2018年5月13日日曜日

物来って、我を照らす【西田幾多郎】

不思議な男がいた。

何日も飽くことなく海を眺めていた。



「何をしているのですか」

訝しむ人に、彼はこたえた。

「世界のことを考えている。海というものは不思議なものだ」


天地(あめつち)の分れし時ゆ

よどみなく ゆれる海原

見れど飽かぬも

寸心

『鎌倉雑詠』



その男は、絶えまなく変転する現象のなかに、ある秩序をさがしていた。

われわれとは、いかなる存在なのか? 

われわれが、そこにおいて生まれ、働き、死んでゆく世界はどのような世界であるのか?

哲学者、西田幾多郎が「悪戦苦闘のドキュメント」とよぶ膨大な著作。戦後、日本がまだ貧しく、日々の糧にも飢えていた時代、その難解な思想をもとめて、多くの若者たちが徹夜で並んだ。西田は、押し寄せる西洋文明に立ち向かいながら、日本人として初めて、東洋という地盤にたった独創的な哲学を樹立した。



西田が好んだ言葉――

物(もの)来(きた)って

我(われ)を照らす


[02:24]

神奈川県 鎌倉市 稲村ヶ崎

晩年の西田幾多郎が愛した風景、愛した海。

西田が過ごした家は、その号にちなんで「寸心荘」とよばれている。「寸心」とは、西田が厳しい臨済禅の修行でえた名前である。



西田は京都大学教授として、いわゆる西田哲学をうちたて、1928年に退官。その後のおよそ17年を、この長閑(のどか)な土地ですごした。それは日本がしだいに戦争の泥沼にのめりこんでいった日々でもあった。西田はここで、思想の弾圧とも闘いながら、とりつかれたように思索をつづけた。

思索などする奴は、緑の野で枯草をくらう動物のごとし

自嘲的に書いたこともある。だが、苦悩しながらも問いつづけた。

世界とは何か?

実在とは何か?

哲学とは何か?

西田は書いている。

「それは、一部誤解されているような特別な空想的なものではない」

こう書いたこともある。

「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」



[04:18]

獨協大学 外国語学部 教授
松丸壽雄

「まず、この西田が歩んできました、実際の彼自身の生活といいますものは、たとえば、もう当初から悲哀にみちていたわけです。この、いま生きている日常の世界をはなれた学というのは、本来ないんだ、と。とくに哲学というのは、この日常の世界をはなれて、われわれが生きているいつもの世界ですね、これを離れて、その上に、たとえば知識だとか何かだとか、存在とは何かだとか、そういうことをやっても、これは机上の論理になってしまう」

西田の人生は思索しつづけることであった。歩きながら人生の意味を探求し、さらにその思索を反芻するように歩いた。ツルハシで鉱石をくだくような思索の苦闘のはてに、はじめて何かが見えてくる。

物来って 我を照らす

西田幾多郎、その人生と哲学の軌跡をたどってみる。



[05:35]


石川県 河北郡 宇ノ気(うのけ)町

西田幾多郎は、江戸が明治にかわった三年後に、この海沿いの小さな土地で生まれた。西田は書いている。

「わたしは北国の一寒村に生まれた。雨と雪ばかりの嫌なところですが…(『或教授の退職の辞』より)」

そこは、懐かしさと悲しい記憶の交錯する、西田が終生愛しつづけた土地だった。

我死なば

故郷(ふるさと)の山に埋(うずも)れて

昔語りし友を夢みむ



宇ノ気町立 西田記念館 館長
西村弘

「十村(とむら)家ですので、幼少のころはですね、家庭的にも非常にめぐまれまして、お父さんは地域の学者といいますか。お父さん、お爺ちゃん、それから母方のお爺ちゃんもですね、非常に学問をですね、たしなんでいらっしゃった方で、そういう面で多分に影響をうけたと思いますね」

※十村(とむら)…大庄屋にあたる家格

[06:56]

