諸葛亮伝
諸葛亮は字を孔明といい、琅琊郡陽都県の人である。
漢の司隷校尉諸葛豊の子孫である。
父の諸葛珪は字を君貢といって、後漢末に太山郡の丞であった。
諸葛亮は幼いとき父をなくした。
従父の諸葛玄は袁術の任命によって豫州太守となり、諸葛亮と弟の諸葛均をつれて赴任した。
ちょうどそのとき漢朝では改めて朱皓を選出し諸葛玄と代らせた。
諸葛玄はかねてから荊州の牧劉表と旧知の間柄であったので、彼のもとに身を寄せた。
諸葛玄がなくなると、諸葛亮はみずから農耕にたずさわり、好んで『梁父吟』(隠者のうたう歌)を歌ってくらした。
身長は八尺もあり、つねに自分を管仲(春秋時代、斉の桓公の宰相)・楽毅(戦国時代、燕の名将)に擬していたが、当時の人で、これを認める者はいなかった。
ただ博陵の催州平と穎川の徐庶字は元直の二人は、諸葛亮と親交を結んでいて、まことにそのとおりだと認めていた。
そのころ先主(劉備)は新野に駐屯していた。
徐庶が先主と会見し、先主は彼を有能な人物だと思った。
徐庶は先主に向って、「諸葛孔明という男は臥龍(ねている龍)です。将軍は彼と会いたいと思われますか」とたずねた。
先主が、「君、つれてきてくれ」というと、徐庶は、「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れてくることはできません。将軍が車をまげて来訪されるのがよろしいでしょう」といった。
その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげく、やっと会えた。
そこで人ばらいをして、「漢朝は傾き崩れ、姦臣が天命を盗み、皇帝は都を離れておられる。わしは、みずからの徳や力を思慮にいれないで、天下に大義を浸透させようとねがっているけれども、知恵も術策も不足しているため、けっきょくつまずき、今日におよんでいる。しかし、志は今なお捨てきれない。君はいったいどうすればよいと思うか」といった。
諸葛亮は答えていった、「董卓〔の蜂起〕以来、豪傑が次々と蜂起し、州にまたがり郡をつらね、のさばる者は数えきれないほどであります。曹操は袁紹にくらべますと、名声は小さく、軍勢も少なかったのですが、それでいて曹操がけっきょく袁紹にうち勝って、弱者から強者になりおおせたのは、単に天のあたえる時節ばかりではなく、そもそも人間のなす計略のおかげです。
いま曹操はすでに百万の軍勢を擁し、天子を擁立して諸侯に命令を発しており、これは実際対等に戦える相手ではありません。孫権は江東を支配して、すでに〔父の孫堅、兄の孫策以来〕三代を経ており、国家は堅固で民はなつき、賢人も能力者も彼の手足となってはたらいており、これは味方とすべきで、敵対してはならない相手です。
荊州は、北方は漢水・汴水にまたがり、経済的利益は南海にまで達し、東方は呉会につらなり、西方は巴・蜀に通じていて、これこそ武力を役立てるべき国であるのに、領主はとてももちこたえることができません。これこそ天が将軍のご用に供している土地といえましょうが、将軍にはその意志がおありですか。
益州は、堅固な要塞の地であり、豊かな平野が千里も広がる天の庫ともいい得るところであって、高祖はこれを基に帝業を完成しました。〔領主の〕劉障は暗愚で、張魯を北にひかえており、人口は多く国は豊かであるにもかかわらず、福祉に心を砕かないので、智能ある人士は明君を得ることを願っております。
将軍は、皇室の後裔であるうえ、信義が天下に聞えわたり、英雄たちを掌握されて、のどの渇いた者が水をほしがるように賢者を渇望しておられます。
もしも荊州と益州にまたがって支配され、その要害を保ち、西方の諸蛮族をなつけ、南方の異民族を慰撫なさって、外では孫権とよしみを結び、内では政治を修められ、天下にいったん変事があれば、一人の上将に命じて荊州の軍を宛・洛に向わせ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃するようになさったならば、民衆はすべて弁当と水筒をたずさえて将軍を歓迎するでありましょう。まことにこのようになれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう。」
先主は「なるほど」といった。
こうして諸葛亮との交情は、日に日に親密になっていった。
関羽や張飛らは不機嫌であったが、先主がなだめて、「わしに孔明が必要なのはちょうど魚に水が必要なようなものだ。諸君らはもう二度と文句をいわないでほしい」といった。
