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2018年4月28日土曜日

ノコギリで手足を切り落とされても…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ


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このようなたとえ話があります。

もし盗賊たちがやってきて、ノコギリで私たちの腕や手足の一本一本を切り落としたときに、たとえ一筋でも怒りや憎悪の念を感じたなら、仏さまの教えに従っていないのだ…、というものです。





痛みを感じたら、その痛みによって引き起こされる嫌な気持ちや、恐れの感情に気づいて、はっきりと認識し、嫌な感情が消えていくまでを、しっかりと経験します。

痛みに対する反応が消えて無くなったときに初めて、痛みを痛みそのものとして、あるがままに観察することが可能になります。

瞑想が十分に安定して、痛みに動じなくなったその時に、痛みの内に入って、痛みと呼ぶものが一体なにから成り立っているのかを観ることが可能になります。

そして、不快なもの、嫌なものという痛みに対する認識が覆されるのを目の当たりにして、驚かされることでしょう。「痛み」や「不快さ」の代わりに、「緊張」「熱」という、よりシンプルな身体的感覚が体験されはじめるからです。さまざまな身体的感覚が働きあって、「痛み」という感覚・感触をつくりだしているのです。

そして、このように痛みが経験されるとき、そこには苦しみがないことに気づいてください。この認識はとても重要ですから、忘れないでください。このように観察され体験された「痛み」は、もはや「dukkha(苦しみ)」ではありません。

痛みから生じる「苦」というのは、実際には「痛みとの関わり方」「自分と痛みとの関係性」のことなのです。

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From:
Samga Japan Vol.29

「イラッ!」としたらば…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ


…

あなたはイライラする瞬間に気づきますか?

たとえば、このような場面をみてみましょう。

あなたはリトリートに参加して瞑想しています。静けさのなか、心がゆっくりと落ち着いていくのを感じています。その時、ドタバタと遅れた人が部屋に入ってきました。

「なんと不注意な!」

あなたは深く息を吸って、気を取り直し、ゆっくりと集中を高めていきます。すると今度は、すぐ背後で誰かが大きく咳をしました。これにはやはり、イラッとします。

さらには、数々の無明のベールを通り抜け、いよいよ真理の深みに到達せんとする、その時、力強いクシャミが鳴り放たれます。…もう、たくさんです。

「ここにいる瞑想者には、マナーというものがないのか!」

このような小さな苛立ちが起こったら、ただちに他の誰も自分を怒らせることはできないことを思い出さなければいけません。そして、邪魔をした人に心から感謝をしましょう。なぜなら、その人はそうと知らずに、私たちがどこでつまずいているかを教えてくれたからです。

…

ヴィパッサナー瞑想を正しく行じるならば、私たちをイラッとさせるものなど、何ひとつないでしょう。「イラッ」とする感覚それ自体も、観照され経験される瞑想の対象になるからです。

もし、瞑想の邪魔をされたと感じてイラッとしたときは、修行に対して狭い視野になっていないか、確認しましょう。「修行はこうあるべきだ」「瞑想者ならこうするべきだ」といった理想に陥っている自分の心の状態に気づいてください。

これらの「~すべき」「~ねばならない」などの言葉は、自分のつくりあげる「理想」から生まれます。そして、この理想に縛られた狭い視点をよりどころに、私たちは関わる人や事柄を思い通りにしようと試みます。それは瞑想意外の時間、日常の生活のいたる場所で当然おこることです。