西田は、裕福な十村(とむら)家の長男として、教育熱心な父親、信仰心の厚い母親のもとで、幸福な少年時代をすごした。

「七、八歳のころですね、夕食時にいないものですから、家族のみなさんで探していたらですね、蔵のなかでですね、なにを書いてあるかわからないですけども、この漢籍のまえで本を読んでいた。そういうような話は聞いております」



13歳で金沢に出、姉ナオとともに生活しながら、石川県師範学校にまなぶ。世は和魂洋才がスローガンの文明開化期。若者たちは舶来の知識に貪欲だった。

西田は、数学や物理の美しい秩序にみせられていった。終生敬愛した、師範学校の恩師、北条時敬(ときゆき、1858~1929)。西田は禅の世界も知った。13歳で書いた漢文。成績は優秀で、学問のおもしろさにのめりこんだ。



[08:52]

だが、思いがけない出来事が西田を打ちのめした。姉ナオがチフスで死んだ。17歳の若さだった。西田の言葉、

「幼き心に、もし予が姉に代わりて死しうるものならば、と心から思おた(『国文学史講話』序文より)」

生とは何か?

死とは何か?

深い悲しみのなかで、西田は西洋哲学と出会う。



18歳で第四高等学校中学に入学。山本良吉、鈴木大拙、藤岡作太郎など、のちに日本を代表する学者となった生涯の友をえる。西田の言葉、

「四校の学生時代というのは、わたしの生涯において最も愉快な時期であった」

山本は駿馬、西田は鈍牛、と友人たちは評した。西田は負けず嫌いで、鈍牛のように粘り強かった。むこうっきの強さが災いした。規則づくめの教師に反抗して、操行点不足で落第。中退の憂き目に遭う。



[10:00]

21歳で、東京帝国大学哲学科に選科生として入学。中退組としての屈辱をあじわう。

「当時の選科生というのは、みじめなものであった。わたしはなんだか人生の落語者となったように感じた(『或教授の退職の辞』より)」



同じころ、裕福だった西田家が没落。両親の不和が西田を苦しめていた。その死のまぎわまで40年以上にわたって綴られた西田の日記。明治30年の日記の裏に、ラテン語で書かれた言葉があった。

Non Multa sed Multum
広くなくとも深く

それは挫折と劣等感のなかで出会った、西田の人生の指針だった。



[11:20]

石川近代文学館
旧第四高等学校

24歳で帰郷。中学校の分校教諭をへて、26歳から四高でドイツ語、倫理などを教えはじめた。25歳のときに、いとこ寿美(ことみ)を娶り、哲学論文、グリーン氏倫理哲学の大意を発表。西田は広くなくとも深い、自分の道をみいだしはじめた。



翌年3月には、長女ヤヨイが誕生した。学問と家庭生活の両輪がうまくまわりはじめ、授業のかたわら、西田は研究に没頭した。だが、両親と妻をまきこんだ一族のもめごとがおき、次第に大きな嵐となって家庭をゆるがしはじめた。長男の西田は父親と妻の板ばさみで苦しみつづけたが、ついに破綻のときがやってきた。

人目をおそれるようにドイツ語で書かれた日記。

「5月14日、父、寿美を去らしむ」

妻は子をつれて家をでた。


[12:49]

西田は妻や子に対する絶ちがたい愛惜と、家族をうしなった苦しみに煩悶し、西洋の書物に救いをもとめた。西洋思想には、東洋にない論理性がある、と西田は考えていた。そして、聖書のなかに、ある啓示をみいだす。西洋でも人々は同じように存在の根源を問いつづけてきた。人はいずこより来たりて、いずこへと向かうのか? 

