2017年7月24日月曜日

家長の方便[法華経]






大乗仏典〈4〉法華経より





たとえば、シャーリプトラよ、村か町か、城市か田舎か、田舎のある地方か王国か王都か、どこでもよいが、ここに一人の家長がいるとしよう。彼は老い衰え、長者として年を経て老齢に達してはいるが、富裕であり、財力があり、暮らしも豊かである。彼の大邸宅はまた、高く、広く、年月がたって傾いてはいたが、二百、三百、四百、あるいは五百という(多数の)生命あるものが住んでいる。その邸宅には、門はただ一つあるだけだとしよう。

草におおわれ、露台は崩れ落ち、柱の根もとも腐り、外壁も障壁も塗料も剥落しているこの邸宅が、突然、大きな火の塊りにまるまると包まれ、あちらこちらあらゆる方面で燃え上がったとしよう。この人にはまた、五人とか十人とか二十人とかという多くの子供があったとしよう。そして、この人だけが、その家から外に逃れ出たとしよう。

そのとき、シャーリプトラよ、その人は自分の邸宅が大きな火の塊りにすっかり包まれて燃えているのを見て、おそれおののいて、心が動転したとしよう。また、次のように考えたとしよう。

「私は、この大きな火の塊りに触れもせず、焼かれもしないで、速やかに安穏に、この焼けている家から門を通って逃れ出て、走り去ることができる。しかし、これらの私の息子たちは、まだ幼い子供であって、この燃えている屋敷のなかで、それぞれの玩具で遊び戯れ、喜々として楽しみにふけっている。そして、この家が燃えているとは知らず、それに気がつかず、わかりもせず、考えもせず、心が動転することもない。この大きな火の塊りに焼かれながら、また大きな苦の集まりに迫られながらも、心に苦を感じない。また、外に出ようという考えも起こさない」と。



また、シャーリプトラよ、その人(家長)には力があり、腕の強い人であって、彼はこのように考えるでもあろう。

「私には力があるし、腕の力も強い。それで、私はこれらの子供たちをすべてひとまとめにして、脇にかかえてこの家から逃げ出させたらどうであろうか」と。

しかし、彼はまた次のようにも考えるであろう。

「この屋敷は入口は一つで、扉は閉じている。また、子供たちは片時も落ち着かず、子供らしく走りまわっているが、(どこかへ)迷いこんでしまうようなことがあってはならない。彼らは、この大きな火の塊りによって不運な災禍におちいるかもしれない。だから、私は、彼らに気をつけるように言おう」と。

こう考えて、その子供たちに呼びかけた。

「お前たち、こちらへきなさい。子供たちよ、(すぐに)逃げなさい。この家は大きな火の塊りで燃えている。(お前たち)みながここで、この大きな火の塊りで焼かれたり、思いがけない災難に会ったりしてはいけないから」

ところで、しかし、それら子供たちは、このように(自分たちの)幸せを願って、この人が呼びかけたことを理解できず、心が動転するのでもなく、おそれおののいたり、恐怖におちいったりもせず、何も気にとめないで、走り出ようともしない。また、その焼けているということは、いったいどういうことか、知らないし、わかりもしない。そして、ただ、いろいろなところを走りまわり、くりかえし走り去っては、その父親のほうを眺めているだけである。なぜかというと、これが(無知な)子供のありさまというものだからである。



そこで、実に、その人(家長)はこう考えるであろう。

「この屋敷は火事になり、大きな火の塊りで燃えさかっている。私も、これらの子供たちも、ここでこの大きな火の塊りによって不運な災禍におちいってはならない。それゆえ、私は方便をうまく使って、これらの子供たちをこの家から外へ出させよう」と。

この人はまた、それら子供たちが(かねがね)何を欲しているかを知っており、その性格の傾向も見分けているであろう。そして、それら子供たち(が欲しがっているもの)には多種類の多くの玩具 -- それらは種々異なって、楽しいもので、みなが望んでおり、美しく、愛らしく、気に入るものであり、しかもなかなか得がたいもの -- があったであろう。そこで、その人は子供たちの願望を知っているので、その子供たちにこう言った。

「子供たちよ、お前たちが玩具にして遊べば、きっと楽しくて、いままで見たこともないようなすてきなもの、いろいろな色が塗られ、種類もいろいろあり、それがもらえなければきっとお前たちはあとで後悔するようなもの -- たとえば牛の車、羊の車、鹿の車(の玩具)など、お前たちが(ほしいと思って)望んでいたもの、美しく、愛らしくて、きっと気に入るもの -- それらをすべて、お前たちが遊ぶようにと、屋敷の外の門のところに私は置いておいた。さあ、お前たち、こちらへきなさい。この屋敷から外へ走って出てきなさい。そうすれば、お前たちのだれが何を求め、何をほしがろうとも、それをみなに私はあげよう。早くそれをもらうために、こちらへ走って出てきなさい」と。

すると、彼ら子供たちは、玩具で遊び、楽しむために、(かねがね)ほしいと思っていたとおりの、また心に描いていたとおりの(玩具)、望んでいた美しく、愛らしく、また気に入っている(玩具)の名前を聞いて、その燃えている家から、すばやく(とび出してきた)。大いに努力し、力を奮うという敏捷さをもって、互いに他のものにはかまわず、「だれが一番か、だれがそれよりも早いか」と言って、身体を互いにぶつけ合いながら、その燃えている家からすばやく走り出てきた。



その人は、そのとき、これらの子供たちが安穏にうまく出てきたのを見て、また(彼らに)もはや心配はいらないことを知って、町の四辻の露地に坐り、喜びとうれしさを生じ、憂悩はなくなり、障害も去って、安堵にひたることになるであろう。そのとき、かの子供たちは父のいるところへ近づき、そこへ行ってからこう言うでもあろう。

