2014年6月23日月曜日
失われた欧米の森 [内田樹]
話:内田樹
たとえばヨーロッパ人は自然に対して、日本列島の住民のような親しみを感じてはいない。ヨーロッパにおいて自然は豊かな恵みをもたらす贈与者であるよりはむしろ、人間の前に立ちはだかり、その可動域を制約し自由を損なう者として対立的に観念されてきた。
ヨーロッパにおける自然は、あるときは攻略の対象であり、あるときは収奪の対象であり、あるときは保護や管理の対象であったが、人間が敬意や感謝をもって共生する環境とは見なされなかった。それはヨーロッパ人の森林に対する態度からも窺い知ることができる。
ペロポネソス半島はかつて深い緑に覆われていたが、ギリシャの都市国家の勃興期に、青銅器・鉄器の制作のための燃料として乱伐され、いまはオリーブがところどころに生えるだけの岩山となってしまった。
フランスも変わらない。緑の多い国と思われているが、森林率は28%、森林のほとんどは人間の管理下にある。イギリスの森林率は12%。かつてロビン・フッドが隠れたシャーウッドの森も、産業革命期にノッティンガム炭鉱採掘のために大半が伐採されてしまった。
アメリカ新大陸もかつて広大な原生林に覆われていたが、その森林は開拓時代にほとんど狂躁的な仕方で刈り取られた。
これについては1830年代に新大陸を旅したアレクシス・ド・トクヴィルが貴重な証言を残している。彼が訪れたときオハイオは州に昇格してわずか30年、まだ広大な未開の土地が州内に広がっていたが、それにもかかわらず、オハイオの人々は早くもオハイオを棄てて、幌馬車をイリノイに進めていた。トクヴィルはこの西漸への情熱についてこう書いている。
「この人々は幸福になろうとして第一の故国を去った。そして今やいっそうのしあわせを求めて、第二の故国を去っていく。最初は必要に迫られて移住したが、いまではそれが一種の賭けと彼らの目に見えてきて、金儲けもよいが、その興奮が忘れられない(トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシーについて』)」
開拓民たちはまるで憑かれたように西へ向かったが、そのふるまいを開拓と呼ぶのはたぶん正確ではない。なぜなら、開拓民の中には開拓した土地をすぐに捨てて西へ向かった者も数多かったからである。彼らは手つかずの自然を破壊することそれ自体に興奮していたのである。それは開拓時代に北米に6,000万頭いたとされる野牛が、19世紀末には750頭に減少するまで殺されたことに深いところで通じている。
私たちの知る限り、日本列島の住民が自然環境に対して、ここまで徹底的な攻撃を加えた事例はない。戦国時代末期に築城と都市造営のために森林が乱伐されたが、それでも徳川幕府の森林保護政策によって森林は再生し、いまでも日本列島の森林率は68%で先進国としては例外的に高い。
この数字はスウェーデン67%、フィンランド74%に匹敵する。森の国というイメージのあるカナダ34%やブラジル57%より日本列島のほうが緑が豊かなのである。
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出典:内田樹『日本の身体』
2014年6月22日日曜日
目が見えるという障害 [日野晃]
話:日野晃
あるTV番組で、目の不自由なご両親が、健常者である子供のイタズラを叱っている場面があった。目が不自由だから、子供がどこにいるのかは、文字通り見えていない。にもかかわらず、お母さんは子供を真正面にとらえ叱っていたのだ。
そしてその子供は、玄関の戸を開け、外に飛び出して逃げ出した。するとお母さんは、何のためらいものあく子供を追い外に飛び出した。外はもちろん道路で、自動車も行き来している。子供が右に行ったのか、左に行ったのかも分からないはずだ。にもかかわらず、正確に子供を追って走ったのだ。
「どうして出来るのか?」
そのとき思った。しかし、それは”目が見える”という枠に囚われてしまっている自分の哀れな姿だ。自分は実は”目が見える”という障害者だったのだと気づいた。
目が見えている、というのは、文字通り見えているのだが、本当に大事なことが見えているのではなく、さまざまな固定観念や先入観が見えているだけである。逆に言えば、目が見えているということは、何も見えていないとも言えるのだ。