西田は禅の修行にも打ち込んだ。



名声や栄華をねがい、現実の生活に鬱々とする自分を叱咤し、心身の欲求と取っ組み合う、すさまじい行がつづいた。聖書と禅、西洋と東洋が西田のなかでぶつかり合い、出口をもとめていた。西田は己をむなしくし、ただひたすら祈りつづけた。

物となって見、物となって聞く



過酷な禅の修行のはてに、西田は闇のなかにさす一筋の光をみた。それは絶対的自己否定の先にある見えざる力。



形なきものの形を見

声なきものの声を聞く

ことであった。のちに無、あるいは絶対無の自覚とよばれるものとの出会いである。



[14:50]

松丸壽雄「見える世界をこえて、見えない世界っていいましょうか、それを超えでた世界が、同時に私たちを包みこむ仕方であるから、この世界が成り立っている。その点が、やっぱり、禅と、そして聖書と出会った意味なんでしょうね」

西田29歳の年、父が死に、妻・寿美と復縁なる。家族の再生だった。西田の言葉、

「金沢にいた10年間は、わたしの心身ともに盛んな、人生の最も良きときであった」

当時、学生たちがつけた西田のあだ名は、Der Denken(デル・デンケン)。考える人。デル・シュレッケン、叱る人。身なりに頓着せず、求道者のように学問に打ち込む西田への、畏怖と敬愛がうかがえる。



ドイツ語と日本語で書かれた西田のメモ、西田の名を一挙に高めた善の研究の基礎は、この時期に築かれていった。西田は情愛がふかく、骨身を惜しまず学生たちの面倒をみる教師でもあった。

ひとつの確信が生まれた。32歳の日記

学問は畢竟 life の為なり



そのころ、西田は自分の目指すべき道をつかみかけていた。その思いを仏教学者としてアメリカで禅の研究をしていた親友、鈴木大拙にあてて書いている。

「西洋の倫理学というものは、まったく知識的研究にして、パンや水の成分を分析し説明したるものあれど、パンや水の味を説くものなし」

西田は、パンや水の味、つまり心に注目していた。西洋の論理性を評価しつつ、東洋の心の上にたった哲学を目指したのである。それはデカルト流の、我思う故に我ありという主客二元論では説明しきれないものを、根源にさかのぼって説き明かすという宣言だった。



[17:34]

金沢での10年の思索が実をむすぶのは京都だった。西田が学習院大学の教授をへて、京都大学の倫理学助教授に着任したのは1910年、40歳のときであった。



西田は実在と人生について書いてみようとおもい、書いてみた。そこから生まれたのが『善の研究』である。



『善の研究』で、西田は西洋の哲学を咀嚼し、これまで論理化が不可能とされていた東洋の心にせまった。キーワードとなるのが純粋経験。西田は、色を見、音を聞く刹那の、主も客もない経験を唯一の実在とし、それを原理として善とは何か、宗教とは何かなどを明らかにした。



難関な内容にもかかわらず、『善の研究』は学生たちの心をとらえた。ある学生の歌

われ二十歳
『善の研究』を読みてより
病のごとく先生を恋う

岡山厳



西田は、急速な西洋化のなかで、自己を見失って悩む若者たちに、ひとつの答えをだしたのだ。彼らの目の前には前人未到の思想の荒野を求道者のように歩む西田の姿が、まぶしくうつっていた。いわゆる京都学派の基礎がきずかれていく。

そのころ住んでいた家。学生たちは、西田が外廊下を行きつ戻りつしながら思索する姿を、畏敬をもって見ていたという。



西田を家をたずね、執筆する後ろで、何時間も先生の声がかかるのを待つものがいた。あ、とか、う、とか、短い言葉の切れ端のこともあったし、機関銃のように、新しい着想や論理をまくしたてられることもあったという。

[20:09]

