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2019年5月15日水曜日

『澄む月のひかりに』 スッタニパータ 毎田周一 序


話:毎田周一


『澄む月のひかりに』
スッタニパータ
毎田周一


序


二千五百年前の釈尊にまの当り接する術のない私達にとって、在りし日のその優しい懇篤な力強いそして威厳に充ちたお声を耳にする如き経集(スッタ・ニパータ)の偈頌(ガーター)は、世にも貴重な仏教の文献である。

親鸞聖人がこれを見られたら、「夫れ真実の教を顕はさば則ち経集是れなり」と叫ばれたに違ひない。又私は道元禅師がこれを手にされて、「慈父大師釈迦牟尼仏」と驚喜されることをさへ思ふ。

歴史的仏陀をこれほどに明らかにする経典はないからである。それは現代の仏典である。西欧の学者たちが誠実に巴利(パーリ)の資料を探索した結果、遂に発掘した宝玉にも比すべきもの。基督教では福音書に相当するであらうか。



経集(スッタ・ニパータ)は巴利(パーリ)経律論三蔵のうち、経蔵五部ニカーヤの小部(クッダカ・ニカーヤ)に属し、五章より成る仏教最古の文献である。散文の部分は後世の附加であるが、ガーターはこれ以上に遡ることの出来ない最古層に属する。

いま私はその第一章と第四章とを選んで訳した。前者を序曲、後者を本曲として、この二章のみで経集(スッタ・ニパータ)の面目を充分に伝へ得ると思ったからである。

四行の詩は四行に、二行の詩は二行に、原典の行数に従った。それは何よりも詩である。従ってその簡潔な表現から限りない含蓄を読みとらねばならぬ。この世の穢れに染まぬ、正に世を超えし人の言葉として、それは「澄む月のひかり」にも似ている。以て本書の題名とせる所以。



第一章は仏教の全貌を直観的に示してそこへ私達を導入し、第四章は仏教の核心を論理的に示してそれを私達に徹せしめるともいふべきであらうか。

なほ第二・第三章は序曲としての第一章に提示された種々の主題のより以上の展開、第五章は本曲としての第四章の補充の意味をもつが、これらを略してここに訳出せるもののみで、経集(スッタ・ニパータ)の本質と骨格とは充分に表はされ、釈尊と仏教とを知るに余すところのない資料といひ切ることが出来る。



私は巻末に解説ならざる解説を「平常底の仏法」と題して附加した。

それは逐条的ないはゆる解説ではない。しかし私はそこで此の経集(スッタ・ニパータ)に於ける釈尊の説法を「平常底」として受けとめるの外、受けとめやうがないことをいはんと欲したのである。つまりそれは私の領解である。

経集(スッタ・ニパータ)の無限に深い人生に対する示唆を、如何なるカメラ・アングルで捉へるかは、それぞれの人の主体の問題である。私の主体の奥がどのやうにその教説によって剔抉されていったか。その過程の報告であるともいへよう。

否、それにもまして私はそこで釈尊の生ける「無」の姿に直接する、新鮮な喜びを、読者と共にせずには居れなかったのである。



※なほ翻訳は巴利聖典協会刊、アンデルゼン及びヘルマー・スミス編の「スッタ・ニパータ」を底本とした。



昭和38年12月23日
訳者しるす



『澄む月のひかりに』
スッタニパータ
毎田周一

2018年6月2日土曜日

心は世界を「逆さま」に映す


心は世界を逆さまに映す。

われわれはその像を見て、常ならざるものを常と、楽ならざるものを楽と、「われ」と「わがもの」ならざるものをそれらと見、浄らかならざるものを浄らかだと錯覚している。

この「逆さまの見方」〈顛倒〉が苦をもたらす。


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From:
ブッダの言葉



2018年5月18日金曜日

怒る日本人、落ち着くタイ人


From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』


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日常生活における仏教


さて、タイで生活していると、日本よりも格段に仏教を身近に感じるようになります。托鉢僧はバンコクの町中でもよく見かけますし、「本日は入安居のためアルコール販売できません」といった張り紙ひとつにも、仏教がタイの生活に根づいていることが感じられます。