関羽と張飛はそこで何もいわなくなった。
劉表の長男劉琦らまた、諸葛亮の才能をきわめて高くかっていた。
劉表は後妻のいうことを聞いて、末子の劉琮を愛し、劉琦を喜ばなかった。
劉琦はいつも諸葛亮と自己の身の安全策を謀ろうとしていたが、諸葛亮はそのたびに拒否して、相談に乗らなかった。
劉埼はそこで諸葛亮を連れて裏庭を逍遥し、ともに高殿に登って、宴を張っている間に、はしごをとりはずさせて、諸葛亮にいった、「今日は、上は天に届かず、下は地面につきません。言葉はあなたの口から出て、私の耳に入るだけです。なにか話していただけないでしょうか。」
諸葛亮は答えた、「あなたは、〔春秋時代晋の太子〕申生が国内に留まったため危険にさらされ、〔公子の〕重耳(のちの文公)が国外に出て安全だったのをご存知ではありませんか。」
劉琦は心のうちでその意味を悟り、ひそかに都の外に出る計略をめぐらせた。
ちょうどそのころ、〔江夏太守の〕黄祖が死亡したので、外に出ることができ、かくて江夏太守となった。
突然、劉表がなくなり、〔代った〕劉琮は曹公の軍勢がやってくると聞き、使者を遣わして降伏を申し出た。
先主は樊にいてこのことを知り、その軍勢を率いて南に移った。
諸葛亮と徐庶はともに随行したが曹公に追撃されて敗北し、徐庶の母が捕虜となった。
徐庶は先主に別れを告げ、その胸を指さしていった、「もともと将軍とともに王業・覇業を行なうつもりでいたのは、この一寸四方の場所(心臓)においてでした。いま、すでに老母を失って、一寸四方は混乱しております。事態に対処するのに利益になりません。これでお別れしたいと存じます。」かくて、曹公のもとへ赴いた。
先主が夏口まで来ると、諸葛亮は、「事態は切迫しております。御命令をいただいて、孫(権)将軍に救援を求めたいと思います」と進言した。
そのとき、孫権は軍勢を従え柴桑にいて、勝敗の行方をうかがっていたが、諸葛亮は孫権を説得していった、「天下は乱れに乱れ、将軍は挙兵して江東を所有され、劉(備)豫州もまた漢水の南方で軍勢をおさめて、曹操とくつわを並べて天下を争っておられます。いま曹操は、大乱を切り従え、ほぼ平定し終り、さらに荊州を破って、威勢は四海を震わせております。英雄も武力を用うる余地なく、そのために劉豫州は遁走してここに来られたのです。将軍よ、あなたも自分の力量をはかって、この事態に対処なされませ。もしも、呉・越の軍勢をもって中国に対抗できるのならば即刻国交を断絶されるに越したことはありませんし、もしも対抗できないのならば、兵器甲冑を束ね、臣下の礼をとってこれに服従なさるがよろしいでしょう。いま将軍は、外では服従の名義に寄りかかりつつも、内では引き伸ばし政策をとってておられます。事態が切迫しているのに決断をお下しにならないならば、災禍は日ならずしておとずれるでありましょう。」
孫権がいった、「もしも君のいうとおりだとしたならば、劉豫州はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」
諸葛亮は答えた、「田横は斉の壮士にすぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」
孫権はむっとして、「わしは呉の全部の土地、十万の軍勢をそっくりそのままもちながら、人の制肘を受けるわけにはいかない。わしの決断はついた。劉豫州以外に曹操に当れる者はいないのだが、しかし劉豫州は曹操に敗れたばかりだ。この後、どうしてこの難局にぶつかることができようぞ」といった。
諸葛亮は次のように述べた、「劉像州の軍は長阪において敗北したとは申しましても、現在、逃げ帰った兵と関羽の水軍の精鋭あわせて一万人。劉琦が江夏の軍兵を集めればこれまた一万人を下りません。曹操の軍勢は、遠征で疲れ切っております。聞けば、劉豫州を追って、軽騎兵は、一日一夜、三里以上も馳せたとのこと。これは、いわゆる『強弓に射られた矢もその最後は魯のきぬさえ貫けない』という事態です。だから、兵法では、これを嫌って、『必ず上将軍(前軍の将)は倒される』(『孫子』軍争篇)といっております。そのうえ、北方の人間は、水戦に不馴れです。また荊州の民衆が曹操になびいているのは、軍事力に圧迫された結果であり、心から従っているのではありません。いま、将軍がほんとうに勇猛なる大将に命じて兵士数万を統率させ、劉豫州と計をともにし力を合せることがおできになるならば、曹操の軍勢を撃破するのはまちがいありません。曹操軍は敗北したならば、必ず北方へ帰還いたしましょう。そうなれば、荊・呉の勢力は強大になり、三者鼎立の状況が形成されます。成功失敗のきっかけは今日にあります。」
