2021年4月24日土曜日

正史『三国志』黄忠伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

黄忠伝



黄忠は字を漢升といい、南陽郡の人である。


荊州の牧劉表は彼を中郎将に任じ、劉表の従子の劉磐(りゅうばん)とともに長沙の攸(ゆう)県を守らせた。


曹公は荊州をうち破ると、かりに裨(ひ)将軍の官につけ、そのまま元の任務を取りおこなわせ、長沙太守の韓玄の統制下においた。


先主が南方の諸郡を平定すると、黄忠は臣下の礼をとり、つき従って蜀に入国した。葭萌(かぼう)より任を受け、引き返して劉璋を攻撃した。黄忠はつね にまっ先に駆けて陣地をおとし、その勇敢さは三軍の筆頭であった。益州が平定された後、討虜将軍に任命された。


建安二十四年(219)、漢中の定軍山において、夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に精悍であったが、黄忠は鋒を突きたて、あくまでも進撃し、率先して士卒を励まし、鍾と太鼓は天を振わせ、歓声は谷を動かすほどで、一度の戦闘で夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗北を喫した。征西将軍に昇進した。



この年、先主は漢中王になり、黄忠を後将軍に起用するつもりであったが、諸葛亮が先主に申し出た、「黄忠の名声人望は、もとめと関羽馬超と同列ではありません。それを今ただちに、同等の位につかせようとしておられます。馬超・張飛は近くにいて、自分の目で彼の手柄を見ておりますから、まだご趣旨を理解させることができましょうが、関羽は遠くでこれを聞いて、おそらく喜ばないにちがいありません。どうもよくないのではないでしょうか。」


先主は、「わしが自分で彼に説明しよう」といい、かくて関羽らと同等の官位につけ関内(かんだい)侯の爵をたまわった。


翌年逝去し、剛(ごう)侯の諡号を追贈された。子の黄叙(こうじょ)は早逝しており、後継者はなかった。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


2021年4月23日金曜日

正史『三国志』馬超伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

馬超伝



馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵県の人である。


父の馬騰は、〔後漢の〕霊帝の末期、辺章や韓遂たちとともに西州で旗あげした。初平三年(192)、韓遂と馬騰は軍勢を率いて、長安に赴いた。漢朝では、韓遂を鎮西将軍に任じて金城に帰還させ、馬騰を征西将軍に任じて郿に駐屯させた。後に馬騰は長安を襲撃したが、敗北して涼州に逃げ帰った。


司隷校尉鐘繇は関中の抑えとして赴任すると、韓遂と馬騰に文書を送って、服従する場合と反抗する場合の利害について説明してやった。馬騰は馬超を鐘繇のもとにやり、彼につき従って平陽県にいる郭援と高幹を討伐させたところ、馬超の将軍龐徳(悳)は みずから郭援の首級をあげた。


後に、馬騰は韓遂と不仲になり、都に戻ることを願った。そこで〔馬騰を〕召し寄せて衛尉とし、馬超を偏将軍に任じ都亭侯に封じて、馬騰の部下を掌握させた。



馬超は軍勢を統率したのち、韓遂と連合するとともに、楊秋・李堪・成宜らとよしみを結び、軍を進めて潼関までやってきた。


曹公はただ一人馬に乗り、韓遂・馬超と会談した。馬超は剛力を頼みに、ひそかに突き進んで曹公をつかまえるつもりだったが、曹公の左右を警護する将の許褚が目をいからせて彼を睨んでいるので、思いきって手を下せなかった。


曹公は賈詡の策略を用い、馬超と韓遂の仲を引き裂いたので、たがいに猜疑しあうようになり、軍はそのため大敗北を喫した。馬超は逃走して諸蛮族を配下におさめた。曹公は安定まで追撃したが、ちょうど北方で事件がおこったので、軍を引いて東に帰った。


楊阜は曹公に進言した、「馬超は、〔前漢の〕韓信・鯨布のような武勇をもち、羌族の心をよくつかんでおります。もし大軍が引き上げたあと、彼に対する防備を厳重に行なわないならば、隴上の諸郡はわが国の領土ではなくなるでしょう。」


馬超ははたして諸蛮族を率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はすべてこれに呼応した。涼州刺史の韋康を殺害して、冀城を拠点とし、その軍勢を配下に収めた。馬超はみずから征西将軍と称し、幷州の牧を兼務し、涼州の軍事都督となった。