とくに私の場合は公立学校で働いているため、さらに仏教や僧侶を身近に感じる機会にめぐまれました。朝礼では国歌斉唱のあとに毎朝みじかいお経を全校生徒(他宗教の生徒はのぞきます)が唱えますし、月初めには、長めのお経を30分ほどかけて、全校生徒で唱えます。

また、わたしが勤めている学校では、毎週金曜は朝礼前に僧侶が読経と説法をおこない、お布施の時間がもうけられています。そのほかにも、お釈迦さまの前世についての物語を2日かけて僧侶が語る「テートマハーチャート」という行事も毎年ひらかれています。

また、毎日ではないですが、朝礼時に全校生徒が3分ほど瞑想をおこなうこともあるし、遅刻がおおくて出席点があやうい生徒に、放課後に1時間単位で瞑想させることもあります。

このように、幼少期から身近にある仏教が、個々人の行動様式に一定の機能をはたしていることは十分考えられると思います。


怒りの対処の違い


たとえば「怒り」の感情に対して、日本人とタイ人ではその取り扱いかたがずいぶん違います。

日本ではとちらかというと、怒りに対して肯定的ではないものの、「怒らせる原因をつくった相手」のほうが悪く、TV番組などを見ていてもわかるように、「その怒りはごもっとも」といった文脈に帰結される場合も多いように感じます。

しかしタイにおいては、「怒りという感情に飲まれる」ことは、人間的に成熟していない、と一般的には理解されています。

余談ですが以前、こんな話を聞いたことがあります。

ある日系企業において、日本人の上司が何度も同じ失敗を繰り返す部下のタイ人に対して、「なんど教えればわかるんだ」と怒りを露わにしたところ、当のそのタイ人の部下が「まあ落ち着いてください」とお菓子をさしだし、それを見た日本人の通訳が、あわててお菓子をとりあげた、という笑い話のような話なのです。

これは日本人的文脈からいうと、どうしてさらに火に油をそそぐようなことをするのだ、となるわけです。しかし、その部下のタイ人からすれば、そのときになすべき最優先事項は、怒りに飲み込まれ、我を失っている上司に冷静になってもらうことだったのでしょう。

日常的によく耳にするタイ語に「チャイイェン」という言葉があります。「チャイ」が心で「イェン」が冷たいという意味なのですが、これは冷たい心という意味ではなく、心を冷静に保つという意味合いをもちます。

だれかが怒りにかられていると、まず「チャイイェンコーン(まずは冷静になってから)」と言葉がけをし、そこから話をしましょうという姿勢をタイ人はよく見せます。日本人からしてみれば、「怒らせている原因をつくっているのは相手なのに、それに対して怒っている自分が、なぜ責められなきゃならないんだ」と、また怒りにかられてしまうという悪循環におちいるわけですが、「怒り」というのは、ご存知のように仏教的文脈においては、煩悩のひとつとして滅するべきものであり、どんな理由があるにせよ。良きものをなにも生み出さないという共通の考えがタイ人にはあるようです。

怒り狂う上司になんとか冷静になってもらおうと思ってとった、日本人の目からすれば「とんでもない」その部下の行動も、その文脈からみれば理解可能なものだといえるかもしれません。

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From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』

2018年5月9日水曜日

「日曜日に教会に行かないとしたら、どうなるのだろう?」


From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

話:バンテ・ボーディダンマ師


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家族はカトリックでした。

母はイタリア人、父はイギリス人で、2人は第二次世界大戦中にイタリアで出会い、戦後に私が生まれました。

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20歳のある日、朝起きて

「日曜日に教会に行かないとしたら、どうなるのだろう?」

という疑問が、浮かびました。その頃はまだ、日曜日に教会に行かないと、地獄に堕ちることが約束されていました。それも、永遠に!

