2015年9月4日金曜日

山岡鉄舟伝(修身二十則)『鉄舟随筆』


鉄舟随筆

勝海舟 評論
安部正人 編

東京 光融館蔵版



緒論

精鉄百錬初めて光彩陸離たる利刀を得べし、風霜千年を経ざれば鬱茂たる棟梁の材をなし難し。人生れながらにして聖なるものは、未だ之あらず。切磋琢磨日々新たにして然る後、才識卓発徳望隆起するを得るなり。

米の国父華聖頓(ワシントン)の如き、我維新創業の名臣南洲、海舟、鉄舟先生の如き、固より其天資の衆を抜くものある可しと雖も、其修身励行に由り始て偉業をなすを得しなり。何者の痴漢ぞ古賢豪を見て、徒に其天授にして及ぶ可からざるを称し、毫も自家の修養を務めず、万金換え難きの身を以て、禽獣草木と共に化し終らんとす。嗚呼其志立たず、其行修まらず。其業の成らざる知るべきのみ。

全生院殿鉄舟高歩山岡先生、深く力を修心錬胆に用ふ。彼の卓抜見識の絶代の偉業は、皆之に由て得来りし者なり。人大海の量なくして、何ぞ百川の朝宗を得ん。良何の術なくして、何ぞ紛乱の世に処するを得ん。先生の卓識偉業を見ば、其如何に力を修養に用ひたるかを知るべし。乞ふ世の志士其れ之を下文に鑑みよ。



山岡鉄舟居士伝


居士、名は高歩、字は曠野、通称鉄太郎、鉄舟と号す。本姓は小野氏、世々幕臣と為る。父朝右衛門、仕へて飛騨の代官と為る。母は塚原氏。天保七年六月江戸に生る。既に長じて、出て幕臣山岡氏の後を継ぐ。仕へて大監察に至る。居士、年十三の時、一日慨然として以為く、

士の君に事ふる常に死を視ること帰するが如し。確乎として其心を動さざる者は、然る後ち始めて能く忠を尽すべしとなす。而して心を動かさざるを要せば、則ち先づ心を練らざるべからざるなり。因て生父に問ふに、練心の術を以てす。

父曰く、吾家の先祖、高寛君、剣法を小野治郎右衛門、小太刀半七の二人に学ぶ。又、禅道の蘊奥を究め、以て東照公に仕へ、屡々戦功を著はす。其旗毎に「吹毛不曾動」の五大字を題する者を用ゆ。今汝心を練らんと欲せば、禅学を修むるに如くはなし。

居士、是に於て始めて芝村長徳寺の願翁に参じて十年を歴、願翁未だ肯て許可せず。然れども居士少しも自ら挫けず、志操愈々堅し。又、豆州龍澤寺の星定に参す。寺は州の三島駅の西、一里許に在り。居士暇日毎に必ず払暁江戸を発して、騎して函嶺を過ぐ。夜四更始めて龍澤寺に至る。至れば則ち先づ星定に参し、後乃ち飯を喫す。或は温湯を得ざれば、則ち水を飲で食を下す。祁寒と雖も、未だ曾て難色あらざるなり。曾て独園に語て曰く、吾れ龍澤に往来す。或は夜半を以て函嶺を過ぐ。頗る生涯の平生に殊なるを覚ふるなり。又、滴水、洪川、独園の数人に歴参し、後ち滴水の印可を受く。而して居士剣法の妙、亦之を禅理上より得たり。



蓋し居士甫めて九歳より剣法を学ぶ。初め久須 美閑適齋に従て真影流を受く。後ち井上清虎に就て北辰一刀流を受く。最後乃ち浅利義明の門に入て、以て一刀流の奥義を究んと欲し、苦練すること年あり。其修禅の際に及で一日滴水に参じ、語次剣事に及ぶ。滴水則ち、

「両刀交鉾不避、好手還同火裏蓮宛然、自有衝天気

注:「両刀交[#レ]鉾不[#レ]須[#レ]避、好手還同[#二]火裏蓮[#一]宛然、自有[#二]衝天気[#一]」

の句を挙して之れに授く。居士之を紳に書して、居常拈提すること三年、一旦豁然として省悟する所あり。馳せ往て浅利に見へて、角技せんと請ふ。技法神妙、復た前日の比に非ず。浅利乃ち木刀を抛ち、容を改めこれに告て曰く、