「お父上、あのいろいろな楽しい玩具、たとえば牛の車、羊の車、鹿の車などを、どうか私たちにください」と。

そこでシャーリプトラよ、かの人は、それら自分の子供たちに、風のように速い牛の車を与えるであろう。それは七宝からなり、手すりがあり、鈴のついた網が垂れていて、高く、大きく、すばらしく珍奇な宝石で飾られ、宝玉の花環が美しく輝き、華鬘(けまん)で飾られ、綿布や毛布が座に敷かれ、金巾(かなきん)や絹でおおわれ、両側には赤い枕(クッション)が置かれている。それは白く純白で、足のすこぶる速い牛がつながれており、大ぜいの人がついていて、(王者の印の)幡が立っている。彼は(このような)風の力と速さのある、同じ外見で同じ種類の牛の車を、子供の一人一人に与えるであろう。なぜならば、シャーリプトラよ、この人はこのように裕福で、大きな財産があり、また多くの蔵や倉庫をもっていて、(また)次のように考えるであろうからである。

「私は、これらの子供たちに他の(劣った)車を与えるようなことはやめよう。それはなぜかといえば、これらの子供たちは、すべて私の息子であり、すべて私にとっては愛すべきもの、意にかなったものである。しかも、私にはそのような大きな乗り物はいくらでもある。そして、これらの子供たちを、私はみな平等に考えるべきで、不平等であってはならない。また、私には多くの(宝)蔵や(宝)庫があって、すべての人々にでも、このような大きな乗り物を与えることができる。しからば自分の子供たちに(与えるの)はなおさらのことである」と。

そして、彼ら子供たちは、そのときこれらの大きな乗り物に乗って、すばらしいこと、驚嘆すべきことと感ずるであろう。シャーリプトラよ、お前はこのことをどう思うか。それらの子供たちに、以前には三つの乗り物を示し、あとになってそのすべてに大きな乗り物だけを与え、りっぱな乗り物だけを与えたということは、この人は虚言を語ったことにはならないだろうか。



シャーリプトラは申し上げた。

「世尊よ。そのようなことはありません。善逝よ、そのようなことはありません。その人は巧みな方便をもって、その子供たちを燃えている家から引き出して、生命を与えたのであすから。そういう理由から、世尊よ、とにかくその人は虚言者ではないでありましょう。なぜかというと、世尊よ、たとえその人がその子供たちに車を一つとして与えなかったとしても、それでもとにかく、世尊よ、彼は虚言者ではないのです。なぜならば、世尊よ、その人はあらかじめ『巧みな方便をもって、私はこれらの子供たちをこの大きな苦の集まりから逃れさせよう』と、このように考えたからであって、このことからしても、世尊よ、この人には虚言(の罪)はないのです。まして、息子をいとおしと思えばこそ、うまくなだめすかして、かの人は(自分には)多くの蔵や倉庫があることを考えて、同じ外見の同一の乗り物、すなわち大きな乗り物を与えたのですから、なおのこと、世尊よ、かの人には虚言(の罪)はありません」

こう言われたとき、世尊は、長老シャーリプトラに次のように語られた。



よろしい、よろしい、シャーリプトラよ。これはそのとおりである。お前の言うとおりである。シャーリプトラよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は、あらゆるおそれを除き、あらゆる困惑、惑乱、困難、苦悩、憂悩から、また暗黒の無明の闇の膜に包まれておおわれていることから、あらゆる店で完全に離脱している。如来は、(種々の)知、(十種の)力、(四種の)おそれなき自信、(十八種の)仏陀に特有な性質を具備し、神通力によって非常な力を有し、世間の父であり、偉大なる巧みな方便と最高の知との究極に到達せるものであり、大慈悲者であり、心に倦むことなく人々の幸福を願い、あわれみ深くもある。

彼(如来)は、あたかも大きな苦と憂悩(という火)の塊りによって燃え、軒も屋根も朽ちはてた家のようなこの三界のなかに、生をうけるのである。それは、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱のなかにおいて、暗黒の無明の膜に包まれおおわれている衆生たちを、愛欲と憎しみと愚かさから解脱させるためであり、最高の正しい菩提に導き入れるためにほかならない。彼は(この三界のなかに)出現して、次のようにごらんになる。

「人々は、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱によって焼かれ、煮られ、熱せられ、さいなまれている。彼らはまた、享楽のゆえに、また欲楽が原因となることによって、種々の多くの苦を経験する。すなわち、現世において(世俗的なものを)探し求め、利財を積むことにより、来世においては地獄や畜生道やヤマの世界において種々の多くの苦を味わうであろう。(たとえ、)神々や人間(のなかに生まれて)も、貧窮であったり、好しからぬものに会ったり(怨憎会苦)、いとしきものと別れたり(愛別離苦)するという苦を経験するのである。しかも、そのような苦の塊りのなかに(輪廻して)ありながら、遊び戯れ、喜々として楽しみにふけっている。恐ろしいともこわいとも思わず、恐怖におちいらず、気もつかず、考えもせず、動転もせず、(したがって)逃れ出ることを求めようともしない。そして、その燃えている家(火宅)のような三界において楽しみを求め、あちらに向かい、こちらに向かって走りまわり、かの大きな苦の塊りに打ちのめされながらも、それを苦と感じもせず、思いもしないのである」と。

そこで、シャーリプトラよ、如来は次のようなことをごらんになる。

「まことに私はこれら衆生の父であるが、実に、私はこれら衆生たちが喜々として遊んだり、楽しんだり、遊戯したりすることができるように、仏陀の知という量り知れない不思議な楽しさを、彼ら衆生たちに与えねばならない」と。







引用:大乗仏典〈4〉法華経より



0 件のコメント:

コメントを投稿