西田は子煩悩な父親でもあった。期待をかけた長男・謙(けん)はスポーツを愛する快活な青年にそだった。



金沢で5歳の娘・幽子(ゆうこ)を失ったが、のこった6人は無事成長していた。



豊かとはいえない学者の家庭をささえてきたのは、母と妻だった。

御主人様
御掲載の論文をば
日本一の哲学者との評出(いで)てたり
日頃御勤勉の功果顕(あら)はれしものならん
此後(こののち)も尚幸あらかしと祈る

『続祖父西田幾多郎』より
上田久著

安定した幸福な時代がつづいていた。西田が京都時代に思索しながら歩いた道は、のちに哲学の道とよばれるようになる。



その歩みのように、弛まず休まず、西田は新しい思索の荒野をめざしていた。

人は人

吾はわれ也

とにかくに吾行く道を

吾は行くなり



西田48歳のとき、最愛の母、トサが死去。西田は悲しみのなかで、40代における集大成、『自覚に於ける直観と反省』を書き上げた。



そのなかで西田は、純粋経験を発展させ、自覚と意識の根本的問題にとりかかった。真の実在は自覚にあらわれる、と西田は考えた。

[22:10]

不幸な出来事がつづいた。

母を失った翌年、妻・寿美が脳溢血でたおれ、以後5年以上も寝たきりの状態になる。さらに2年後、一家の期待をになっていた長男・謙が腹膜炎で逝去。享年23。

西田は哲学全集を大学に寄贈した。若すぎる謙の死をいたみ、思い出をとどめるために写真を貼り付けたものである。

すこやかに二十三まで 

すごし来て

夢の如くに 

消え失せし彼



のこった子供たちも次々と、結核やチフスで入院。家は荒れ果てた。悲惨な日々のなかで、妻・寿美が亡くなった。享年49。妻を見送った、その日の日記。

三十年 

生を共にし彼女は 

骨壺のなかの白骨となって

かえりくる



我心

深き底あり

喜びも

憂の波も

とヾかじと思ふ



[24:00]

西田は、次男・外彦に言った。

「なにもかも忘れて、学問に逃避するのだ」

家族の不幸は西田の内面を、大きく転換させていった。


妻の死から一年後、西田は『場所』と題した論文を書き上げた。弟子にあてた手紙で、ながい暗闇から蘇生し、光をみいだしたことを書いている。

「わたしの最終の立場に達したような心もちがいたします」

7月3日の日記、ドイツ語で

Wiedergeburt aus bösem Traum gewacht
復活 悪夢より覚めて

の文字。赤鉛筆の太陽が、目をひく。



こんな書き込みもある。

いかなる腐木にも

新しい生命の芽を

ふくことができる



ながい苦悩のすえに、西田哲学とよばれる、独自の世界が見えはじめた。

物来って

我を照らす

その年、『働くものから見るものへ(1927年10月岩波書店)』を出版。場所の論理を世に問うた。西田、57歳。



[25:37]

目指したのは、西洋哲学の立場。主も、あるいは主体本位の思考に対して、個を包む場所、つまり述語からものを見る思考への転換だった。この困難な道は、純粋経験を出発点とし、自覚の立場をへて、場所の論理でようやく実現することになる。

西田は、自覚や場所の説明のさいに、よく鏡を引き合いにだした。

自己を映す鏡



自覚とは何か? 

西田はまず、自覚が働く場を「於いてある場所(包む場所)」と、とらえた。それは個(=自我)を包む場所でもある。




松丸壽雄「自分の正面に置かれた鏡以外に、後ろに鏡が置かれた場合には、この鏡自体がもっている反射するという働きのために、映った姿が、もう一度うしろに映る。それがさらにまた、前の鏡に映っていく。そして、無限に映っていくわけです。



鏡の反射する働きによって、あたらしい自分というのを見つけだしていく、それができていると思うんですね。これが自覚のなかにはあるというわけです」

場所とはなにか? 

それは自覚の働いているところ、個を包む場所であると、西田は考えた。複雑な場所の論理の一端を紹介しよう。場所の論理とは、個と、それを包む場所との構造を明らかにするものである。



たとえば、一人の人間とそれを包む場所、あるいは環境を想定してみる。それは一体化していながら、個が個性を主張するという矛盾をはらむことで、鏡の無限映像のように、働きあって変化する。また、他の人の場所と出会うことで、交流や反発、さまざまな働きかけを受け、さらに新しい状態をつくりだす。そして、家庭、社会、世界、宇宙と、幾層にも発展し広がっている。



[28:08]

