2021年4月23日金曜日

正史『三国志』関羽伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

関羽伝



関羽は字を雲長という。もとの字を長生といい、河東郡解県の人である。本籍から涿郡に出奔した。


先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。先主は平原の相となると、関羽と張飛を別部司馬に任じ、それぞれ部隊を指揮させた。


先主は二人と同じ寝台にやすみ、兄弟のような恩愛をかけた。しかし大ぜいの集まっている席では、一日じゅう側に立って守護し、先主につき従って奔走し苦難をいとわなかった。


先主は、徐州刺史の車冑を襲撃して殺害すると、関羽に下郡の城を守備させ、太守の事務を代行させ、自分は小沛に帰った。


建安五年(200)、曹公が東方征伐を行ない、先主は衰紹のもとへ逃走した。曹公は関羽を捕虜にして帰り、偏将軍に任命して、たいへん手厚く礼遇した。衰紹は大将の顔良を派遣して、白馬にいた東郡太守の劉延を攻撃させたが、曹公は張遼と関羽を先鋒にして、これを撃った。関羽は、顔良の〔車につける大将の〕旗じるしと車蓋を望見すると、馬に鞭うって〔馳せつけ〕大軍のまっただ中で顔良を刺し、その首を斬りとって帰ってきた。衰紹の諸将のうちで相手になれる者はおらず、かくて白馬の包囲は解かれたのである。曹公は即刻上表して、関羽を漢寿亭侯に封じた。


これより先、曹公は関羽のりっぱな人柄を評価したが、彼の心には長く留まる気持がないと推察して、張遼に、「君、ためしに個人的に彼に質問してみてくれ」といった。それを受けて張遼が関羽にたずねてみると、関羽は敷息して、「曹公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、しかし、私は劉将軍から厚い恩誼を受けており、いっしょに死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることはできません。私は絶対に留まりませんが、私は必ず手柄を立てて、曹公に恩返ししてから去るつもりです」といった。張遼が関羽のことばを曹公に報告すると、曹公はその義心に感心した。


関羽が顔良を殺害するに及んで、曹公は彼が必ず去るだろうと思い、重い恩賞を賜わった。関羽は、ことごとくその賜り物に封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、衰紹の軍にいる先主のもとへ奔った。側近の家来が彼を追跡しようとすると、曹公は、「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ。追跡してはならない」といった。



〔関羽は〕先主に従って劉表の許に身を寄せた。劉表が死去すると、曹公が判州を平定しようとした。先主は樊から南下して長江を渡る計画を立て、関羽には別に数百競の船を率いさせ、江陵で落ち合うことを命じた。曹公が追撃して当陽の長阪にやってくると、先主は脇道を通って漢津に行き、ちょうど関羽の船と出会って、いっしょに夏口に到達した。


孫権は、軍兵を派遣して先主を救援し、曹公を防いだので、曹公は軍を引き撤退した。先主は江南の諸郡を手に入れると、大功を立てたものに官爵を授け、関羽を裏陽太守・盪寇(とうこう)将軍に任命して、長江の北に駐屯させた。先主は、西方益州を平定すると、関羽を荊州の軍事総督に任じた。


関羽は、馬超が来降したことを聞き知り、もとめと馴染みではなかったので、諸葛亮に手紙を出して、馬超の人物・才能は誰と匹敵するかと尋ねた。諸葛亮は、関羽が負けずぎらいなのを知っていたから、これに答えて、「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり、〔漢の〕鯨布や彰越のともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、やはり髯どのの比類なき傑出ぶりには及ばない」といってやった。関羽は頬ひげが美々しかったので、諸葛亮は彼を髯どのと呼んだのである。関羽は手紙を見て大喜びして、来客にみせびらかした。


関羽は以前、流れ矢に当って、左肘を貫通されたことがあった。後になって傷が癒っても、曇の日や雨の日にはいつも骨が疼き痛んだ。医者が、「矢じりに毒が塗ってあって、毒が骨にしみこんでいますから、肘を切り裂いて傷口を開け、骨をけずって毒をとり去らねばなりません。そうすれば、この痛みはなくなるでしょう」といった。関羽はすぐに肘を伸ばして医者に切開させた。ちょうどそのとき、関羽は諸将を招待して宴会をしている最中であった。肘の血は流れ出して、大きな皿いっぱいになったが、関羽は焼肉を切りわけ酒をひきよせて泰然として談笑していた。



二十四年(219)、先主は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節(はた)と鉞(まさかり、専行権を示す)を貸し与えた。


この年、関羽は軍勢を率いて、樊にいる曹仁を攻撃した。曹公は干禁を救援にさし向けた。秋、大変な長雨がふって、漢水が氾濫し、手禁の指揮する七軍すべてが水没した。干禁は関羽に降伏し、関羽はまた将軍の龐悳を斬った。


梁郟(りょうこう)・陸渾(りくこん)といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると、司馬宣王(懿)と蔣済は、関羽が野望を遂げることを孫権はきっと望まないだろうから、使者をやって、その背後を突かせるよう孫権に勧め、長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい、そうすれば、樊の包囲はおのずと解けるだろうと主張した。曹公はそれに従った。


これよりさき、孫権は使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽はその使者をどなりつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた。


また、南郡太守の糜芳が江陵に、将軍の傅士仁が公安に駐屯していたが、どちらもかねてから関羽が自分を軽んじていると嫌っていた。関羽が出陣すると、糜芳と傅士仁は軍資を供給するだけで、全力をあげて援助することはなかった。関羽は、「帰還したら、こいつらを始末しなければならない」といったので、糜芳と傅士仁はともに恐怖を感じ落ち着かなかった。


このとき、孫権が内々に糜芳と傅士仁に誘いをかけ、糜芳と傅士仁が人をやって孫権を迎えさせたところに、曹公が徐晃を曹仁の救援に差し向けた。関羽は勝利を得ることができず、軍を引いて撤退した。


孫権はすでに江陵を占領しており、関羽の部下やその妻子たちをことごとく捕虜にしたので、関羽の軍は四散した。孫権は、将軍をつかわして関羽を迎え撃ち、関羽と子の関平を、臨沮において斬り殺した。


関羽に壮繆(そうぼく)公の諡号を送った。



子の関興が後を継いだ。関興は字を安国といい、幼いころから評判が高く、丞相の諸葛亮は彼の才能を高く評価した。二十歳で侍中・中監軍になったが、数年後に死んだ。子の関統が後を継ぎ、公主(内親王)を娶り、官位は虎賁中郎将にまで登った。死後、子供がなかったので、関興の庶子関彝(かんい)に爵位を継がせた。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


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