そこで、なにが起こるか見てみようと思い、その日曜日は教会へ生きませんでしたが、なにも起こりませんでした。

それ以来、教会へは二度と行っていません(笑)。こんな風にして、私とカトリックとの関係が終わったのです。

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サミュエル・ベケットは詩人であり、劇作家でもあります。彼の戯曲『ゴドーを待ちながら』を観たのが、人生のターニングポイントになりました。

その作品は「生きていくことの無意味さ」を表現していたのです。




また、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』にあるエッセイは、当時わたしが世界に対して持っていた見方や感じ方に、言葉を与えてくれました。

人生、そして存在の根源にある究極的無意味さ。ですが、その無意味ささえ私には、なにか意味のあるもののように思えたのです。




しかし、30歳のときに私の人生は崩壊しました。

妻がわたしのもとを去ったのです。いまも分からないのですよ。こんなステキな人を置いていくなんてね(笑)。

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その当時の1970年代は、だれもが禅について関心をもっていました。多くのイギリス人がビートルズを通して、禅やインドのヒンズー教を知るようになったのです。

幸運なことに、当時わたしが暮らしていたバーミンガムに禅寺があり、曹洞禅の先生に引き合わせてくれました。そのときの指導は、いまでも覚えていますよ。先生はわたしを壁に向かって椅子に坐らせ、

「あなたの前にあらわれるものを、ただ見つめなさい」

と言いました。私には、それで十分でした。

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坐禅をするようになり、仕事を始め、家を買い、生活を立て直しました。

でも、女性には近づかないようにしましたけどね(笑)。

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坐禅では、6つの感覚器官(六処)のドアのところ、つまり内側と外側の境界のところに、いつも自分がいるという感覚があります。

実際、来日中に滞在した總持寺祖院(石川県輪島市)では、朝の坐禅中に、鐘がずっと止むことなしに鳴りつづけていました。ボーンと音が鳴ったら、消えていくのを待って、消えたらまたボーンと鐘が鳴りました。

坐禅で強調されるところは、自分の内側と外側で起きている全ての感覚に対して、常に気づいている、目覚めているということです。

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From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

2018年4月29日日曜日

捨てられた原稿4万枚、「怒ったって出てこないでしょう」【中村元】


From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
植木 雅俊 (著)





●4万枚の原稿行方不明事件を乗り越えて


『佛教語大辞典』の原稿は、19年かけて1967年に完成した。中村元が、オーストリア学士院遠隔地会員に選ばれた年である。200字詰め原稿用紙、約4万枚に約3万語が収録されていた。

その原稿を木製のリンゴ箱に入れて、出版社に渡した。ところが、その年の12月初め、出版社がリンゴ箱に入れた原稿を紛失してしまった。出版社の社長が重病になり、間もなく亡くなった。そこへ、都の道路拡張のために移転命令が出た。移転騒動の混乱のなかで原稿が行方不明になってしまったのだ。

古紙回収業者から製紙会社までのリサイクル関係者に探してもらったり、新聞やテレビなどのマスコミを通じて、「見つけたら届けてください」と懸賞金つきで呼びかけたが、出てこなかった。引っ越し騒ぎのドサクサの中であったためか、どうもゴミと間違えて出されてしまったようだ。


出版社の人が謝りに来たが、中村は怒らなかった。

「怒ったって出てこないでしょう」

というのだ。しかし、一ヶ月ほどは呆然として何も手につかなかった。中村は、その時のことを振り返って、

「まるで土足で顔を踏みつけられたような感じがしたのは確かである」

と語った。そんな時に、原稿の整理を手伝った洛子夫人が

「あなた、ボーッとしていてもしょうがないでしょう。やり直したらどうですか」

と言った。

「早くやり直したほうがよい」と言った人がもう一人いる。中村敏夫だ。すでに述べたことだが、中村元は、東方学院の講義の最中に、この中村敏夫の名前をしばしば挙げて、”実力主義の人”と評して紹介していた。

中村元の話の断片からは、中村敏夫は一高時代以来の友人で、弁護士として、東方学院の設立の時にも法律面からのバックアップをした。その中村敏夫は『佛教語大辞典』の原稿が紛失した時には、夫人と一緒に大晦日の日に駆けつけてきて、やり直すための費用として多額の私財を提供したということまでは理解していた。