韋康のもとの吏民楊阜(ようふ)・姜叙(きょうじょ)、梁寛(りょうかん)・趙衢(ちょうく)らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜叙が鹵城で兵をあげ、馬超は出陣して彼らを攻めたが、下すことができなかった。〔その隙に〕梁寛と趙衢が冀城の城門を閉ざしたので、馬超は城に入ることができなくなった。進退谷(きわ)まってあわてふためき、かくて漢中に逃走して張魯のもとへ身を寄せた。


張魯はともに事を計るに足らぬ人物だったので、内心いらだちを覚え、先主が成都にいる劉璋を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。



先主が使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。城中はおそれおののき、劉璋はただちに降伏した。馬超を平西将軍に任じて、臨沮を治めさせ、前のとおり都亭侯に封じてやった。


先主は、漢中王になると、馬超を左将軍。仮節に任じた。章武元年(221)、驃騎将軍に昇進し、涼州の牧を兼務し、斄郷(りきょう)侯に爵位があがった。


辞令にいう、「朕は、不徳の身をもって、至尊の位を継ぎ、宗廟を継承することになった。曹操父子は、代々罪行を重ねており、朕はそのため心痛み、あたかも頭痛を病んでいるかのようである。四海の内は怨み憤って、正義に帰順し根本に立ち帰らんとし、氐族・羌族も服従し、獯鬻(くんいく、北方異民族)までも道義を慕っている。君の信義は北方の地に明らかで、威光と武勇はともに輝きわたっている。だからこそ君に任務を委ね、ほえたける虎のごとき勇猛さをかかげて、万里の彼方まで正しく治め、民衆の苦しみを救わせるのである。さあ、わが朝の教化を広め明らかにし、遠近の民をなつけ安んじ、賞罰を慎重にとり行ない、よって漢朝の王者たるべき幸運を固め、天下の人々の望みに答えよ。」


二年(222)逝去した。時に四十七歳であった。


死にのぞんで上疏し、「私の一門、二百人あまりは、曹孟徳によって誅殺されほとんど絶滅いたしましたが、ただ従弟の馬岱だけが残っております。衰えた家の祭記を継ぐべき男として、そのことをくれぐれも陛下にお託ししたいと存じます。あとはいい残すことるありません」と述べた。


馬超に威侯の諡号を追贈した。子の馬承が後を継いだ。馬岱は平北将軍の位にまでのぼり、陳倉侯にまで睡爵位があがった。馬超の娘は、安平王劉理の妻となった。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


正史『三国志』趙雲伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

趙雲伝



趙雲は字を子龍といい、常山郡真定県の人である。


もと公孫瓚の配下であったが、公孫瓚が先主を派遣して田楷を助けて衰紹を防がせたとき、趙雲は随行することとなり、先主の主騎になった。


先主が曹公によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。〔おかげで〕どちらも危難を免れることができた。牙門将軍に昇進した。


先主が蜀に入国すると、趙雲は荊州に留まった。


先主は葭萌から引きかえして劉障を攻撃し、諸葛亮を召しよせた。諸葛亮は趙雲や張飛らを率いてともに長江をさかのぼって西上し、郡県を平定した。江州に到着すると、趙雲に別の川を通って江陽に上り、諸葛亮と成都でおち合うことを命じた。成都が平定されたのち趙雲を翊軍(よくぐん)将軍に任じた。


建興元年(223)、中護軍・征南将軍になり、永昌亭侯に封じられた。昇進して鎮東将軍になった。



五年(227)、諸葛亮に従って漢中に駐留した。翌年、諸葛亮は出兵し、斜谷街道を通ると宣伝した。曹真は大軍を派遣してこれにあたらせた。諸葛亮は趙雲と鄧芝に命じて曹真の相手をさせておき、自身は祁山を攻撃した。趙雲と鄧芝の軍が弱小なのに対して敵は強力だったので、箕谷で敗北したが、しかし軍兵をとりまとめて守りを固め、大敗にはいたらなかった。軍が撤退すると、鎮軍将軍に位を下げられた。


七年(229)、逝去し、順平侯の諡号を追贈された。それより前、先主の時代には、ただ法正だけが諡号を贈られた。後主の時代になって、諸葛亮は世をおおう功績・徳義を立て、蔣琬と費禕は国家の重責を荷ったために、また諡号を受けた。陳祇は寵愛されて、特に格別のご汰を受け、夏侯覇は遠方より国家に帰順し、そのためにやはり諡号をおくられた。この時になって関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠および趙雲がはじめて諡号を追贈された。当時の世論は名誉としてもてはやした。