孫権は大いに喜び、すぐさま、周瑜・程普・魯粛ら水軍三万を派遣し、諸葛亮にっいて先主のもとへ行かせ、力を合せて、曹公を防がせた。
曹公は赤壁で敗北し、軍勢を引きあげて鄴に帰った。
先主はかくて江南の地を手中におさめ、諸葛亮を軍師中郎将にして、零陵・桂陽・長沙の三郡を治めさせ、その賦税を調達して、軍事費にあてた。
建安十六年(211)、益州の牧劉璋が法正をつかわして、先主を迎え入れ、北方の張魯を攻撃させた。諸葛亮は関羽とともに刑州をおさえた。先主は葭萌から引き返して劉璋を攻撃し、諸葛亮は張飛・超雲らとともに軍勢を率いて長江をさかのぼり、手分けして郡県を平定し、先主とともに成都を包囲した。
成都が平定されると、諸葛亮を軍師将軍·左将軍府事(当時、先主は左将軍であった)に任命した。先主が出征するとき、諸葛亮はつねに成都の留守を守り、食糧と軍事力を充足させた。
二十六年(221)、群臣は先主に帝号を名乗るよう勧めた。
先主が承知しないでいると、諸葛亮は説得していった、「昔、〔後漢の初め〕呉漢・耿弇(こうえん)らが最初、世祖(光武帝)さまに帝位につくようおすすめし、世祖が前後数度にわたって辞退すると、耿純(こうじゅん)は、『天下の英雄はものほしげに、望みのものを手に入れることを期待しております。もし、われわれの意見にお逆らいになったならば、士大夫はめいめいひきさがって主君を求め、あなたに従うものはいなくなるでしょう』と進言いたしました。世祖は耿純(こうじゅん)のことばの切実さに心を動かされ、その結果、承諾なさいました。現在、曹氏が漢朝を簒奪し、天下に主なきありさまです。大王さまは劉氏の末裔にましまし、その血筋を承けて出現なさったのでありますから、今、帝位につかれるのは、当然のことであります。士大夫が、大王きまにつき従って久しい間苦労して参りましたのもまた、耿純(こうじゅん)の言葉どおりほんの小さな恩賞が欲しいからにすぎません。」
先主はかくして帝位につき、諸葛亮を丞相に任命した。
その任命書にいう、「朕は王室の不幸に遭遇して、皇統を継承し、つつしみと恐れを抱きつつ、あえてくつろぐこともなく、民衆の生活を安定させることを願っているが、まだ安んじることができないでいるのを懸念している。ああ、丞相諸葛亮よ、朕の意志を充分にくみとり、怠りなく咲の欠点を輔佐し、重なる光輝を宣べて、天下を照らし出すのを助けよ。君、それつとめよ。」
諸葛亮は、丞相の位をもって尚書(詔勅を掌る)の事務を担当し、仮節(軍令を犯した者を死刑にできる)となった。張飛のなくなった後は、司隷校尉をも兼務した。
章武三年(223)春、先主は永安で重体におちいり、成都から諸葛亮を呼びよせて、事を託し、彼に向っていった、「君の才能は曹丕の十倍はあり、きっと国家を安んじ、最後には、大事業をなしとげることができよう。もしも後継ぎが輔佐するに足る人物ならば、これを輔佐してやってほしい。もしも、才能がないならば、君は国を奪うがよい。」
諸葛亮は涙を流して、「臣は心から股肱としての力を尽し、忠誠の操をささげましょう。最後には命を捨てる所存です」といった。
先主はさらに詔を下して後主をいましめた、「汝は丞相とともに仕事をし、父と思ってつかえよ。」
建興元年(223)、諸葛亮を武郷侯に封じ、幕府を開いて政務をとりしきらせた。しばらくして、また益州の牧を兼務させた。政治は大小を問わず、すべて諸葛亮が決定した。南中の諸郡が、そろって反乱をおこしたが、諸葛亮は、君主の喪にあったばかりなので、まだすぐに兵力を加えることをしなかった。また呉に使者を派遣して、和親を結び、かくて同盟国となった。
三年(225)春、諸葛亮は軍勢をひきいて南征し、同年秋ことごとく平定した。軍需物資が出るようになり、国はそれで豊かになった。そこで軍隊を整備し、演習を行なって、次の大軍事行動にそなぇた。
五年(227)、諸軍を統率して北方漢中に駐屯したが、出陣するにあたって、上疏していった。
「先帝は、始められた事業がまだ半分にも達しないのに、中道にしておかくれになりました。今、天下は三つに分裂し、益州は疲弊しきっております。これはまことに緊急の、生きるか死ぬかの瀬戸際です。しかし、近侍の文官は、宮中内で励み、忠実な臣下は外で自分の身を忘れてつとめております。つまり、先帝の格別の恩顧を追慕し、これを陛下にお報いしようと願っているからです。