●逆縁が転じて毎日出版文化賞受賞


原稿がなくなってからというもの、中村は一ヶ月ほど呆然としていたが、洛子夫人や中村敏夫の言葉に励まされ、不死鳥のごとく1968年1月に作業を再開した。

中村は、『佛教語大辞典』の「あとがき」で、その作業について次のように8段階に分けて詳細に記している。

第1段階…1968年1月から数十人の人に語彙・解釈の募集を手伝ってもらうとともに、中村が原稿執筆を開始。

第2段階…同年末に出来上がった原稿を五十音順に並べる作業を開始。

第3段階…学園紛争が甚だしくなり、共同作業の場所がなくなって中断状態となり、中村の単独作業が続いた。

第4段階…出版社の分室で土曜・日曜などに泊まり込みで原稿の整理・完成に従事した。

第5段階…完成を急ぐあまり多くの人に加勢してもらったのはいいが、原稿にムラがあり、一貫した視点で独創的な意味を持たせるためにも、「他人の協力をあてにするという横着な態度」をやめて、1969年秋に集団作業を中止。中村が自分独りで原稿を書き続けた。

第6段階…原稿を確定する仕事に取り掛かる。この第5と第6の段階に2年間を要している。

第7段階…作業が出版社の手に移る。中村は、仏教語の採録に努め、増補の原稿を書き続ける。

第8段階…校正の作業


この間には学園紛争が勃発し、作業を行う場所を転々と流浪した。原稿整理や、加筆のために自宅も使った。洛子夫人も原稿整理を手伝った。

こうして1975年2月、作業再開から8年目にして『佛教語大辞典』が刊行された。『佛教語邦訳辞典』に着手してから数えると30余年がかりの労作である。紛失した原稿では3万語であったが、4万5千語に増えていた。

難解と思われてきた仏教用語の説明が平易な言葉でなされていて、分かりやすい。サンスクリット語、パーリ語、チベット語の原語も挙げて、巻末にはサンスクリット語、パーリ語、チベット語索引も備えているので、仏教用語の梵語辞典、巴利(パーリ)語辞典、西蔵(チベット)語辞典としても活用することが可能である。




紛失した原稿は、200字詰め原稿用紙で4万枚であったが、今度は10万枚にも及んでいて、はるかに内容の充実したものになっていた。

中村は「やりなおしたおかげで、前のものよりもずっと良いものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と言った。

中村は、この体験をはじめとする自らの人生を振り返り、順縁と思われたものが悪い結果につながり、逆縁と思われたものが良い結果を招くこともあり、仏教の説く順縁と逆縁は固定的なものではなく、変転するものだと語った。

原稿の行方不明事件をはじめとして、いろんなことがあったが、1975年11月に、中村は『佛教語大辞典』で賞のなかでも老舗中の老舗といわれる毎日出版文化賞の特別賞を受賞した。

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From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
植木 雅俊 (著)

2018年4月28日土曜日

「自分が身にまとっている一切を捨てて、なお保たれているもの――、それが仏じゃ」


From:
善の研究 ─まんがで読破─
Teamバンミカス (著), 西田幾多郎  (編集)



「禅は、俗世のもの一切を捨てるための修行かの」



「自分が身にまとっている一切を捨てて、なお保たれているもの――、それが仏じゃ」




From:
善の研究 ─まんがで読破─
Teamバンミカス (著), 西田幾多郎  (編集)

ノコギリで手足を切り落とされても…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ


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このようなたとえ話があります。

もし盗賊たちがやってきて、ノコギリで私たちの腕や手足の一本一本を切り落としたときに、たとえ一筋でも怒りや憎悪の念を感じたなら、仏さまの教えに従っていないのだ…、というものです。





痛みを感じたら、その痛みによって引き起こされる嫌な気持ちや、恐れの感情に気づいて、はっきりと認識し、嫌な感情が消えていくまでを、しっかりと経験します。

痛みに対する反応が消えて無くなったときに初めて、痛みを痛みそのものとして、あるがままに観察することが可能になります。

瞑想が十分に安定して、痛みに動じなくなったその時に、痛みの内に入って、痛みと呼ぶものが一体なにから成り立っているのかを観ることが可能になります。

そして、不快なもの、嫌なものという痛みに対する認識が覆されるのを目の当たりにして、驚かされることでしょう。「痛み」や「不快さ」の代わりに、「緊張」「熱」という、よりシンプルな身体的感覚が体験されはじめるからです。さまざまな身体的感覚が働きあって、「痛み」という感覚・感触をつくりだしているのです。