松丸壽雄「それだけではない、と。それを超えたものに包まれて、はじめて、この世界というものが成り立ってきているんだ、この場所というものが成り立ってきているんだ、ということを常に感じとって、それを論理化しようとしたのが、場所の論理だと思うんです。



おそらく、その超えでたものが、宗教的にいいますれば、神さまみたいな、そして、受け取られる、イメージ化して受け取られることもあるでしょう。しかし、東洋の伝統のなかでは、その超えでたものを、あえて神といわずに、たとえば無だとか、絶対無だとか、そういうふうに表現してきたものでもあると思います」



1929年8月、西田は京都大学を58歳で定年退職。謝恩の記念論文集をおくりたいという教え子たちの申し出を固辞し、西田は短いあいさつをした。

「回顧すれば、わたしの生涯はきわめて簡単なものであった。その前半は、黒板を前にして座した。その後半は、黒板を後ろにして立った。黒板を前にして一回転したといえば、それで私の伝記はつきるのである(『或教授の退職の辞』より)」

悲しみも喜びも、学問に収斂していった日々だった。



[29:52]

退職後、鎌倉での学問三昧の生活がはじまった。西田は、鎌倉の海にふるさとを偲んでいた。海辺の散策が日課となった。

妻を亡くして5年、娘たちの病気や家庭内での雑事にわずらう日々がつづき、西田は深い孤独感をうったえていた。つらい日々がつづられてきた日記に、ある変化がおきた。

1931年9月7日

けふ津田氏別荘にて
はじめて山田氏に逢ふ



山田氏とは山田琴。クリスチャンで津田塾大学の前身、上智英学塾で教鞭をとる才媛であった。琴はこのとき47歳。のちに西田の第一印象をかたっている。

岩波さんが玄関まで来られ

その後ろに突っ立っている

着物をだらしなく着た

お爺さんがいると思ったら

それが西田だったのよ



61歳と48歳の、新婚生活がはじまった。西田は青年のようにときめく心をうたい、琴がこたえる。琴は、愚直なまでに素朴に学問にうちこむ西田を敬愛し、ささえた。

秋の日に

生れ出し子は

菊の子と

幾久彦どのと

名はつけにけり



みずから名付け親になった、孫・幾久彦(きくひこ)も西田を癒やす存在であった。



西田幾久彦「わたしの知っている祖父っていうのは、午前中は書斎にはいって、午後から散歩したり、みんなと一緒にいたりしてましたけど。だから、わたしはその書斎にひょこひょこ入っていって、なにしてるのって感じで。叱られなかった。



わたしが東京いましたときも、美味しいものがはいったから食べにこいとか、それは一つのエサでね、わたしを呼んでたんじゃないかなと思うんですけど。小学校の5年、6年でもう、漢文の素読と、祖母が英語ができましたので、夜は食事のあと英語をすこし見てもらい。その2つが、夜の勉強だったような気がしますね」



[32:29]

春や来し

春来たるらし

鶯の来鳴くあしたは

心ときめく



あたらしい季節がはじまった。西田は心ときめく喜びのなかで、旺盛に学問をつづけた。しかし、時代は急速に暗転していく。

1935年、天皇機関説事件で、美濃部達吉が議員辞職。言葉尻をとらえて学問を抑圧する、不穏な時代がはじまった。西田は書いた。

「美濃部問題なども新聞によれば、陸軍が口をだしかかるようなり。どうなることやらと思われます。万事この調子では、国家前途のため憂慮のいたみにたえません(1935年3月29日『原田熊雄宛の手紙』より)」

京都学派は、危険思想をとなえる不埒な輩として、右翼の標的となりつつあり、西田はその巨魁とみなされていた。京都大学時代の愛弟子、三木清(1897~1945)が治安維持法で検挙される。思想に対する激しい弾圧がつづき、西田は心を痛めていた。そのまわりにも、憲兵たちがうろついていた。



[34:00]