趙雲の子の趙統があとを継ぎ、官は虎賁中郎。督行領軍にまで昇った。次男の趙広は牙門将となり、姜維に随行して沓中に行き、前線で戦死した。



評にいう。


関羽・張飛はいずれも一万人の敵を相手にできる男と賞讃され、この時代の勇猛の臣であった。関羽は曹公に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔を釈放し、ともに国士の風格があった。しかし、関羽は剛情で自信をもちすぎ、張飛は乱暴で情をもたず、その欠点のため身の破滅を招いたのは、道理からいって当然である。


馬超は武力と猛勇をたのんでその一族を滅亡に導いたのは、残念なことである。しかしよく窮地から抜けでて安泰を招来したのは、まだましではなかろうか。


黄忠・趙雲が果敢・勇猛によって、ともに武臣となったのは、灌嬰・滕侯(夏侯嬰。いずれも漢の高祖の武臣)のともがらであろうか。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


正史『三国志』張飛伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

張飛伝



張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。


先主が曹公に従って呂布を破り、とるに許に帰ると、曹公は張飛を中郎将に任命した。先主は曹公に背いて、衰紹・劉表のもとへ身を寄せた。劉表が死ぬと、曹公が荊州に入ってきたので、先主は逃げて江南へ向った。


曹公は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長阪で追いついた。先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落し、目をいからせ矛を小脇にして「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。



先主は江南を平定し終ると、張飛を宜都の太守、征虜将軍に任命し新亭侯に封じた。後に南郡に転任した。先主が益州に入り、〔漢中征討から〕引き返して劉璋を攻撃したとき、張飛は諸葛亮とともに、流れをさかのぼって攻め上り、手分けして郡県を平定した。


江州に到達すると、劉璋の将で巴郡太守の厳顔を撃破し、厳顔を生け捕りにした。張飛は、厳顔をどなりつけ、「大軍がやってきたのに、なぜ降伏せず、あえて抗戦したのか」というと、厳顔は、「あなた方は無礼にも、わが州を侵略した。わが州には首をはねられる将軍がいるだけで、降伏する将軍はいないのだ」と答えた。張飛は立腹して、側近の者に引っ張って行かせ、首を切らせようとしたが、厳顔は顔色ひとつ変えず、「首を切るのなら、さっさと切ればよい。どうして腹を立てることがある」といった。張飛は見事だと感じ、彼を釈放し、招いて賓客とした。


張飛は通過する場所ですべて勝利をおさめ、先主と成都において落ち合った。益州を平定し終ると、諸葛亮・法正・張飛および関羽に、金各々五百斤・銀千斤・銭五千万両・錦千匹を賜わり、その他の者にはそれぞれ格差をつけて恩賞を賜与した。張飛を巴西の太守に任命した。



曹公は張魯を破ると、夏侯淵と張郃を駐留させて漢川を守備させた。


張郃は、別に諸軍を指揮して巴西をくだし、そこの住民を漢中に移住させようとして、宕渠(とうきょ)・蒙頭(もうとう)・盪石(とうせき)に軍を進め、張飛と相い対時すること五十日以上に及んだ。張飛は精鋭一万余人を率いて、別の街道から張郃の軍を迎えて交戦したが、〔張郃の軍は〕山道が狭いため、前と後ろが救け合うことができなかった。張飛はかくて張郃を撃破した。張郃は馬を乗り棄てて山づたいに、ただ供まわりの配下十人余りとともに間道をぬって退却し、軍を引きあげ南鄭に帰ったので、巴の地方は平静さを取り戻した。


先主は漢中王となると、張飛を右将軍・仮節に任命した。章武元年(221)、車騎将軍に栄転し、司隷校尉を兼務し、昇進して西郷侯に封ぜられた。


その辞令にいう、「朕は皇統を承けて、かしこくも大業を継ぎ、あだなすものを除き動乱を鎮めたが、いまだその道を明らかにせぬままである。現在、逆賊が害をなし、民衆は塗炭の苦しみを蒙り、漢室を思慕する士人は、鶴のように首を伸ばして待ち焦がれている。朕はそのため心痛み、座しても席におちつかず、食べてる味がわからないほどである。〔そこで〕軍を整え宣誓して、まさに天罰を下そうとしている。君の忠義と勇気は召虎(周の宣王のとき、淮夷を討った召の穆公)と等しく、その名は遠近に鳴りひびいていることを思うがゆえ、特に命令を宣示し、爵位を昇進させ、都を司る役目(司隷校尉)を兼任させたのである。よって大いに天威を用い、徳義をもって服従する者を慰撫し、刑罰をもって反抗する者を制裁して、咲の意志に沿え。『詩経』にいうではないか、『害毒を与えてはならぬぞ。厳しく責めたててはならぬぞ。わが王国に来たりて服従させよ。汝のすぐれた徳と大きな仕事を考え、汝に恵みを賜う』と。がんばってくれよ」