…

私たちの注意を引きつけながら、森羅万象は生じては消えてゆきます。

今日一日、明晰な気づきの内にとどまって、すべての「すべき」と「ねばならない」を捨ててしまいましょう。

…

「すべての現象は過ぎ去っていく」ということを、もう一度思い出してください。

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From:
Samga Japan Vol.29

「嫌!」という心の反応が消えはじめると…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ


…

自分以外には誰も、心理的な苦痛を自分に与えることはできないことを、まずは正直に認めなければなりません。

私たちの「dukkha(苦)」――苛立ち、不満、苦しみ――の答えは、心の中にあるからです。

この事実は、他人のせいにすることで得てきた安堵感を奪いますが、代わりに自分の心に責任を持ち、困難なことであっても、状況を解決するための力が与えられるでしょう。

…

私たちは、これらの感情・感覚を、機嫌を損ねた子供のように扱う必要があります。

自然界の台風と同じように、感情や感覚のエネルギーを現れるままにまかせると、エネルギーを使い果たしたあとで、自ずと消滅するものです。

…

仏さまは「feeling in feelings(感覚を感覚の中で)」経験するという言葉で、感覚に開いていくことを説いています。

…

何よりも大切なのは、自分自身が苦しみを作り出す、そのカラクリにしっかりと気づき、その気づきと認識を、苦しみを終わらせるための、さらなる動機づけとしていくことです。

これは、私たちにできることです。

…

瞑想中の姿勢から生じる、身体の痛みというものがあります。

膝の痛みは、過ぎ去るのを待つことができないほど、ひどい痛みになりがちです。ずいぶん昔のことになりますが、禅の修行をはじめたばかりの頃、痛みを我慢して座りつづけたことが原因で、私の膝は脱臼するクセがついてしまいました。

このようなときは無理をせず、椅子に座り、痛みがひくのを待つことも、とても大切なことです。

その一方で、脈打つ膝の痛みは、気づきや智慧にとっては、非常によき友であると言えます。何より、痛みは忍耐と寛容を教えてくれます。加えて、強い痛みは感覚への集中を助けてくれます。

そして、観察と経験を通して「痛み」が、私でも、私のものでもない「無我」であることを教えてくれます。私たちの好き嫌いにかかわらず、また私たちの意向に関わりなく、痛みはそれ自体の不満(苦)を表現するのですから。

…

「痛み」と、その反応としての「苦」を識別します。

この身体の痛みからくる「苦」は、仏さまが「dukkha-dukkha(苦苦)」と呼ぶ、苦痛を苦とする状態のことです。

この「痛み」と「苦」を識別することは、とても大切なことです。そして、悟りに至ったときに消滅するのは、この2つのうちの「苦」のほうだと言われています。

身体がある限り、身体の痛みは自然なこととして起こりつづけることでしょう。しかし、「嫌!」という心の反応が消えはじめると、「痛み」との新しい関係がはじまります。

痛みがあっても、完全に落ち着いた穏やかさのなかに留まりつづけることが可能になります。心の平安と静けさが、痛みが私たちを苦しめているのではなかったことに、気づかせてくれるでしょう。

痛みではなく、心の反応の仕方が「苦」をもたらしていたのです。

…

実際のところ、「痛み」というものは存在しません。

存在しているのは、さまざまな身体的感覚だけです。この気づきとともに、「痛い」という感覚さえもが消滅していきます。

この段階において、「無常」の真理がはっきりと認識されはじめます。あらゆる感覚が、一瞬一瞬に生じ、そして消え去っていきます。すべてが束の間に過ぎていく一連のエネルギーでしかありません。

その時には、身体の痛みは瞑想者にとって祝福となるでしょう。

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From:
Samga Japan Vol.29

坐禅をうまくやるコツ



「ところで、坐禅をうまくやるコツって、あったりします?」


僧「いえ、ないですね」


僧「仏の道はみな同じようで、それぞれに異なる。ですから、自分の法は、各々にしかわからないのです」

…




From:
善の研究 (まんがで読破 MD129) 
文庫 – 2014/1/30
西田幾多郎  (著)

2017年4月7日金曜日

ゲシュタルト崩壊


ゲシュタルト崩壊とは?




「ゲシュタルト(Gestalt)」はドイツ語で「まとまった全体としての形」と言う意味。「ゲシュタルト崩壊(Gestaltzerfall)」とは、いままで普通に見えていたものに違和感を感じるようになること。「自我の崩壊」とも心理学では言われる。

たとえば、同じ文字をずっと見つづけていると「あれ、これってこんな字だったっけ?」と、文字が文字に見えなくなったりする。







2017年4月2日日曜日

「踏むがいい」[遠藤周作]





踏むがいい。

お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。

だがその足の痛さだけで充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。


遠藤周作『沈黙』より




2017年2月7日火曜日

『沈黙』[Martin Scorsese]







