、引き返して劉璋を攻撃した。黄忠はつね にまっ先に駆けて陣地をおとし、その勇敢さは三軍の筆頭であった。益州が平定された後、討虜将軍に任命された。</p><p><br /></p><p>建安二十四年(219)、漢中の定軍山において、夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に精悍であったが、黄忠は鋒を突きたて、あくまでも進撃し、率先して士卒を励まし、鍾と太鼓は天を振わせ、歓声は谷を動かすほどで、一度の戦闘で夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗北を喫した。征西将軍に昇進した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%88%A4-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-14-%E6%BC%A2%E4%B8%AD%E7%8E%8B%E5%8A%89%E5%82%99-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4267906548?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E5%B8%8C%E6%9C%9B&qid=1619222068&sr=8-40&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=669310007bf7454f2779b132447a99d4&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267906548&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267906548" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>この年、先主は漢中王になり、黄忠を後将軍に起用するつもりであったが、諸葛亮が先主に申し出た、「黄忠の名声人望は、もとめと関羽馬超と同列ではありません。それを今ただちに、同等の位につかせようとしておられます。馬超・張飛は近くにいて、自分の目で彼の手柄を見ておりますから、まだご趣旨を理解させることができましょうが、関羽は遠くでこれを聞いて、おそらく喜ばないにちがいありません。どうもよくないのではないでしょうか。」</p><p><br /></p><p>先主は、「わしが自分で彼に説明しよう」といい、かくて関羽らと同等の官位につけ関内(かんだい)侯の爵をたまわった。</p><p><br /></p><p>翌年逝去し、剛(ごう)侯の諡号を追贈された。子の黄叙(こうじょ)は早逝しており、後継者はなかった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A3%E5%8F%B2+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%EF%BC%95&qid=1619221888&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=fe1f6cbcf981ce3e0ab73471388f16ef&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3veLffJ" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3veLffJ" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-8549980387301004212021-04-23T21:36:00.000+09:002021-04-23T21:36:16.462+09:00正史『三国志』馬超伝<p> </p><p><a href="https://amzn.to/3tOXD5R" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tOXD5R" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p><p>蜀書</p><p><b>馬超伝</b></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A2%93%E5%A0%B4%E3%81%AE%E7%94%BB%E5%BB%8A-%E9%A6%AC%E8%B6%85%E5%BD%AB%E9%87%91%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%EF%BC%8F%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97/dp/B0844TRHP4?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E9%A6%AC%E8%B6%85&qid=1619181050&sr=8-5&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=2b332c8cc3b7ec216ad8daf931406548&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B0844TRHP4&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B0844TRHP4" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵県の人である。</p><p><br /></p><p>父の馬騰は、〔後漢の〕霊帝の末期、辺章や韓遂たちとともに西州で旗あげした。初平三年(192)、韓遂と馬騰は軍勢を率いて、長安に赴いた。漢朝では、韓遂を鎮西将軍に任じて金城に帰還させ、馬騰を征西将軍に任じて郿に駐屯させた。後に馬騰は長安を襲撃したが、敗北して涼州に逃げ帰った。</p><p><br /></p><p>司隷校尉鐘繇は関中の抑えとして赴任すると、韓遂と馬騰に文書を送って、服従する場合と反抗する場合の利害について説明してやった。馬騰は馬超を鐘繇のもとにやり、彼につき従って平陽県にいる郭援と高幹を討伐させたところ、馬超の将軍龐徳(悳)は みずから郭援の首級をあげた。</p><p><br /></p><p>後に、馬騰は韓遂と不仲になり、都に戻ることを願った。そこで〔馬騰を〕召し寄せて衛尉とし、馬超を偏将軍に任じ都亭侯に封じて、馬騰の部下を掌握させた。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-31-%E9%A6%AC%E8%B6%85%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-94/dp/4267901317?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E9%A6%AC%E8%B6%85&qid=1619181050&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=da5138fe2e954a6274b55dc560c77d47&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901317&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901317" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>馬超は軍勢を統率したのち、韓遂と連合するとともに、楊秋・李堪・成宜らとよしみを結び、軍を進めて潼関までやってきた。</p><p><br /></p><p>曹公はただ一人馬に乗り、韓遂・馬超と会談した。馬超は剛力を頼みに、ひそかに突き進んで曹公をつかまえるつもりだったが、曹公の左右を警護する将の許褚が目をいからせて彼を睨んでいるので、思いきって手を下せなかった。</p><p><br /></p><p>曹公は賈詡の策略を用い、馬超と韓遂の仲を引き裂いたので、たがいに猜疑しあうようになり、軍はそのため大敗北を喫した。馬超は逃走して諸蛮族を配下におさめた。曹公は安定まで追撃したが、ちょうど北方で事件がおこったので、軍を引いて東に帰った。</p><p><br /></p><p>楊阜は曹公に進言した、「馬超は、〔前漢の〕韓信・鯨布のような武勇をもち、羌族の心をよくつかんでおります。もし大軍が引き上げたあと、彼に対する防備を厳重に行なわないならば、隴上の諸郡はわが国の領土ではなくなるでしょう。」</p><p><br /></p><p>馬超ははたして諸蛮族を率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はすべてこれに呼応した。涼州刺史の韋康を殺害して、冀城を拠点とし、その軍勢を配下に収めた。馬超はみずから征西将軍と称し、幷州の牧を兼務し、涼州の軍事都督となった。</p><p><br /></p><p>韋康のもとの吏民楊阜(ようふ)・姜叙(きょうじょ)、梁寛(りょうかん)・趙衢(ちょうく)らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜叙が鹵城で兵をあげ、馬超は出陣して彼らを攻めたが、下すことができなかった。〔その隙に〕梁寛と趙衢が冀城の城門を閉ざしたので、馬超は城に入ることができなくなった。進退谷(きわ)まってあわてふためき、かくて漢中に逃走して張魯のもとへ身を寄せた。</p><p><br /></p><p>張魯はともに事を計るに足らぬ人物だったので、内心いらだちを覚え、先主が成都にいる劉璋を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-32-%E6%B8%AD%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%B1%BA%E6%88%A6-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-98/dp/4267901325?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=16AFDWCORGITH&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D&qid=1619181208&sprefix=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%2Caps%2C303&sr=8-207&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=c2ad549a05cc2896e4682b8176a71366&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901325&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901325" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p>先主が使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。城中はおそれおののき、劉璋はただちに降伏した。馬超を平西将軍に任じて、臨沮を治めさせ、前のとおり都亭侯に封じてやった。</p><p><br /></p><p>先主は、漢中王になると、馬超を左将軍。仮節に任じた。章武元年(221)、驃騎将軍に昇進し、涼州の牧を兼務し、斄郷(りきょう)侯に爵位があがった。</p><p><br /></p><p>辞令にいう、「朕は、不徳の身をもって、至尊の位を継ぎ、宗廟を継承することになった。曹操父子は、代々罪行を重ねており、朕はそのため心痛み、あたかも頭痛を病んでいるかのようである。四海の内は怨み憤って、正義に帰順し根本に立ち帰らんとし、氐族・羌族も服従し、獯鬻(くんいく、北方異民族)までも道義を慕っている。君の信義は北方の地に明らかで、威光と武勇はともに輝きわたっている。だからこそ君に任務を委ね、ほえたける虎のごとき勇猛さをかかげて、万里の彼方まで正しく治め、民衆の苦しみを救わせるのである。さあ、わが朝の教化を広め明らかにし、遠近の民をなつけ安んじ、賞罰を慎重にとり行ない、よって漢朝の王者たるべき幸運を固め、天下の人々の望みに答えよ。」</p><p><br /></p><p>二年(222)逝去した。時に四十七歳であった。</p><p><br /></p><p>死にのぞんで上疏し、「私の一門、二百人あまりは、曹孟徳によって誅殺されほとんど絶滅いたしましたが、ただ従弟の馬岱だけが残っております。衰えた家の祭記を継ぐべき男として、そのことをくれぐれも陛下にお託ししたいと存じます。あとはいい残すことるありません」と述べた。</p><p><br /></p><p>馬超に威侯の諡号を追贈した。子の馬承が後を継いだ。馬岱は平北将軍の位にまでのぼり、陳倉侯にまで睡爵位があがった。馬超の娘は、安平王劉理の妻となった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A3%E5%8F%B2+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%EF%BC%95&qid=1619180909&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=192f8089a419223c3526b729c3f42523&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3tOXD5R" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tOXD5R" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-43408043289249347022021-04-23T13:30:00.003+09:002021-04-23T13:31:26.462+09:00正史『三国志』趙雲伝<p> </p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p><p>蜀書</p><p><b>趙雲伝</b></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%84%A1-%E4%BA%88%E7%B4%84%E5%8F%97%E3%81%91-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-%E8%B6%99%E9%9B%B2-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%A2-%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%88-%E6%B5%B7%E5%A4%96INFINITY-%E9%99%90%E5%AE%9A%E5%93%81-%E6%A8%B9%E8%84%82%E8%A3%BD-%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC/dp/B08FDPRPK1?pd_rd_w=E5gHU&pf_rd_p=7997b82e-5553-4baa-ac55-976d37fe0def&pf_rd_r=9ACW0V1BGHGZH2WC14ND&pd_rd_r=b8ccfefa-6859-42d9-8df1-858e7b61abe3&pd_rd_wg=eY5eU&pd_rd_i=B08FDPRPK1&psc=1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=3caea793c61c08552cb6f8bdfd763f2b&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B08FDPRPK1&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B08FDPRPK1" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>趙雲は字を子龍といい、常山郡真定県の人である。</p><p><br /></p><p>もと公孫瓚の配下であったが、公孫瓚が先主を派遣して田楷を助けて衰紹を防がせたとき、趙雲は随行することとなり、先主の主騎になった。</p><p><br /></p><p>先主が曹公によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。〔おかげで〕どちらも危難を免れることができた。牙門将軍に昇進した。</p><p><br /></p><p>先主が蜀に入国すると、趙雲は荊州に留まった。</p><p><br /></p><p>先主は葭萌から引きかえして劉障を攻撃し、諸葛亮を召しよせた。諸葛亮は趙雲や張飛らを率いてともに長江をさかのぼって西上し、郡県を平定した。江州に到着すると、趙雲に別の川を通って江陽に上り、諸葛亮と成都でおち合うことを命じた。成都が平定されたのち趙雲を翊軍(よくぐん)将軍に任じた。</p><p><br /></p><p>建興元年(223)、中護軍・征南将軍になり、永昌亭侯に封じられた。昇進して鎮東将軍になった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-28-%E9%80%B2%E6%94%BB%E7%8E%84%E5%BE%B3%E8%BB%8D-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-87/dp/4267901287?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619092108&s=books&sr=1-101&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=68704355526bd624817851474a6ac06a&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901287&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901287" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>五年(227)、諸葛亮に従って漢中に駐留した。翌年、諸葛亮は出兵し、斜谷街道を通ると宣伝した。曹真は大軍を派遣してこれにあたらせた。諸葛亮は趙雲と鄧芝に命じて曹真の相手をさせておき、自身は祁山を攻撃した。趙雲と鄧芝の軍が弱小なのに対して敵は強力だったので、箕谷で敗北したが、しかし軍兵をとりまとめて守りを固め、大敗にはいたらなかった。軍が撤退すると、鎮軍将軍に位を下げられた。</p><p><br /></p><p>七年(229)、逝去し、順平侯の諡号を追贈された。それより前、先主の時代には、ただ法正だけが諡号を贈られた。後主の時代になって、諸葛亮は世をおおう功績・徳義を立て、蔣琬と費禕は国家の重責を荷ったために、また諡号を受けた。陳祇は寵愛されて、特に格別のご汰を受け、夏侯覇は遠方より国家に帰順し、そのためにやはり諡号をおくられた。この時になって関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠および趙雲がはじめて諡号を追贈された。当時の世論は名誉としてもてはやした。</p><p><br /></p><p>趙雲の子の趙統があとを継ぎ、官は虎賁中郎。督行領軍にまで昇った。次男の趙広は牙門将となり、姜維に随行して沓中に行き、前線で戦死した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-39-%E6%BC%A2%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-118/dp/4267901392?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619092184&s=books&sr=1-117&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=ec5c218f0a30c491db8cf6289ae30b77&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901392&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901392" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>評にいう。</p><p><br /></p><p>関羽・張飛はいずれも一万人の敵を相手にできる男と賞讃され、この時代の勇猛の臣であった。関羽は曹公に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔を釈放し、ともに国士の風格があった。しかし、関羽は剛情で自信をもちすぎ、張飛は乱暴で情をもたず、その欠点のため身の破滅を招いたのは、道理からいって当然である。</p><p><br /></p><p>馬超は武力と猛勇をたのんでその一族を滅亡に導いたのは、残念なことである。しかしよく窮地から抜けでて安泰を招来したのは、まだましではなかろうか。</p><p><br /></p><p>黄忠・趙雲が果敢・勇猛によって、ともに武臣となったのは、灌嬰・滕侯(夏侯嬰。いずれも漢の高祖の武臣)のともがらであろうか。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A3%E5%8F%B2+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+5&qid=1619092309&s=books&sr=1-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=2244c0d4d0847768cf7d0d45a0ddd52f&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-82748705878358889322021-04-23T13:30:00.002+09:002021-04-23T13:30:51.127+09:00正史『三国志』張飛伝<p> </p><p><a href="https://amzn.to/3evO3P4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3evO3P4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p><p>蜀書</p><p><b>張飛伝</b></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-3-%E6%BC%A2%E5%AE%A4%E3%81%AE%E9%A2%A8%E9%9B%B2-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-18/dp/4267901031?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D&qid=1619151856&sr=8-12&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=818bd2ca263e3d4f8cef3b52951f9e3c&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901031&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901031" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。</p><p><br /></p><p>先主が曹公に従って呂布を破り、とるに許に帰ると、曹公は張飛を中郎将に任命した。先主は曹公に背いて、衰紹・劉表のもとへ身を寄せた。劉表が死ぬと、曹公が荊州に入ってきたので、先主は逃げて江南へ向った。</p><p><br /></p><p>曹公は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長阪で追いついた。先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落し、目をいからせ矛を小脇にして「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-23-%E9%95%B7%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%94%BB%E9%98%B2-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-76/dp/4267901236?