そのむかし、張飛の勇猛ぶりが関羽に次ぐものであったので、魏の謀臣程昱たちはみな関羽と張飛には一万人を相手にする力があると賞讃していた。


関羽は兵卒を好遇したが、士大夫に対しては傲慢であり、張飛は君子(身分の高い人)を敬愛したが、小人(身分の低い人)にあわれみをかけることはなかった。先主はいつもこれを戒めて、「君はあまりにも刑罰によって人を殺しすぎるうえに、毎日兵士を鞭で叩いている。しかも彼らを側近に仕えさせているが、これは禍いを招くやり方だぞ」といっていたが、張飛はそれでも改めなかった。



先主が呉を討伐するにあたって、張飛は一万の兵を率い、閬中から出て江州で落ちあうことになった。出発に際して、その幕下の将張達と范彊が張飛を殺害し、その首を持ち、〔長江の〕流れに乗って孫権のもとへ出奔した。


張飛の軍営の都督が上表して先主に報告したところ、先主は張飛の都督から上奏文がとどけられたと聞くと、「ああ、張飛が死んだ」といった。


張飛に桓侯の諡号を追贈した。


長男の張苞は若死したので、次男の張紹があとを継ぎ、官位は侍中。尚書僕射にまで昇った。張苞の子の張遵は尚書となり、諸葛瞻に随行して、綿竹において鄧艾と戦って戦死した。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


正史『三国志』関羽伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

関羽伝



関羽は字を雲長という。もとの字を長生といい、河東郡解県の人である。本籍から涿郡に出奔した。


先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。先主は平原の相となると、関羽と張飛を別部司馬に任じ、それぞれ部隊を指揮させた。


先主は二人と同じ寝台にやすみ、兄弟のような恩愛をかけた。しかし大ぜいの集まっている席では、一日じゅう側に立って守護し、先主につき従って奔走し苦難をいとわなかった。


先主は、徐州刺史の車冑を襲撃して殺害すると、関羽に下郡の城を守備させ、太守の事務を代行させ、自分は小沛に帰った。


建安五年(200)、曹公が東方征伐を行ない、先主は衰紹のもとへ逃走した。曹公は関羽を捕虜にして帰り、偏将軍に任命して、たいへん手厚く礼遇した。衰紹は大将の顔良を派遣して、白馬にいた東郡太守の劉延を攻撃させたが、曹公は張遼と関羽を先鋒にして、これを撃った。関羽は、顔良の〔車につける大将の〕旗じるしと車蓋を望見すると、馬に鞭うって〔馳せつけ〕大軍のまっただ中で顔良を刺し、その首を斬りとって帰ってきた。衰紹の諸将のうちで相手になれる者はおらず、かくて白馬の包囲は解かれたのである。曹公は即刻上表して、関羽を漢寿亭侯に封じた。


これより先、曹公は関羽のりっぱな人柄を評価したが、彼の心には長く留まる気持がないと推察して、張遼に、「君、ためしに個人的に彼に質問してみてくれ」といった。それを受けて張遼が関羽にたずねてみると、関羽は敷息して、「曹公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、しかし、私は劉将軍から厚い恩誼を受けており、いっしょに死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることはできません。私は絶対に留まりませんが、私は必ず手柄を立てて、曹公に恩返ししてから去るつもりです」といった。張遼が関羽のことばを曹公に報告すると、曹公はその義心に感心した。


関羽が顔良を殺害するに及んで、曹公は彼が必ず去るだろうと思い、重い恩賞を賜わった。関羽は、ことごとくその賜り物に封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、衰紹の軍にいる先主のもとへ奔った。側近の家来が彼を追跡しようとすると、曹公は、「彼は彼なりに、主君のためにしているのだ。追跡してはならない」といった。