そして、このように痛みが経験されるとき、そこには苦しみがないことに気づいてください。この認識はとても重要ですから、忘れないでください。このように観察され体験された「痛み」は、もはや「dukkha(苦しみ)」ではありません。

痛みから生じる「苦」というのは、実際には「痛みとの関わり方」「自分と痛みとの関係性」のことなのです。

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From:
Samga Japan Vol.29

「イラッ!」としたらば…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ


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あなたはイライラする瞬間に気づきますか?

たとえば、このような場面をみてみましょう。

あなたはリトリートに参加して瞑想しています。静けさのなか、心がゆっくりと落ち着いていくのを感じています。その時、ドタバタと遅れた人が部屋に入ってきました。

「なんと不注意な!」

あなたは深く息を吸って、気を取り直し、ゆっくりと集中を高めていきます。すると今度は、すぐ背後で誰かが大きく咳をしました。これにはやはり、イラッとします。

さらには、数々の無明のベールを通り抜け、いよいよ真理の深みに到達せんとする、その時、力強いクシャミが鳴り放たれます。…もう、たくさんです。

「ここにいる瞑想者には、マナーというものがないのか!」

このような小さな苛立ちが起こったら、ただちに他の誰も自分を怒らせることはできないことを思い出さなければいけません。そして、邪魔をした人に心から感謝をしましょう。なぜなら、その人はそうと知らずに、私たちがどこでつまずいているかを教えてくれたからです。

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ヴィパッサナー瞑想を正しく行じるならば、私たちをイラッとさせるものなど、何ひとつないでしょう。「イラッ」とする感覚それ自体も、観照され経験される瞑想の対象になるからです。

もし、瞑想の邪魔をされたと感じてイラッとしたときは、修行に対して狭い視野になっていないか、確認しましょう。「修行はこうあるべきだ」「瞑想者ならこうするべきだ」といった理想に陥っている自分の心の状態に気づいてください。

これらの「~すべき」「~ねばならない」などの言葉は、自分のつくりあげる「理想」から生まれます。そして、この理想に縛られた狭い視点をよりどころに、私たちは関わる人や事柄を思い通りにしようと試みます。それは瞑想意外の時間、日常の生活のいたる場所で当然おこることです。

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私たちの注意を引きつけながら、森羅万象は生じては消えてゆきます。

今日一日、明晰な気づきの内にとどまって、すべての「すべき」と「ねばならない」を捨ててしまいましょう。

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「すべての現象は過ぎ去っていく」ということを、もう一度思い出してください。

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From:
Samga Japan Vol.29

「嫌!」という心の反応が消えはじめると…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ


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自分以外には誰も、心理的な苦痛を自分に与えることはできないことを、まずは正直に認めなければなりません。

私たちの「dukkha(苦)」――苛立ち、不満、苦しみ――の答えは、心の中にあるからです。

この事実は、他人のせいにすることで得てきた安堵感を奪いますが、代わりに自分の心に責任を持ち、困難なことであっても、状況を解決するための力が与えられるでしょう。

…

私たちは、これらの感情・感覚を、機嫌を損ねた子供のように扱う必要があります。

自然界の台風と同じように、感情や感覚のエネルギーを現れるままにまかせると、エネルギーを使い果たしたあとで、自ずと消滅するものです。

…

仏さまは「feeling in feelings(感覚を感覚の中で)」経験するという言葉で、感覚に開いていくことを説いています。

…

何よりも大切なのは、自分自身が苦しみを作り出す、そのカラクリにしっかりと気づき、その気づきと認識を、苦しみを終わらせるための、さらなる動機づけとしていくことです。

これは、私たちにできることです。

…

瞑想中の姿勢から生じる、身体の痛みというものがあります。

膝の痛みは、過ぎ去るのを待つことができないほど、ひどい痛みになりがちです。ずいぶん昔のことになりますが、禅の修行をはじめたばかりの頃、痛みを我慢して座りつづけたことが原因で、私の膝は脱臼するクセがついてしまいました。