陛下は、まさに御耳を開き、先帝のお残しになった徳を輝かし、勇士の気持をお広げになるべきであって、みだりに自分をなおざりにして、誤った比職を引用なさって、道義を失い、忠言・諌言の道を閉ざしてはなりません。宮廷と政府が、ともに一体となって、善悪の賞罰をはっきりさせ、食い違いがあってはなりません。もしも、悪事をなし、法律を犯すもの、また忠義や善事をなするのがあれば、当該官庁に下げ渡して、その刑罰・恩賞を判定させ、陛下の公平な政治を明らかにすべきで、私情にひかれて、内外で法律に相違を生じさせてはなりません。
侍中・侍郎の郭攸之・費禕。董允らは、みな忠良で、志は忠実・純粋であります。それゆえにこそ、先帝は抜擢なさって陛下のもとにお残しになったのです。私が思いますに、宮中の事がらは、大小の区別なく、ことごとくこれらの人々にご相談なさってからのち、施行なさったならば、かならずや手落ちを補い、広い利益が得られるでありましょう。
将軍の向寵(しょうちょう)は、性質・行為が善良・公平で、軍事に通暁しており、かつて試みに用いてみましたところ、先帝は有能だといわれました。それゆえにこそ人々の意見によって、向寵は督(司令官)に推挙されました。私が思いますに、軍中の事柄は、ことごとく彼にご相談なされば、必ずや軍隊を仲むつまじくさせ、優劣おのおの所を得るでありましょう。
秀れた臣下に親しみ小人物を遠ざけたのが、前漢の興隆した原因であり、小人物に親しみ秀れた臣下を遠ざけたのが、後漢の衰微した理由であります。先帝ご在世のころつねに臣(わたくし)とこのことを議論なさり、〔後漢末の〕桓帝。霊帝に対して、敷息なさり、痛恨なさったものです。
侍中・尚書・長史・参軍はみな誠実善良で、死しても節を曲げないものたちばかりであります。どうか、陛下にはこれらのものたちを親愛なさり、信頼なさってください。そうすれば、漢室の隆盛は、日を数えて待つことができるでありましょう。
臣(わたくし)はもともと無官の身で、南陽で農耕に従事しておりました。乱世において生命をまっとうするのがせいぜいで、諸侯に名声が届くことなど願っておりませんでした。先帝は臣を身分卑しきものとなさらず、みずから身を屈して、三たび臣を草屋のうちにご訪問下さり、私に当代の情勢をお尋ねになりました。これによって、感激いたしまして、先帝のもとで奔走することを承知いたしました。そののち〔長阪の〕戦いに敗北し、そのさいに任務を受けて危難のさ中に命令を奉じて尽力し、それから二十一年が経過しました。
先帝は臣のつつしみ深いところを認められた結果、崩御なされるにあたって、臣に国家の大事をおまかせになりました。ご命令をお受けしてから、日夜憂悶し、委託されたことについてなんら功績をあげることなく、先帝のご明哲を傷つけることになるのではないかと恐懼し、そのため〔夏の〕五月に瀘水を渡り、荒地深く侵入いたしました。
現在、南方はすでに平定され、軍の装備もすでに充足しておりますから、まさに三軍を励まし率いて、北方中原の地を平定すべきです。願わくは愚鈍の才をつくし、凶悪なものどもをうち払い、漢室を復興し、旧都洛陽を取り戻したいと存じます。これこそ臣が先帝の恩にお報いし、陛下に忠義を尽くすために果さねばならぬ職責です。
利害を掛敵し、進み出て忠言を尽くすのは、郭攸之・費禕・董允の任務であります。どうか陛下には、臣に賊を討伐し、漢室を復興する功績をおまかせください。もし功績をあげられなければ、臣の罪を処断して、先帝のみたまにご報告ください。〔もしも徳を盛んにする言葉がなければ〕郭攸之・費禕・董允らの怠慢をお責めになり、その咎を明らかになさってください。陛下もまたよろしくみずからお考えになり、臣下に善道をお訊ねになり、正しい言葉を判断なさってお収めください。
深く先帝のご遺言を思い起しまして、臣は大恩を受け、感激にたえません。今、遠く去らんとするに当り、この表を前にして涙が流れ、申しあげることばを知りません。」
かくて出征し、沔陽(べんよう)に駐屯した。
六年(228)春、諸葛亮は斜谷(やこく)道から出て、郿(び)を奪うと宣伝し、趙雲と鄧芝をおとりの軍として、箕谷(きこく)に陣構えをさせると、魏の大将軍曹真が総勢をあげてこれを防禦した。諸葛亮自身は諸軍を率いて那山を攻撃したが、その兵陣は整然とし、賞罰は厳格で、号令ははっきりとしていた。南安・天水・安定の三郡が魏に背いて諸葛亮に呼応し、関中は震動した。
