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仏教学者 中村元 求道のことばと思想
植木 雅俊 (著)
●4万枚の原稿行方不明事件を乗り越えて
『佛教語大辞典』の原稿は、19年かけて1967年に完成した。中村元が、オーストリア学士院遠隔地会員に選ばれた年である。200字詰め原稿用紙、約4万枚に約3万語が収録されていた。
その原稿を木製のリンゴ箱に入れて、出版社に渡した。ところが、その年の12月初め、出版社がリンゴ箱に入れた原稿を紛失してしまった。出版社の社長が重病になり、間もなく亡くなった。そこへ、都の道路拡張のために移転命令が出た。移転騒動の混乱のなかで原稿が行方不明になってしまったのだ。
古紙回収業者から製紙会社までのリサイクル関係者に探してもらったり、新聞やテレビなどのマスコミを通じて、「見つけたら届けてください」と懸賞金つきで呼びかけたが、出てこなかった。引っ越し騒ぎのドサクサの中であったためか、どうもゴミと間違えて出されてしまったようだ。
出版社の人が謝りに来たが、中村は怒らなかった。
「怒ったって出てこないでしょう」
というのだ。しかし、一ヶ月ほどは呆然として何も手につかなかった。中村は、その時のことを振り返って、
「まるで土足で顔を踏みつけられたような感じがしたのは確かである」
と語った。そんな時に、原稿の整理を手伝った洛子夫人が
「あなた、ボーッとしていてもしょうがないでしょう。やり直したらどうですか」
と言った。
「早くやり直したほうがよい」と言った人がもう一人いる。中村敏夫だ。すでに述べたことだが、中村元は、東方学院の講義の最中に、この中村敏夫の名前をしばしば挙げて、”実力主義の人”と評して紹介していた。
中村元の話の断片からは、中村敏夫は一高時代以来の友人で、弁護士として、東方学院の設立の時にも法律面からのバックアップをした。その中村敏夫は『佛教語大辞典』の原稿が紛失した時には、夫人と一緒に大晦日の日に駆けつけてきて、やり直すための費用として多額の私財を提供したということまでは理解していた。
●逆縁が転じて毎日出版文化賞受賞
原稿がなくなってからというもの、中村は一ヶ月ほど呆然としていたが、洛子夫人や中村敏夫の言葉に励まされ、不死鳥のごとく1968年1月に作業を再開した。
中村は、『佛教語大辞典』の「あとがき」で、その作業について次のように8段階に分けて詳細に記している。
第1段階…1968年1月から数十人の人に語彙・解釈の募集を手伝ってもらうとともに、中村が原稿執筆を開始。
第2段階…同年末に出来上がった原稿を五十音順に並べる作業を開始。
第3段階…学園紛争が甚だしくなり、共同作業の場所がなくなって中断状態となり、中村の単独作業が続いた。
第4段階…出版社の分室で土曜・日曜などに泊まり込みで原稿の整理・完成に従事した。
第5段階…完成を急ぐあまり多くの人に加勢してもらったのはいいが、原稿にムラがあり、一貫した視点で独創的な意味を持たせるためにも、「他人の協力をあてにするという横着な態度」をやめて、1969年秋に集団作業を中止。中村が自分独りで原稿を書き続けた。
第6段階…原稿を確定する仕事に取り掛かる。この第5と第6の段階に2年間を要している。
第7段階…作業が出版社の手に移る。中村は、仏教語の採録に努め、増補の原稿を書き続ける。
第8段階…校正の作業
この間には学園紛争が勃発し、作業を行う場所を転々と流浪した。原稿整理や、加筆のために自宅も使った。洛子夫人も原稿整理を手伝った。
こうして1975年2月、作業再開から8年目にして『佛教語大辞典』が刊行された。『佛教語邦訳辞典』に着手してから数えると30余年がかりの労作である。紛失した原稿では3万語であったが、4万5千語に増えていた。
難解と思われてきた仏教用語の説明が平易な言葉でなされていて、分かりやすい。サンスクリット語、パーリ語、チベット語の原語も挙げて、巻末にはサンスクリット語、パーリ語、チベット語索引も備えているので、仏教用語の梵語辞典、巴利(パーリ)語辞典、西蔵(チベット)語辞典としても活用することが可能である。
紛失した原稿は、200字詰め原稿用紙で4万枚であったが、今度は10万枚にも及んでいて、はるかに内容の充実したものになっていた。
中村は「やりなおしたおかげで、前のものよりもずっと良いものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と言った。
中村は、この体験をはじめとする自らの人生を振り返り、順縁と思われたものが悪い結果につながり、逆縁と思われたものが良い結果を招くこともあり、仏教の説く順縁と逆縁は固定的なものではなく、変転するものだと語った。
原稿の行方不明事件をはじめとして、いろんなことがあったが、1975年11月に、中村は『佛教語大辞典』で賞のなかでも老舗中の老舗といわれる毎日出版文化賞の特別賞を受賞した。
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仏教学者 中村元 求道のことばと思想
植木 雅俊 (著)
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