このようなときは無理をせず、椅子に座り、痛みがひくのを待つことも、とても大切なことです。

その一方で、脈打つ膝の痛みは、気づきや智慧にとっては、非常によき友であると言えます。何より、痛みは忍耐と寛容を教えてくれます。加えて、強い痛みは感覚への集中を助けてくれます。

そして、観察と経験を通して「痛み」が、私でも、私のものでもない「無我」であることを教えてくれます。私たちの好き嫌いにかかわらず、また私たちの意向に関わりなく、痛みはそれ自体の不満(苦)を表現するのですから。

…

「痛み」と、その反応としての「苦」を識別します。

この身体の痛みからくる「苦」は、仏さまが「dukkha-dukkha(苦苦)」と呼ぶ、苦痛を苦とする状態のことです。

この「痛み」と「苦」を識別することは、とても大切なことです。そして、悟りに至ったときに消滅するのは、この2つのうちの「苦」のほうだと言われています。

身体がある限り、身体の痛みは自然なこととして起こりつづけることでしょう。しかし、「嫌!」という心の反応が消えはじめると、「痛み」との新しい関係がはじまります。

痛みがあっても、完全に落ち着いた穏やかさのなかに留まりつづけることが可能になります。心の平安と静けさが、痛みが私たちを苦しめているのではなかったことに、気づかせてくれるでしょう。

痛みではなく、心の反応の仕方が「苦」をもたらしていたのです。

…

実際のところ、「痛み」というものは存在しません。

存在しているのは、さまざまな身体的感覚だけです。この気づきとともに、「痛い」という感覚さえもが消滅していきます。

この段階において、「無常」の真理がはっきりと認識されはじめます。あらゆる感覚が、一瞬一瞬に生じ、そして消え去っていきます。すべてが束の間に過ぎていく一連のエネルギーでしかありません。

その時には、身体の痛みは瞑想者にとって祝福となるでしょう。

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From:
Samga Japan Vol.29

坐禅をうまくやるコツ



「ところで、坐禅をうまくやるコツって、あったりします?」


僧「いえ、ないですね」


僧「仏の道はみな同じようで、それぞれに異なる。ですから、自分の法は、各々にしかわからないのです」

…




From:
善の研究 (まんがで読破 MD129) 
文庫 – 2014/1/30
西田幾多郎  (著)

2018年4月27日金曜日

「希望が人を苦しめるのです」【スマナサーラ】


From:
Samga Japan Vol.29





苦しみは希望がつくる
アルボムッレ・スマナサーラ


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私のメガネはよく見えなくて、階段でも平らに見えるほどです。

ですから、大事なのはただ、一歩一歩どう進むか、です。気をつけて一歩一歩、進む。その結果として、ぶつからないで、ケガもしないで、部屋に帰れます。

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われわれの頭の中に希望は無限にあります。

希望、希望、希望ばかりです。完全に病気なのですが、しかし、希望が一兆個ぐらいあっても、実際、われわれは自動的に何かを選んで動いています。

たとえば、億万長者になる希望があり、そして今、おなかが空いているとします。希望は2つですね。「ご飯を食べなくちゃ」と「億万長者にならなくちゃ」、どちらを実行に移しますか?

…

われわれの仕事は「今、どうすればいいか」だけなのです。

「いいえ、おなかが空いたけれど、億万長者になる希望もありますからね、それを先にやって、それからご飯を食べます」といったような生き方をするな、とお釈迦様はおっしゃっています。

…

自分の希望を、ちょっといろいろ考えてみてください。自由に妄想できるので、放っておくと実にさまざまな希望が出てくることでしょう。

でも、仮に一兆個ぐらい希望があっても、短い人生で全部叶うわけがありません。結局ただの妄想で終わったりします。

…

表面上、ちゃんと生きているように見える人でも、余計な希望が頭に入ってしまって、あれもやらなくては、これもやらなくては、とグルグル頭でかき混ぜたりしていると、やっぱり悩みが生まれてきます。