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D&qid=1619151876&sr=8-61&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=25c8b113bcac2e1988f5e9ed84a90b05&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901236&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901236" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>先主は江南を平定し終ると、張飛を宜都の太守、征虜将軍に任命し新亭侯に封じた。後に南郡に転任した。先主が益州に入り、〔漢中征討から〕引き返して劉璋を攻撃したとき、張飛は諸葛亮とともに、流れをさかのぼって攻め上り、手分けして郡県を平定した。</p><p><br /></p><p>江州に到達すると、劉璋の将で巴郡太守の厳顔を撃破し、厳顔を生け捕りにした。張飛は、厳顔をどなりつけ、「大軍がやってきたのに、なぜ降伏せず、あえて抗戦したのか」というと、厳顔は、「あなた方は無礼にも、わが州を侵略した。わが州には首をはねられる将軍がいるだけで、降伏する将軍はいないのだ」と答えた。張飛は立腹して、側近の者に引っ張って行かせ、首を切らせようとしたが、厳顔は顔色ひとつ変えず、「首を切るのなら、さっさと切ればよい。どうして腹を立てることがある」といった。張飛は見事だと感じ、彼を釈放し、招いて賓客とした。</p><p><br /></p><p>張飛は通過する場所ですべて勝利をおさめ、先主と成都において落ち合った。益州を平定し終ると、諸葛亮・法正・張飛および関羽に、金各々五百斤・銀千斤・銭五千万両・錦千匹を賜わり、その他の者にはそれぞれ格差をつけて恩賞を賜与した。張飛を巴西の太守に任命した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-35-%E6%88%90%E9%83%BD%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-106/dp/426790135X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D&qid=1619151933&sr=8-166&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=3439584829f8ea309a671906bc0120dc&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=426790135X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=426790135X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>曹公は張魯を破ると、夏侯淵と張郃を駐留させて漢川を守備させた。</p><p><br /></p><p>張郃は、別に諸軍を指揮して巴西をくだし、そこの住民を漢中に移住させようとして、宕渠(とうきょ)・蒙頭(もうとう)・盪石(とうせき)に軍を進め、張飛と相い対時すること五十日以上に及んだ。張飛は精鋭一万余人を率いて、別の街道から張郃の軍を迎えて交戦したが、〔張郃の軍は〕山道が狭いため、前と後ろが救け合うことができなかった。張飛はかくて張郃を撃破した。張郃は馬を乗り棄てて山づたいに、ただ供まわりの配下十人余りとともに間道をぬって退却し、軍を引きあげ南鄭に帰ったので、巴の地方は平静さを取り戻した。</p><p><br /></p><p>先主は漢中王となると、張飛を右将軍・仮節に任命した。章武元年(221)、車騎将軍に栄転し、司隷校尉を兼務し、昇進して西郷侯に封ぜられた。</p><p><br /></p><p>その辞令にいう、「朕は皇統を承けて、かしこくも大業を継ぎ、あだなすものを除き動乱を鎮めたが、いまだその道を明らかにせぬままである。現在、逆賊が害をなし、民衆は塗炭の苦しみを蒙り、漢室を思慕する士人は、鶴のように首を伸ばして待ち焦がれている。朕はそのため心痛み、座しても席におちつかず、食べてる味がわからないほどである。〔そこで〕軍を整え宣誓して、まさに天罰を下そうとしている。君の忠義と勇気は召虎(周の宣王のとき、淮夷を討った召の穆公)と等しく、その名は遠近に鳴りひびいていることを思うがゆえ、特に命令を宣示し、爵位を昇進させ、都を司る役目(司隷校尉)を兼任させたのである。よって大いに天威を用い、徳義をもって服従する者を慰撫し、刑罰をもって反抗する者を制裁して、咲の意志に沿え。『詩経』にいうではないか、『害毒を与えてはならぬぞ。厳しく責めたててはならぬぞ。わが王国に来たりて服従させよ。汝のすぐれた徳と大きな仕事を考え、汝に恵みを賜う』と。がんばってくれよ」</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-38-%E5%BC%B5%E9%A3%9B%E3%81%AE%E6%99%BA%E7%95%A5-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-115/dp/4267901384?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%BC%B5%E9%A3%9B&qid=1619151678&sr=8-16&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=10008cfdb4b07be4069a806aa10de5ac&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901384&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901384" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p><p><br /></p><p>そのむかし、張飛の勇猛ぶりが関羽に次ぐものであったので、魏の謀臣程昱たちはみな関羽と張飛には一万人を相手にする力があると賞讃していた。</p><p><br /></p><p>関羽は兵卒を好遇したが、士大夫に対しては傲慢であり、張飛は君子(身分の高い人)を敬愛したが、小人(身分の低い人)にあわれみをかけることはなかった。先主はいつもこれを戒めて、「君はあまりにも刑罰によって人を殺しすぎるうえに、毎日兵士を鞭で叩いている。しかも彼らを側近に仕えさせているが、これは禍いを招くやり方だぞ」といっていたが、張飛はそれでも改めなかった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%8A%87-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%96%B0%E4%BE%A1%E6%A0%BC-DVD/dp/B07KZFYV7T?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E4%BA%BA%E5%BD%A2&qid=1619151797&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=b3a2ceec8c53b6f0ebaa82e9f0e5648d&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="https://ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B07KZFYV7T&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B07KZFYV7T" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>先主が呉を討伐するにあたって、張飛は一万の兵を率い、閬中から出て江州で落ちあうことになった。出発に際して、その幕下の将張達と范彊が張飛を殺害し、その首を持ち、〔長江の〕流れに乗って孫権のもとへ出奔した。</p><p><br /></p><p>張飛の軍営の都督が上表して先主に報告したところ、先主は張飛の都督から上奏文がとどけられたと聞くと、「ああ、張飛が死んだ」といった。</p><p><br /></p><p>張飛に桓侯の諡号を追贈した。</p><p><br /></p><p>長男の張苞は若死したので、次男の張紹があとを継ぎ、官位は侍中。尚書僕射にまで昇った。張苞の子の張遵は尚書となり、諸葛瞻に随行して、綿竹において鄧艾と戦って戦死した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A3%E5%8F%B2%E3%80%8E%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%EF%BC%95&qid=1619151601&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=0201bc806dfb1111641df6e2fac22ce7&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3evO3P4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3evO3P4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-52674855248011995852021-04-23T07:15:00.002+09:002021-04-23T07:18:10.973+09:00正史『三国志』関羽伝<p> </p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p><p>蜀書</p><p><b>関羽伝</b></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E7%B4%9A%E5%A4%A9%E7%84%B6%E3%83%84%E3%82%B2%E6%9C%A8%E5%BD%AB%E3%82%8A-%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E7%BE%8E%E8%A1%93%E5%93%81-%E6%9C%A8%E8%A3%BD%E5%BD%AB%E5%88%BB-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E6%BC%94%E7%BE%A9-%E9%9D%92%E9%BE%8D%E5%81%83%E6%9C%88%E5%88%80/dp/B08M9V37CJ?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E9%96%A2%E7%BE%BD&qid=1619128980&sr=8-3-spons&psc=1&spLa=ZW5jcnlwdGVkUXVhbGlmaWVyPUEyV1MxUUpSU05NN0lKJmVuY3J5cHRlZElkPUEwNTYzODEyMVZYSFJNNlg1RzhQOSZlbmNyeXB0ZWRBZElkPUExWDNMRUxVRE1PWkhNJndpZGdldE5hbWU9c3BfYXRmJmFjdGlvbj1jbGlja1JlZGlyZWN0JmRvTm90TG9nQ2xpY2s9dHJ1ZQ%3D%3D&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=bd8ade72c6469e3227c94ffe9fb85d8e&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B08M9V37CJ&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B08M9V37CJ" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>関羽は字を雲長という。もとの字を長生といい、河東郡解県の人である。本籍から涿郡に出奔した。</p><p><br /></p><p>先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。先主は平原の相となると、関羽と張飛を別部司馬に任じ、それぞれ部隊を指揮させた。</p><p><br /></p><p>先主は二人と同じ寝台にやすみ、兄弟のような恩愛をかけた。しかし大ぜいの集まっている席では、一日じゅう側に立って守護し、先主につき従って奔走し苦難をいとわなかった。</p><p><br /></p><p>先主は、徐州刺史の車冑を襲撃して殺害すると、関羽に下郡の城を守備させ、太守の事務を代行させ、自分は小沛に帰った。</p><p><br /></p><p>建安五年(200)、曹公が東方征伐を行ない、先主は衰紹のもとへ逃走した。曹公は関羽を捕虜にして帰り、偏将軍に任命して、たいへん手厚く礼遇した。衰紹は大将の顔良を派遣して、白馬にいた東郡太守の劉延を攻撃させたが、曹公は張遼と関羽を先鋒にして、これを撃った。関羽は、顔良の〔車につける大将の〕旗じるしと車蓋を望見すると、馬に鞭うって〔馳せつけ〕大軍のまっただ中で顔良を刺し、その首を斬りとって帰ってきた。衰紹の諸将のうちで相手になれる者はおらず、かくて白馬の包囲は解かれたのである。曹公は即刻上表して、関羽を漢寿亭侯に封じた。</p><p><br /></p><p>これより先、曹公は関羽のりっぱな人柄を評価したが、彼の心には長く留まる気持がないと推察して、張遼に、「君、ためしに個人的に彼に質問してみてくれ」といった。それを受けて張遼が関羽にたずねてみると、関羽は敷息して、「曹公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、しかし、私は劉将軍から厚い恩誼を受けており、いっしょに死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることはできません。私は絶対に留まりませんが、私は必ず手柄を立てて、曹公に恩返ししてから去るつもりです」といった。張遼が関羽のことばを曹公に報告すると、曹公はその義心に感心した。</p><p><br /></p><p>関羽が顔良を殺害するに及んで、曹公は彼が必ず去るだろうと思い、重い恩賞を賜わった。関羽は、ことごとくその賜り物に封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、衰紹の軍にいる先主のもとへ奔った。側近の家来が彼を追跡しようとすると、曹公は、「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ。追跡してはならない」といった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-18-%E6%B1%BA%E6%AD%BB%E3%81%AE%E5%8D%83%E9%87%8C%E8%A1%8C-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-68/dp/426790118X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619129180&sr=8-82&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=d0b2fffc3d3db891cdb5432437053bd9&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=426790118X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=426790118X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>〔関羽は〕先主に従って劉表の許に身を寄せた。劉表が死去すると、曹公が判州を平定しようとした。先主は樊から南下して長江を渡る計画を立て、関羽には別に数百競の船を率いさせ、江陵で落ち合うことを命じた。曹公が追撃して当陽の長阪にやってくると、先主は脇道を通って漢津に行き、ちょうど関羽の船と出会って、いっしょに夏口に到達した。</p><p><br /></p><p>孫権は、軍兵を派遣して先主を救援し、曹公を防いだので、曹公は軍を引き撤退した。先主は江南の諸郡を手に入れると、大功を立てたものに官爵を授け、関羽を裏陽太守・盪寇(とうこう)将軍に任命して、長江の北に駐屯させた。先主は、西方益州を平定すると、関羽を荊州の軍事総督に任じた。</p><p><br /></p><p>関羽は、馬超が来降したことを聞き知り、もとめと馴染みではなかったので、諸葛亮に手紙を出して、馬超の人物・才能は誰と匹敵するかと尋ねた。諸葛亮は、関羽が負けずぎらいなのを知っていたから、これに答えて、「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり、〔漢の〕鯨布や彰越のともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、やはり髯どのの比類なき傑出ぶりには及ばない」といってやった。関羽は頬ひげが美々しかったので、諸葛亮は彼を髯どのと呼んだのである。関羽は手紙を見て大喜びして、来客にみせびらかした。</p><p><br /></p><p>関羽は以前、流れ矢に当って、左肘を貫通されたことがあった。後になって傷が癒っても、曇の日や雨の日にはいつも骨が疼き痛んだ。医者が、「矢じりに毒が塗ってあって、毒が骨にしみこんでいますから、肘を切り裂いて傷口を開け、骨をけずって毒をとり去らねばなりません。そうすれば、この痛みはなくなるでしょう」といった。関羽はすぐに肘を伸ばして医者に切開させた。ちょうどそのとき、関羽は諸将を招待して宴会をしている最中であった。肘の血は流れ出して、大きな皿いっぱいになったが、関羽は焼肉を切りわけ酒をひきよせて泰然として談笑していた。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%8A%87-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%96%B0%E4%BE%A1%E6%A0%BC-DVD/dp/B07KZJNFT5?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%8A%87+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619129537&sr=8-5&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=7b794a18b762952760600f498c9bb277&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B07KZJNFT5&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B07KZJNFT5" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>二十四年(219)、先主は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節(はた)と鉞(まさかり、専行権を示す)を貸し与えた。</p><p><br /></p><p>この年、関羽は軍勢を率いて、樊にいる曹仁を攻撃した。曹公は干禁を救援にさし向けた。秋、大変な長雨がふって、漢水が氾濫し、手禁の指揮する七軍すべてが水没した。干禁は関羽に降伏し、関羽はまた将軍の龐悳を斬った。</p><p><br /></p><p>梁郟(りょうこう)・陸渾(りくこん)といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると、司馬宣王(懿)と蔣済は、関羽が野望を遂げることを孫権はきっと望まないだろうから、使者をやって、その背後を突かせるよう孫権に勧め、長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい、そうすれば、樊の包囲はおのずと解けるだろうと主張した。曹公はそれに従った。</p><p><br /></p><p>これよりさき、孫権は使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽はその使者をどなりつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた。</p><p><br /></p><p>また、南郡太守の糜芳が江陵に、将軍の傅士仁が公安に駐屯していたが、どちらもかねてから関羽が自分を軽んじていると嫌っていた。関羽が出陣すると、糜芳と傅士仁は軍資を供給するだけで、全力をあげて援助することはなかった。関羽は、「帰還したら、こいつらを始末しなければならない」といったので、糜芳と傅士仁はともに恐怖を感じ落ち着かなかった。</p><p><br /></p><p>このとき、孫権が内々に糜芳と傅士仁に誘いをかけ、糜芳と傅士仁が人をやって孫権を迎えさせたところに、曹公が徐晃を曹仁の救援に差し向けた。関羽は勝利を得ることができず、軍を引いて撤退した。</p><p><br /></p><p>孫権はすでに江陵を占領しており、関羽の部下やその妻子たちをことごとく捕虜にしたので、関羽の軍は四散した。孫権は、将軍をつかわして関羽を迎え撃ち、関羽と子の関平を、臨沮において斬り殺した。</p><p><br /></p><p>関羽に壮繆(そうぼく)公の諡号を送った。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-41-%E9%96%A2%E7%BE%BD%E3%81%AE%E4%B8%8D%E8%A6%9A-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-124/dp/4267901414?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E9%96%A2%E7%BE%BD&qid=1619128980&sr=8-51&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=ceed4d08c586dd61ea8f979a49e33398&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901414&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901414" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>子の関興が後を継いだ。関興は字を安国といい、幼いころから評判が高く、丞相の諸葛亮は彼の才能を高く評価した。二十歳で侍中・中監軍になったが、数年後に死んだ。子の関統が後を継ぎ、公主(内親王)を娶り、官位は虎賁中郎将にまで登った。死後、子供がなかったので、関興の庶子関彝(かんい)に爵位を継がせた。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97+%E6%AD%A3%E5%8F%B2+%EF%BC%95&qid=1619129697&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=0e48ffb6c90ca58a67e401b23fcc67ab&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-89450161976770740262021-04-22T13:56:00.004+09:002021-10-26T18:58:05.467+09:00正史『三国志』 諸葛亮伝<p> </p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p><p><b>諸葛亮伝</b></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E5%8F%B2-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E8%9C%80%E6%9B%B8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E5%AF%BF/dp/4480080457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A3%E5%8F%B2%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619065948&sr=8-4&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=c23c28a132b8d5e65136159924bf2a7b&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480080457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480080457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>諸葛亮は字を孔明といい、琅琊郡陽都県の人である。