話:毎田周一
『澄む月のひかりに』
スッタニパータ
毎田周一
序
二千五百年前の釈尊にまの当り接する術のない私達にとって、在りし日のその優しい懇篤な力強いそして威厳に充ちたお声を耳にする如き経集(スッタ・ニパータ)の偈頌(ガーター)は、世にも貴重な仏教の文献である。
親鸞聖人がこれを見られたら、「夫れ真実の教を顕はさば則ち経集是れなり」と叫ばれたに違ひない。又私は道元禅師がこれを手にされて、「慈父大師釈迦牟尼仏」と驚喜されることをさへ思ふ。
歴史的仏陀をこれほどに明らかにする経典はないからである。それは現代の仏典である。西欧の学者たちが誠実に巴利(パーリ)の資料を探索した結果、遂に発掘した宝玉にも比すべきもの。基督教では福音書に相当するであらうか。
経集(スッタ・ニパータ)は巴利(パーリ)経律論三蔵のうち、経蔵五部ニカーヤの小部(クッダカ・ニカーヤ)に属し、五章より成る仏教最古の文献である。散文の部分は後世の附加であるが、ガーターはこれ以上に遡ることの出来ない最古層に属する。
いま私はその第一章と第四章とを選んで訳した。前者を序曲、後者を本曲として、この二章のみで経集(スッタ・ニパータ)の面目を充分に伝へ得ると思ったからである。
四行の詩は四行に、二行の詩は二行に、原典の行数に従った。それは何よりも詩である。従ってその簡潔な表現から限りない含蓄を読みとらねばならぬ。この世の穢れに染まぬ、正に世を超えし人の言葉として、それは「澄む月のひかり」にも似ている。以て本書の題名とせる所以。
第一章は仏教の全貌を直観的に示してそこへ私達を導入し、第四章は仏教の核心を論理的に示してそれを私達に徹せしめるともいふべきであらうか。
なほ第二・第三章は序曲としての第一章に提示された種々の主題のより以上の展開、第五章は本曲としての第四章の補充の意味をもつが、これらを略してここに訳出せるもののみで、経集(スッタ・ニパータ)の本質と骨格とは充分に表はされ、釈尊と仏教とを知るに余すところのない資料といひ切ることが出来る。
私は巻末に解説ならざる解説を「平常底の仏法」と題して附加した。
それは逐条的ないはゆる解説ではない。しかし私はそこで此の経集(スッタ・ニパータ)に於ける釈尊の説法を「平常底」として受けとめるの外、受けとめやうがないことをいはんと欲したのである。つまりそれは私の領解である。
経集(スッタ・ニパータ)の無限に深い人生に対する示唆を、如何なるカメラ・アングルで捉へるかは、それぞれの人の主体の問題である。私の主体の奥がどのやうにその教説によって剔抉されていったか。その過程の報告であるともいへよう。
否、それにもまして私はそこで釈尊の生ける「無」の姿に直接する、新鮮な喜びを、読者と共にせずには居れなかったのである。
※なほ翻訳は巴利聖典協会刊、アンデルゼン及びヘルマー・スミス編の「スッタ・ニパータ」を底本とした。
昭和38年12月23日
訳者しるす
『澄む月のひかりに』
スッタニパータ
毎田周一