The less you know about the other person's culture, the more you fear.
他者の文化を知らなければ知らないほど、あなたは彼らに恐れを抱くだろう。

The more you fear, the more there's violence.
そして、恐れれば恐れるほど、暴力につながっていく。

And here, it's total clash.
ここ(この映画)では、完全に衝突してしまっている。

And one has to give to the other.
どちらかが相手に譲らなければならないのに。


映画監督 Martin Scorsese
マーティン・スコセッシ






「映画の原作は、遠藤周作による歴史小説。江戸時代、キリスト教弾圧下の日本を訪れた宣教師の苦悩をとおして、信仰とは何かを問いかけています」





2016年9月22日木曜日

人間の面目をつぶした「科学の革命」[フロイト]



話:V.S.ラマチャンドラン


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あまり知られていないが、フロイトの考えで興味深いのは、偉大な科学の革命には一つ共通する特徴があるのを見抜いたという主張である。ちょっと意外なことだが、それらはみな、宇宙の中心人物としての「人間」の面目をつぶし、あるいはその地位から追い落とすという。

フロイトによれば、第一はコペルニクスの革命で、それまでの地球中心の宇宙観を、地球は宇宙の小さな塵(ちり)にすぎないという考えに置き換えた。

二番めのダーウィン革命は、私たち人間を、たまたま進化した特性のおかげで少なくとも一時的には成功をおさめている、ひ弱で毛のない幼形成熟の類人猿とみなす。

第三の偉大な科学の革命は、彼自身の無意識の発見と、それに付随する見解、すなわち自分が自分の「管理者である」という認識は幻想にすぎないという見解である、とフロイトは(おだやかに)主張した。フロイトによれば、私たちが行うことはすべて、大鍋いっぱいに煮えたぎる無意識の情動や基本的欲求や衝動に支配されていて、私たちが意識と呼んでいるものは氷山の一角にすぎず、ただそれらの行為を事後に念入りに合理化したものでしかないという。



フロイトは偉大な科学の革命の共通点を正しく特定したと私は思う。

しかし彼は、なぜそうなのかということを説明しなかった。なぜ人間は喜んで「面目をつぶされ」たり、地位から引きずりおろされたりするのだろうか? 人類を小さくみせる新しい世界観を受け入れる見返りとして何を得ているのだろうか?

ここで物事を逆向きにすると、なぜ宇宙論や進化論や脳科学が専門家だけでなくすべての人にとってこんなに魅力的なのかという理由をフロイト流に解釈することができる。



人間は他の動物とはちがって自分が死ぬ運命にあることをはっきりと自覚し、死をおそれている。しかし宇宙の研究は、時間を超越した感覚や、自分はより大きなものの一部であるという気持ちを与えてくれる。

自分が進化する宇宙という永遠に展開するドラマの一部であると知れば、みずからの命に限りがあるという事実のおそろしさが軽減される。科学者が宗教的体験をするようになる場合があるのは、おそらくこのあたりのことが関係しているのだろう。

同じことが進化の研究にも言える。時間と空間の意識がもたらされ、自分自身を遠大な旅の一部と見ることができるからだ。脳科学も同じだ。



この革命で私たちは、心や体とは別に魂があるという考えを放棄した。それはおそろしいことではなく、解放をもたらすものだ。

もし人間をこの世界の特別な存在とみなし、無比の高みから宇宙を検分していると考えるなら、消滅は受け入れがたい。しかし単なる観察者ではなく、本当にシヴァ神の偉大な宇宙ダンスの一部であるとしたら、避けられない死も悲劇ではなく、宇宙との喜ばしい再結合とみなせるはずだ。


ブラフマンは全である。

姿も感覚も欲求も行為もブラフマンから生じる。しかしこれらは名称と形態にすぎない。ブラフマンを理解するには、ブラフマンと自己との同一性を、すなわち心の中心に存在するブラフマンを体験しなくてはならない。

人間はそうすることで初めて、悲しみや死から逃れ、すべての知識を超越する、精緻な真髄をそなえた存在になれる。

ウパニシャッド 前500年


…





引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




2016年6月17日金曜日

日本仏教、10大宗派の現実



週刊『エコノミスト』より



日本の伝統仏教には、いわゆる「10大宗派」がある。いずれも200ヶ寺をこえる寺院を有し、全国寺院の約80%を占める。

年間予算は10億円前後から100億円超と教団によって差がある。これに50年ごとの大遠忌(だいおんき)や伽藍の修復・新築、あるいは記念行事がかさなると予算はさらに膨らむ。