魏の明帝は西へ出向いて長安を鎮め、張郃に命じて諸葛亮を防がせた。諸葛亮は馬謖に諸軍を指揮させて先鋒とし、張郃と街亭で戦わせたが、馬謖は諸葛亮の指示にそむき、行動は妥当性を欠き、張郃に大敗した。諸葛亮は西県の千余家を移住させ、漢中に帰り、馬謖を死刑にして兵士に謝罪した。
上奏して、「臣(わたくし)はつたない才能ながら、厚かましくも分不相応な位につき、みずから指揮棒をとって三軍を叱咤いたしましたけれども、軍規を教え軍令を明らかにすることができず、大事にのぞんでおじけづき、街亭では命令にそむかれるという誤ちを犯し、箕谷では不謹慎のための失策を犯すことになりました。その責任はすべて臣の任命に方針がなくて、人をみわける明哲さがなく、事態に対処するのに、盲目であることが多かったことにあります。『春秋』では、責めは総司令官にあるとしており、臣はまさにそれに該当いたします。どうか位を三階級下げ、その責任をただしてください。」
その結果、諸葛亮を右将軍とし、丞相の事務をとり行なわせ、統括する職務は以前どおりとした。
同年冬、諸葛亮はまたしても散関から出撃し、陳倉を包囲したが、曹真がこれを防ぎ、諸葛亮は兵糧つきて帰還した。魏の将軍の王双が騎兵をひきいて諸葛亮を追撃したが、諸葛亮は一戦をまじえてこれを破り、王双を斬り殺した。
七年(229)、諸葛亮は陳式(宋本『資治通艦』では陳戒と作る)をやって、武都郡・陰平郡を攻撃した。魏の雍州刺史郭淮が、軍勢を率いて陳式を撃とうとしたので、諸葛亮はみずから出撃して建威にまで行き、郭淮は退却した。かくて二郡を平定した。
諸葛亮に詔勅が下された、「街亭の敗戦は馬謖の責任であった。しかるに君は自分の責めとし、あくまでも自分の位を引き下げようとしたため、その気持に違うまいとして〔君の〕固守するとおりに許可したのである。昨年は軍隊の威光を輝かせ、王双を打ち首にし、今年はまたも出征して、郭淮は遁走した。氐・羌を降伏させ、二郡をふたたび恢復した。君の威光は凶暴な敵を鎮圧し、その功績は明らかである。現在、天下は激動し、元凶はまださらし首になっていない。君は大任を受け、国家の柱石であるにもかかわらず、長い間みずから官位を低くおとしめていては、大いなる功績を輝かせることにならない。いま君を丞相に復帰させる。君よ、辞退するでないぞ。」
九年(231)、諸葛亮はまたしても祁山に出撃し、木牛を使って輸送をおこなったが、食糧が尽きて撤退した。魏の将軍張郃と合戦し、張郃を射殺した。
十二年(234)春、諸葛亮は大軍をことごとく率いて、斜谷を通って出撃し、流馬を用いて輸送をおこなった。武功郡五丈原に根拠地を置き、司馬宣王と渭南で相い対した。諸葛亮はつねづね食糧の供給がとぎれ、おのが志を伸ばせないことを残念に思っていた。そのため兵士を分けて屯田させ、長期間の駐留の基礎とした。耕す者は、渭水の岸辺で居住民と雑居したが、民衆は安心し、軍隊も自分勝手な真似をしなかった。
相い対時すること百日あまり、その年の八月に、諸葛亮は病に倒れ、軍中で死去した。時に五十四歳。〔蜀〕軍が撤退したのち、司馬宣王は、諸葛亮の軍営や砦のあったところを視察して、「天下の奇才である」といった。
諸葛亮は遺言して、漢中の定軍山に葬らせた。山を利用して墳墓を作らせ、塚は棺を入れるだけの広さにし、そのとき着用の服に身をつつませ、墓に収めるための器物は用いさせなかった。
詔勅にいう、「思うに、君は文武の才をかねそなえ、叡智と誠実さを有し、先帝の遺詔を受けて孤児をあずかり、朕の身を助けてくれた。絶えた家、衰えた国を復興し、その志は動乱をしずめることにあった。かくて六軍を整備し、出征しない年はなかった。すぐれた武勲は明るく輝き、その威光は世界の果てにまで浸透した。その功績は漢の末年においてまさに樹立されんとし、伊尹・周公の巨大な業績に加えられようとしていた。どうしたことか、天にあわれみなく、事業が完成を見る前に、病にかかってみまかった。咲はために心悲しみ、心臓は張り裂けんばかりである。そもそも、徳をあがめ、功をあとづけ、行ないを記し、諡をつけるのは、〔死者の名を〕将来に輝かせ、書物に載せて不朽にするためである。今、使持節左中郎将の杜瓊を使者として、君に、丞相武郷侯の印綬を贈り、君に忠武侯と諡する。霊魂というものがあるならば、この恩寵と栄誉を喜んでくれたまえ。ああ、哀しいかな。ああ、哀しいかな。」
