2016年1月11日月曜日

世に逆らうブッダの教え [ニー仏]






話:ニー仏(魚川裕司)




さて、「仏教はヤバいもの」というのは、私が仏教の話をするときにいつも最初に言うことなんです。なぜこれを最初に言うかというと、とくに近代日本で仏教が紹介される時というのは、この仏教の「ヤバい」ところをオブラートに包むというか、隠して話をすることが多いんですね。



まず、ゴータマ・ブッダが悟った後に説法を躊躇した、つまり他人に自分の悟った内容を語ることをためらって、一時は説法しないでそのまま死んでしまおうと思っていたことはご存知ですか?

−−ちょっと聞いたことがあります。梵天勧請(ブッダのところに梵天が現れて、説法してくれるようにお願いしたこと)の話でしたっけ?

それそれ。ではブッダがなぜ「自分の悟ったことは人に喋らないでおこう」と考えたのかというと、それは彼が自分の考えを

「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」

だと理解していたからです。





『スッタニパータ』の中ですが、「マーガンディヤ」という経典があります。これはどういう話かというと、マーガンディヤというバラモンがいたんですが、彼がある時ゴータマ・ブッダを見かけて、その立派な姿に惚れ込みまして、

「この人をぜひ自分の娘の婿にしたい」

と思ったんですね。ゴータマ・ブッダという人は、そんなふうに、パッと見た人が惚れ込んでしまうくらいの超絶イケメンであったと言われています。

さて、それでマーガンディヤの娘も評判の美人でしたから、きっとこれを見せれば喜んで承知するだろうと考えて、マーガンディヤは娘を連れてブッダのところに行った。

「ブッダさん、せっかくそんなに超イケメンで有能なのに、ボロい衣を着てフラフラ托鉢なんかして暮らしていても意味がないですよ。そんなことはやめて、うちのこの超美人な娘と結婚しませんか? 私の家は金持ちですから、それで楽しく暮らしてくださいよ」

と言ったわけです。要するに、ニートしてたら美人の女の子が連れて来られて、「この娘と結婚して、金持ちな我が家の息子になってください」と頼まれた、ということ。

−−魅力的なお誘いですね。

美人局かと思うくらい魅力的ですね(笑)。ところが、その魅力的なお誘いに対するゴータマ・ブッダの反応がこれまたすごかった。彼はそのマーガンディヤの美人の娘に対して、

「この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえも触れたくない」

と言ったんです。

−−えっ?

つまり、美人といっても、それは要するに皮一枚のことで、その皮の下には大便や小便などが詰まっているわけです。だから美人とか何とか言ったところで、こんなものは「ただの糞袋ではないか」と。そんな汚い物には私は足も触れたくないと言ったわけですよ。

−−本当かもしれないけど、厳しいですね。

まあ厳しいというか、きついですよね。この話の凄いところとして、ブッダのその言葉を聞いたマーガンディヤの両親は、「この人は立派な人だ」と納得して、ちょっと悟ったらしいんですよ。

でも娘のほうは恨みに思ったんですって。一般の感覚で言うと当たり前だと思うんですけど(笑)。自分の見た目に自信があって、「私はかわいいのよ」と思っている女の人が、「お前の婿は決まったぞ」と連れて行かれたあげく、その相手に「こんな糞袋には足でも触りたくない」みたいなことを言われたから、ものすごく怒ったらしいんです。


… 


さきほど、ゴータマ・ブッダは自分の教えを「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」だと把握していたという話をしましたよね?

−−はい。されてましたね。

ではゴータマ・ブッダは、なぜ自分の教え(法、ダンマ)を「世の流れに逆らうもの」と考えたか? それは経典の同じ箇所の言葉によれば、世の中の人々が

「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる」

からである。だから、自分が教えを説いても無駄だろう、と考えたわけです。たとえば、かわいい女の子がいたら「かわいいなぁ」と思うし、おいしい食べ物があったら「おいしそうだ、食べたいなぁ」って思いますよね。つまり、人間の生には「欲望の対象」というのが常にある。そして、それを追い求めて、その対象をゲットすることで欲望が満たされたら、「あぁ楽しいなぁ、嬉しいなぁ、幸せだなぁ」と思う。それが普通の人間の生き方だということ。そうじゃないですか?

−−まぁ普通の人は、たいがいそうやって生きてますね。



ところが、ゴータマ・ブッダの教えは、そうのように人間が普通であれば自然に向かっていく方向性というものを否定して、それに

「逆流しなさい」

と教えるわけです。つまり、人間は自然なこととして「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」存在であって、そうすることで社会を成り立たせて生存を続けているわけだけれども、ブッダはそれをやめなさいと教えるということ。だからそれは「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」である。

−−なるほど…。だから、ゴータマ・ブッダは説法を躊躇したわけですね。



ゴータマ・ブッダは、それをやらないと(世の流れに逆らわないと)解脱には達することができないと言う。つまり、普通だったら当たり前のように楽しんでいる欲望の対象への執著を否定して、それがあるからこそ行われている

「労働と生殖をやめろ」

と言う。そのようにして、私たちが普通に自然に選択する生き方に「逆流しなさい」と教えているゴータマ・ブッダの仏教は、実は基本的には、少なくとも現在の日本人の私たちからしたら、「ヤバい」ものになるわけです。








以下、『ブッダのことば―スッタニパータ』より原文引用


マーガンディヤ

※伝説によると、かつてブッダがサーヴァッティーにいたときに、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を盛装させて同道し、ブッダの妻として受納するように乞うたときに、ブッダがこのように語ったという。原始仏教の戒律は厳しいものであった。のち出家した修行僧が婦人と交わるならば、それはバーラージカという大罪を犯したことになり、教団を放逐される。


(師ブッダは語った)

「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ」

(マーガンディヤがいった)

「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た」

マーガンディヤがいった、

「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)

マーガンディヤがいった、

「もしも『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか? 『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘(とげ)のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。

想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく」








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