1937年、学習院大学時代の教え子、近衛文麿が組閣。西田は側近に手紙をかき、遠境の道にはしらぬよう諌めた。



そのころ西田は『日本文化の問題』について積極的に論じはじめる。日本文化という場所を軸に、世界文化を創造する意義を説こうとしたのである。



西田70歳、第二回文化勲章を授与され、名実ともに日本最高の頭脳といわれる。子供や孫たち17人が集まって、その受賞を祝った。



同じ年、武蔵高校の校長をしていた親友、山本良吉(1871~1942)と『創造』と題した対談をおこない、その肉声の記録をのこした。だが、西田の話の過激さのため、戦後まで公表されなかった。対談は西田の独壇場だった。

声:西田幾多郎「今日の個人主義とか、全体主義とかいえば…、全体主義はまったく、創造を否定する。つまり動物的になっていく。全体主義が個人を否定していく、全体主義が。全体ということは全ての人間の個性。人間の創造心を否定していく…」

西田の考えは、当時の危険思想とみなされた。



[36:11]

翌年の1月、天皇へのご進講。テーマは歴史哲学について。草稿には、場所の論理にもとづき、東洋と西洋を対比する、西田の世界観がうかがえる。



この年、四女・友子、病死。

1941年12月、太平洋戦争勃発。

2年後の3月5日、ひとりの男がたずねてきた。

1943年3月5日

国策研究会の矢次一夫(やつぎ・かずお)来訪



その男は、陸軍の意をうけ、西田に国策を支持する原稿の依頼をした。

「学者をなんと心得ているのか」

西田は激怒し、軍部の戦争指導をののしり、はねつけた。その後、西田がなにを考えたのか、そのまわりで何がおきたのか、日記からその心境をおしはかることはできない。

2ヶ月以上たった5月25日の日記に、たった一行

草稿書きはじむ

の文字。結局、国策研究会からの論文依頼にこたえる形で、『世界新秩序の原理』を提出した。戦後30年以上たって公にされたオリジナルの論文。西田の理想主義的な考えがうかがえる。それは場所の論理にもとづくもので、それぞれの国の個性と文化を重んじながら、国際協調していく意義、国家が世界史的意義を自覚する意義をうったえるものだった。



[38:28]

だが、東条と陸軍は、結果的に西田の考えを歪めてしまうことになった。結局、日本がアジアを率い、戦争を遂行する大義名分とされたのである。そのため西田は、戦後の一時期、陸軍に屈服し戦争を美化し、戦争に協力した学者という激しい非難をうけることになる。



西田はなにを目指したのか、どのようにして歪められたいったのか。その真相にせまった、ひとりの研究者がいる。

京都工芸繊維大学 工学部 教授
大橋良介

「もともとの意図からすると、西田自身が結果として失望したわけですが、東条英機に文章を献呈するという、そうしてこの戦争に関しての、ひとつの提言といいますか、そういう意図がこめられていた」

大橋教授は2000年に発見した、いわゆる大島メモをもとに、西田の真意を推測した。それは京都学派と海軍の主戦派の秘密会合の記録で、彼らが日本の敗戦と、その後の復興までを視野にいれていたことがわかる。西田はこの会合の、思想的柱だったと大橋教授はみている。危険な立場であった。陸軍に反対すれば、閣僚でも命があぶない時代、西田の論文はそういった制約のなかで書かれた。

さらにもう一つ、西田の真意を歪めた事実があった。陸軍は西田の原文の数カ所を書き換えたり、削除してつかった。削除されたのは主に侵略主義や帝国主義を批判した部分だった。

大橋良介「書き換えられたバージョンというのは2つあるんですよ。で、いずれも書き換えた本人が、一方では西田の言っていることをまとめようとして、他方でこれを軍部で受け入れられるようにと、さらにそれをミスリードとよぶか、その人自身の行為と、あるいは工夫とよぶべきか、それはわかりませんけれども。当時のコンテキストのなかで、西田の考えを軍部の政策に盛り込んで、世界史の動きの展望のもとに、今後の政局あるいは戦争の流れを方向づけていきたいという、その意向は西田に文章を依頼した側にはっきりあったと思いますね」