これらの予算の歳入は、寺院や僧侶(教師)から収められる宗費や賦課金。宗費は寺院の格式や規模、申告檀信徒数などを基にして計算される。そのため寺院の減少は教団の財政や将来的な存続にも影響をあたえる。


天台宗
信者数153万人・寺院数3,339・予算11億710万円

高野山真言宗
信者数383万人・寺院数3,642・予算55億4,785万円

真言宗智山派
信者数29万人・寺院数2,907・予算19億5,856万円

真言宗豊山派
信者数137万人・寺院数2,652・予算9億779万人

浄土宗
信者数602万人・寺院数7,056・予算42億5,000万円

浄土真宗本願寺派
信者数793万人・寺院数1万352・予算56億3,000万円

真宗大谷派
信者数322万人・寺院数8,727・予算117億2,500万円

臨済宗妙心寺派
信者数35万人・寺院数3,366・予算9億9,520万円

曹洞宗
信者数361万人・寺院数1万4,566・予算48億4,000万円

日蓮宗
信者数391万人・寺院数5,198・予算22億9,963万円

出所『平成26年版 宗教年鑑』


近年、共通課題として提起されているのが「過疎地寺院」と「後継者不在」である。両者は同じ土俵にあり、収入の少ない過疎地寺院は後継者が育ちにくい。

臨済宗妙心寺派では「寺院数の約3分の1の寺院が、専任住職が不在」と明らかにした(栗原正雄宗務総長)。この傾向は他の教団もおなじで、浄土真宗本願寺派は5年前、過去30年間で110ヶ寺が廃寺になったと発表した。一人の住職が複数のお寺の住職を務める兼務ではなく、「廃寺」は重い響きをもつ。

天台宗は2015年10月の議会で、正住職がいるのは2,281ヶ寺で、残りの約1,000ヶ寺強(31%)が兼務と無住寺院だと報告した。



すこし前の各教団調査だが、ほぼ3分の1の寺院に「後継者がいない」と回答している。

日蓮宗調査(2004年)では35.5%、曹洞宗調査(2005年)では35.4%、本願寺派調査(2009年)では36.3%である。過疎化と収入減のため「寺を継いでほしい」と子供に言い出せない住職がいることも現実である。



地方寺院ばかりではなく、都市部の寺院にも新たな問題が起きている。

顕著なのは「僧侶抜きの葬儀」が増加していることである。火葬場で済ます「直葬」はよく知られている。また家族葬や一日葬として近親者のみでおこない、一周忌、三回忌の法事をしない遺族も珍しくない。

葬儀・法事といったかつての葬祭儀礼が縮小・簡略化されてきたのである。



首都圏のある住職は、

「檀家が『納骨してほしい』と、いきなりお骨をもってきた。そのかたの祖母の骨箱でしたが、亡くなったとの連絡はなかったし、葬儀もしていない。それで説明してから、戒名をつけ、小さな葬儀をして納骨した。これからも増えるかもしれない」

と顔を曇らせた。檀家数はそれほど多くなく、住職自身、檀信徒に目が行き届いていたと自負していた。

「自分のところは大丈夫だと思っていただけに…」

と肩を落とした。



世代交代がすすむと、次の世代の檀信徒は「寺院への帰属意識」は極めて薄い。

だいたいお寺に参るのは年配者が多い。寺院側は、寺参りに来る人たちに教化はできても、その下の世代への教化は十分とはいえない。これもまた課題である。



地方は檀信徒減にともなう「住職の不在化」、都市部は「葬儀・法事ばなれ」。それが21世紀初頭の寺院の姿である。

「葬式仏教がなつかしい」

と自虐的に話す僧侶や

「『ボウズ丸儲け』の経験がない」

と若手僧侶もいるぐらいだ。



これに対して、教団はどのような対策をとっているのか?