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出典:月刊 秘伝 2014年 06月号
日野晃「武術の解答」
2014年6月18日水曜日
「良い祈り」「悪い祈り」 [宇城憲治]
話:宇城憲治
脳科学の進歩によって「祈り」と「脳」との関係が発見されたと言われています。
すなわち、心で思うことが科学的にも身体に影響を与えるというものです。すなわち「良い祈り」がその人間を救い、「悪い祈り」がその人の身体に悪影響を与えるというものです。
たとえばスポーツなどの勝負事では、「勝ちたい」「うまくなりたい」と願います。すると、これはポジティブな祈りとして、その人の脳内に神経伝達物質の「ベータ・エンドルフィン」が分泌されます。この物質は会館物質であると同時に脳を活性化させ、かつ身体の免疫力を高めるなど、さまざまな病気を予防する効果があるそうです。
しかし、ここに落とし穴があります。スポーツ、勝負事における願いは、一歩間違うと「ライバルを蹴落として叩きのめしたい」という攻撃的な面に力点が置かれがちです。この場合、「悪い祈り」として分泌する脳内物質は、ベータ・エンドルフィンではなく「アドレナリン」及び「ノルアドレナリン」が主となります。
このノルアドレナリンは別名「怒りのホルモン」とも言われていて、それを数ミリグラムをラットに注射するだけで死に至るほど強い毒性があると言われています。したがって、ノルアドレナリンが脳内に出っ放しになると、脳にとっても身体にとっても非常に害があるものとなります。
これらのことは日常で起こっている事実ですが、良い祈りは「伝統」や「文化」に多々見られ、逆に悪い祈りは「文明」によって生まれているところが多いように思います。
わかりやすい例でいえば、伝統の武術と現在のスポーツ武道との比較です。とかく勝負にこだわる今のスポーツ武道の「相手を倒せ」や「アドレナリンを出せ!」など檄を飛ばす光景などは、まさに悪い祈りの典型ですが、本来の武術はその反対の「戦わずして勝つ」という高い次元にあります。それは、武術というのは生と死のなかで悟ったところから生まれたものだからです。実際、江戸時代の剣聖・伊藤一刀斎は、その剣術書で「術技の究極は真心にある」と説いています。
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出典:宇城憲治『気によって解き明かされる 心と身体の神秘』
2014年6月14日土曜日
東郷重位の剣 [内田樹]
話:内田樹
示現流の流祖に東郷重位(ちゅうい)という剣客がいた。
その人の息子とその友達が、近所に野犬が出て危険だと聞いて、犬を斬りに行った。帰ってきて、何匹も犬を斬り捨てたが、太刀の刃が一度も地面に触れず、刃こぼれしなかったと自慢した。
それを隣りの部屋で聞いていた重位は、「刃が地面に触れなかったなどということを自慢してはならん」と、いきなり脇差(わきざし)を抜いて、目の前の碁盤を斬り、そのまま畳を斬り、根太まで斬り下げた。そして、「斬るとはこういうものだ」といったという逸話がある。
ここにある対象を斬ろうと思ったら、斬れない。碁盤てものすごく硬いカヤ材でできてますから、「碁盤を斬ろう」と思ったら、刀なんか跳ね返されてしまう。「地面を斬ろう」と思わなくてはならない。刀って不思議なもので、その「先」に用事があって通過する時には、途中にあるものを何でも全部斬ってしまうんです。
剣には剣固有の動線というものがある。この線を進みたいという欲求がある。武道的感覚というのは、剣が発するその微かなシグナルを聞き取ることなんだと思うんです。
人間がするのは初期条件を与えることだけ。いったん剣が起動したら、なすべきことは剣自身が知っている。だから、その後の人間の仕事は、いかに剣の動きを邪魔しないかなんです。
居合いをやっているとわかるんですけど、剣が選ぶ動線には必然性があるんです。だから、それを人間の賢しらで操作しようとすると良くないことが起こる。
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出典:内田樹『日本の身体』
2014年6月13日金曜日
反対のものとの「葛藤」
お汁粉の甘さを引き立てるためには「塩」を入れる。
火がなければ水は際立たず、殺意がなければ愛もまた然り。
