2021年4月23日金曜日

正史『三国志』馬超伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

馬超伝



馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵県の人である。


父の馬騰は、〔後漢の〕霊帝の末期、辺章や韓遂たちとともに西州で旗あげした。初平三年(192)、韓遂と馬騰は軍勢を率いて、長安に赴いた。漢朝では、韓遂を鎮西将軍に任じて金城に帰還させ、馬騰を征西将軍に任じて郿に駐屯させた。後に馬騰は長安を襲撃したが、敗北して涼州に逃げ帰った。


司隷校尉鐘繇は関中の抑えとして赴任すると、韓遂と馬騰に文書を送って、服従する場合と反抗する場合の利害について説明してやった。馬騰は馬超を鐘繇のもとにやり、彼につき従って平陽県にいる郭援と高幹を討伐させたところ、馬超の将軍龐徳(悳)は みずから郭援の首級をあげた。


後に、馬騰は韓遂と不仲になり、都に戻ることを願った。そこで〔馬騰を〕召し寄せて衛尉とし、馬超を偏将軍に任じ都亭侯に封じて、馬騰の部下を掌握させた。



馬超は軍勢を統率したのち、韓遂と連合するとともに、楊秋・李堪・成宜らとよしみを結び、軍を進めて潼関までやってきた。


曹公はただ一人馬に乗り、韓遂・馬超と会談した。馬超は剛力を頼みに、ひそかに突き進んで曹公をつかまえるつもりだったが、曹公の左右を警護する将の許褚が目をいからせて彼を睨んでいるので、思いきって手を下せなかった。


曹公は賈詡の策略を用い、馬超と韓遂の仲を引き裂いたので、たがいに猜疑しあうようになり、軍はそのため大敗北を喫した。馬超は逃走して諸蛮族を配下におさめた。曹公は安定まで追撃したが、ちょうど北方で事件がおこったので、軍を引いて東に帰った。


楊阜は曹公に進言した、「馬超は、〔前漢の〕韓信・鯨布のような武勇をもち、羌族の心をよくつかんでおります。もし大軍が引き上げたあと、彼に対する防備を厳重に行なわないならば、隴上の諸郡はわが国の領土ではなくなるでしょう。」


馬超ははたして諸蛮族を率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はすべてこれに呼応した。涼州刺史の韋康を殺害して、冀城を拠点とし、その軍勢を配下に収めた。馬超はみずから征西将軍と称し、幷州の牧を兼務し、涼州の軍事都督となった。


韋康のもとの吏民楊阜(ようふ)・姜叙(きょうじょ)、梁寛(りょうかん)・趙衢(ちょうく)らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜叙が鹵城で兵をあげ、馬超は出陣して彼らを攻めたが、下すことができなかった。〔その隙に〕梁寛と趙衢が冀城の城門を閉ざしたので、馬超は城に入ることができなくなった。進退谷(きわ)まってあわてふためき、かくて漢中に逃走して張魯のもとへ身を寄せた。


張魯はともに事を計るに足らぬ人物だったので、内心いらだちを覚え、先主が成都にいる劉璋を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。



先主が使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。城中はおそれおののき、劉璋はただちに降伏した。馬超を平西将軍に任じて、臨沮を治めさせ、前のとおり都亭侯に封じてやった。


先主は、漢中王になると、馬超を左将軍。仮節に任じた。章武元年(221)、驃騎将軍に昇進し、涼州の牧を兼務し、斄郷(りきょう)侯に爵位があがった。


辞令にいう、「朕は、不徳の身をもって、至尊の位を継ぎ、宗廟を継承することになった。曹操父子は、代々罪行を重ねており、朕はそのため心痛み、あたかも頭痛を病んでいるかのようである。四海の内は怨み憤って、正義に帰順し根本に立ち帰らんとし、氐族・羌族も服従し、獯鬻(くんいく、北方異民族)までも道義を慕っている。君の信義は北方の地に明らかで、威光と武勇はともに輝きわたっている。だからこそ君に任務を委ね、ほえたける虎のごとき勇猛さをかかげて、万里の彼方まで正しく治め、民衆の苦しみを救わせるのである。さあ、わが朝の教化を広め明らかにし、遠近の民をなつけ安んじ、賞罰を慎重にとり行ない、よって漢朝の王者たるべき幸運を固め、天下の人々の望みに答えよ。」


二年(222)逝去した。時に四十七歳であった。


死にのぞんで上疏し、「私の一門、二百人あまりは、曹孟徳によって誅殺されほとんど絶滅いたしましたが、ただ従弟の馬岱だけが残っております。衰えた家の祭記を継ぐべき男として、そのことをくれぐれも陛下にお託ししたいと存じます。あとはいい残すことるありません」と述べた。


馬超に威侯の諡号を追贈した。子の馬承が後を継いだ。馬岱は平北将軍の位にまでのぼり、陳倉侯にまで睡爵位があがった。馬超の娘は、安平王劉理の妻となった。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


0 件のコメント:

コメントを投稿