以前、諸葛亮は後主劉禅に上表していった、「成都には桑八百株、やせ田が十五頃(けい)あり家族の生活は、それで余裕があります。臣が出征いたしますときには、特別の仕度もなくわが身に必要な衣食は、ことごとくお上からちょうだいいたしますので、その他に財産を作って、少しでも利益を得たいと思うことはありません。もし、臣が死にましても、内に余分のきぬがあったり、外にあまった財産があったりして、陛下のみこころに背くようなことはありません。」
死に及んで、その言葉のとおりであった。
諸葛亮は生れつき創造力があって、連発式の弩(いしゆみ)を工夫し、木牛・流馬などは、みな彼の創意によるのであった。兵法を応用して、八陣の図を作成したが、ことごとく要領をえていたという。
諸亮の言葉・布告・書簡・上奏文には、見るべきものが多くあり、別に一つの文集となっている。
景耀六年(263)春、詔勅が出され、諸葛亮のために、沔陽(べんよう)の地に霊廟が建立された。秋、競の鎮西将軍鍾会が蜀を征伐し、漢川まで来ると、諸葛亮の霊廟に詣で、軍士に命令を下し、諸葛亮の墳墓の近くで、草を刈ったり、薪を採ったりすることを禁じた。
諸葛亮の弟の諸葛均は長水校尉まで昇進した。諸葛亮の子の諸葛瞻(せん)は父の爵をうけついだ。
諸葛氏集目録
開府作牧第一、権制第二、南征第三、北出第四、計算第五、訓厲(くんれい)第六、綜覈(そうかく)上第七、綜覈下第八、雑言上第九、雑言下第十、貴和第十一、兵要第十二、伝運第十三、与孫権書第十四、与諸葛瑾書第十五、与孟達書第十六、廃李平第十七、法検上第十八、法検下第十九、科令上第二十、科令下第二十一、軍令上第二十二、軍令中第二十三、軍令下第二十四
右二十四篇、あわせて十万四千百十二字。
臣(わたくし)陳寿らは申しあげます。臣が以前、著作郎の職についておりましたとき、侍中・領中書監・済北侯の臣荀勗(じゅんきょく)、中書令・関内侯の臣和嶠(わきょう)の上奏により、臣どもはもと蜀の丞相諸葛亮に関する事を整理することになりました。諸葛亮は危機にした国家を輔佐し、要害の地をたのんで服従いたしませんでした。しかしながらなお彼の言辞を記録にとどめられ、善事を見のがすことを恥となさったのは、まことに大いなる晋朝の光明、最高の徳義のあらわれであり、恩沢がはてしなく行きわたっているしるしであって、古えより以来、いまだかつてこれに類することはありません。重複するところはすべて削除し、分類に従って並べ、全部で二十四篇といたしました。篇の名称は右のとおりであります。
諸葛亮は幼少より抜群の才能、英雄の器量をめった人物でありまして、身長八尺、容貌ははなはだすぐれ、当時の人々は、彼を高く評価しておりました。漢末の動乱に遭遇し、叔父の諸葛玄について荊州に避難し、みずから農耕に従事して、名誉や出世を求めませんでした。
そのとき、左将軍の劉備は諸葛亮の並はずれた器量を認めて、三度も草ぶきのいおりの中に諸葛亮を訪問いたしました。諸葛亮は、劉備の傑出した勇姿に深く心を動かし、かくて胸襟を開き真心を吐露して、厚く互いに〔主従の〕契りをかわしたのです。
魏の武帝が荊州に南征し、劉琮が州をあげて臣服したとき、劉備は不利な状況に立たされ、軍勢は少なく、身の置き所もなくなってしまいました。諸葛亮は当時二十七歳でしたが、奇策をたて、みずから孫権のもとへ使者として出向き、呉に救援を求めました。孫権は以前から劉備に敬服していたうえに、諸葛亮のすぐれた器量を目のあたりにして、たいへんに彼を尊重し、即座に三万の軍勢を派遣して劉備を助けました。劉備はそれで武帝と交戦することができ、大いにその軍勢をうち破り、勢いに乗じて勝利を重ね、江南をことごとく平定したのであります。
のちに劉備はまた西に向い益州を手に入れました。益州が平定されたのち、諸葛亮を軍師将軍に任命いたしました。劉備は帝号を称すると、諸葛亮を丞相・録尚書事に任命いたしました。
劉備が死去するに及び、後継ぎが幼かったため、政治は大小となくすべて諸葛亮が取りしきることになりました。こうして外は東呉と連盟し、内は南越を平定して、法律を作り制度を施き、軍隊を整備し、機械や技術はすべて最高を究め、刑罰・命令は厳格かつ明噺で、信賞必罰、悪事をなした者は必ず罰し、善事をなした者は必ず顕彰したため、官吏は悪を受けつけず、人々はみずから努力せんと心がけ、道に落ちているものを拾う人もなく、強者が弱者を侵害することもなくなるに至りまして、その教化は世の中を引き締めたのであります
