「神戸(こうべ)」という地名は元々、同地に昔からある「生田神社(いくた・じんじゃ)」に由来するのだという。
平安時代に著された「新抄格勅符抄」には、「大同元年(806)、神社に奉仕する封戸である神戸(かんべ)四十四戸が朝廷より与えられた」との記述が見られる。
この地一帯を社領としていた神戸(かんべ)が、時代を経て紺戸(こんべ)になり、ついには「神戸(こうべ)」になったというわけだ。
なるほど、神戸は「生田神社」あっての地であったわけだ。
では、その生田神社の由来はというと、遠く神功皇后(じんぐう・こうごう)にまでさかのぼる。日本書紀などによれば、神功皇后は妊娠したまま新羅(朝鮮半島)にまで出兵したという勇ましさを持つ。
ちなみに、神功皇后に攻められた新羅は、戦わずして降伏。ついで朝鮮半島の残りの二国(百済、高句麗)をも日本の支配下に入ることとなる(三韓征伐)。
その神功皇后が瀬戸内海を通り、大和へと帰る途上であった。今の神戸あたりで船が進まなくなってしまったのは。天候の変化で風がなくなり、潮の流れも止まってしまい、人の力ではどうしようもなくなってしまったのだった。
この苦境に登場するのが「稚日女尊(わかるひめのみこと)」。この女神は文字通り、稚(おさな)くみずみずしい日の神。地上に生まれた万物を守り、その成長を加護する神である。
この女神は言った、「活田(いくた)に居りたい」と。
その通りに女神をお祀りすると、翳っていた天候は回復。風が生まれ、潮が流れ始めて、めでたく神功皇后の船は大和へと帰り着くこととなる。
女神・稚日女尊が居りたいとおっしゃた「活田(いくた)」、それが今の生田(いくた)神社ということだ。
延喜式によれば、生田神社には各地から稲が集められて、神職によって「酒」が造られたことが記されている。瀬戸内海に面したこの土地は、新羅から海を渡って訪れる使者に酒をふるまっていたのだという。それが灘(なだ)五郷の酒造りの起源となる。
ところが延暦十八年(799)、生田神社は山全体が崩壊するほどの「大洪水」に見舞われてしまう。
現在の生田の森は、その大洪水の折りに、御神体を安全な場所に移したところなのだという。つまり、生田神社の移転は、先人たちから伝わる重要な「防災のメッセージ」なのでもあった。
ちなみに、現在の生田の森には「松の木」が一本もない。
それは、延暦の大洪水のとき、社の周囲に植えられていた松の木が、洪水を防ぐのにまったく役に立たなかったから、それ以後、決して松の木が植えられなくなったからなのだそうだ。
今でも、元旦には門松は立てずに、「杉飾り」を立てているほどの徹底ぶりである。
生田神社の受難は、この大洪水ばかりではない。
その後、何度も何度も天災、そして人災に見舞われる。
第二次世界大戦の最末期(1945)、アメリカ軍による神戸大空襲。市街地は絨毯爆撃の標的となり、都市部の2割以上が壊滅。死者は8,831人、負傷者は15万人という未曾有の大被害を受けた(計128回もの空襲)。
むろん、生田神社もその無差別な爆撃を免れることはできなかった。社殿も鳥居もすべて全焼。残ったのはわずかな石垣だけだった…。
黒焦げの焼け跡となってしまった境内は、焼け出された市民の避難所になり、日々の糧を得るための芋畑となった。仮の本殿はしばらくはバラック作り。再建された本殿が今のかたちに整うまでには、じつに14年もの月日を必要とした。
そして18年前の阪神大震災(1995)、せっかく復興を果たした本殿はまたもや全壊。
それでも生田神社は蘇った。
「今、生田の森をバックに甍(いらか)をそびやかす朱の拝殿こそ、あの日燃えた神戸の『復興のシンボル』であるのは紛れもない」。
何度でも蘇り、何度でも生まれ変わる生田神社。
その主神である稚日女尊(わかるひめのみこと)は、先述したように、つねに若々しく新しい命をもつ女神。万物が育ち、生い立つのを加護する神である。
やはり、この蘇りの神の力であろうか、何度でも生田神社が生まれ変わるのは…。
現代の世においても、なお崇敬を集める生田神社。
盛者必衰の理(ことわり)をものともせずに、この神社は今も変わらず、市民たちから親しまれる祈りの場として受け継がれている。
出典:
大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「航海に祈りをこめて 瀬戸内に臨む神仏 生田神社」