臨済宗妙心寺派は「宗門活性化推進局」を新設し、宗教法人の統廃合をすすめる一方で、志のある「定年退職者」をつのり、修行をへて僧侶とする取り組みをはじめた。定年退職者であるため、金銭的な持ち出しは少なくて済む。何人かが地方寺院の住職として活動している。この施策は、各教団から注目をあびている。

浄土真宗本願寺派と真宗大谷派は、「首都圏開教」に力をそそぐ。もともと関東には真宗寺院が少なく、人口集中地に布教所を開設して、離郷門徒(郷里をはなれた信者)らを再結集しようという取り組みである。教団が資金面でもバックアップ。これに刺激をうけたのか、日蓮宗も「都市開教」に目をむけている。



近年めだっているのは「女性僧侶」の誕生と進出である。

従来は、お寺に男子がいない場合、娘婿が住職の弟子となり、修行や研修をうけて住職資格を取得するケースがほとんどだった。ところが娘だけの場合でも剃髪して僧侶となる事例が増えた。娘だけではない。住職急逝により妻が僧侶となって寺を維持するケースも少なくない。

そうした延長線上といっていいと思うが、男性僧侶社会だった教団の宗会に、女性議員が加わるようになった。大谷派にはこれまで数人いたが、昨秋、浄土宗にも一人の女性議員が誕生した。



最後に、青年僧侶のがんばりに言及したい。

東日本大震災から5年をむかえた。震災直後から全日本仏教青年会をはじめとする「宗派をこえた青年僧侶」たちは被災地に走り、物心両面からボランティアをはじめた。時間の経過とともに被災地をはなれる団体が多いが、青年僧侶組織はいまも地道に活動をつづけている。

仏教会への目が厳しいなかで、「女性僧侶の進出」と「青年僧侶の躍動」は、寺院および日本仏教の将来に期待を感じさせる。



…



ヨーロッパにおける教会の衰退をかたる言葉として「10分の1の法則」がある。

日曜日ごとの礼拝参加者も、一般信者数も、聖職者も、教会数も、収入も、教会にかかわるすべての数字が、現在は「最盛期の10分の1規模」、そう思ったらいい、と。



いま、日本でも多くの伝統寺院が苦境にたたされている。

簡単に拾える統計数字からだけでも、厳しい現実をみてとることができる。朝日新聞(2015年10月11日付)は、主要10宗派に取材し、次のような数字を挙げている。

全国7万5,900寺院のうち、住職の兼務寺院が1万496寺、無住寺院は1,569寺で、あわせて1万2,056寺。全体の16%にあたり、ほぼ「6寺に1寺は住職が住んでいない」。過去10年間に解散、吸収合併などで消滅した法人は434寺。



寺院の年間収入については、各宗派の宗勢調査がある。

浄土真宗本願寺派の調査によると、同派寺院の最多収入層は「100〜300万円」が25%で、「300〜600万円」の19%、「100万円未満」の18%とつづく。

10年ごとの曹洞宗の調査(2005年)でも、最多層は「100万円以下」の29%、次いで「100〜300万円」の22%、「300〜500万円」の15%、「500〜800万円」の13%の順だ。

「ボウズ丸儲け」などと言えるものでなく、傍目にも「これで本堂や境内の維持ができるのか?」と心配になるような収入額だ。「10分の1の法則」は欧州のキリスト教会だけにあてはまるものではなく、日本の仏教寺院にも十分妥当する普遍的な法則かもしれない。



近代化にともなう一般的な「宗教ばなれ(人間は神仏の助けを借りずとも、科学と経済を発展させることによって人間自身の手で幸福をつかみとることができる、という確信)」は、日欧双方で認められる現象だが、日本には欧州におけるイスラム人口の急激な流入によるキリスト教の相対的な地位低下のような現象はなかった。

インパクトの点でそれに相当するものがあったとすれば、戦後一貫してつづいた地方から都会へ、東京圏へという「極端な一極集中の動き」だったかもしれない。



寺院向けの雑誌『月刊住職』の発行者で、高野山真言宗の住職でもある矢澤澄道氏は

「よく『お寺は敷居が高い』と言われるが、高いのではなく、(東京圏には)お寺があまりに少ないのだ」

と言う。






つまり一極集中によって日本では、住民人口に比し寺院数の多い地域と、逆に極端に少ない地域とができてしまった。

前者では寺院の維持自体が困難になり、後者では普段、寺院や僧侶に接することはおろか、多くから法衣姿を見かけることさえ稀になってしまう。葬儀や仏事、あるいは仏教の教えを聞きたくても、簡単に聞くことのできる相手がいないのだ。