この時にあたって、諸葛亮の本心は、進んでは、龍が飛びあがり、虎が獲物を狙うごとく四海の内を統一することを望み、退いては、辺境を股にかけて、天下を動揺させることを望んでおりました。また、自分がいなくなれば、中原地帯を踏破し、中国と対抗できる者がいなくなると考えました。そのために軍事行動をやめることなく、たびたびその武力を誇示しました。
しかしながら、諸葛亮の才能は、軍隊の統治には長じておりましたが、奇策の点で劣り、人民を統治する才幹のほうが将軍としての才略よりすぐれておりました。しかも敵として傑出した人物を相手にしなければならなかったうえに、兵数も対等ではなく、本来守備にまわるべきところを攻撃にまわらなければならなかったため、連年軍隊を発動しながら勝利をおさめることができなかったのです。
昔〔漢の〕簫何は韓信を推薦し、〔春秋時代、斉の〕管仲は王子城父を推挙しましたが、それはみな自分の長所がすべての面をおおうことが不可能なのを忖度したからであります。諸葛亮の才能や政治は、そもそも管仲や簫何に次ぐものでありましたのに、当時の名将の中に王子城父や韓信のような人物がおりませんでした。そのために功業は次第に衰え、大義は遂行されなかったのでありましょうか。思うに、天命の帰するところは定まっていて、智力をもって争うことは不可能なのです。
青龍二年(234、濁の建興十二年)春、諸葛亮は軍勢を率いて武功に出陣し、兵士を分けて屯田させ、長期駐留の基礎にいたしました。その年の秋、病気でなくなりましたが、民衆は追慕し、語り草にしております。現在でも、梁・益の民衆で、諸葛亮を賞讃する者は、その言葉がまだ耳に残っているかのように語ります。「甘棠(かたなし)」の詩は召公の徳を歌い、鄭の国の人々は子産の善政を歌っていますけれども、それもはるか過去の譬喩とは申せません。猛軻(もうか)は、「安らぎを与える政策をもって民衆を使役する場合、こきつかわれても怨まず、生命尊重の政策をもって人を処刑する場合、殺されても怨まない」(『孟子』尽心篇上)といっていますが、まったくそのとおりです。
論者たちの中には、諸葛亮の文章がきらびやかでなく、あまりにる繰り返しが多くすべてにわたって配慮しすぎることを訝しむ者がございます。臣が考えますに、皋陶(こうよう)は大いなる賢者であり、周公旦は聖人でありますが、彼らを『尚書』によって考えてみますと、皋陶(こうよう)の謨(ぼ)は簡潔にして優雅であり、周公旦の誥(こく)は煩瑣にして周到であります。その理由は、皋陶(こうよう)は舜・禹を相手に語っているのであり、周公旦は群臣に対して誓っているからであります。諸葛亮が語りかけた相手は、すべて民衆や平凡なる士人ですから、その文旨は深遠とはなりえないわけです。
しかしながら、その教訓や遺言は、すべて万事に正しく対処したもので、公正誠実の心は、文章ににじみ出ており、かの人の意図を知るのに充分でありまして、現代においても有用なるのが含まれております
伏して思いますに、陛下は古えの聖人に続かんと努力され、のびやかな心をもって、忌みしりぞけられることがございません。それゆえ、敵国の誹謗の発言についても、勝手に言わせておいて、改めさせたり嫌悪なさったりはなさいません。すべてのものを拒否されない態度を明らかにしておられるわけです。謹んで採録して書写し、著作郎のもとに上呈いたしました。臣陳寿はまことに恐擢いたしております。
頓首、頓首。死罪、死罪。泰始十年(274),二月一日癸巳、平陽侯の相・臣陳寿、奏上いたします。
諸葛喬(きょう)は字を伯松といい、諸葛亮の兄の諸葛瑾の二番目の子であり、もとの字は仲慎といった。兄の元遜とともに当時評判が高かったが、論者の意見では、諸葛喬は才能では兄に及ばないが、性質は兄より秀れているということだった。
最初、諸葛亮にまだ子供がなかったとき、喬を後継ぎに求めたところ、〔呉に仕えていた〕瑾は孫権に言上して、喬を西にやった。諸葛亮は喬を自分の後継ぎにした。だからその字を改めたのである。〔諸葛喬は〕附馬都尉を拝命し、諸葛亮について漢中にやってきた。
〔諸葛喬は〕二十五歳で、建興六年(228)に没した。その子の諸葛攀(はん)は、行護軍翊武将軍にまで出世したが、やはり早逝した。
〔諸葛瑾の子の〕諸葛恪(かく)が呉で処刑され、子孫がみな絶えてしまったのに対して、諸葛亮は別に子孫をもうけていたので、攀は〔呉に〕帰って、瑾の後を継いだ。
