2014年2月12日水曜日

イエスの性欲 千石剛賢


話:末井昭


 (『父とは誰か母とは誰か』を)読んでいて一番驚いたのが、イエスにはなぜ性欲の悩みがなかったのかというところでした。

 おそらくどこの教会に行っても、イエスの性欲のことなど問題にしません。問題になったとしても、主イエスは神であり神に性欲の悩みなどあるはずはない、ということで片づけられるはずです。しかし、それだと聖書は神話になってしまいます。聖書が神話なら、我々の生活とは関係のないただのファンタジーです。

 千石さん(『父とは誰か母とは誰か』の著者)は、もしイエスに性欲があって女性問題があったとしたら、聖書にそのことが書かれているはずで、都合が悪くて隠しているのなら、聖書は嘘ということになると言います。あくまでも真実が書かれているという前提で聖書を見ているのです。しかし、聖書のどこにもそのことは書かれていない。

 ではなぜイエスに性欲の悩みがなかったのか。それはイエスに原罪がなかったからだと。原罪とは、人間誰しも持っている自我のことで、原罪がないと他人という意識がなくなります。千石さんは、この本の中で

「イエスには、要するに、性欲の悩みというのはなかった。健康な男子なのに、なかった。その理由は<原罪>がなかったから。そのことは、女という、また男という、性別は認識しても、セックスの対象、つまり性欲の対象としては認識されなかったということです。この喩えを強いて現実の場に求めるとすれば、たしかに、親は自分の息子と娘は認識します。ところが娘に対して性欲の対象としては認識しません。正常な精神状態であればね。今は、近親相姦とかそんな無茶苦茶なことが言われてるから、これはもう話になりませんけども。もちろん、親のその感覚が、そのまま<原罪>のないイエスということに当てはまるかというと、それは当てはまりません。けれども、喩えとしてなら言えるということです」

と言っています。イエスに原罪がなかったなら「わたしはあなかがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ5-28)」と確かに言えます。それまで、聖書は神話だと思って読む気もしなかったのですが、このイエスの性欲の話が糸口になって、聖書の真意はなんなのか興味がわいてきたのでした。



 僕は人見知りが強くて、読んだ本の著者に会いたいと思ったことなど一度もなかったのですが、『父とは誰か母とは誰か』を読んで、千石さんに無性に会いたくなりました。



 しばらくして、黒い詰め襟の服を着た千石さんがニコニコしながら入ってきて、「これはこれは遠いところから」と僕らをねぎらってくれて、きさくにインタビューに応じてくれました。

 最初に聞いたのは、一番頭に残っていたイエスの性欲のことです。千石さんは原罪の話は僕らには難しいと思ったのか、イエスに性欲がなかったことを、別の角度から話してくれました。

「何かに熱中している場合は性欲は起きない。たとえば野球がクライマックスになっているとき、満塁でこの一球が勝負みたいなときに、キャッチャーがきれいな女の人で股を広げていたとしても、そのときピッチャーに性欲は起きない」と。

 まあ、確かにそうです。精神状態があるところまで高揚したら性欲は起きない、つまり、あのイエスは四六時中おそろしい精神の高揚状態にあった、と千石さんは言うのです。その話を聞いて、十字架に掛かっているあの弱々しいイエスのイメージが崩れたのでした。



 「愛」という言葉は世の中に氾濫していますが、愛とはなんなのかということは、実は僕もよくわかっていませんでした。「俺がこれだけおまえを愛しているんだから、おまえも俺のことを愛してくれよ」というのは、愛の商取り引きのようなものです。見返りを求めない、無償の愛というものが本当の愛だと思うのですが。

 聖書には、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない(ヨハネ15-13)」と書かれています。これを千石さんに解説してもらうと、「友」というのは、単に友達ということではなく、相手の中に自分自身が見え始めている他者のことだ、と言います。

 自分と他人を(区別ではなく)差別していると、愛というものは生まれない。自分が自分のままで相手を愛そうとしても、すべて偽善になってしまう。だから、他者の中に表れた希薄な自分をもっとはっきりさせるために、生まれつきの自分を二義にしていく、つまり自分を捨てて、他者のことを真剣に考える。そうすることによって、生まれつきの自分は死んで、罪からも解放される、と言うのです。





出典:『自殺』末井昭


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