今、やるべきことに集中しないで「本当はこもしたい」「ああだったらいいなあ」などと妄想概念でいっぱいになります。

…





希望というのは、何か用事があって窓口に並んでいる人々だと考えるようにしてください。希望たちがきちんと列をつくって行儀よく待っています。

たとえその窓口に一億人が並んで順番を待っていたとしても関係ありません。窓口の担当として、希望を一つずつ一つずつ、解決していくだけ。そこで自分の時間が切れたら死ぬだけです。

自分が死ぬときに、まだ無限の希望たちが並んでいても、何の意味もありません。希望たちは「私の希望」です。「私」がいなくなったら希望たちも自動的になくなります。

…

「苦」というのは、実現しない・できない、無数・無限の希望の堆積物です。

希望は人を苦しめるのです。希望はすべて叶ってほしいものでしょう? ですから、どの希望が一番いいということはありません。そのとき、なんとなくある一つの希望にこだわってしまったりするだけ。どの希望であっても、引っかかってしまうと苦しくなるのです。

…

人間はまず、限りのない希望をつくるという、間違った生き方をしています。

希望というのは、叶えるための時間を要します。そして、私たちの時間には「寿命」という限りがあります。延ばすこともリセットすることもできません。寿命はどんどん減っていって、いつか死んでしまうのですね。

だから無数の希望があったら、その無数の希望が叶うためには一億年かかるかもしれません。でも自分に与えられた時間は、たった60~70年程度。80歳になってくると希望を叶えるどころか、なにもできなくなってきます。

…

人間は自己観察しないまま、希望だけをとことん増やし続けてしまいます。

その分いつでも、現実離れに次ぐ現実離れです。現実離れというのは、要するに今を生きていないという状態です。すると、その人は何をやっても失敗します。何ひとつも、成功することができなくなるのです。

希望ばかり追っていて、今を生きていないからです。たくさんの希望はいわば妄想の山です。

…

あなたに何か希望がありますか?

もしその答えが「あります」なら、あなたは苦しんでいるということになります。そして、「いいえ、一切希望なんかありません」と答える人は、覚っています。

希望は妄想概念だから、人を苦しませるしかないのです。

…

「ご飯を食べたい」というような、具体的な希望なら問題ありません。

精神的な病気につながってしまう希望とは、合理的でなく、具体的なものでない希望です。たとえば「みんなに好かれたい」「みんな私のことを認めてほしい」という希望をつくったりすると、病気になります。

…

「ドゥッカ(苦)とは何ぞや」と言えば、いたって簡単な答えになります。

苦しみとは、人の心にある希望の量なのです。

…





合理性や理性がない世間の人間は、好き勝手に妄想工場で希望をつくってしまいます。

希望が増えれば増えるほど、苦しみが増えます。うまくいかないという落ち込みが増えます。手も足も出ないという苦しい状態が増えます。いてもたってもいられない状態をつくります。

本当は、いたって簡単に生きられるのに。空気のように生きられるのに。

…

生きることというのは、例えれば、枝にある葉っぱがいつか落ちる、そのような簡単なものなのです。風にそよぎ、いつか枝から抜けて、ゆらゆらと待って地面などに落ちる。

そこに何の心配や不安があるでしょうか?

…

生きるということは、葉っぱが枝から落ちるように簡単なのです。仏教は、そういうところに達してください、頭の病気を治してください、と言います。

世間に生きる人々は、希望があればあるほど、心配になったり不安になったり、苦しんでしまうので、仏教では「希望がドゥッカ(苦)だ」と言うのです。

…

覚りに達した人は、どうしても生きているので、その日その日にやるべきことをしっかりやっているだけで、希望はゼロ。

つまり、希望が消えたら覚っている。希望があるならば、まだ覚っていない、苦しんでいる、ということです。

…


From:
From:
Samga Japan Vol.29



争いは知性が生み出す【Samga Japan】


From:
サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司




争いは知性が生み出す


――争いは苦であり、決して幸せではないはずです。しかし、個人同士の争いから始まり、大きなスケールで見れば戦争のような国家間の争いまで、この世にはさまざまなかたちの争いがあり、絶えることがありません。

なぜ人はこうも争うのでしょうか?