まして現在は、非正規労働者が全労働者の37%を占める時代である。親が亡くなってもなかなか会社に忌引休暇を申請しにくい風潮もあると聞く。葬儀をおこなわなかったり、直接遺体を火葬場におくって済ます「直葬」などは自由選択の結果というよりむしろ、そうせざるを得ない、という面があるようだ。

ただ、いったん東京圏で無葬儀、直葬がおこなわれだすと、今度はそれが葬送におけるニューファッションであるかのようにマスコミによって報じられ、逆に全国に波及、定着してしまう。



寺院の苦境を伝える報道は多い。しかし、その扱いはもっぱら経済的な面からの分析が目立つ。

「寺院数はコンビニ店舗数以上で多すぎる」

「破れ寺を復興させた住職のビジネスモデルは?」」

「小学校でさえ統合するのだから、寺も」

といった具合である。



しかし、もともと仏教とは社会の主流の原理に、やや離れたところから反省をせまるものではなかったか?

経済主義の時代なら、「経済以外にも、もっと大切なものはありませんか?」と問いかけるものである。経済以外の価値をしめすことによって、社会の足早な歩みを引き止め、経済主義の生活に疲れ果てた人たちに救いを用意する。

なのに宗教団体自身が経済主義にどっぷりと浸かり、企業と同じように金儲けにいそしんでどうするのか。



世間の人はかならず宗教者の「求道の姿」を見ている。

いたずらに寺の塀を城壁のようにするのではなく、「経済にとらわれない別の生き方があること」を、あらゆる機会に都会の人々に見てもらう。僧侶は法衣のまま、街中に出たらいい。仏事だけでは社会との接触が足りないというなら、僧職以外の仕事にも積極的に就き、世の中と関わればいい。

昨今、坊主バー経営、テレビタレント、カウンセラーなど多方面への進出がつたえられるが、おおいに結構なこと。ようは社会を知り、社会に知ってもらうことで、すべてはそこからはじまる。



最後に興味深い数字をあげてみたい。

日本のカトリックの修道女数は5,303人(2013年)で、ほかの聖職者同様、きびしい減少傾向にあると聞くが、それでも信者総数44万人の半分が女性だとして、女性信者の2.4%に相当する。

これだけの女性を出家に誘う力は何か?

一つにはカトリック系学校教育の成果。一つには修道女が礼拝だけでなく、福祉・医療・出版・教育などさまざまな仕事をつうじて社会に関わっていること。さらには日々着用する聖衣がそのまま、自分たちの活動の世間へのPRになっていること、などが指摘されよう。

伝統仏教にも参考になるかもしれない。



…







from 週刊エコノミスト 2016年03月29日号 [雑誌]




2016年1月11日月曜日

「有為の奥山」とは? [ニー仏]



話:ニー仏(魚川祐司)





…

私の訳した本で、ウ・ジョーティカ師という方が書かれた『自由への旅』というウィパッサナー瞑想の解説書があります。そこで最初に言われていることが、

「瞑想はバーゲンではない」

ということなんですね。


−−バーゲン? 冬物とかの?(笑)


ではなくて(笑)bargain という英単語の基本的な意味は「取引」などですから、ここで言われているのは「瞑想は取引ではない」ということですね。


−−瞑想でお金を使った買い物をするわけではないし、それは当たり前のような気もしますが…。


そうですね。ただ、お金のやりとりはしないにせよ、私たちはしばしば瞑想実践に取引の文脈を持ち込みがちなんです。たとえば、「私は○○時間も瞑想したのだから、当然これだけの成果が得られなくてはならない」とか、「これだけのことをしたのだから、そろそろ悟れなくてはおかしい」とか。そんなふうに、「悟り」や「精神集中」や「リラックス」などの成果を”買う”ために、自分の時間や労力を”投資”するというイメージで瞑想を捉えてしまうわけ。


−−ああ、それはありますね。


まあ、ウ・ジョーティカ師によれば、アメリカには

「1,000ドル払えば、悟りにかかるのは3日だけ」

とか、そういう本当の「瞑想バーゲン」もあるみたいですが(笑)






さて、ではそのように瞑想を「取引」として行うことがなぜいけないのか? それを考えるために、ちょっと仏教用語を導入します。

有為(sankhata)と無為(asankhata)

という言葉です。これ、聞いたことありますか?