それとは反対のものとの「葛藤」によって、そのものの存在がより明らかになる。
「能」において
扇を前に出すとき、意識を前におかず、むしろ後ろにおくという。
前に出るときの意識は後ろ、下がるときは前。
多くの人は自分が「歩けていない」ことに気づいていない、と能楽師の安田登氏は言う。
また、音は出したところではなく、出さないところで伝え合う。
『毛詩(詩経)』にいう
「詩は志の之く所なり」
心の中にある「志」は、外に現れて「詩」となる。
言葉にしても足らざれば嗟歎する。
嗟歎しても足らざれば永歌する。
永歌して足らざれば、知らず手は舞い、足を踏む。
出典:内田樹『日本の身体』
敵をつくっておいて敵をつくらない [内田樹]
話:内田樹
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基本的に武道では、相対的な稽古をしてはいけないことになっています。自分と同じレベルにいる敵に対しての勝った負けた、強い弱いを競っては絶対にいけない。競うものではなく「場を主宰する」。敵を作らないで、あらゆるものとパッと和合してしまう。
敵味方は、いわばボルトとナット。戦ってどちらが強いというのではなく、ボルトとナットが接合することで、全体があるかたちで機能しはじめる。
ですから武道における身体運用というのは、身体の局所を強くするとか、速く動くとか、いわんや相手を倒すのではない。自分と相手が対峙する状況全体をいかにコントロールするかというところが肝要なんです。そのためには、目の前の人と敵対してはいけません。一瞬にして呼吸を合わせ、細胞の肌理(きめ)を会わせていかなくては。
人間はさまざまな模様のパッチワークに似た、非常に複合的な存在です。だから相手の中には部分的に自分と同じ模様もある。その同じ模様にパッと同期できるような、感度のいい身体をつくるための訓練が武道なんです。
武道の場合、最初にわざと「敵対」というネガティブな状況をつくっておいてから同期させるところが、条件としては面白いと思います。
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出典:内田樹『日本の身体』
陸の魚、河湖の魚 [荘子]
泉涸れて、魚相ともに陸におり、相い吹くに湿をもってし、相濡すに沫をもってするは、江湖に相い忘るるにしかず。
泉の水が枯れて、干上がった陸の上に魚が集まり、互いに湿った息を吹きかけ合い、泡(あぶく)で濡らし合うというのは、大河や湖水のなかにいて、お互いの存在を忘れているのには及ばない。
出典:『荘子 第1冊 内篇』
2014年6月8日日曜日
『遠野物語』序より
この話はすべて遠野(とおの)の人、佐々木鏡石君より聞きたり。
鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。
自分もまた一字一句をも加減せず、感じたるままを書きたり。
願わくは、これを語りて平地人を戦慄せしめよ。
遠野の城下はすなわち煙花の街なり。
高処より展望すれば、早稲まさに熟し、晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。
附馬牛(つくもうし)の谷へ越ゆれば、早池峰(はやちね)の山は淡く霞み、山の形は菅笠のごとくまた片仮名のヘの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く、満目一色に青し。
思うに、この類の書物は少なくとも現代の流行にあらず。
いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもって他人に強いんとするは、無作法の仕業なりという人あらん。
されどあえて答う。
かかる話を聞きかかる処を見てきて、のちこれを人に語りたがらざる者、果たしてありや。
明神の山の木兎(みみずく)のごとく、あまりにその耳を尖らし、あまりにその眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。
おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも。
抜粋:柳田国男『遠野物語』序
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