</p><p>漢の司隷校尉諸葛豊の子孫である。</p><p>父の諸葛珪は字を君貢といって、後漢末に太山郡の丞であった。</p><p><br /></p><p>諸葛亮は幼いとき父をなくした。</p><p>従父の諸葛玄は袁術の任命によって豫州太守となり、諸葛亮と弟の諸葛均をつれて赴任した。</p><p>ちょうどそのとき漢朝では改めて朱皓を選出し諸葛玄と代らせた。</p><p>諸葛玄はかねてから荊州の牧劉表と旧知の間柄であったので、彼のもとに身を寄せた。</p><p><br /></p><p>諸葛玄がなくなると、諸葛亮はみずから農耕にたずさわり、好んで『梁父吟』(隠者のうたう歌)を歌ってくらした。</p><p>身長は八尺もあり、つねに自分を管仲(春秋時代、斉の桓公の宰相)・楽毅(戦国時代、燕の名将)に擬していたが、当時の人で、これを認める者はいなかった。</p><p>ただ博陵の催州平と穎川の徐庶字は元直の二人は、諸葛亮と親交を結んでいて、まことにそのとおりだと認めていた。</p><p><br /></p><p>そのころ先主(劉備)は新野に駐屯していた。</p><p>徐庶が先主と会見し、先主は彼を有能な人物だと思った。</p><p><br /></p><p>徐庶は先主に向って、「諸葛孔明という男は臥龍(ねている龍)です。将軍は彼と会いたいと思われますか」とたずねた。</p><p>先主が、「君、つれてきてくれ」というと、徐庶は、「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れてくることはできません。将軍が車をまげて来訪されるのがよろしいでしょう」といった。</p><p><br /></p><p>その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげく、やっと会えた。</p><p><br /></p><p>そこで人ばらいをして、「漢朝は傾き崩れ、姦臣が天命を盗み、皇帝は都を離れておられる。わしは、みずからの徳や力を思慮にいれないで、天下に大義を浸透させようとねがっているけれども、知恵も術策も不足しているため、けっきょくつまずき、今日におよんでいる。しかし、志は今なお捨てきれない。君はいったいどうすればよいと思うか」といった。</p><p><br /></p><p>諸葛亮は答えていった、「董卓〔の蜂起〕以来、豪傑が次々と蜂起し、州にまたがり郡をつらね、のさばる者は数えきれないほどであります。曹操は袁紹にくらべますと、名声は小さく、軍勢も少なかったのですが、それでいて曹操がけっきょく袁紹にうち勝って、弱者から強者になりおおせたのは、単に天のあたえる時節ばかりではなく、そもそも人間のなす計略のおかげです。</p><p><br /></p><p>いま曹操はすでに百万の軍勢を擁し、天子を擁立して諸侯に命令を発しており、これは実際対等に戦える相手ではありません。孫権は江東を支配して、すでに〔父の孫堅、兄の孫策以来〕三代を経ており、国家は堅固で民はなつき、賢人も能力者も彼の手足となってはたらいており、これは味方とすべきで、敵対してはならない相手です。</p><p><br /></p><p>荊州は、北方は漢水・汴水にまたがり、経済的利益は南海にまで達し、東方は呉会につらなり、西方は巴・蜀に通じていて、これこそ武力を役立てるべき国であるのに、領主はとてももちこたえることができません。これこそ天が将軍のご用に供している土地といえましょうが、将軍にはその意志がおありですか。</p><p><br /></p><p>益州は、堅固な要塞の地であり、豊かな平野が千里も広がる天の庫ともいい得るところであって、高祖はこれを基に帝業を完成しました。〔領主の〕劉障は暗愚で、張魯を北にひかえており、人口は多く国は豊かであるにもかかわらず、福祉に心を砕かないので、智能ある人士は明君を得ることを願っております。</p><p><br /></p><p>将軍は、皇室の後裔であるうえ、信義が天下に聞えわたり、英雄たちを掌握されて、のどの渇いた者が水をほしがるように賢者を渇望しておられます。</p><p><br /></p><p>もしも荊州と益州にまたがって支配され、その要害を保ち、西方の諸蛮族をなつけ、南方の異民族を慰撫なさって、外では孫権とよしみを結び、内では政治を修められ、天下にいったん変事があれば、一人の上将に命じて荊州の軍を宛・洛に向わせ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃するようになさったならば、民衆はすべて弁当と水筒をたずさえて将軍を歓迎するでありましょう。まことにこのようになれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう。」</p><p><br /></p><p>先主は「なるほど」といった。</p><p><br /></p><p>こうして諸葛亮との交情は、日に日に親密になっていった。</p><p>関羽や張飛らは不機嫌であったが、先主がなだめて、「わしに孔明が必要なのはちょうど魚に水が必要なようなものだ。諸君らはもう二度と文句をいわないでほしい」といった。</p><p><br /></p><p>関羽と張飛はそこで何もいわなくなった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-21-%E5%AD%94%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%87%BA%E5%BB%AC-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-74/dp/426790121X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066192&s=books&sr=1-71&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=e206e48a3179fa9686376d28f1ed3a09&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=426790121X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=426790121X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>劉表の長男劉琦らまた、諸葛亮の才能をきわめて高くかっていた。</p><p>劉表は後妻のいうことを聞いて、末子の劉琮を愛し、劉琦を喜ばなかった。</p><p>劉琦はいつも諸葛亮と自己の身の安全策を謀ろうとしていたが、諸葛亮はそのたびに拒否して、相談に乗らなかった。</p><p><br /></p><p>劉埼はそこで諸葛亮を連れて裏庭を逍遥し、ともに高殿に登って、宴を張っている間に、はしごをとりはずさせて、諸葛亮にいった、「今日は、上は天に届かず、下は地面につきません。言葉はあなたの口から出て、私の耳に入るだけです。なにか話していただけないでしょうか。」</p><p><br /></p><p>諸葛亮は答えた、「あなたは、〔春秋時代晋の太子〕申生が国内に留まったため危険にさらされ、〔公子の〕重耳(のちの文公)が国外に出て安全だったのをご存知ではありませんか。」</p><p><br /></p><p>劉琦は心のうちでその意味を悟り、ひそかに都の外に出る計略をめぐらせた。</p><p>ちょうどそのころ、〔江夏太守の〕黄祖が死亡したので、外に出ることができ、かくて江夏太守となった。</p><p><br /></p><p>突然、劉表がなくなり、〔代った〕劉琮は曹公の軍勢がやってくると聞き、使者を遣わして降伏を申し出た。</p><p><br /></p><p>先主は樊にいてこのことを知り、その軍勢を率いて南に移った。</p><p>諸葛亮と徐庶はともに随行したが曹公に追撃されて敗北し、徐庶の母が捕虜となった。</p><p><br /></p><p>徐庶は先主に別れを告げ、その胸を指さしていった、「もともと将軍とともに王業・覇業を行なうつもりでいたのは、この一寸四方の場所(心臓)においてでした。いま、すでに老母を失って、一寸四方は混乱しております。事態に対処するのに利益になりません。これでお別れしたいと存じます。」かくて、曹公のもとへ赴いた。</p><p><br /></p><p>先主が夏口まで来ると、諸葛亮は、「事態は切迫しております。御命令をいただいて、孫(権)将軍に救援を求めたいと思います」と進言した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-25-%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E5%89%8D%E5%93%A8%E6%88%A6-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-81/dp/4267901252?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066343&s=books&sr=1-196&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=0757b4de894d328688b8f77779b97b64&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901252&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901252" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>そのとき、孫権は軍勢を従え柴桑にいて、勝敗の行方をうかがっていたが、諸葛亮は孫権を説得していった、「天下は乱れに乱れ、将軍は挙兵して江東を所有され、劉(備)豫州もまた漢水の南方で軍勢をおさめて、曹操とくつわを並べて天下を争っておられます。いま曹操は、大乱を切り従え、ほぼ平定し終り、さらに荊州を破って、威勢は四海を震わせております。英雄も武力を用うる余地なく、そのために劉豫州は遁走してここに来られたのです。将軍よ、あなたも自分の力量をはかって、この事態に対処なされませ。もしも、呉・越の軍勢をもって中国に対抗できるのならば即刻国交を断絶されるに越したことはありませんし、もしも対抗できないのならば、兵器甲冑を束ね、臣下の礼をとってこれに服従なさるがよろしいでしょう。いま将軍は、外では服従の名義に寄りかかりつつも、内では引き伸ばし政策をとってておられます。事態が切迫しているのに決断をお下しにならないならば、災禍は日ならずしておとずれるでありましょう。」</p><p><br /></p><p>孫権がいった、「もしも君のいうとおりだとしたならば、劉豫州はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」</p><p><br /></p><p>諸葛亮は答えた、「田横は斉の壮士にすぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」</p><p><br /></p><p>孫権はむっとして、「わしは呉の全部の土地、十万の軍勢をそっくりそのままもちながら、人の制肘を受けるわけにはいかない。わしの決断はついた。劉豫州以外に曹操に当れる者はいないのだが、しかし劉豫州は曹操に敗れたばかりだ。この後、どうしてこの難局にぶつかることができようぞ」といった。</p><p><br /></p><p>諸葛亮は次のように述べた、「劉像州の軍は長阪において敗北したとは申しましても、現在、逃げ帰った兵と関羽の水軍の精鋭あわせて一万人。劉琦が江夏の軍兵を集めればこれまた一万人を下りません。曹操の軍勢は、遠征で疲れ切っております。聞けば、劉豫州を追って、軽騎兵は、一日一夜、三里以上も馳せたとのこと。これは、いわゆる『強弓に射られた矢もその最後は魯のきぬさえ貫けない』という事態です。だから、兵法では、これを嫌って、『必ず上将軍(前軍の将)は倒される』(『孫子』軍争篇)といっております。そのうえ、北方の人間は、水戦に不馴れです。また荊州の民衆が曹操になびいているのは、軍事力に圧迫された結果であり、心から従っているのではありません。いま、将軍がほんとうに勇猛なる大将に命じて兵士数万を統率させ、劉豫州と計をともにし力を合せることがおできになるならば、曹操の軍勢を撃破するのはまちがいありません。曹操軍は敗北したならば、必ず北方へ帰還いたしましょう。そうなれば、荊・呉の勢力は強大になり、三者鼎立の状況が形成されます。成功失敗のきっかけは今日にあります。」</p><p><br /></p><p>孫権は大いに喜び、すぐさま、周瑜・程普・魯粛ら水軍三万を派遣し、諸葛亮にっいて先主のもとへ行かせ、力を合せて、曹公を防がせた。</p><p><br /></p><p>曹公は赤壁で敗北し、軍勢を引きあげて鄴に帰った。</p><p><br /></p><p>先主はかくて江南の地を手中におさめ、諸葛亮を軍師中郎将にして、零陵・桂陽・長沙の三郡を治めさせ、その賦税を調達して、軍事費にあてた。</p><p><br /></p><p>建安十六年(211)、益州の牧劉璋が法正をつかわして、先主を迎え入れ、北方の張魯を攻撃させた。諸葛亮は関羽とともに刑州をおさえた。先主は葭萌から引き返して劉璋を攻撃し、諸葛亮は張飛・超雲らとともに軍勢を率いて長江をさかのぼり、手分けして郡県を平定し、先主とともに成都を包囲した。</p><p><br /></p><p>成都が平定されると、諸葛亮を軍師将軍·左将軍府事(当時、先主は左将軍であった)に任命した。先主が出征するとき、諸葛亮はつねに成都の留守を守り、食糧と軍事力を充足させた。</p><p><br /></p><p>二十六年(221)、群臣は先主に帝号を名乗るよう勧めた。</p><p><br /></p><p>先主が承知しないでいると、諸葛亮は説得していった、「昔、〔後漢の初め〕呉漢・耿弇(こうえん)らが最初、世祖(光武帝)さまに帝位につくようおすすめし、世祖が前後数度にわたって辞退すると、耿純(こうじゅん)は、『天下の英雄はものほしげに、望みのものを手に入れることを期待しております。もし、われわれの意見にお逆らいになったならば、士大夫はめいめいひきさがって主君を求め、あなたに従うものはいなくなるでしょう』と進言いたしました。世祖は耿純(こうじゅん)のことばの切実さに心を動かされ、その結果、承諾なさいました。現在、曹氏が漢朝を簒奪し、天下に主なきありさまです。大王さまは劉氏の末裔にましまし、その血筋を承けて出現なさったのでありますから、今、帝位につかれるのは、当然のことであります。士大夫が、大王きまにつき従って久しい間苦労して参りましたのもまた、耿純(こうじゅん)の言葉どおりほんの小さな恩賞が欲しいからにすぎません。」</p><p><br /></p><p>先主はかくして帝位につき、諸葛亮を丞相に任命した。</p><p><br /></p><p>その任命書にいう、「朕は王室の不幸に遭遇して、皇統を継承し、つつしみと恐れを抱きつつ、あえてくつろぐこともなく、民衆の生活を安定させることを願っているが、まだ安んじることができないでいるのを懸念している。ああ、丞相諸葛亮よ、朕の意志を充分にくみとり、怠りなく咲の欠点を輔佐し、重なる光輝を宣べて、天下を照らし出すのを助けよ。君、それつとめよ。」</p><p><br /></p><p>諸葛亮は、丞相の位をもって尚書(詔勅を掌る)の事務を担当し、仮節(軍令を犯した者を死刑にできる)となった。張飛のなくなった後は、司隷校尉をも兼務した。</p><p><br /></p><p>章武三年(223)春、先主は永安で重体におちいり、成都から諸葛亮を呼びよせて、事を託し、彼に向っていった、「君の才能は曹丕の十倍はあり、きっと国家を安んじ、最後には、大事業をなしとげることができよう。もしも後継ぎが輔佐するに足る人物ならば、これを輔佐してやってほしい。もしも、才能がないならば、君は国を奪うがよい。」</p><p><br /></p><p>諸葛亮は涙を流して、「臣は心から股肱としての力を尽し、忠誠の操をささげましょう。最後には命を捨てる所存です」といった。</p><p><br /></p><p>先主はさらに詔を下して後主をいましめた、「汝は丞相とともに仕事をし、父と思ってつかえよ。」</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-45-%E5%8A%89%E5%82%99%E3%81%AE%E6%AD%BB-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-136/dp/4267901457?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066280&s=books&sr=1-146&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=5a202cf40068f7dc184fead52bdfd195&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>建興元年(223)、諸葛亮を武郷侯に封じ、幕府を開いて政務をとりしきらせた。しばらくして、また益州の牧を兼務させた。政治は大小を問わず、すべて諸葛亮が決定した。南中の諸郡が、そろって反乱をおこしたが、諸葛亮は、君主の喪にあったばかりなので、まだすぐに兵力を加えることをしなかった。また呉に使者を派遣して、和親を結び、かくて同盟国となった。</p><p><br /></p><p>三年(225)春、諸葛亮は軍勢をひきいて南征し、同年秋ことごとく平定した。軍需物資が出るようになり、国はそれで豊かになった。そこで軍隊を整備し、演習を行なって、次の大軍事行動にそなぇた。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-48-%E5%AD%9F%E7%8D%B2%E5%BF%83%E6%94%BB%E6%88%A6-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-144/dp/4267901481?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066265&s=books&sr=1-138&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=ae18c998cb40c9c36b31936d2cd8f8db&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901481&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901481" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>五年(227)、諸軍を統率して北方漢中に駐屯したが、出陣するにあたって、上疏していった。</p><p><br /></p><p>「先帝は、始められた事業がまだ半分にも達しないのに、中道にしておかくれになりました。今、天下は三つに分裂し、益州は疲弊しきっております。これはまことに緊急の、生きるか死ぬかの瀬戸際です。しかし、近侍の文官は、宮中内で励み、忠実な臣下は外で自分の身を忘れてつとめております。つまり、先帝の格別の恩顧を追慕し、これを陛下にお報いしようと願っているからです。</p><p><br /></p><p>陛下は、まさに御耳を開き、先帝のお残しになった徳を輝かし、勇士の気持をお広げになるべきであって、みだりに自分をなおざりにして、誤った比職を引用なさって、道義を失い、忠言・諌言の道を閉ざしてはなりません。宮廷と政府が、ともに一体となって、善悪の賞罰をはっきりさせ、食い違いがあってはなりません。もしも、悪事をなし、法律を犯すもの、また忠義や善事をなするのがあれば、当該官庁に下げ渡して、その刑罰・恩賞を判定させ、陛下の公平な政治を明らかにすべきで、私情にひかれて、内外で法律に相違を生じさせてはなりません。</p><p><br /></p><p>侍中・侍郎の郭攸之・費禕。董允らは、みな忠良で、志は忠実・純粋であります。それゆえにこそ、先帝は抜擢なさって陛下のもとにお残しになったのです。私が思いますに、宮中の事がらは、大小の区別なく、ことごとくこれらの人々にご相談なさってからのち、施行なさったならば、かならずや手落ちを補い、広い利益が得られるでありましょう。</p><p><br /></p><p>将軍の向寵(しょうちょう)は、性質・行為が善良・公平で、軍事に通暁しており、かつて試みに用いてみましたところ、先帝は有能だといわれました。それゆえにこそ人々の意見によって、向寵は督(司令官)に推挙されました。私が思いますに、軍中の事柄は、ことごとく彼にご相談なされば、必ずや軍隊を仲むつまじくさせ、優劣おのおの所を得るでありましょう。</p><p><br /></p><p>秀れた臣下に親しみ小人物を遠ざけたのが、前漢の興隆した原因であり、小人物に親しみ秀れた臣下を遠ざけたのが、後漢の衰微した理由であります。先帝ご在世のころつねに臣(わたくし)とこのことを議論なさり、〔後漢末の〕桓帝。霊帝に対して、敷息なさり、痛恨なさったものです。</p><p><br /></p><p>侍中・尚書・長史・参軍はみな誠実善良で、死しても節を曲げないものたちばかりであります。どうか、陛下にはこれらのものたちを親愛なさり、信頼なさってください。そうすれば、漢室の隆盛は、日を数えて待つことができるでありましょう。</p><p><br /></p><p>臣(わたくし)はもともと無官の身で、南陽で農耕に従事しておりました。乱世において生命をまっとうするのがせいぜいで、諸侯に名声が届くことなど願っておりませんでした。先帝は臣を身分卑しきものとなさらず、みずから身を屈して、三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり、私に当代の情勢をお尋ねになりました。これによって、感激いたしまして、先帝のもとで奔走することを承知いたしました。そののち〔長阪の〕戦いに敗北し、そのさいに任務を受けて危難のさ中に命令を奉じて尽力し、それから二十一年が経過しました。</p><p><br /></p><p>先帝は臣のつつしみ深いところを認められた結果、崩御なされるにあたって、臣に国家の大事をおまかせになりました。ご命令をお受けしてから、日夜憂悶し、委託されたことについてなんら功績をあげることなく、先帝のご明哲を傷つけることになるのではないかと恐懼し、そのため〔夏の〕五月に瀘水を渡り、荒地深く侵入いたしました。</p><p><br /></p><p>現在、南方はすでに平定され、軍の装備もすでに充足しておりますから、まさに三軍を励まし率いて、北方中原の地を平定すべきです。願わくは愚鈍の才をつくし、凶悪なものどもをうち払い、漢室を復興し、旧都洛陽を取り戻したいと存じます。これこそ臣が先帝の恩にお報いし、陛下に忠義を尽くすために果さねばならぬ職責です。</p><p><br /></p><p>利害を掛敵し、進み出て忠言を尽くすのは、郭攸之・費禕・董允の任務であります。どうか陛下には、臣に賊を討伐し、漢室を復興する功績をおまかせください。もし功績をあげられなければ、臣の罪を処断して、先帝のみたまにご報告ください。〔もしも徳を盛んにする言葉がなければ〕郭攸之・費禕・董允らの怠慢をお責めになり、その咎を明らかになさってください。陛下もまたよろしくみずからお考えになり、臣下に善道をお訊ねになり、正しい言葉を判断なさってお収めください。</p><p><br /></p><p>深く先帝のご遺言を思い起しまして、臣は大恩を受け、感激にたえません。今、遠く去らんとするに当り、この表を前にして涙が流れ、申しあげることばを知りません。」</p><p><br /></p><p>かくて出征し、沔陽(べんよう)に駐屯した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-49-%E5%87%BA%E5%B8%AB%E3%81%AE%E8%A1%A8-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-147/dp/426790149X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066417&s=books&sr=1-273&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=f7100ba572b791dace3630956e9976c6&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=426790149X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=426790149X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>六年(228)春、諸葛亮は斜谷(やこく)道から出て、郿(び)を奪うと宣伝し、趙雲と鄧芝をおとりの軍として、箕谷(きこく)に陣構えをさせると、魏の大将軍曹真が総勢をあげてこれを防禦した。諸葛亮自身は諸軍を率いて那山を攻撃したが、その兵陣は整然とし、賞罰は厳格で、号令ははっきりとしていた。南安・天水・安定の三郡が魏に背いて諸葛亮に呼応し、関中は震動した。</p><p><br /></p><p>魏の明帝は西へ出向いて長安を鎮め、張郃に命じて諸葛亮を防がせた。諸葛亮は馬謖に諸軍を指揮させて先鋒とし、張郃と街亭で戦わせたが、馬謖は諸葛亮の指示にそむき、行動は妥当性を欠き、張郃に大敗した。