〔関羽は〕先主に従って劉表の許に身を寄せた。劉表が死去すると、曹公が判州を平定しようとした。先主は樊から南下して長江を渡る計画を立て、関羽には別に数百競の船を率いさせ、江陵で落ち合うことを命じた。曹公が追撃して当陽の長阪にやってくると、先主は脇道を通って漢津に行き、ちょうど関羽の船と出会って、いっしょに夏口に到達した。


孫権は、軍兵を派遣して先主を救援し、曹公を防いだので、曹公は軍を引き撤退した。先主は江南の諸郡を手に入れると、大功を立てたものに官爵を授け、関羽を裏陽太守・盪寇(とうこう)将軍に任命して、長江の北に駐屯させた。先主は、西方益州を平定すると、関羽を荊州の軍事総督に任じた。


関羽は、馬超が来降したことを聞き知り、もとめと馴染みではなかったので、諸葛亮に手紙を出して、馬超の人物・才能は誰と匹敵するかと尋ねた。諸葛亮は、関羽が負けずぎらいなのを知っていたから、これに答えて、「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり、〔漢の〕鯨布や彰越のともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、やはり髯どのの比類なき傑出ぶりには及ばない」といってやった。関羽は頬ひげが美々しかったので、諸葛亮は彼を髯どのと呼んだのである。関羽は手紙を見て大喜びして、来客にみせびらかした。


関羽は以前、流れ矢に当って、左肘を貫通されたことがあった。後になって傷が癒っても、曇の日や雨の日にはいつも骨が疼き痛んだ。医者が、「矢じりに毒が塗ってあって、毒が骨にしみこんでいますから、肘を切り裂いて傷口を開け、骨をけずって毒をとり去らねばなりません。そうすれば、この痛みはなくなるでしょう」といった。関羽はすぐに肘を伸ばして医者に切開させた。ちょうどそのとき、関羽は諸将を招待して宴会をしている最中であった。肘の血は流れ出して、大きな皿いっぱいになったが、関羽は焼肉を切りわけ酒をひきよせて泰然として談笑していた。



二十四年(219)、先主は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節(はた)と鉞(まさかり、専行権を示す)を貸し与えた。


この年、関羽は軍勢を率いて、樊にいる曹仁を攻撃した。曹公は干禁を救援にさし向けた。秋、大変な長雨がふって、漢水が氾濫し、手禁の指揮する七軍すべてが水没した。干禁は関羽に降伏し、関羽はまた将軍の龐悳を斬った。


梁郟(りょうこう)・陸渾(りくこん)といった盗賊のうちには、はるかに関羽より印綬称号をうけて、彼の支党となるものがおり、関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると、司馬宣王(懿)と蔣済は、関羽が野望を遂げることを孫権はきっと望まないだろうから、使者をやって、その背後を突かせるよう孫権に勧め、長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい、そうすれば、樊の包囲はおのずと解けるだろうと主張した。曹公はそれに従った。


これよりさき、孫権は使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽はその使者をどなりつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた。


また、南郡太守の糜芳が江陵に、将軍の傅士仁が公安に駐屯していたが、どちらもかねてから関羽が自分を軽んじていると嫌っていた。関羽が出陣すると、糜芳と傅士仁は軍資を供給するだけで、全力をあげて援助することはなかった。関羽は、「帰還したら、こいつらを始末しなければならない」といったので、糜芳と傅士仁はともに恐怖を感じ落ち着かなかった。


このとき、孫権が内々に糜芳と傅士仁に誘いをかけ、糜芳と傅士仁が人をやって孫権を迎えさせたところに、曹公が徐晃を曹仁の救援に差し向けた。関羽は勝利を得ることができず、軍を引いて撤退した。


孫権はすでに江陵を占領しており、関羽の部下やその妻子たちをことごとく捕虜にしたので、関羽の軍は四散した。孫権は、将軍をつかわして関羽を迎え撃ち、関羽と子の関平を、臨沮において斬り殺した。


関羽に壮繆(そうぼく)公の諡号を送った。



子の関興が後を継いだ。関興は字を安国といい、幼いころから評判が高く、丞相の諸葛亮は彼の才能を高く評価した。二十歳で侍中・中監軍になったが、数年後に死んだ。子の関統が後を継ぎ、公主(内親王)を娶り、官位は虎賁中郎将にまで登った。死後、子供がなかったので、関興の庶子関彝(かんい)に爵位を継がせた。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