「子已に至る矣、以て吾秘を伝ふべし」

と、遂に伝ふるに一刀斎が所謂、無想剣の極致を以てす。時に明治十三年三月三十日なり。居士既に之を伝受して、此より益々拡充精究して、以て古人未発の蘊奥を発し、竟に無刀流の一流を開き、以て其徒に授く。論者以為らく、居士の剣法に於ける、其淵源する所ろ是の如く、邃且つ遠し。而して世の剣客、徒に之を技に求めて、輙ち歩を邯鄲に学ぶ者衆し。亦思はざるの甚しき也。



是より先、居士禅を修し、剣を学ぶ、其志将に大に為すあり。以て忠を事ふる所に尽さんとす。未だその志を果すに及ばすして、而して幕府政を失ひ、国事丕変す。王政維新の初に迨で、官軍大挙して東関東を征す。将に江戸城に臨んとす。居士、勝海舟等と共に、独り其衝に当り、心を同ふし、謀を協せ、死を以て其主徳川慶喜の恭順を白す。当時王師をして刀に血せずして、而して江城を収しめ、江都百万の生霊皆、塗炭を免れ、安堵平日に異らざる者は、居士と海舟等との力なり。事蓋し国史に在り。茲に復た詳かにせず。

居士人となり、慈仁にして剛毅、寛猛相済し、威恵並び行はる。無類の徒と雖も、一たび其化導を被れば、輙ち翻然として過を悔ひ善に還る。居士夙に禅を悦ぶと雖も、然れども度量寛弘にして、党同伐異の見なし、其各宗の緇に於ける、一誠に之を待つ。要仏法を以て宗旨となす。明治の初年に、朝野盛に排仏論を唱ふ。居士夷然として争はずして曰く、天下を挙て皆他教を信ずるも、我一人仏教を信ぜば可なりと。

初め居士幼にして、書法を飛州高山の岩佐一亭に学ぶ。後ち益々精詣して、遂に海公の入木道五十三世の正伝を継ぐと云ふ。是を以て以て世人其書を責重して、争ひ来て之を索む。酬ゆるに金帛を以てす。居士却けずして而して之を受け、悉く資りて以て廃寺を興す。明治二十年七月に至て、始めて揮毫を絶して、復た他の需に応ぜず。願を発して一切蔵経を写す。毎夜必ず燈に就て経を写す。四更に至て而して止む。

嘗て鉄舟、寺を駿州に、全生庵を東京に創す。其徴を蒙りて朝廷に仕るや、擢んで侍従に任ぜられ、宮内少輔に遷り、従三位に累叙し、勲二等に叙せられ、思眷日に渥し、嘗て内帑金五千円を賜ふ。居士即ち之を創する所の二寺に分施す。又人の三千金を贈する者あり。亦二寺に分施す。専ら興仏を以て事と為す。



明治十五年五月、職を辞して家居す。二十一年二月、篤疾に罹かる。事叡聴に達す。特に侍医に詔して日々就て診視す。且厚く物を賜ふて之を優問す。七月中旬に至て疾革まる。自から死期已に迫るを知って、即ち親戚門弟を会して款話す。且つ落語師円朝に打談せしむ。談笑平日の如し。円朝も亦、常に居士に就て禅を問う者也。

是より先き、居士既に写経を以て日課と為す。篤疾と雖も未だ曾て一日も廃輟せず。是の日尚ほ机に倚て課に就く。将に筆管を拈せんとす。臂彎して伸びず。一僧、側に侍して、即ち之を扶けて机上に達せしむ。筆を下すに及で、即ち字々遒健して、毫も常作に殊ならず。観る者、之を驚異す。時に是の月十八日なり。

翌日疾を力めて早く起き、将に浴室に赴かんとす。門人某、扶持せんと擬す。居士、之を揮ひ去て、独歩して室に入り、澡浴常よりも周ねし。既に罷んで内子に命じて衣を取らしむ。常服を奉ず、肯んぜず。内子、之を覚りて、泣いて予備する所の白衣を奉ず。居士、自ら之を服して、復た病床に坐し、喫烟すること一次。乃ち身を起して更に坐し、結跏すること儀の如し。且つ金剛経一巻を取て之を懐にす。右の手に座傍の一団扇を執り、左の手に念珠を持す。是に於て、従容として左右を顧視す。遂に親戚門弟に永訣して曰く、

諸君好在、吾れ今日先つて逝ん

と言い卒って微笑して瞑す。坐容変ぜず。𠑊然として平日の如しと云う。享年五十有三、越へて三日。谷中全生庵に葬る。



事聞へて今上震悼し玉ひ、特に勅して、祭粢料金二千円を賜ふ。皇后亦五百円を賜ふ。時人、之を栄とす。居士の卒するや、遠近之を弔祭する者、勝て数ふべからず。其京都に在ては、即ち門人、北垣国道、小倉庄之助等、諸有志相謀って、是の歳八月初一日を卜して、其霊を万年山に弔祭す。独園、居士に於いて道契最も深し。其拈香偈に曰く、