諸葛亮は西県の千余家を移住させ、漢中に帰り、馬謖を死刑にして兵士に謝罪した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-52-%E8%A1%97%E4%BA%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-160/dp/426790152X?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066130&s=books&sr=1-16&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=63cb7331270360953ffc39a20cc906a3&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=426790152X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=426790152X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>上奏して、「臣(わたくし)はつたない才能ながら、厚かましくも分不相応な位につき、みずから指揮棒をとって三軍を叱咤いたしましたけれども、軍規を教え軍令を明らかにすることができず、大事にのぞんでおじけづき、街亭では命令にそむかれるという誤ちを犯し、箕谷では不謹慎のための失策を犯すことになりました。その責任はすべて臣の任命に方針がなくて、人をみわける明哲さがなく、事態に対処するのに、盲目であることが多かったことにあります。『春秋』では、責めは総司令官にあるとしており、臣はまさにそれに該当いたします。どうか位を三階級下げ、その責任をただしてください。」</p><p><br /></p><p>その結果、諸葛亮を右将軍とし、丞相の事務をとり行なわせ、統括する職務は以前どおりとした。</p><p><br /></p><p>同年冬、諸葛亮はまたしても散関から出撃し、陳倉を包囲したが、曹真がこれを防ぎ、諸葛亮は兵糧つきて帰還した。魏の将軍の王双が騎兵をひきいて諸葛亮を追撃したが、諸葛亮は一戦をまじえてこれを破り、王双を斬り殺した。</p><p><br /></p><p>七年(229)、諸葛亮は陳式(宋本『資治通艦』では陳戒と作る)をやって、武都郡・陰平郡を攻撃した。魏の雍州刺史郭淮が、軍勢を率いて陳式を撃とうとしたので、諸葛亮はみずから出撃して建威にまで行き、郭淮は退却した。かくて二郡を平定した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-54-%E9%99%B3%E5%80%89%E5%9F%8E%E6%94%BB%E7%95%A5-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-165/dp/4267901546?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066140&s=books&sr=1-29&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=618d990d6928d194f13ddb3ee69faf02&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901546&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901546" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>諸葛亮に詔勅が下された、「街亭の敗戦は馬謖の責任であった。しかるに君は自分の責めとし、あくまでも自分の位を引き下げようとしたため、その気持に違うまいとして〔君の〕固守するとおりに許可したのである。昨年は軍隊の威光を輝かせ、王双を打ち首にし、今年はまたも出征して、郭淮は遁走した。氐・羌を降伏させ、二郡をふたたび恢復した。君の威光は凶暴な敵を鎮圧し、その功績は明らかである。現在、天下は激動し、元凶はまださらし首になっていない。君は大任を受け、国家の柱石であるにもかかわらず、長い間みずから官位を低くおとしめていては、大いなる功績を輝かせることにならない。いま君を丞相に復帰させる。君よ、辞退するでないぞ。」</p><p><br /></p><p>九年(231)、諸葛亮はまたしても祁山に出撃し、木牛を使って輸送をおこなったが、食糧が尽きて撤退した。魏の将軍張郃と合戦し、張郃を射殺した。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-57-%E7%A5%81%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-173/dp/4267901570?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066242&s=books&sr=1-117&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=81202157fcd5958d70b87b3cf069ee09&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901570&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901570" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>十二年(234)春、諸葛亮は大軍をことごとく率いて、斜谷を通って出撃し、流馬を用いて輸送をおこなった。武功郡五丈原に根拠地を置き、司馬宣王と渭南で相い対した。諸葛亮はつねづね食糧の供給がとぎれ、おのが志を伸ばせないことを残念に思っていた。そのため兵士を分けて屯田させ、長期間の駐留の基礎とした。耕す者は、渭水の岸辺で居住民と雑居したが、民衆は安心し、軍隊も自分勝手な真似をしなかった。</p><p><br /></p><p>相い対時すること百日あまり、その年の八月に、諸葛亮は病に倒れ、軍中で死去した。時に五十四歳。〔蜀〕軍が撤退したのち、司馬宣王は、諸葛亮の軍営や砦のあったところを視察して、「天下の奇才である」といった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-59-%E7%A7%8B%E9%A2%A8%E4%BA%94%E4%B8%88%E5%8E%9F-%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-180/dp/4267901597?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066175&s=books&sr=1-57&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=9c65584d5f5d91db6abbbb27486cbaf1&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4267901597&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4267901597" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>諸葛亮は遺言して、漢中の定軍山に葬らせた。山を利用して墳墓を作らせ、塚は棺を入れるだけの広さにし、そのとき着用の服に身をつつませ、墓に収めるための器物は用いさせなかった。</p><p><br /></p><p>詔勅にいう、「思うに、君は文武の才をかねそなえ、叡智と誠実さを有し、先帝の遺詔を受けて孤児をあずかり、朕の身を助けてくれた。絶えた家、衰えた国を復興し、その志は動乱をしずめることにあった。かくて六軍を整備し、出征しない年はなかった。すぐれた武勲は明るく輝き、その威光は世界の果てにまで浸透した。その功績は漢の末年においてまさに樹立されんとし、伊尹・周公の巨大な業績に加えられようとしていた。どうしたことか、天にあわれみなく、事業が完成を見る前に、病にかかってみまかった。咲はために心悲しみ、心臓は張り裂けんばかりである。そもそも、徳をあがめ、功をあとづけ、行ないを記し、諡をつけるのは、〔死者の名を〕将来に輝かせ、書物に載せて不朽にするためである。今、使持節左中郎将の杜瓊を使者として、君に、丞相武郷侯の印綬を贈り、君に忠武侯と諡する。霊魂というものがあるならば、この恩寵と栄誉を喜んでくれたまえ。ああ、哀しいかな。ああ、哀しいかな。」</p><p><br /></p><p>以前、諸葛亮は後主劉禅に上表していった、「成都には桑八百株、やせ田が十五頃(けい)あり家族の生活は、それで余裕があります。臣が出征いたしますときには、特別の仕度もなくわが身に必要な衣食は、ことごとくお上からちょうだいいたしますので、その他に財産を作って、少しでも利益を得たいと思うことはありません。もし、臣が死にましても、内に余分のきぬがあったり、外にあまった財産があったりして、陛下のみこころに背くようなことはありません。」</p><p><br /></p><p>死に及んで、その言葉のとおりであった。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%885%E3%80%89%E5%AD%94%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%B7%BB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E5%B7%9D-%E8%8B%B1%E6%B2%BB/dp/4101154554?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619066359&s=books&sr=1-218&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=17a4607d58c361f2cb43e492cc0ad038&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4101154554&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4101154554" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>諸葛亮は生れつき創造力があって、連発式の弩(いしゆみ)を工夫し、木牛・流馬などは、みな彼の創意によるのであった。兵法を応用して、八陣の図を作成したが、ことごとく要領をえていたという。</p><p><br /></p><p>諸亮の言葉・布告・書簡・上奏文には、見るべきものが多くあり、別に一つの文集となっている。</p><p><br /></p><p>景耀六年(263)春、詔勅が出され、諸葛亮のために、沔陽(べんよう)の地に霊廟が建立された。秋、競の鎮西将軍鍾会が蜀を征伐し、漢川まで来ると、諸葛亮の霊廟に詣で、軍士に命令を下し、諸葛亮の墳墓の近くで、草を刈ったり、薪を採ったりすることを禁じた。</p><p><br /></p><p>諸葛亮の弟の諸葛均は長水校尉まで昇進した。諸葛亮の子の諸葛瞻(せん)は父の爵をうけついだ。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>諸葛氏集目録</p><p><br /></p><p>開府作牧第一、権制第二、南征第三、北出第四、計算第五、訓厲(くんれい)第六、綜覈(そうかく)上第七、綜覈下第八、雑言上第九、雑言下第十、貴和第十一、兵要第十二、伝運第十三、与孫権書第十四、与諸葛瑾書第十五、与孟達書第十六、廃李平第十七、法検上第十八、法検下第十九、科令上第二十、科令下第二十一、軍令上第二十二、軍令中第二十三、軍令下第二十四</p><p><br /></p><p>右二十四篇、あわせて十万四千百十二字。</p><p><br /></p><p>臣(わたくし)陳寿らは申しあげます。臣が以前、著作郎の職についておりましたとき、侍中・領中書監・済北侯の臣荀勗(じゅんきょく)、中書令・関内侯の臣和嶠(わきょう)の上奏により、臣どもはもと蜀の丞相諸葛亮に関する事を整理することになりました。諸葛亮は危機にした国家を輔佐し、要害の地をたのんで服従いたしませんでした。しかしながらなお彼の言辞を記録にとどめられ、善事を見のがすことを恥となさったのは、まことに大いなる晋朝の光明、最高の徳義のあらわれであり、恩沢がはてしなく行きわたっているしるしであって、古えより以来、いまだかつてこれに類することはありません。重複するところはすべて削除し、分類に従って並べ、全部で二十四篇といたしました。篇の名称は右のとおりであります。</p><p><br /></p><p>諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をめった人物でありまして、身長八尺、容貌ははなはだすぐれ、当時の人々は、彼を高く評価しておりました。漢末の動乱に遭遇し、叔父の諸葛玄について荊州に避難し、みずから農耕に従事して、名誉や出世を求めませんでした。</p><p><br /></p><p>そのとき、左将軍の劉備は諸葛亮の並はずれた器量を認めて、三度も草ぶきのいおりの中に諸葛亮を訪問いたしました。諸葛亮は、劉備の傑出した勇姿に深く心を動かし、かくて胸襟を開き真心を吐露して、厚く互いに〔主従の〕契りをかわしたのです。</p><p><br /></p><p>魏の武帝が荊州に南征し、劉琮が州をあげて臣服したとき、劉備は不利な状況に立たされ、軍勢は少なく、身の置き所もなくなってしまいました。諸葛亮は当時二十七歳でしたが、奇策をたて、みずから孫権のもとへ使者として出向き、呉に救援を求めました。孫権は以前から劉備に敬服していたうえに、諸葛亮のすぐれた器量を目のあたりにして、たいへんに彼を尊重し、即座に三万の軍勢を派遣して劉備を助けました。劉備はそれで武帝と交戦することができ、大いにその軍勢をうち破り、勢いに乗じて勝利を重ね、江南をことごとく平定したのであります。</p><p><br /></p><p>のちに劉備はまた西に向い益州を手に入れました。益州が平定されたのち、諸葛亮を軍師将軍に任命いたしました。劉備は帝号を称すると、諸葛亮を丞相・録尚書事に任命いたしました。</p><p><br /></p><p>劉備が死去するに及び、後継ぎが幼かったため、政治は大小となくすべて諸葛亮が取りしきることになりました。こうして外は東呉と連盟し、内は南越を平定して、法律を作り制度を施き、軍隊を整備し、機械や技術はすべて最高を究め、刑罰・命令は厳格かつ明噺で、信賞必罰、悪事をなした者は必ず罰し、善事をなした者は必ず顕彰したため、官吏は悪を受けつけず、人々はみずから努力せんと心がけ、道に落ちているものを拾う人もなく、強者が弱者を侵害することもなくなるに至りまして、その教化は世の中を引き締めたのであります</p><p><br /></p><p>この時にあたって、諸葛亮の本心は、進んでは、龍が飛びあがり、虎が獲物を狙うごとく四海の内を統一することを望み、退いては、辺境を股にかけて、天下を動揺させることを望んでおりました。また、自分がいなくなれば、中原地帯を踏破し、中国と対抗できる者がいなくなると考えました。そのために軍事行動をやめることなく、たびたびその武力を誇示しました。</p><p><br /></p><p>しかしながら、諸葛亮の才能は、軍隊の統治には長じておりましたが、奇策の点で劣り、人民を統治する才幹のほうが将軍としての才略よりすぐれておりました。しかも敵として傑出した人物を相手にしなければならなかったうえに、兵数も対等ではなく、本来守備にまわるべきところを攻撃にまわらなければならなかったため、連年軍隊を発動しながら勝利をおさめることができなかったのです。</p><p><br /></p><p>昔〔漢の〕簫何は韓信を推薦し、〔春秋時代、斉の〕管仲は王子城父を推挙しましたが、それはみな自分の長所がすべての面をおおうことが不可能なのを忖度したからであります。諸葛亮の才能や政治は、そもそも管仲や簫何に次ぐものでありましたのに、当時の名将の中に王子城父や韓信のような人物がおりませんでした。そのために功業は次第に衰え、大義は遂行されなかったのでありましょうか。思うに、天命の帰するところは定まっていて、智力をもって争うことは不可能なのです。</p><p><br /></p><p>青龍二年(234、濁の建興十二年)春、諸葛亮は軍勢を率いて武功に出陣し、兵士を分けて屯田させ、長期駐留の基礎にいたしました。その年の秋、病気でなくなりましたが、民衆は追慕し、語り草にしております。現在でも、梁・益の民衆で、諸葛亮を賞讃する者は、その言葉がまだ耳に残っているかのように語ります。「甘棠(かたなし)」の詩は召公の徳を歌い、鄭の国の人々は子産の善政を歌っていますけれども、それもはるか過去の譬喩とは申せません。猛軻(もうか)は、「安らぎを与える政策をもって民衆を使役する場合、こきつかわれても怨まず、生命尊重の政策をもって人を処刑する場合、殺されても怨まない」(『孟子』尽心篇上)といっていますが、まったくそのとおりです。</p><p><br /></p><p>論者たちの中には、諸葛亮の文章がきらびやかでなく、あまりにる繰り返しが多くすべてにわたって配慮しすぎることを訝しむ者がございます。臣が考えますに、皋陶(こうよう)は大いなる賢者であり、周公旦は聖人でありますが、彼らを『尚書』によって考えてみますと、皋陶(こうよう)の謨(ぼ)は簡潔にして優雅であり、周公旦の誥(こく)は煩瑣にして周到であります。その理由は、皋陶(こうよう)は舜・禹を相手に語っているのであり、周公旦は群臣に対して誓っているからであります。諸葛亮が語りかけた相手は、すべて民衆や平凡なる士人ですから、その文旨は深遠とはなりえないわけです。</p><p><br /></p><p>しかしながら、その教訓や遺言は、すべて万事に正しく対処したもので、公正誠実の心は、文章ににじみ出ており、かの人の意図を知るのに充分でありまして、現代においても有用なるのが含まれております</p><p><br /></p><p>伏して思いますに、陛下は古えの聖人に続かんと努力され、のびやかな心をもって、忌みしりぞけられることがございません。それゆえ、敵国の誹謗の発言についても、勝手に言わせておいて、改めさせたり嫌悪なさったりはなさいません。すべてのものを拒否されない態度を明らかにしておられるわけです。謹んで採録して書写し、著作郎のもとに上呈いたしました。臣陳寿はまことに恐擢いたしております。</p><p><br /></p><p>頓首、頓首。死罪、死罪。泰始十年(274),二月一日癸巳、平陽侯の相・臣陳寿、奏上いたします。</p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%8A%87-%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%96%B0%E4%BE%A1%E6%A0%BC-DVD/dp/B07KZN1D65?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E5%8A%87+%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97&qid=1619129537&sr=8-3&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=2469b23d0e801841dd7b0ccda58a08a6&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B07KZN1D65&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B07KZN1D65" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /></p><p><br /></p><p>諸葛喬(きょう)は字を伯松といい、諸葛亮の兄の諸葛瑾の二番目の子であり、もとの字は仲慎といった。兄の元遜とともに当時評判が高かったが、論者の意見では、諸葛喬は才能では兄に及ばないが、性質は兄より秀れているということだった。</p><p><br /></p><p>最初、諸葛亮にまだ子供がなかったとき、喬を後継ぎに求めたところ、〔呉に仕えていた〕瑾は孫権に言上して、喬を西にやった。諸葛亮は喬を自分の後継ぎにした。だからその字を改めたのである。〔諸葛喬は〕附馬都尉を拝命し、諸葛亮について漢中にやってきた。</p><p><br /></p><p>〔諸葛喬は〕二十五歳で、建興六年(228)に没した。その子の諸葛攀(はん)は、行護軍翊武将軍にまで出世したが、やはり早逝した。</p><p><br /></p><p>〔諸葛瑾の子の〕諸葛恪(かく)が呉で処刑され、子孫がみな絶えてしまったのに対して、諸葛亮は別に子孫をもうけていたので、攀は〔呉に〕帰って、瑾の後を継いだ。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>諸葛瞻(せん)は字を思遠という。建興十二年(234)、諸葛亮が武功に出陣したとき、兄の諸葛瑾に手紙を送って、「瞻はいまもう八歳で、利巧なかわいい子ですが、早成して、大物にならないのではないかと気がかりです」と述べている。</p><p><br /></p><p>十七歳のとき、公主(内親王)をめとり、騎都尉を拝命した。その翌年、羽林中郎将となり、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された。諸葛瞻は書画が巧みで、記憶力がよく、蜀の人々は諸葛亮を追慕して、みな彼の才能を愛した。朝廷にちょっとした善政やめでたい事があるたびに、諸葛瞻がいい出したことでなくとも、人々はみなその話を伝えあって、「葛侯のなさったことだ」といった。このため、すばらしい評判がみちみち、彼の実質以上でさえあった。</p><p><br /></p><p>景耀四年(261)、行都護衛将軍となり、輔国大将軍・南郷侯の董厥(とうけつ)とともに、平尚書事となった。</p><p><br /></p><p>六年(263)冬、魏の征西将軍鄧艾が蜀を討ち、陰平から景谷道を通り侵入してきた。諸葛瞻は諸軍を率いて涪(ふ)に赴き駐留していたが、先鋒隊が敗北したので、退却し、綿竹県に陣どった。鄧艾は手紙を送り、諸葛瞻を誘って、「もしも降伏したならば、必ず上表して琅琊王にとりたてよう」といってきた。諸葛瞻は激怒し、鄧艾の使者を斬った。かくて合戦したが、大敗し、前線で死亡した。時に三十七歳。軍勢はすべて散り散りになって逃亡した。鄧艾は長駆して〔蜀の都〕成都に到達した。</p><p><br /></p><p>諸葛瞻の長男諸葛尚は、父とともに戦死した。次男の諸葛京と諸葛攀の子の諸葛顕らは、咸熙元年(264)、河東に移された。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>董厥(とうけつ)は、諸葛亮が丞相であったとき、その幕府の令史であった。諸葛亮は彼を賞めて、「董令史は、秀れた人物である。私はいつも彼と話をするが、思慮は深く過不足がない」といった。転任して主簿となった。諸葛亮の死後、段々と昇進して尚書僕射となり、陳祇(ちんし)に代って尚書令になり、大将軍平台事(べんだいじ)に昇進し、義陽県出身の樊建(はんけん)が代って尚書令になった。</p><p><br /></p><p>熙十四年(251)、〔焚建は〕校尉の資格で呉に使いしたが、ちょうど孫権は重病で、樊建と直接、会見することがなかった。孫権は諸葛恪に質問して、「樊建は宗預(そうよ)とくらべてどうだ」というと、諸葛恪は、「才能・見識は宗預に及びませんが、性質は彼よりまさっています」と答えた。のちに侍中となり、尚書令の官をあずかった。</p><p><br /></p><p>諸葛瞻・董厥・樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから、官の黄皓(こうこう)が、政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって、政治を矯正することができなかった。しかし、樊建だけは、黄皓と特に親しく往来することがなかった。</p><p><br /></p><p>蜀が敗北した翌年の春、董厥・樊建らはともに都(晋の首都洛陽)に上り、とめに相国参軍となった。その年の秋、ともに散騎常侍の官職を兼任し、蜀の人々の慰撫にあたった。</p><p><br /></p><p><br /></p><p><br /></p><p>評にいう。諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、官職を少なくし、時代にあった政策に従い、まごころを開いて、公正な政治を行なった。</p><p><br /></p><p>忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず賞を与え、法律を犯し、職務怠慢な者は、身うちであっても、必ず罰した。罪に服して反省の情をみせたものは、重罪人でも必ずゆるしてやり、いいぬけをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。善行は小さなことでも必ず賞し、悪行は些細なことでる必ず罰した。あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうかを調べ、うそいつわりは、歯牙にるかけなかった。</p><p><br /></p><p>かくて、領土内の人々は、みな彼を尊敬し愛した。