戦局は悪化の一途をたどり、西田の置かれた場所も、歴史のうねりのなかに呑み込まれていった。

西田幾久彦「ですから、われわれの年代の連中っていうのは、国を護るためっていうのは、みんな心に決めてましたからね。そういうときにやはり、むかしの撃墜王たちがやってきて、われわれをふってね、駆り立てる。それ聞いてるとやはりね、血が燃えるような感じがしてね。そういう話をすると、すごく怒られましたね。戦争は行くもんじゃないって、わたしにはそう言ったし。ようするに、戦争は反対だったんですから、そして私の父も二度招集してますし、なおさら、そういう思いが、こいつだけは出さないぞ、と思ったんじゃないかという気がするんですけどね」



心身の苦難は、西田を蝕んでいった。

ペンも持てないようなリウマチの痛みがつづいた。不自由な手で綴った文字から、書くことに対する凄まじい気迫がつたわる。

1942年2月21日

全指 弓なりといえども

これ位の字は書ける様なり

言はんと欲すこと

山の如くなるも

指 動かざるを

いかんせん



思索し、書くことこそが悲哀にたえながら生きつづけていく意味だった。

学徒出陣、戦場に駆り出された学生たちの多くが、『善の研究』をたずさえ、そのなかに自分自身の生と死の意味を見いだそうとしていた。

大橋良介「そりゃ辛いものがあったようですね。一方で戦争に行っていらっしゃい、と送り出す立場にある。で、これ無意味な戦争だから、行ってもムダだよなんて言葉は、とても言えないと思いますね」



1945年2月

最も頼りにしていた長女・弥生が急逝。

「弥生は昨日、死んでしまった」



[44:23]

8人の子をもち、すでに5人に先立たれていた。

「友子の死に、はじめて子を失いし悲哀を味わい、弥生の死に、子に先立たれし老人の悲哀を知りました」



やせ衰えた体にムチ打ち、悲しみを癒やすように思索し、書きつづけた。これまで、いつもそうであったように。



長女・弥生の死から4ヶ月後の6月7日、西田は倒れた。

医師も間に合わない、突然の死だった。



机の上には、書きかけの原稿が遺されていた。絶筆『私の論理について』。そのなかで西田は、自分の論理が理解されることがない、その苛だちと悲しみをつづっている。



日本が敗戦をむかえたのは、それからわずか2ヶ月後のことである。

戦後、知識に飢えた若者たちは、西田哲学をあらそって求めた。

[46:00]

その死から半世紀以上がたった。

いくつかの時代の荒波をこえて、いまふたたび西田の世界に強い関心があつまっている。



大橋良介「さまざまに批判されつくしたなかで、なお残る。その西田哲学の部分、ある部分はよく考えてみたら、現象学とか科学論とかふくめましてね、そうして20世紀の後半リードしてきた欧米の学者たちの考えていること、言っていること、じつは極めて荒っぽい仕方ではあるけれども、西田が先取りして、場合によってはもっと深くとらえていたという、そういう発見があいついだと思いますね」

松丸壽雄「いろんなところで戦争がおこったり、紛争がおこったりしていますね。そして同時に、そういった不安定な時代のなかで、現代の若者っていうのは、指針を失ってしまっているわけです。この世界がどこに進んでいくのか、とか、この世界の意味はどこにあるのか、とか、それを示すことができる人が、できなければならないと思います。そういうことを考えたときに、西田哲学の場所的論理、これを基にすれば、場合によっては、人間のなすべきことは何かということを、指針ですが、指針をえられる可能性はあると思うんです」



その哲学は、人生の悲哀から生まれた。

物来って、我を照らす

西田は弛まず、飽くことなく問いつづけた。

東洋と西洋

わたしとは何か

生まれ、働き、死んでいく意味

そして、場所

われわれは何処から来て、何処へむかおうとしているのか。



(了)


From:
Nishida Kitaro【YouTube】





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