小池龍之介 根本にあるのは、「誰かが何かを余分に欲しい」と思うことでしょう。欠乏しているものをあの人から取りたいとか、あの国・集団から取りたいと思うこと。あるいは余分に与えられていないものを、無理やりもぎ取ろうとすることに、争いは端を発しているような気がします。

余分に欲しいと思うようなものは、実際にある物質に限りません。身近な例でいえば、奥さんが旦那さんに「これやって、あれやって」と、自分ではあまり動かないで、旦那さんにより多くのことをやらせようとするような場合があると思います。日本の伝統的な状況では男女逆かもしれませんが、いずれにせよ「より多くの労力を相手から得たい」とどちらかが思えば、相手は「自分のほうがたくさん奪われそうで怖い」と感じ、そこに争いが生まれます。

また、勝者だと見せつけたい気持ちと、防衛したい気持ちもあります。それが交差することで、家庭でも公共の場でも、あるいは国家間でも争いが起きるのだと思います。





前野隆司 「ライオンと戦ったらなら勝ちたい」「自分が殺されて死ぬのは嫌だ」「安全が欲しい」というのは本能ですからね。安全のためにはたくさん貯えたほうがより生き延びる確率が増しますから、余分に欲しいと思うのも本能でしょう。

本能というのは、本来、性欲や食欲、身体を維持したいという欲です。動物にもあります。しかし、その本能が現代になって、「あいつより豊かになりたい」という欲に変化したように思います。

ライオンと戦っていた時代には、勝たなければ死ぬから争っていた。けれども、平和な現代社会において、別に「あいつより給料が1.5倍なければ死ぬ」というわけでもないのに、「あいつに勝たなきゃ」と戦うのは愚かだと思いますね。


小池龍之介 性欲に関して言えば、動物は特定の時期が来たら本能で発情して交尾しますが、人間の性欲の中で本能と言えそうな部分はほんの少しで、あとは幻想の部分、知的な活動が非常に多くを占めているように思われます。


前野隆司 本能を延長して、必要以上に得たがっているということですよね。


小池龍之介 その「必要以上に」はおそらく本能ではなく、人間特有の文化的なものではないでしょうか。人間が知能に溺れてしまったせいで、本能だったら満足しそうなところでも満足しないで、欠落を感じてしまう。まだ足りないからあれが欲しいとか、これが欲しいとか、こういう状態になりたいとか、拡大しなければ気が済まないのです。

欲望は、本能をも破壊するような形でうまれているような気がします。





前野隆司 なるほど。そう捉えることもできます。そうすると人間の争いの原因は本能であるとは言えませんね。

人間が文明社会を作ってしまったことも原因の一つでしょう。大昔の人間は、身体も弱く、武器を作って生き延びるだけで精一杯で、富が蓄積するような状態ではありませんでした。それが、農業革命、産業革命を経て富を蓄積できるようになった結果として、人は本能を超えたところまで欲を増大させる楽しみを知ってしまったのだと思います。

私はよく森に入るのですが、寝転がって空を見ると、木の葉同士がちょうどいい具合いに争って、全員が太陽の光を得ていることに気づきます。木の葉っぱは「俺は太陽の光をみんなの100倍得て大きくなってやるぞ」とは思っていません。自分の分があります。猿や犬もそうですよ。自分が生きる分しか貯えません。

しかし、人間は違います。普通に生きるのに必要な分の一万倍稼ぐ人もいる。本当はそんなに必要なわけがないですよね。人間にはそれができてしまう知性があります。知性を得たために人間は今よりも豊かな自分を想像できるようになり、皮肉なことに、とめどない欲望も持てるようになりなった。

争いの原因は知性の暴走ですかね。


小池龍之介 「不相応」が一つのキーワードになりそうですね。与えられた分を守って、その中で成すべきことを完璧に成していたなら、心は平和で追い立てられることもなく、幸せにしていられるでしょう。

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From:
サンガジャパンVol.29
苦しみを癒やす「愛」の育み方
対談 小池龍之介 前野隆司