刑罰・政治は厳格であったのに怨むものがいなかったのは、彼の心くばりが公平で、賞罰が明確であったからである。政治のなんたるかを熟知している良才であり、〔春秋時代の〕管仲・〔漢の〕簫何といった名相の仲間といってよいであろう。</p><p><br /></p><p>しかし、毎年軍勢を動かしながら、よく成功をおさめることができなかったのは思うに、臨機応変の軍略は、彼の得手でなかったからであろうか。</p><p><br /></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">正史『三国志』</a></p><p><a href="https://amzn.to/3tHAoL4" target="_blank">陳寿著 井波律子訳</a></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-17577460642193539962021-02-17T19:57:00.002+09:002021-02-17T19:57:31.085+09:00【宋名臣言行録】太祖の「強幹(きょうかん)弱枝(じゃくし)」<p> </p><p>『<a href="https://amzn.to/2ZpFEFC" target="_blank">宋名臣言行録</a>』より</p><p><br /></p><p>太祖は…趙普(ちょうふ)にたずねた。</p><p>「…わしは、この世から戦いをなくし、国家維持の大計を建てようと思うが、その方法はどうあるべきか」</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">太祖、趙普を召して、問いて曰く、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">「吾(わ)れ天下の兵を息(やす)め、国家のために長久の計を建てんと欲す。その道いかん」</span></p><p><br /></p><p>趙普は答えた。</p><p>「…唐末このかた、戦いが絶えず、国家が安定しない理由はほかでもなく、節度使(軍閥)が強盛で、君が弱く臣が強いだけにすぎません。これを正すには特別の方法はございません。漸次その権限を剥奪し、財政力を削減し、優れた兵力をこちらに収めれば、天下は自然に安定するでしょう」</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">普曰く、</span></p><p><span style="color: #2b00fe;">「唐季以来、戦闘息(や)まず、国家安んぜざるは、そのゆえ他にあらず。節鎮はなはだ重く、君弱く臣強きのみなり。いまこれを治むる所以は他に奇巧あらず。ただややその権を奪い、その銭穀を制し、その精兵を収めれば天下おのずから安んぜん」</span></p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p><p>その後、転運使、通判などの新しい官職を置き、各地の財政をとりしきらせ、全国から精兵を選んで皇帝直属とした。功臣たちの方も終わりを全うして、子孫は現在までも富み栄えている。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">その後また転運使、通判を置き、諸道の銭穀を主(つか)さどらしむ。天下の精兵を収め、もって宿衛に備え、諸(もろもろ)の功臣をまたもって終わりを善くし、子孫富貴、いまにおよぶも絶えず。</span></p><p><br /></p><p>最初の趙普の深慮遠謀と、太祖の聡明果断がなかったならば、天下が治まり、白髪の老人に至るまで長く戦争がなくなることができたであろうか。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">さきに韓王の謀慮深長、太祖の聡明果断にあらざれば、天下何をもって治平今に至り、戴白の老、干戈を観ざるや。</span></p><p><br /></p><p>聖賢の見識はずっと先を見通しているものである。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">聖賢の見、何ぞそれ遠きかな。</span></p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p><p>趙普の謀りごとをききいれた太祖は、たびたび特使を全国各方面に派遣し、精兵を選抜した。人にぬきんでた才能、力量のある者はすべて禁軍にいれて国都周辺に聚め、皇帝を直衛させた。その給与を増やし、常に皇帝自身が閲兵、訓練し、一騎当千に仕上げた。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">太祖すでに韓王の謀を納れ、しばしば使者を遣わして諸道に分詣し、精兵を選択せしむ。およその材力伎芸、人に過ぐる者あれば、みな禁軍に収補し、これを京師に聚めもって宿衛に備う。その粮賜を厚くし、居常みずから按閲、訓練し、みな一もって百に当たる。</span></p><p><br /></p><p>地方の節度使軍団が兵力、精鋭の度合が中央の敵でないことを承知し、異心を抱こうとしなくなったのは、太祖の「強幹(きょうかん)弱枝(じゃくし)」、ころばぬ先のつえの策謀によるものである。</p><p><br /></p><p><span style="color: #2b00fe;">諸鎮みなみずから兵力、精鋭、京師の敵にあらざるを知り、あえて異心ある者なきは、わが太祖よく幹を強く枝を弱め、治をいまだ乱れざるに制せしが故なり。</span></p><p><br /></p><p><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%8B%E5%90%8D%E8%87%A3%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%B1%E7%86%B9/dp/4480097120?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%AE%8B%E5%90%8D%E8%87%A3%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2&qid=1613557895&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=3cb152c370f0a547a9624667870b7379&language=ja_JP&ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4480097120&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4480097120" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><br /></p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-1231091943951504822020-09-18T08:21:00.004+09:002020-09-18T08:21:57.263+09:00靴底の「金貨」木村秋則<p> </p><p>話:木村秋則</p><p><br /></p><p><b><span style="color: #3d85c6;">靴底にはさまった金貨</span></b></p><p><br /></p><p>いよいよ家計が逼迫してきた頃、少しでも現金収入を得るために私はアルバイトを始めました。ほかの農家と同じように冬は出稼ぎに出ていましたが、それまでアルバイトはしてきませんでした。リンゴ栽培で食べていくのだという意地があり、時間のすべてをリンゴに費やしたいと考えていたのです。しかし、そうも言っていられなくなりました。昼間は畑仕事があるため、働くのは夜。最初に勤めたのはパチンコ店でした。</p><p><br /></p><p>ところが、私はそれまでパチンコというものをしたことがありません。店員の仕事は客のクレーム対応やパチンコ台の調整ですが、なかなか要領がのみ込めず苦労しました。高校卒業後に入った自動車部品メーカーのトキコでは、原価計算の仕事を担当していました。また、トキコを退職し実家に戻ったあと、依頼されて手伝った農協の金融業務では、その年の貯蓄高を倍増させました。機械の修理や改良も大好きです。しかし、パチンコ店の仕事は、まったく勝手が違います。客対応がおぼつかない私は、とうとうライバル店の入客状況を調べる仕事を割り振られるようになりました。ポケットにカウンターを忍ばせて他店に入り、台を探すふりをしてカチカチと人数を数えては店を出るのです。</p><p><br /></p><p>その日も、いつもと同じようにいくつかの店を調べ歩いて、自分の店に帰ろうとしていたところでした。雪の降る季節で長靴履きでしたが、気がつくと歩くたびにカツカツと音がするのです。はじめは「ガムでもついたかな」と思いました。ガムが寒さで固まると、ちょうどそんな音がします。しかし立ち止まって靴底を見ましたが、ガムではありません。それは、切手よりひと回り小さいサイズの楕円形をした金属でした。靴底から取ってみると、厚さは1ミリほどで、手で力を加えれば簡単に曲がりそうな柔らかさです。そんな金属が、靴底のへこんだ部分にちょうどうまい具合にはさまっていたのです。</p><p><br /></p><p>店の洗面所で洗ってみると、表面の汚れが取れ、酸化した真鍮のような赤っぽい金色になりました。私は、縁起物の熊手などについているオモチャの小判かなと思いました。家に帰り妻に見せると「お父さん、これ金じゃないの?」と言います。「まさか」と笑いながらも、念のため貴金属店に見てもらうことにしました。</p><p><br /></p><p>翌日の出勤途中、さっそく貴金属店に持ち込んでみました。金属を見た店主は開口一番「お客さん、これ売ってくれませんか」と言いました。8万円を出すと言います。1円でも2円でも、お金が欲しい頃です。すぐに頷くこともできました。しかし、なぜかそう言われると売る気がなくなるのが、私の性分です。黙っていると「じゃあ、25万でどうですか?」と、いきなり値段が跳ね上がりました。店主は「ぜひ欲しい」と言うのです。こんな小さなオモチャみたいなものにそんな価値があるのだろうかと、私は不思議に思いました。どんなものかはわからないけれど、欲しいというのであれば売ってしまえば、お金は入ってきます。25万円あれば当座がしのげ、子どもたちに何か買ってやることもできます。それはわかっているのですが、私はそのまま小判を持ち帰りました。どうしても手放す気にはなれなかったのです。</p><p><br /></p><p>その後しばらくして、思い立って別の貴金属店に行ってみました。するとそこでは、値段を言う前に「これは、どこで手に入れたのですか?」と尋ねられました。東北には数枚しかない貴重なものなのだそうです。買値は50万。しかし、それでも私の心は動きませんでした。「掛け値なしに欲しいから、もっと出してもいい。あなたの言い値で買ってもいい」とも言われましたが、結局そのまま店を出ました。その店では、100万円以上の値をつけても、買い取りそうな勢いでした。生活に困っているのですから、さっさと売って現金に換えるのが普通かもしれません。けれども、なぜかそうする気にはなれませんでした。今考えると、せっかく授かったものなのだから、お守り代わりに持っておこうと思ったのかもしれません。</p><p><br /></p><p>家に帰って「売らなかったよ」と言っても、妻は何も言いませんでした。私も妻もお金に執着するタイプではありません。結局、その小判のようなものもどこかにしまったまま、長年目にしていません。家のなかを探せばあるはずですが、額に入れて飾っておこうとか、盗まれないように金庫にしまっておこうなどとは考えないのです。</p><p><br /></p><p>聞くところによると、それはお金ではなく、殿様の奥方が、奉公していた女中に報奨として与えたものなのだそうです。今の勲章やメダルのようなもので、数多く出回っているものではないと言います。確かに、よく見ると表面には細かな模様が彫られていて、「金○匁」という文字が読み取れました。</p><p><br /></p><p>そんな貴重なものが、なぜ弘前の歓楽街を歩く私の長靴についていたのでしょうか。考えてみれば不思議です。結局お金にはなりませんでしたが、それは苦しい生活のなかでちょっとお日さまが顔を覗かせたオマケのような出来事でした。</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%82%92%E8%B5%B7%E3%81%93%E3%81%99-%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B%E5%8A%9B-%EF%BC%B3%EF%BC%B0%EF%BC%A1%EF%BC%81%EF%BC%A2%EF%BC%AF%EF%BC%AF%EF%BC%AB%EF%BC%B3-%E6%9C%A8%E6%9D%91-%E7%A7%8B%E5%89%87-ebook/dp/B008EGNTAU/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%A7%8B%E5%89%87&qid=1600384859&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=58882ec8bcb3e139eaa93ec488e14f17&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B008EGNTAU&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B008EGNTAU" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-7520874282031264522020-09-09T21:22:00.003+09:002020-09-09T21:22:55.887+09:00福岡正信『自然農法』から『奇跡のリンゴ』へ<p> </p><p>…</p><p><br /></p><p>その日も、木村は参考資料を探していた。</p><p><br /></p><p>何軒か町の書店を回って、ようやく見つけた目当ての本は、書棚の最上段にあった。木村は横着をした。踏み台を探すか、店員を呼ぶべきだったのだが、ちょうどいい具合に、そこに棒が置いてあったのだ。</p><p><br /></p><p>「その棒でさ、トラクターの本をつっついたわけ。そしたらよ、隣の本も一緒になって2冊落ちてきた。あわてて拾ったら、隣の本のカドが潰れてしまっていたの。それで、しょうがないから、その本も一緒に買ったの。</p><p>これは『損したなぁ』と思って、家に持って帰ってからも、しばらく放っぽらかしにしておいたの。ちゃんと読んだのは、それから半年後か一年後か、もう忘れてしまったけどよ。暇だったときにかなにかに引っ張り出してみたの。</p><p><br /></p><p>本のいちばん最初のところに、</p><p><br /></p><p>『何もやらない、農薬も肥料も何も使わない農業』</p><p><br /></p><p>と書いてあった。あぁ、こういう農業もあるのかなと。自分でやるやらないは別としてな、同じ百姓として興味がわいてきたのさ。</p><p><br /></p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E7%84%B6%E8%BE%B2%E6%B3%95%E3%82%8F%E3%82%89%E4%B8%80%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%9D%A9%E5%91%BD-%E7%A6%8F%E5%B2%A1-%E6%AD%A3%E4%BF%A1/dp/439374103X/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&qid=1599653961&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=2f94a0d25b9fb875d56229f262482a88&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=439374103X&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=439374103X" style="border: none; margin: 0px;" width="1" />
<p><br /></p><p>それから何回、その本を読んだかわからない。</p><p><br /></p><p>本が擦り切れるほど読んだ。</p><p><br /></p><p>福岡正信さんの書いた<a href="https://amzn.to/2FhrYWk" target="_blank">『自然農法』</a>という本でありました」</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E2%80%95%E3%80%8C%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A6%86%E3%81%97%E3%81%9F%E8%BE%B2%E5%AE%B6%E3%83%BB%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%A7%8B%E5%89%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E6%B2%BB/dp/4344015444/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&qid=1599645256&sr=8-1-spons&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=5b6a6a60ebfd3ed405d94a5b297e6ef6&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4344015444&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4344015444" style="border: none; margin: 0px;" width="1" />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-11014569280753593122020-09-09T21:08:00.003+09:002020-09-09T21:08:46.445+09:00トウモロコシと「タヌキ」<p> </p><p>…</p><p><br /></p><p>広大な整然としたトウモロコシ畑ができあがった。</p><p><br /></p><p>品種はハニーバンタム。土地がよく肥えていたせいか、出来はきわめて良好だった。</p><p><br /></p><p>ただ、タヌキの被害に悩まされた。収穫間際になると、たっぷりと太ったトウモロコシが、ごっそり喰われてしまうのだ。</p><p><br /></p><p>「それで、畑のあっちこっちに『トラバサミ(虎鋏)』をしかけた」</p><p><br /></p>
<a href="https://hb.afl.rakuten.co.jp/ichiba/1cf2f77c.6c6d1a66.1cf2f77d.569e0fe0/?pc=https%3A%2F%2Fitem.rakuten.co.jp%2Fiwauchikanamonotenn%2F4859676163012%2F&link_type=pict&ut=eyJwYWdlIjoiaXRlbSIsInR5cGUiOiJwaWN0Iiwic2l6ZSI6IjI0MHgyNDAiLCJuYW0iOjEsIm5hbXAiOiJyaWdodCIsImNvbSI6MSwiY29tcCI6ImRvd24iLCJwcmljZSI6MCwiYm9yIjoxLCJjb2wiOjEsImJidG4iOjEsInByb2QiOjB9" rel="nofollow sponsored noopener" style="overflow-wrap: break-word;" target="_blank"><img alt="" border="0" src="https://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/1cf2f77c.6c6d1a66.1cf2f77d.569e0fe0/?me_id=1266448&item_id=10024663&pc=https%3A%2F%2Fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2F%400_mall%2Fiwauchikanamonotenn%2Fcabinet%2F01972820%2F03067639%2F03135665%2Fimgrc0076847642.jpg%3F_ex%3D240x240&s=240x240&t=pict" style="margin: 2px;" title="" /></a><div><br /></div><div><br /></div><div>「そしたら、子ダヌキがかかったの。母親のタヌキもすぐそばにいてさ、わたしが近づいても逃げようとしないのな。</div><div><br /></div><div>トラバサミをはずしてやろうと思って手を出したら、子ダヌキは歯をむいて暴れるわけだ。かわいそうだけど、長靴で頭をふんづけてトラバサミを外して逃してやった。</div><div><br /></div><div>ところが、逃げないのよ。わたしの目の前で、母親が子ダヌキの足、怪我したところを一生懸命なめているのな。その姿を見て『ずいぶん罪なことしたなぁ』と思ったよ。</div><div><br /></div><div>それで、できの悪いトウモロコシをまとめて、畑の端に置いてきた。</div><div><br /></div><div>次の朝、畑に行ったら、ひとつ残らずなくなっていた。と同時に、タヌキの被害が何もなかったのな。それでトラバサミをやめて、収穫するたびに歯っ欠けのトウモロコシを置いてくるようにした。それからタヌキの被害がほとんどなくなった。</div><div><br /></div><div>だから、人間がよ、『全部を持っていくから被害を受けるんではないのか』とな。そんなこと考えました。もともとはタヌキの住処だったところを畑にしたんだからな」</div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div><br /></div>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E2%80%95%E3%80%8C%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A6%86%E3%81%97%E3%81%9F%E8%BE%B2%E5%AE%B6-%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%A7%8B%E5%89%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E6%B2%BB/dp/4344416457/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&qid=1599645256&sr=8-1-spons&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=7d503a115f912293c8b3bf132751b3f7&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4344416457&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4344416457" style="border: none; margin: 0px;" width="1" />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-83872962596188793582020-09-09T19:35:00.002+09:002020-09-09T19:35:32.134+09:00「いつか必ず答えに巡り合う」木村秋則<p> </p><p>…</p><p><br /></p><p>木村の人生がNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組で紹介されたのが、その12月の初めのことだった。</p><p><br /></p><p>「あの時、あなたがしゃべった一言一言が心に残ってますって、いろんな人が言ってよこすんだけどな。わたし何をしゃべったべなぁ…。