−−聞いたことはありますけど、意味ははっきりとはわからないですね。


「休日を無為に過ごす」とか、そういう日常用語としても使いますからね。ただ、これは元々は仏教用語なんです。有為というのは「為すが有る」と書きますよね。つまり、形成されている、つくられている、造作されている、そうした物事や状態のことです。そして、形成されているということは、もちろん何かしらの条件があってそうなっているわけですから、それは conditioned すなわち「条件付けられている」という意味にもなる。

無為というのは、その逆ですね。形成されていない、つくられていない、造作されていない、だから unconditioned、条件付けられていない。そのことを無為と称しているわけです。

−−なるほど。

それで、私たちが居るのは有為の世界なんですね。条件によって形成された、つまり縁起によって成り立っている現象の世界に私たちは生きている。仏教の原則的な目標は、その有為の条件付けられた状態から、無為の条件づけられていない状態、すなわち涅槃へと至ることです。


−−そうなんですか!


はい。たとえば「いろは歌」というのがありますね。これは空海がつくったと伝えられていて、だから仏教的世界観が語られている。


いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす


色は匂へど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず


というやつですね。ここで

「有為の奥山、今日越えて」

と言われているのは、そういうわけです。条件付けられていて、ゆえに無常である有為の現象を乗り越えて、無為の涅槃に至りましょうというのが、少なくともゴータマ・ブッダの仏教の場合は、基本的な教説の方向性ですからね。


−−「いろは歌」にはそんな意味が(笑)


じつはあったんです(笑)


−−じゃあ、その有為の現象を乗り越えて無為の涅槃に至るというのは…


「世界」の外に出てしまうことを意味しますよね。だから、仏教では有為の現象の世界のことを「世間(loka)」、そして涅槃のことを、それを超出した境域として「出世間(lokuttara)」と呼称しているわけです。


…







世に逆らうブッダの教え [ニー仏]






話:ニー仏(魚川裕司)


…

さて、「仏教はヤバいもの」というのは、私が仏教の話をするときにいつも最初に言うことなんです。なぜこれを最初に言うかというと、とくに近代日本で仏教が紹介される時というのは、この仏教の「ヤバい」ところをオブラートに包むというか、隠して話をすることが多いんですね。

…

まず、ゴータマ・ブッダが悟った後に説法を躊躇した、つまり他人に自分の悟った内容を語ることをためらって、一時は説法しないでそのまま死んでしまおうと思っていたことはご存知ですか?

−−ちょっと聞いたことがあります。梵天勧請(ブッダのところに梵天が現れて、説法してくれるようにお願いしたこと)の話でしたっけ?

それそれ。ではブッダがなぜ「自分の悟ったことは人に喋らないでおこう」と考えたのかというと、それは彼が自分の考えを

「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」

だと理解していたからです。


…


『スッタニパータ』の中ですが、「マーガンディヤ」という経典があります。これはどういう話かというと、マーガンディヤというバラモンがいたんですが、彼がある時ゴータマ・ブッダを見かけて、その立派な姿に惚れ込みまして、

「この人をぜひ自分の娘の婿にしたい」

と思ったんですね。ゴータマ・ブッダという人は、そんなふうに、パッと見た人が惚れ込んでしまうくらいの超絶イケメンであったと言われています。

さて、それでマーガンディヤの娘も評判の美人でしたから、きっとこれを見せれば喜んで承知するだろうと考えて、マーガンディヤは娘を連れてブッダのところに行った。

「ブッダさん、せっかくそんなに超イケメンで有能なのに、ボロい衣を着てフラフラ托鉢なんかして暮らしていても意味がないですよ。そんなことはやめて、うちのこの超美人な娘と結婚しませんか? 私の家は金持ちですから、それで楽しく暮らしてくださいよ」