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

是の日、来会供養する者、緇素凡そ千五百有余人。法会の盛なる、近年其の比罕なりと云ふ。



修身二十則

一  うそいふ可からず候

二  君の御恩は忘る可からず候

三  父母の御恩は忘る可からず候

四  師の御恩は忘る可からず候

五  人の御恩は忘る可からず候

六  神仏並に長者を粗末にす可からず候

七  幼者をあなどる可からず候

八  己れに心よからざることは、他人に求む可からず候

九  腹を立つるは、道にあらず候

十  何事も不幸を喜ぶ可からず候

十一 力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候

十二 他をかへりみずして、自分の善き事ばかりす可からず候

十三 食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し。すべて草木土石にても、粗末にす可からず候

十四 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得ふ可く候

十五 礼儀を乱る可からず候

十六 何時何人に接するも、客人に接する様に心得ふ可く候

十七 己れの知らざる事は、何人にてもならふ可く候

十八 名利の為めに、学問技芸す可からず候

十九 人にはすべて、能不能があり。いちがゐに人をすて、或は、わらふ可からず候

二十 己れの善行を、ほこりがほに、人に知らしむ可からず。すべて我心に恥ぢざるに務む可く候


嘉永三年庚戌正月 行年十五才の春 謹記
小野鐵太郎


評論:勝海舟




まァ能く考へて見給へ。此(この)修身二十則などは、今時(いまどき)の学者が見たならば、へでもないと云ふだらうよ。こんな馬鹿げた事は、世人には五月蝿(うるさ)くて、見もしないだらうよ。

(しか)し之を逆に戻して、己れの目から無遠慮に云ふて見れば、こんな馬鹿な事は、実践するものもあるまいよ。口先計(ばか)りの小理屈で、桶の輪の様(よう)に周囲はよいが、お腹の内は明き巣(あきす)だらうよ。も少し真面目に云ふて見れば、実践は愚か、十四五才の小供では、此位(このくらい)な事も容易に云ひえないものが多からうよ。

(ところ)が山岡などは馬鹿正直にも、実践して居るからナー。詰(つま)る処(ところ)、彼が小供の時分よりの志が中々(なかなか)殊勝なるものよ。まァ、ご覧よ。此(この)二十則の中に、忠孝を冒頭に呼出してあるが、之(こ)れが後日の山岡鉄舟だよ。



彼が頑固と訾(そし)らるるも、馬鹿正直と云はるるも、或(あるい)は生仏(いきぼとけ)と拝せらるるも、将又(はたまた)君命を奉して、駿府(すんぷ)の使(つかひ)を全(まった)ふし、平穏無事の間に、維新の革命を成就せしめたのも、或(あるい)は朝廷に奉仕して、明治の和気清麿(わけのきよまろ)と、己れが云ふのも、総(すべ)て爰(ここ)にあるのだ。これが骨髄の処(ところ)で、後の附言(つけごと)は注解サ。

だがモ一歩文句を引出して云ふて見れば、此(この)文中に腹を立つるは道にあらず(これが恰(あたか)も維新前後、世人多くは山岡は叛逆者(むほんもの)、狼藉者とて万衆に訾(そし)られて平気で居た所だ)と云ふ事が、中々(なかなか)小供ながら考へたものサ。

(そ)れから何事も不幸を喜ぶな、力の及ぶ限り、善(よ)き方につくすべし(これが駿府に使して天下の太平を祈った処だ)と記し、終にすべて我心に恥ぢざるに務むべし(此処(ここ)で始めて全くなるのだ。乃ち万衆の訾(そしり)も平気に受け流し、生死を顧(かへり)みず、虎口を忍んで使命を果たした、彼の心中には毀誉(きよ)(みな)皮相、只(ただ)我心に恥ぢざるに務めたのだ)とあるのが肉だ。其外(そのほか)は、皮を以(もっ)て骨肉を包んだのサ。



どーだい、今時の奴でこんな事を云ふ奴はあるかも知れぬが、実際行ふ奴は誰れだらうよ。さうなると指が折れまいよ。

以下評論として、己れの所感を物語るから、篤(とく)と脳味噌を澄まして聞き給へ。呆れて居っては分からなくなるからよ。







出典:安部正人『鉄舟随筆


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