バカだから、よく覚えてないのさ」</p><p><br /></p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%AE%E6%B5%81%E5%84%80-%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%A7%8B%E5%89%87%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B-%E3%82%8A%E3%82%93%E3%81%94%E3%81%AF%E6%84%9B%E3%81%A7%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%82%8B-DVD/dp/B000UKFD7U/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB+%E6%9C%A8%E6%9D%91&qid=1599647140&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=33d54ca23d6902b95c212afe048e5582&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B000UKFD7U&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B000UKFD7U" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><p><br /></p><p>そう言って、木村は「歯のない口」を大きく開けて笑った。</p><p><br /></p><p>木村はまだ50代だったが、すでにほとんどの歯を失ってしまっていた。</p><p><br /></p><p>「わたしはリンゴの葉と自分の歯を引き替えにしたのさ」</p><p><br /></p><p>と、下手なダジャレを言って、自分で大笑いしている。</p><p><br /></p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E2%80%95%E3%80%8C%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A6%86%E3%81%97%E3%81%9F%E8%BE%B2%E5%AE%B6%E3%83%BB%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%A7%8B%E5%89%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E6%B2%BB/dp/4344015444/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&qid=1599645256&sr=8-1-spons&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=b3470717f4bbf7e95b717fb5e96d3c36&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4344015444&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4344015444" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><p><br /></p><p>「自殺を考えてたっていう若い人からも電話あったな。何をやっても駄目で、就職口もないし、家へも戻れない。それで死ぬことを考えていたんだけど、あのテレビを見て思い直しました、やっと生きる気持ちが湧きましたとな」</p><p><br /></p><p>木村さんはそういう時、どんな話をするんですか、と聞くと、</p><p><br /></p><p>「『バカになればいいんだよ』と言いました。死ぬくらいなら、その前に一回はバカになってみたらいい。同じこと(自殺)を考えた先輩として、ひとつだけわかったことがある。</p><p><br /></p><p>ひとつのものに狂えば、いつか必ず答えに巡り合うことができるんだよ、</p><p><br /></p><p>とな」</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-4461837563519418852020-09-09T19:17:00.001+09:002020-09-09T19:17:11.513+09:00津軽の「カマドケシ」<p> </p><p>…</p><p><br /></p><p>その畑の主が、カマドケシという、津軽弁の最悪のアダナで呼ばれているのは、仕方のないことだったかもしれない。</p><p><br /></p><p>その畑のリンゴの木には、果実がほとんどついていない。葉の数も奇妙なくらい少なかった。夏だというのに、すでにかなりの葉が落ちている。</p><p><br /></p><p>なぜ?</p><p><br /></p><p>農薬を散布しないからだ。この6年間というもの、畑の主はリンゴ畑に一滴の農薬も散布していない。この何年かは花も咲かなくなった。</p><p><br /></p><p>カマドケシは「竈(かまど)消し」だ。一家の生活の中心である竈を消すとは、つまり家を潰し家族を路頭に迷わせるということ。</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p><p>男の目はただひたすら、一匹の害虫の動きを追いかけていた。</p><p><br /></p><p>その日、男が熱心に見つめていたのはシャクトリムシだ。</p><p><br /></p><p>男は朝からずっと、そのシャクトリムシの行動の一部始終を、リンゴの木の下で飽きもせずに眺めていた。</p><p><br /></p><p>「あんまり葉っぱ喰うんでないよ」</p><p><br /></p><p>虫にそんなことを言い聞かせている。</p><p><br /></p><p>…</p><p><br /></p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E2%80%95%E3%80%8C%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A6%86%E3%81%97%E3%81%9F%E8%BE%B2%E5%AE%B6%E3%83%BB%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%A7%8B%E5%89%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E6%B2%BB/dp/4344015444/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&qid=1599645256&sr=8-1-spons&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=b3470717f4bbf7e95b717fb5e96d3c36&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4344015444&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4344015444" style="border: none; margin: 0px;" width="1" />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-4179072392407317612020-09-09T18:55:00.006+09:002020-09-09T19:03:23.816+09:00腐らないリンゴ<p> </p><p>…</p><p><br /></p><p>シェフの井口さんが、リンゴをきざみながら呟きます。</p><p><br /></p><p>「腐らないんですよね…」</p><p><br /></p><p>厨房で、2年前から保存されていた、2つに割ったリンゴ。</p><p><br /></p><p>通常、リンゴは切ったまま置いておくと、すぐに茶色く変色し、やがては腐ってしまいます。しかし、その「木村さんのリンゴ」は腐ることなく、まるで「枯れた」ように小さくしぼんでいました。</p><p><br /></p><p>「農薬も肥料も使わず、たわわにリンゴを実らせる」</p><p><br /></p><p>そんな農家がいる。</p><p><br /></p><p>その農家、木村さんの作るリンゴは、農薬どころか有機肥料も一切使わず、そして「腐らない」といいます。</p><p><br /></p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%81%AE%E7%B5%86%E2%80%95%E2%80%9C%E5%A5%87%E8%B7%A1%E2%80%9D%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E-%E6%9C%A8%E6%9D%91-%E7%A7%8B%E5%89%87/dp/4391138646/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4&qid=1599645256&sr=8-9&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=9606fb7deac3f0a45bf95bf974ae0c29&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4391138646&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4391138646" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><div><br /></div><div><br /></div><div>木村さんは、とにかく「よく笑う人」でした。</div><div><br /></div><div>自分で冗談を言っては笑い、誰かの言葉に笑い、そして辛い思い出を話していても、最後はなぜか笑うのでした。</div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div>そのリンゴは、私がこれまで食べていたものとは「まったく違う果物」でした。</div><div><br /></div><div>噛むとパリンと音がしそうなほど、しっかりとした歯ごたえ。強烈な甘味と酸味。まさに、木村さんが「樹(き)の実」と呼ぶのにふさわしい、野生の味でした。</div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div><br /></div>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4-%E3%80%8C%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%80%8D%E3%82%92%E8%A6%86%E3%81%97%E3%81%9F%E8%BE%B2%E5%AE%B6-%E6%9C%A8%E6%9D%91%E7%A7%8B%E5%89%87%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2-%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%8B%93%E6%B2%BB-NHK%E3%80%8C%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB-%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%AE%E6%B5%81%E5%84%80%E3%80%8D%E5%88%B6%E4%BD%9C%E7%8F%AD-ebook/dp/B00C6QFI9E/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4&qid=1599645256&sr=8-1-spons&psc=1&spLa=ZW5jcnlwdGVkUXVhbGlmaWVyPUExWTM5VkxETFVNSE1WJmVuY3J5cHRlZElkPUEwMTUxODgxMzAxTTFNU1lJR0xUVCZlbmNyeXB0ZWRBZElkPUEyV1IxSlo4NVNTMzJNJndpZGdldE5hbWU9c3BfYXRmJmFjdGlvbj1jbGlja1JlZGlyZWN0JmRvTm90TG9nQ2xpY2s9dHJ1ZQ==&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=7407fc74ae9102f3f4757ee02b9b6e80&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B00C6QFI9E&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B00C6QFI9E" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><div><br /></div><div>「奇跡のリンゴ」まえがきより</div><div><br /></div>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-38961080194449063012020-09-06T08:01:00.003+09:002020-09-06T08:01:39.418+09:00万巻の書たる「大地」<div><br /></div><div>話:サン・テグジュペリ</div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div>大地は僕ら自身について万巻の書よりも多くを教えてくれる。</div><div>なぜなら大地は僕らに抗(あらが)うからだ。</div><div>人間は障害に挑むときにこそ自分自身を発見するものなのだ。</div><div><br /></div><div>ただし、障害にぶつかるには道具が要る。</div><div>犂や鍬が要る。</div><div>農夫は土を耕しながら、自然の神秘を少しずつ暴いていく。</div><div><br /></div><div>そうやって手にする真実は、普遍的な真実だ。</div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div><br /></div>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%9C%B0-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B5%E3%83%B3-%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA/dp/4102122028/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E3%83%86%E3%82%B0%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%9A%E3%83%AA&qid=1599346314&sr=8-1&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=5dacaa0bbd5cd6e724362cd381afa72d&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4102122028&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" ></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4102122028" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-85102768794102007762020-08-15T20:38:00.000+09:002020-08-15T20:38:01.307+09:00水車のおしえ『二宮翁夜話』<p><br /></p><p>『二宮翁夜話』</p><p><b>第三 天道人道の辨</b></p><p>翁曰(いわく)、</p><p>夫(それ)人道は譬(タトヘ)ば、水車(ミヅグルマ)の如し。</p><p>其形半分は水流に順(シタガ)ひ、半分は水流に逆(さか)ふて輪廻す、丸に水中に入れば廻らずして流るべし、又水を離るれば廻る事あるべからず。</p><p>夫(それ)仏家に所謂(イワユル)知識の如く、世を離れ欲を捨(ステ)たるは、譬(タトヘ)ば水車の水を離れたるが如し、又凡俗の教義も聞(キカ)ず義務もしらず、私欲一偏に着(ヂヤク)するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し、共に社会の用をなさず。</p><p> 故に人道は中庸を尊む、水車の中庸は、宜(ヨロシ)き程に水中に入て、半分は水に順(シタガ)ひ、半分は流水に逆昇りて、運転滞らざるにあり。</p><p>人の道もその如く天理に順ひて種を蒔き、天理に逆(サカ)ふて草を取り、欲に随(シタガヒ)て家業を励み、欲を制して義務を思ふべきなり</p><p><br /></p><p>
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E5%AE%AE-%E5%B0%8A%E5%BE%B3/dp/4930838827/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%A4%9C%E8%A9%B1&qid=1597490711&sr=8-12&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=51cbd019f51e80f7f36f648d1ffed17d&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4930838827&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4930838827" style="border: none; margin: 0px;" width="1" />
<br /></p><p>参考:</p><p>国会デジタルコレクション<a href="https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758848" target="_blank">『二宮翁夜話』</a></p><p> <a href="http://sybrma.sakura.ne.jp/31ninomiyaouyawa.html" target="_blank">資料31 二宮尊徳 『二宮翁夜話』 (巻之一~巻之五) </a></p><p><br /></p><p> </p>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-59475073504964519702020-07-30T20:07:00.002+09:002020-07-30T20:11:11.430+09:00倍賞千恵子「渥美清のやさしさ」<div><br /></div>話:倍賞千恵子<div><div><br /></div><div><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%80%8D%E8%B3%9E%E5%8D%83%E6%81%B5%E5%AD%90%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%80%8D%E8%B3%9E-%E5%8D%83%E6%81%B5%E5%AD%90/dp/4569836607/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%80%8D%E8%B3%9E%E5%8D%83%E6%81%B5%E5%AD%90&qid=1596106772&sr=8-11&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=61a2b4dfae13c62f13a4e0d17afbd6c5&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4569836607&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4569836607" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div><br /></div><div>それから渥美さんの母親の話を一度だけ伺いました。</div><div><br /></div><div>「この間、おふくろの具合が悪くなって、おふくろのところに行ったんだよね」</div><div><br /></div><div>「え?」</div><div><br /></div><div>「おれの顔を見て、『どちら様ですか?』って聞くんだよ。もうわからなくなってきているんだよな」</div><div><br /></div><div>そのとき、渥美さんはけっこう厳しい顔をしていました。当時は認知症という言葉もありません。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div><br /></div><div>渥美さんのお芝居がとても深かったのは、本当の孤独や寂しさを知っている人だったからだと思います。だから寅さんが悲しいときや寂しいときは、全身からそれがにじんでいました。</div><div><br /></div><div>渥美さんは喜劇役者として芽が出始めた若いころ、肺結核で二年間の療養生活を強いられていたそうです。まだ結核が「不治の病」と言われていたころです。</div><div><br /></div><div>渥美さんの、触れれば切れるように鋭い感性は、一度死に直面した人ゆえのものだっただろうし、本当につらい思いをした人だからこそ、小さく生きている者に特別深い気持ちを持っていたんだろうと思います。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>ふだんの渥美さんは、いつも何かを考えているようでした。たぶん、芝居のこと、家族のこと、病気のこと、生きるということ…。とくに晩年はよく黙って考え込んでいました。</div><div><br /></div><div>私は長く一緒にお芝居をしてきて、渥美さんが怒った姿を一度も見たことがありません。国民的俳優と呼ばれ、仕事を続けているうちには理不尽なことや腹の立つこともあったはずです。俳優さんというのはどこかでわがままなので、普通は辛抱できずにどこかで弾けるはずなのに。</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>みんなで食事をしていたときに、こんなことがあったそうです。たまたま障がいを持った息子を連れていた親御さんがいて、周りの迷惑になると気を遣ったのでしょう、「うちの息子はこちらでいいです」と別の席に移そうとしたのです。</div><div><br /></div><div>そのとき、渥美さんは、</div><div><br /></div><div>「そんなことはない。一緒にご飯を食べればいいんだよ」</div><div><br /></div><div>と強い調子で促したそうです。怒った渥美さんを見たことはなかったけれど、弱い者、虐げられた人への思いの足らない仕打ちには火を噴くような表情を見せていたんだろうと思います。</div><div><br /></div><div>…</div><div><br /></div><div><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88-%E3%81%8A%E5%B8%B0%E3%82%8A-%E5%AF%85%E3%81%95%E3%82%93-DVD-%E6%B8%A5%E7%BE%8E%E6%B8%85/dp/B086MZYPR8/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88&qid=1596106943&sr=8-7&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=42299b3348563057dbfc227c6ed2f1b9&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B086MZYPR8&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B086MZYPR8" style="border: none; margin: 0px;" width="1" /><br /></div></div><div><br /></div><div>引用:<a href="https://amzn.to/312aapl">倍賞千恵子の現場</a></div><div><br /></div>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-25195276422383119452020-06-20T18:12:00.002+09:002020-06-20T18:13:10.008+09:00ニューヨークの祈り[対訳]<div><br /></div><h2 style="text-align: left;">ニューヨークの祈り</h2><div>悩める人におくる</div><div><br /></div><div><font color="#3367d6">A CREED</font>(信条) </div><div><font color="#3367d6">FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>わたしは神に強さを求めた、成功したくて。</div><div><font color="#3367d6">I asked God for strength, that I might achieve</font></div><div><br /></div><div>だが、与えられたのは弱さだった。素直に学びなさいと。</div><div><font color="#3367d6">I was made weak, that I might learn humbly to obey...</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>わたしは健康を求めた、人より凄いことがしたくて。</div><div><font color="#3367d6">I asked for health, that I might do greater things</font></div><div><br /></div><div>与えられたのは病いだった。より善いことをしなさいと。</div><div><font color="#3367d6">I was given infirmity, that I might do better things...</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>わたしは富を求めた、幸せになりたくて。</div><div><font color="#3367d6">I asked for riches, that I might be happy</font></div><div><br /></div><div>与えられたのは貧しさだった。より賢くなりなさいと。</div><div><font color="#3367d6">I was given poverty, that I might be wise...</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>わたしは力を求めた、名誉が欲しくて。</div><div><font color="#3367d6">I asked for power, that I might have the praise of men</font></div><div><br /></div><div>与えられたのは弱さだった。他者が必要だと思えるようにと。</div><div><font color="#3367d6">I was given weakness, that I might feel the need of God...</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>わたしは何でもかんでも欲しがった、人生を楽しみたくて。</div><div><font color="#3367d6">I asked for all things, that I might enjoy life</font></div><div><br /></div><div>しかし、与えられたのはこの人生だ。何事でも楽しめるようにと。</div><div><font color="#3367d6">I was given life, that I might enjoy all things...</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>わたしの願いは何ひとつ叶えられなかった。</div><div><font color="#3367d6">I got nothing that I asked for –</font></div><div><br /></div><div>でも、それで良かった。</div><div><font color="#3367d6">but everything I had hoped for</font></div><div><br /></div><div>なにも思いどおりにいかなかったから、本当に願っていたものがわかった。</div><div><font color="#3367d6">Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>わたしは他の誰より、ずっと恵まれていたんだ!</div><div><font color="#3367d6">I am among all men, most richly blessed!</font></div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>読み人知らず</div><div><font color="#3367d6">Author unknown</font></div><div><br /></div>Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-25904956416848957942020-03-06T08:57:00.000+09:002020-03-06T08:57:52.603+09:00データ記録装置としてのDNA[Scientific America]<br />
from Scientific America<br />
<br />
…<br />
<br />
DNAは二重らせん構造をしていて、一方の鎖の塩基配列がわかれば、対となる鎖の配列も自動的にわかるので、情報の保存に最適だ。<br />
<br />
またDNAは長期間安定しており、情報の完全性と正確さを維持できる。一例を挙げると、8,100年前の人骨から分離されたDNAが2017年に解析された。この遺物は理想的とはいえない状態で保存されていたものだ。低音で乾燥した環境で保存さていれば、DNAが何万年ももつのはほぼ確実といえる。情報を完全な状態で正確に維持できる。<br />
<br />
だが最も魅力的な特徴は、DNA二重らせんが非常に稠密な構造に折りたたまれるという点だ。人間の細胞には直径約0.00001mの細胞核があるが、一個の細胞核の内部にあるDNAをまっすぐに伸ばすと長さが2mに達する。別の言い方をすると、一人の人間の体内にあるDNAを全部つなげると100兆mになる。<br />
<br />
2012年に科学者が試算したところによると、理論上はたった1gのDNAに455エクサバイト(4,550億ギガバイト)のデータを保存できる。この情報記録密度はハードディスクの物理的記録密度の100万倍だ。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/Newton-%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%A8%AD%E8%A8%88%E5%9B%B3-DNA-%E7%A7%91%E5%AD%A6%E9%9B%91%E8%AA%8CNewton-ebook/dp/B01HPPT6I4/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=DNA&qid=1583452540&s=digital-text&sr=1-4&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=1cf63e01bfa6d53767b3476c85a54eeb&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B01HPPT6I4&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B01HPPT6I4" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<br />
様々な分野でDNAが情報の生成・追跡・記録に使われるようになった現在、いずれは在来の電子的記録装置に対抗してデジタルデータの保存に使われるのだろうかと問うのは自然な疑問だ。<br />
<br />
現時点での答えはノーだ。最新のDNA記録システムよりも、ハードディスクやフラッシュメモリーのほうが情報の保存にはるかに優れている。<br />
<br />
だがすべての技術と同様、在来の電子デバイスにも限界がある。物理的な空間を専有し、特定の環境条件を必要とする。最も耐久性に優れたものでさえ、寿命は数十年だ。こうした問題を考えると、私たちが現在作り出しているデータすべてを保持し続けるのは遠からず困難になるかもしれない。<br />
<br />
これに対しDNAは、低温・乾燥環境で保存すれば、ほぼ確実に数万年はもつ。低温条件を必要とする研究室ではDNAを-20℃ないし-80℃で保管するのが当然になっているし、通常の電子機器が耐えられない高温での保存も可能だ。スイス連邦工科大学チューリヒ校のグラス(Robert Grass)とスターク(Wendelin Stark)は2015年、シリカに封入したDNAがエラーを生じることなく70℃の高温に一週間耐えられることを示した。<br />
<br />
また、ハードディスクは1平方インチ(6.45cm2)あたり1テラバイトの情報を記録できるものの、最近の試算によると、全世界で生成された情報すべてをわずか1kg足らずのDNAに保存することが理論的には可能だ。<br />
<br />
…<br />
<br />
J.E.ダールマン<br />
DNAストレージ<br />
世界の全情報をタマゴ1個に<br />
<a href="https://amzn.to/2TsiM6f">日経サイエンス2019年11月号(北極融解/BMIで拡張する身体) </a><br />
<br />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-16804736921417176452020-03-04T05:44:00.000+09:002020-03-04T05:44:06.793+09:00北極圏の海氷に関して[Scientific America]<br />
from 日経サイエンス<br />
<br />
特集:北極融解<br />
<br />
北極圏は劇的に変化しつつある。北極海では海氷減少と気温、海水温の急上昇が続いている。今後も海氷減少は止まらず、早ければ2030年代後半には夏場の北極海から海氷がほとんどなくなる可能性がある。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%8C%97%E6%A5%B5%E5%A4%A7%E7%95%B0%E5%A4%89%EF%BC%88%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%EF%BC%89-%E7%9F%A5%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF-ebook/dp/B01H6GV9E6/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E5%8C%97%E6%A5%B5&qid=1583264693&sr=8-13&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=e6e609cb08c5bdcfd3780892e4476aa7&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B01H6GV9E6&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B01H6GV9E6" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<br />
北極海では海氷が減り続け、気温は地球全体の平均の2倍以上の速さで上がっている。2030年代末には氷がほとんど消える可能性がある。<br />
<br />
…<br />
<br />
年平均気温の上昇幅を産業革命以前をベースに算定すると、地球全体では約1℃なのに対し、北極域では3℃近くに達する。<br />
<br />
…<br />
<br />
「今年(2019年)9月中旬の北極海の海氷面積は、観測史上最小を記録した2012年9月ほどにはならないかもしれないが、史上3~4位くらいにはなるだろう(菊池隆・海洋研究開発機構)」<br />
<br />
…<br />
<br />
北極域の海氷の最大面積と最小面積は年ごとにかなり変わるが、長期的に見れば減少し続けている。年間で最大近くなる3月1日時点の海氷面積を例に取ると、1980年代の平均で1,557万平方kmだったのが、2010年代の平均では1,405万平方kmまで縮小した。<br />
<br />
日本国土面積の4倍の海氷が消えた計算だ。<br />
<br />
…<br />
<br />
一方、年間で最少近くなる9月1日時点の海氷面積は、1980年代の平均が738万平方kmだったのが、2010年代の平均で455万平方kmにまで縮小している。<br />
<br />
実に日本8つ分近くの減少で、減少幅は夏の最小面積の方が冬の最大面積よりも倍近く大きい。<br />
<br />
…<br />
<br />
ちなみに2012年に観測史上最小値が記録されたのは、同年9月15日と16日の両日で318万平方kmだった。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%8C%97%E6%A5%B5%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%97%A5-%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC-%E3%83%AF%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA/dp/4562054441/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E5%8C%97%E6%A5%B5&qid=1583264693&sr=8-21&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=dae953a64ad4fc8100f10cc533a427e4&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4562054441&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4562054441" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<br />
海氷面積の年間最小値の推移を見ると、2010年代は以前よりも減少ベースが鈍っている。そのため、海氷減少は一息ついているのではないかと考えがちだが、それは違う。<br />
<br />
「海氷の厚さは減り続けていると見られる(菊池)」からだ。<br />
<br />
…<br />
<br />
「以前は年齢が4~5年以上で、厚さが3~4mの海氷が北極海を広く覆っていたが、最近は海氷の融解が進んだり、北極海から出ていく氷が多い年があったりして、年齢が1~2年で厚さ2mに満たない海氷の割合がとても多くなった。海氷は面積が縮小しているだけでなく、年齢が若く薄くなっている(菊池)」<br />
<br />
…<br />
<br />
北極圏の海氷減少は、北極の気温が地球全体の平均の2倍以上のペースで上昇していることと表裏一体だ。出発点は地球温暖化で、気温が上がると海氷が減り、海氷が減るとさらに気温が上がるというサイクルが繰り返されることで、気温上昇と海氷減少が増幅されている、と菊池は話す。<br />
<br />
このフィードバック機構を「アイス・アルベド・フィードバック」という。<br />
<br />
アルベド(反射率)は地球表面での太陽光の反射率を意味する。海水面が約10%と最も低く、地面が約20%、これに対して雪や氷で覆われた場所は低くても85~90%で、ススや塵などの汚れが少なければ、それ以上になる。<br />
<br />
逆に言えば海水面は太陽光の約90%を吸収し、地面は約80%、氷雪面では15%以下になる。<br />
<br />
北極海での状況を考えると、まず地球温暖化で気温が上がれば、太陽が照り続ける白夜の夏場、海氷の融解が進み、海氷面積が縮小する。その分、氷に覆われていな海面が広がるため、北極海はより大量の太陽光を吸収、海水温が上昇する。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4863134002/ref=as_li_ss_il?psc=1&spLa=ZW5jcnlwdGVkUXVhbGlmaWVyPUExNVJYU0ZQTTE1OTcxJmVuY3J5cHRlZElkPUEwNDU5MjQyM0lBWEkwRlVYQ1hUWiZlbmNyeXB0ZWRBZElkPUEzRlROV0wwUE5XWjY2JndpZGdldE5hbWU9c3BfZGV0YWlsJmFjdGlvbj1jbGlja1JlZGlyZWN0JmRvTm90TG9nQ2xpY2s9dHJ1ZQ==&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=c34d504805113d9b28bc33ece90086ba&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4863134002&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4863134002" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<br />
「以前は海水温がそれほど高くなかったため、気温が下がればすぐに氷が張り始めていた。ところが近年の夏は以前より海水温が高いため、まずは海水が冷えないと氷ができない状況になっている。夏の海氷減少によって、秋の氷のでき始めが遅れることで、作られる海氷が減ってきている」。<br />
<br />
このような秋から冬にかけての海氷形成の遅れが、冬場の海氷面積の縮小をもたらし、それが冬場の気温上昇を引き起こす。<br />
<br />
太陽が昇ってこない真冬、北極海の気温はマイナス20~30℃まで下がるが、海氷がない海面の温度は約0℃で、大気より20~30℃も高いため、海面から立ち上る水蒸気が大気を暖める。海氷面積が縮小した分だけ、水蒸気による加熱が強まるので、気温の低下が抑制される。<br />
<br />
そうした状況で次の春を迎えると、前年の春先より気温は少し上がり、海氷面積は小さくなる。そして白夜の夏に向けて日照時間が長くなるにつれ、気温が上昇して海氷の融解が進むため、夏場の海氷面積は前年よりさらに縮小し、海水温が上がる。<br />
<br />
こうしたサイクルが毎年繰り返されることで、北極海では海氷減少とともに気温上昇が増幅されることになる。<br />
<br />
…<br />
<br />
ちなみに南極は広域が氷で覆われている点は北極と同じだが、南極の平均気温の上昇ペースは、北極とは逆に地球全体の平均よりもかなりゆっくりだ。<br />
<br />
南極には大陸があり、その上に厚さ2,000~2,500mもの氷が乗っているので、夏場に氷がいくら融解しても海水面や地面は出てこないので、太陽光の反射率は変わらない。<br />
<br />
そのため、北極のようなフィードバックは働かず、気温の上昇が増幅されることはない(ただし、氷の融解は進むので、海水面の上昇など別の面で大きな変化が起きている)。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%BF-%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AD-%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/4903212688/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&pd_rd_i=4903212688&pd_rd_r=4f8a7c89-9576-4793-9b5c-2dc7f69f96bb&pd_rd_w=MPSva&pd_rd_wg=L0Um8&pf_rd_p=1893a417-ba87-4709-ab4f-0dece788c310&pf_rd_r=19AK6ACK9607MBSY2VED&psc=1&refRID=19AK6ACK9607MBSY2VED&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=287c30b6b16c6d21147770e4b15ddb09&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4903212688&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4903212688" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<br />
海氷減少のきっかけとなった地球温暖化は大気中の二酸化炭素(CO2)による温室効果が強まっていることが原因だ。<br />
<br />
…<br />
<br />
「CO2濃度は少なくとも40万年前まではたかくても280ppm程度だったが、現在は人類活動由来の部分が自然界の変動に加わり400ppmまで上がっている」。<br />
<br />
…<br />
<br />
「北極海の海氷減少について言えば、今すぐにCO2の排出を全部やめても、変化はもう止まらない。残念ながら臨界点を越えてしまったと思う」。<br />
<br />
…<br />
<br />
「地球全体の気温が2100年までに2~3℃上がるといわれているが、北極は8~9℃、もしかすると10℃も上昇する可能性がある」。<br />
<br />
…<br />
<br />
グローバルな気候変動に与える影響も甚大だ。地球大気は赤道域で加熱され、極域で放熱して冷えるが、南極は変動が穏やかな一方、北極で最も激しい温暖化が起きている。地球全体でみた場合、北極が変化の中心になっているわけだ。<br />
<br />
その影響が強く出ているのが、北極域に隣接した北半球の中緯度域、つまり欧州や米国、日本が位置する緯度帯だ。これらの地域に異常気象をもたらすジェット気流の蛇行は北極の変動がその一因と考えられる。<br />
<br />
…<br />
<br />
「日本に暮らす人々にとって、北極海は縁遠い場所だが、実際には密接なつながりがある」<br />
<br />
…<br />
<br />
ノルウェーのスバールバル諸島は急変している。1971年に比べ、冬は7℃暖かく、2ヶ月短くなった。雪に代わってかつては稀だった雨が降り、ゆるんだ土壌をたびたび水浸しにして、建物はぬかるみに沈降している。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B5%8C%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B92019%E5%B9%B411%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E5%8C%97%E6%A5%B5%E8%9E%8D%E8%A7%A3-BMI%E3%81%A7%E6%8B%A1%E5%BC%B5%E3%81%99%E3%82%8B%E8%BA%AB%E4%BD%93/dp/B07W47FRVC/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E5%8C%97%E6%A5%B5&qid=1583264693&sr=8-6&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=12b7b85eeb4ed38a67f950ce3feeae25&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B07W47FRVC&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B07W47FRVC" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<a href="https://amzn.to/3amIAWX">日経サイエンス2019年11月号(北極融解/BMIで拡張する身体)</a><br />
<br />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-54541618510177797182020-03-03T08:41:00.000+09:002020-03-03T08:42:36.476+09:00上げ潮『ナイジェリア』[Newsweek]<br />
