話:内村鑑三
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西郷(隆盛)ほど生活上の欲望のなかった人は、他にいないように思われます。
日本の陸軍大将、近衛都督、閣僚のなかでの最有力者でありながら、西郷の外見は、ごく普通の兵士と変わりませんでした。西郷の月収が数百円であったころ、必要とする分は十五円で足り、残りは困っている友人なら誰にでも与えられました。東京の番町の住居はみすぼらしい建物で、一ヶ月の家賃は三円であったのです。
その普段着は薩摩がすりで、幅広の木綿帯、足には大きな下駄を履くだけでした。食べ物は、自分の前に出されたものなら何でも食べました。あるとき、一人の客が西郷の家を訪ねると、西郷が数人の兵士や従者たちと、大きな手桶をかこんで、容器のなかに冷やしてあるそばを食べているところでありました。自分も純真な大きな子供である西郷は、若者たちと食べることが、お気に入りの宴会であったのです。
西郷は、身の回りのことに無関心なら、財産にも無関心でありました。東京一の繁華街に、りっぱな土地を所有していたことがあります。それを設立させたばかりの国立銀行に売却しました。価格を聞かれても語ろうとはしませんでした。今日も同法人の所有のままになっているその土地は、数十万ドルの値打ちがあるとされます。西郷の年金収入の大部分は、ことごとく鹿児島で始めた学校の維持のために用いられました。西郷の作った次の漢詩があります。
我が家の法、人知るや否や
児孫のために、美田を買わず
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ある人は、西郷の私生活につき、このように証言しています。
「私は十三年間いっしょに暮らしましたが、一度も下男を叱る姿を見かけたことがありません。ふとんの上げ下ろし、戸の開け閉(た)て、そのほか身の回りのことはたいてい、自分でしました。でも他人が西郷のためにしようとするのを、遮ることはありませんでした。また手伝おうとする申し出を断ることもありませんでした。まるで子供みたいに無頓着で無邪気でした」
西郷は人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしませんでした。ひとの家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったままで、だれかが偶然出て来て、自分を見つけてくれるのを待っているのでした!
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「生財」と題された西郷の文章の一部を引いておきます。
世人は言う。「取れば富み、与えれば失う」と。なんという間違いか! 農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精を出すのであり、収穫は求めなくても訪れる。
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「ほどこし散らして、かえりて増す者あり。与ふべきものを惜しみて、かえりて貧しきにいたる者あり(旧約聖書 箴言十一章二十四節)」
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引用:内村鑑三『代表的日本人 』