諸葛瞻(せん)は字を思遠という。建興十二年(234)、諸葛亮が武功に出陣したとき、兄の諸葛瑾に手紙を送って、「瞻はいまもう八歳で、利巧なかわいい子ですが、早成して、大物にならないのではないかと気がかりです」と述べている。
十七歳のとき、公主(内親王)をめとり、騎都尉を拝命した。その翌年、羽林中郎将となり、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された。諸葛瞻は書画が巧みで、記憶力がよく、蜀の人々は諸葛亮を追慕して、みな彼の才能を愛した。朝廷にちょっとした善政やめでたい事があるたびに、諸葛瞻がいい出したことでなくとも、人々はみなその話を伝えあって、「葛侯のなさったことだ」といった。このため、すばらしい評判がみちみち、彼の実質以上でさえあった。
景耀四年(261)、行都護衛将軍となり、輔国大将軍・南郷侯の董厥(とうけつ)とともに、平尚書事となった。
六年(263)冬、魏の征西将軍鄧艾が蜀を討ち、陰平から景谷道を通り侵入してきた。諸葛瞻は諸軍を率いて涪(ふ)に赴き駐留していたが、先鋒隊が敗北したので、退却し、綿竹県に陣どった。鄧艾は手紙を送り、諸葛瞻を誘って、「もしも降伏したならば、必ず上表して琅琊王にとりたてよう」といってきた。諸葛瞻は激怒し、鄧艾の使者を斬った。かくて合戦したが、大敗し、前線で死亡した。時に三十七歳。軍勢はすべて散り散りになって逃亡した。鄧艾は長駆して〔蜀の都〕成都に到達した。
諸葛瞻の長男諸葛尚は、父とともに戦死した。次男の諸葛京と諸葛攀の子の諸葛顕らは、咸熙元年(264)、河東に移された。
董厥(とうけつ)は、諸葛亮が丞相であったとき、その幕府の令史であった。諸葛亮は彼を賞めて、「董令史は、秀れた人物である。私はいつも彼と話をするが、思慮は深く過不足がない」といった。転任して主簿となった。諸葛亮の死後、段々と昇進して尚書僕射となり、陳祇(ちんし)に代って尚書令になり、大将軍平台事(べんだいじ)に昇進し、義陽県出身の樊建(はんけん)が代って尚書令になった。
熙十四年(251)、〔焚建は〕校尉の資格で呉に使いしたが、ちょうど孫権は重病で、樊建と直接、会見することがなかった。孫権は諸葛恪に質問して、「樊建は宗預(そうよ)とくらべてどうだ」というと、諸葛恪は、「才能・見識は宗預に及びませんが、性質は彼よりまさっています」と答えた。のちに侍中となり、尚書令の官をあずかった。
諸葛瞻・董厥・樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから、官の黄皓(こうこう)が、政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって、政治を矯正することができなかった。しかし、樊建だけは、黄皓と特に親しく往来することがなかった。
蜀が敗北した翌年の春、董厥・樊建らはともに都(晋の首都洛陽)に上り、とめに相国参軍となった。その年の秋、ともに散騎常侍の官職を兼任し、蜀の人々の慰撫にあたった。
評にいう。諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、官職を少なくし、時代にあった政策に従い、まごころを開いて、公正な政治を行なった。
忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず賞を与え、法律を犯し、職務怠慢な者は、身うちであっても、必ず罰した。罪に服して反省の情をみせたものは、重罪人でも必ずゆるしてやり、いいぬけをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。善行は小さなことでも必ず賞し、悪行は些細なことでる必ず罰した。あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうかを調べ、うそいつわりは、歯牙にるかけなかった。
かくて、領土内の人々は、みな彼を尊敬し愛した。刑罰・政治は厳格であったのに怨むものがいなかったのは、彼の心くばりが公平で、賞罰が明確であったからである。政治のなんたるかを熟知している良才であり、〔春秋時代の〕管仲・〔漢の〕簫何といった名相の仲間といってよいであろう。
しかし、毎年軍勢を動かしながら、よく成功をおさめることができなかったのは思うに、臨機応変の軍略は、彼の得手でなかったからであろうか。
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