from Newsweek<br />
<br />
…<br />
<br />
30年後には、ナイジェリアは人口でアメリカを上回るとみられている。今世紀末には、インドと中国に次いで、世界第3位の人口大国になる見通しだ。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB-%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%83%A7/dp/4593585546/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2&qid=1583192200&sr=8-12&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=30aba9427ae4654e9c9430b1c37810df&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4593585546&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4593585546" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<br />
問題の多くは石油に起因する。原油生産の収入は1日約1億ドルだが、人口が多いため国民一人あたりでは0.5ドル程度。全員を豊かにするには不十分だが、一部の人間は大金持ちになれる。石油収入の80%は全人口の推定1%が独占している(輸出の97%を原油が占める)。<br />
<br />
…<br />
<br />
経済の変革は困難だが、不可能ではない。毛沢東が死去した1976年、中国の一人当たりGDPは約200ドル(インフレ調整後)。世界の最貧国の一つだった。だが2年後、改革開放路線に舵を切ると、爆発的な経済成長が始まった。今や一人当たりGDPは1万ドルを突破。8億5,000万人が貧困から抜け出した。<br />
<br />
現在のナイジェリアの状況は当時の中国に驚くほど近い。1978年の中国の貧困率は、ナイジェリアとほぼ同じ55%。成人識字率は65%で、ナイジェリアは62%。今の中国の貧困率はほぼゼロで、識字率は97%だ。<br />
<br />
…<br />
<br />
ナイジェリアの約2億の人口は、全アフリカ諸国の平均の10倍。既にロシアより多く、30年以内にアメリカも抜く。国連によると、今世紀末までに7億3,300万人に達すると推定されている(5億3,200万人増)。<br />
<br />
加えて若年人口が多いという強みもある。ナイジェリアは南アフリカを抜き、今やアフリカ最大の経済大国だ。<br />
<br />
…<br />
<br />
ナイジェリアの最も価値ある輸出は今や石油ではなく、人間だと指摘する人もいる。今では約5,000万人のナイジェリア人が、米英などの国外在住者。彼らの教育レベルは高い。<br />
<br />
全米ナイジェリア人の3分の1近くが修士号や博士号を持つ。国外で働くナイジェリア人からの年金送金額は最高400億ドルとの試算もあり、外国からの援助額を上回る。<br />
<br />
…<br />
<br />
かつて、「今後著しい経済成長が見込める国」といえばBRICS(ブラジル・ロシア・インド・中国・南アフリカ)のことだったが、今はMINT(メキシコ・インドネシア・ナイジェリア・トルコ)だ。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/1%E5%86%8A%E3%81%A7%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%EF%BC%81%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%B5%8C%E6%B8%88-%E6%8A%BC%E3%81%95%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%81%B9%E3%81%8D54%E3%82%AB%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6-%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%83%BC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A-ebook/dp/B010S75B8U/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%82%A2&qid=1583192200&sr=8-8&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=bf1d673c6d6aa55a5f83657ca09f2609&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B010S75B8U&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B010S75B8U" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
サム・ヒル(作家・コンサルタント)<br />
『上げ潮ナイジェリアが次の中国になる日』<br />
<a href="https://amzn.to/39iHY4y">Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2020年2/18号[新型肺炎 どこまで広がるのか] (日本語) 雑誌 – 2020/2/12</a><br />
<br />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-83607863516737968862020-03-03T08:16:00.001+09:002020-03-03T08:16:48.128+09:00一般的なインフルエンザによる死亡者数[Newsweek]<br />
From Newsweek<br />
<br />
…<br />
<br />
新型肺炎には有効な治療法がなく、強い警戒が必要なのは事実だが、実は<span style="font-size: large;"><span style="color: #990000;">日本国内では毎年3,000人以上が一般的なインフルエンザで亡くなっている</span>。</span><br />
<br />
…<br />
<br />
毎年冬にはインフルエンザが流行するが、その死亡者数は2018年が3,325人と、リーマンショック以降、急増している。<br />
<br />
…<br />
<br />
諸外国の企業ではインフルエンザが流行した場合は、書類のやりとりを控える、可能な限り会議を控える、デスクに消毒液を置く、といった措置を実施するところもあるが、日本ではこうした意識は希薄である。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/Newsweek-%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%89%88-2020%E5%B9%B42-%E6%96%B0%E5%9E%8B%E8%82%BA%E7%82%8E-%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B/dp/B083XW5V5B/ref=as_li_ss_il?_encoding=UTF8&qid=1583190754&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=7178cfaed4871ab55c84e9cca262f02b&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B083XW5V5B&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=B083XW5V5B" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
経済評論家:加谷珪一<br />
『新型肺炎から見を守る働き方』<br />
<a href="https://amzn.to/39iHY4y">Newsweek (ニューズウィーク日本版) 2020年2/18号[新型肺炎 どこまで広がるのか] (日本語) 雑誌 – 2020/2/12</a><br />
<br />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-54916249010477619882019-05-15T08:21:00.002+09:002019-05-15T08:21:46.498+09:00『澄む月のひかりに』 スッタニパータ 毎田周一 序<br />
話:毎田周一<br />
<br />
<br />
<a href="https://amzn.to/2W56Ut0">『澄む月のひかりに』</a><br />
<a href="https://amzn.to/2W56Ut0">スッタニパータ</a><br />
<a href="https://amzn.to/2W56Ut0">毎田周一</a><br />
<br />
<br />
序<br />
<br />
<br />
二千五百年前の釈尊にまの当り接する術のない私達にとって、在りし日のその優しい懇篤な力強いそして威厳に充ちたお声を耳にする如き経集(スッタ・ニパータ)の偈頌(ガーター)は、世にも貴重な仏教の文献である。<br />
<br />
親鸞聖人がこれを見られたら、「夫れ真実の教を顕はさば則ち経集是れなり」と叫ばれたに違ひない。又私は道元禅師がこれを手にされて、「慈父大師釈迦牟尼仏」と驚喜されることをさへ思ふ。<br />
<br />
歴史的仏陀をこれほどに明らかにする経典はないからである。それは現代の仏典である。西欧の学者たちが誠実に巴利(パーリ)の資料を探索した結果、遂に発掘した宝玉にも比すべきもの。基督教では福音書に相当するであらうか。<br />
<br />
<br />
<br />
経集(スッタ・ニパータ)は巴利(パーリ)経律論三蔵のうち、経蔵五部ニカーヤの小部(クッダカ・ニカーヤ)に属し、五章より成る仏教最古の文献である。散文の部分は後世の附加であるが、ガーターはこれ以上に遡ることの出来ない最古層に属する。<br />
<br />
いま私はその第一章と第四章とを選んで訳した。前者を序曲、後者を本曲として、この二章のみで経集(スッタ・ニパータ)の面目を充分に伝へ得ると思ったからである。<br />
<br />
四行の詩は四行に、二行の詩は二行に、原典の行数に従った。それは何よりも詩である。従ってその簡潔な表現から限りない含蓄を読みとらねばならぬ。この世の穢れに染まぬ、正に世を超えし人の言葉として、それは「澄む月のひかり」にも似ている。以て本書の題名とせる所以。<br />
<br />
<br />
<br />
第一章は仏教の全貌を直観的に示してそこへ私達を導入し、第四章は仏教の核心を論理的に示してそれを私達に徹せしめるともいふべきであらうか。<br />
<br />
なほ第二・第三章は序曲としての第一章に提示された種々の主題のより以上の展開、第五章は本曲としての第四章の補充の意味をもつが、これらを略してここに訳出せるもののみで、経集(スッタ・ニパータ)の本質と骨格とは充分に表はされ、釈尊と仏教とを知るに余すところのない資料といひ切ることが出来る。<br />
<br />
<br />
<br />
私は巻末に解説ならざる解説を「平常底の仏法」と題して附加した。<br />
<br />
それは逐条的ないはゆる解説ではない。しかし私はそこで此の経集(スッタ・ニパータ)に於ける釈尊の説法を「平常底」として受けとめるの外、受けとめやうがないことをいはんと欲したのである。つまりそれは私の領解である。<br />
<br />
経集(スッタ・ニパータ)の無限に深い人生に対する示唆を、如何なるカメラ・アングルで捉へるかは、それぞれの人の主体の問題である。私の主体の奥がどのやうにその教説によって剔抉されていったか。その過程の報告であるともいへよう。<br />
<br />
否、それにもまして私はそこで釈尊の生ける「無」の姿に直接する、新鮮な喜びを、読者と共にせずには居れなかったのである。<br />
<br />
<br />
<br />
※なほ翻訳は巴利聖典協会刊、アンデルゼン及びヘルマー・スミス編の「スッタ・ニパータ」を底本とした。<br />
<br />
<br />
<br />
昭和38年12月23日<br />
訳者しるす<br />
<br />
<br />
<br />
<a href="https://amzn.to/2W56Ut0">『澄む月のひかりに』</a><br />
<a href="https://amzn.to/2W56Ut0">スッタニパータ</a><br />
<a href="https://amzn.to/2W56Ut0">毎田周一</a><br />
<div>
<br /></div>
Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-58502976128319268632019-05-02T07:12:00.000+09:002019-05-02T07:12:12.929+09:00「わたし」とは、川の流れが生じる模様のようなものなのだ【レイ・カーツワイル】<br />
話:レイ・カーツワイル<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AA%95%E7%94%9F-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%81%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E7%9F%A5%E6%80%A7%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%8D-%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB/dp/4140811676/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB&qid=1556748555&s=gateway&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=e3ce6d8673c41d852f89cb588069e214&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4140811676&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4140811676" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
…<br />
<br />
わたしは誰? わたしはなに?<br />
<br />
<br />
宗教なんて、犬のスマイルみたいなもの…<br />
哲学なんて、つるつるする岩の上を散歩するようなもの<br />
宗教なんて、霧の中の光みたい…<br />
<br />
――エディ・ブリケル(英国出身の女性ボーカリスト)<br />
「ホワット・アイ・アム」<br />
<br />
<br />
意識と関連がありながら、また別の問題となるのが、われわれのアイデンティティである。個人の精神のパターン――知識や技術、人格、記憶など――を、他の基板にアップロードできる可能性については前に述べた。その結果生まれた新しい存在は、わたしそのもののように振る舞うだろうが、そこに問題が生じる。<br />
<br />
それは本当にわたしなのだろうか?<br />
<br />
画期的な寿命延長のためのシナリオのいくつかは、われわれの身体と脳を構成するシステムやサブシステムの再設計と再構築を必要とする。この再構築を行うと、わたしはその過程で自己を失うのだろうか? この問題もまた、今後数十年の間に、時代がかった哲学的対話から、差し迫った現実的課題へと変貌していくだろう。<br />
<br />
では、わたしとは誰なのか?<br />
<br />
たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルのほうなのか、コピーのほうなのか、それともその両方なのだろうか? おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳を形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。<br />
<br />
<br />
だが、この見方には問題がある。わたしの身体と脳を構成する特定の粒子の集合は、じつは、ほんの少し前にわたしを構成していた原子や分子とはまったく異なるものなのだ。<br />
<br />
われわれの細胞のほとんどがものの数週間で入れ替わり、比較的長期間はっきりした細胞として持続するニューロンでさえ、一か月で全ての構成分子が入れ替わってしまう("How Do you Persist When Your Molecules Don't?" Science and Consciousness Review 1.1 June 2004)。<br />
<br />
微小管(ニューロンの形成に関わるタンパク質繊維)の半減期はおよそ10分である。樹状突起中のアクチンフィラメントに至っては約40秒で入れ替わる。シナプスを駆使するタンパク質はほぼ1時間で入れ替わり、シナプス中のNMDA受容体は比較的長くとどまるが、それでも5日間で入れ替わる。<br />
<br />
そういうわけで、現在のわたしは一か月前のわたしとはまるで異なる物質の集合体であり、変わらずに持続しているのは、物質を組織するパターンのみだ。パターンもまた変化するが、それはゆっくりとした連続性のある変化だ。<br />
<br />
「わたし」とはむしろ川の流れが岩の周りを勢いよく流れていくときに生じる模様のようなものなのだ。実際の水の分子は1000分の1秒ごとに変化するものの、流れのパターンは数時間、ときには数年間も持続する。<br />
<br />
つまり、「わたし」とは長期間持続する物質とエネルギーのパターンである、と言うべきだろう。<br />
<br />
…<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AA%95%E7%94%9F-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%81%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E7%9F%A5%E6%80%A7%E3%82%92%E8%B6%85%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%8D-%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB/dp/4140811676/ref=as_li_ss_il?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AB&qid=1556748555&s=gateway&sr=8-2&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=e3ce6d8673c41d852f89cb588069e214&language=ja_JP" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=4140811676&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22&language=ja_JP" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&language=ja_JP&l=li3&o=9&a=4140811676" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8815782922802723488.post-31640599262959740472018-07-09T06:07:00.003+09:002018-07-09T06:07:57.997+09:00「ネットフリックスの株は『神』と同じ」【The Economist】<br />
From: <a href="https://www.economist.com/leaders/2018/06/28/can-netflix-please-investors-and-still-avoid-the-techlash">The Economist July 6 2018</a><br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/Economist-UK-January-30-July/dp/B07F41258Q/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&qid=1531083886&sr=8-3&keywords=the+economist&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=8d78811ea70b37c94004e35b04f72cec" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B07F41258Q&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&l=li3&o=9&a=B07F41258Q" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" />
<br />
<br />
<br />
<span style="color: #3d85c6; font-size: large;">“If Jesus were a stock, he’d be Netflix,”</span><br />
<span style="font-size: large;"><span style="color: #3d85c6;"><br /></span>
<span style="color: #3d85c6;">one savvy investor is said to have observed.</span></span><br />
<span style="font-size: large;"><span style="color: #3d85c6;"><br /></span>
<span style="color: #3d85c6;">“You either believe or you don’t.”</span></span><br />
<br />
<br />
ある名うての投資家は「ネットフリックスの株は神と同じ。信じるか信じないかのどちらかだ」と述べている。<br />
<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%8C%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8B%EF%BC%81%E2%80%95%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E7%B5%8C%E6%B8%88%EF%BD%85%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%96%B0%E6%9B%B8No-116-%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/B06XXBJGD2/ref=as_li_ss_il?ie=UTF8&qid=1531083969&sr=8-6&keywords=%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9&linkCode=li3&tag=airroomcom-22&linkId=d561402868998bbcde3e56fa59d1b73e" target="_blank"><img border="0" src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&ASIN=B06XXBJGD2&Format=_SL250_&ID=AsinImage&MarketPlace=JP&ServiceVersion=20070822&WS=1&tag=airroomcom-22" /></a><img alt="" border="0" height="1" src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=airroomcom-22&l=li3&o=9&a=B06XXBJGD2" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<br />Unknownnoreply@blogger.com0