と言ったわけです。要するに、ニートしてたら美人の女の子が連れて来られて、「この娘と結婚して、金持ちな我が家の息子になってください」と頼まれた、ということ。

−−魅力的なお誘いですね。

美人局かと思うくらい魅力的ですね(笑)。ところが、その魅力的なお誘いに対するゴータマ・ブッダの反応がこれまたすごかった。彼はそのマーガンディヤの美人の娘に対して、

「この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえも触れたくない」

と言ったんです。

−−えっ?

つまり、美人といっても、それは要するに皮一枚のことで、その皮の下には大便や小便などが詰まっているわけです。だから美人とか何とか言ったところで、こんなものは「ただの糞袋ではないか」と。そんな汚い物には私は足も触れたくないと言ったわけですよ。

−−本当かもしれないけど、厳しいですね。

まあ厳しいというか、きついですよね。この話の凄いところとして、ブッダのその言葉を聞いたマーガンディヤの両親は、「この人は立派な人だ」と納得して、ちょっと悟ったらしいんですよ。

でも娘のほうは恨みに思ったんですって。一般の感覚で言うと当たり前だと思うんですけど(笑)。自分の見た目に自信があって、「私はかわいいのよ」と思っている女の人が、「お前の婿は決まったぞ」と連れて行かれたあげく、その相手に「こんな糞袋には足でも触りたくない」みたいなことを言われたから、ものすごく怒ったらしいんです。


… 


さきほど、ゴータマ・ブッダは自分の教えを「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」だと把握していたという話をしましたよね?

−−はい。されてましたね。

ではゴータマ・ブッダは、なぜ自分の教え(法、ダンマ)を「世の流れに逆らうもの」と考えたか? それは経典の同じ箇所の言葉によれば、世の中の人々が

「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる」

からである。だから、自分が教えを説いても無駄だろう、と考えたわけです。たとえば、かわいい女の子がいたら「かわいいなぁ」と思うし、おいしい食べ物があったら「おいしそうだ、食べたいなぁ」って思いますよね。つまり、人間の生には「欲望の対象」というのが常にある。そして、それを追い求めて、その対象をゲットすることで欲望が満たされたら、「あぁ楽しいなぁ、嬉しいなぁ、幸せだなぁ」と思う。それが普通の人間の生き方だということ。そうじゃないですか?

−−まぁ普通の人は、たいがいそうやって生きてますね。

…

ところが、ゴータマ・ブッダの教えは、そうのように人間が普通であれば自然に向かっていく方向性というものを否定して、それに

「逆流しなさい」

と教えるわけです。つまり、人間は自然なこととして「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」存在であって、そうすることで社会を成り立たせて生存を続けているわけだけれども、ブッダはそれをやめなさいと教えるということ。だからそれは「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」である。

−−なるほど…。だから、ゴータマ・ブッダは説法を躊躇したわけですね。

…

ゴータマ・ブッダは、それをやらないと(世の流れに逆らわないと)解脱には達することができないと言う。つまり、普通だったら当たり前のように楽しんでいる欲望の対象への執著を否定して、それがあるからこそ行われている

「労働と生殖をやめろ」

と言う。そのようにして、私たちが普通に自然に選択する生き方に「逆流しなさい」と教えているゴータマ・ブッダの仏教は、実は基本的には、少なくとも現在の日本人の私たちからしたら、「ヤバい」ものになるわけです。

…






以下、『ブッダのことば―スッタニパータ』より原文引用


マーガンディヤ

※伝説によると、かつてブッダがサーヴァッティーにいたときに、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を盛装させて同道し、ブッダの妻として受納するように乞うたときに、ブッダがこのように語ったという。原始仏教の戒律は厳しいものであった。のち出家した修行僧が婦人と交わるならば、それはバーラージカという大罪を犯したことになり、教団を放逐される。


(師ブッダは語った)

「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ」

(マーガンディヤがいった)

「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た」

マーガンディヤがいった、

「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

マーガンディヤがいった、

「もしも『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか? 『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘(とげ)のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。

想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく」