2013年3月17日日曜日

高村光太郎と妻・智恵子の住む世界



「智恵子は見えないものを見、聞こえないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、出来ないことを為(す)る。」



夫・高村光太郎がそう書いたとき、妻・智恵子は「心の病」を患っており、コニュニケーションがとれなくなっていた。



「智恵子は現身(うつしみ)の私を見ず、わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、智恵子はもう人間界の切符をもたない。」



7年間の闘病生活の末、昭和13年(1938)、智恵子は他界する。

智恵子の心の病は、福島にある実家の事業破産がその引き金となった。「もともと芸術家肌で、『この世的な視点とは違う価値観』をもつ人だけに、身内が遭遇する苦難を見聞きすることが耐えられなくなったのかもしれません(鈴木秀子)」。



「されば君は安らかに眠れかし

 悪人のごとき寒き冬の夜なれば

 いまは安らかに郊外の家に眠れかし

 をさな児の如く眠れかし」







高村光太郎と、長沼智恵子が結婚したのは大正3年(1914)。智恵子は、高村よりも3つ年下の女流画家であった。

「キリストの代わりに、このやくざ者の前に、奇蹟のように現れたのが智恵子であった」

高村は彼女との出会いを、そう記す。



「あなたが私に会ひに来る

 そして二日でも、三日でも

 笑ひ、戯れ、又抱き

 さんざ時間をちぢめ、数日を一瞬に果す」

それは彼女の死を看取るまで変わらぬ想いでもあった。彼女が心を病んでしまっても、高村はそういう智恵子の姿を決して否定することがなかったのだという。



この世を「Doing」、つまり「やること成すこと」のみで評価するものだとしたら、「心を病んだ千恵子の行為は、はたから見たら不自然で、ときに異様に映ったかもしれない」。

しかし、芸術家の感性をもつ高村の見ていた世界は「Being」。「これをしてくれたから…」、「これができるから…」などという条件が一切なかった。たとえ病んだとはいえ、「智恵子は智恵子」であった。

そのBeingの世界にいる自分を、高村は「わたしのうしろのわたし」と詩中で表現している。その世界に入るためには、「人間界の切符」など必要ないのである。



さまざまな条件がつきまとう「Doingの世界」では、「見えないもの」や「聞こえないもの」、そして「行けないところ」や「出来ないこと」ばかり。

ところが一転、無条件の「Beingの世界」では、「見えないものを見、聞こえないものを聞く」、そして「行けないところへ行き、出来ないことを為(す)る」ことができる。

それは「限りない荒漠の美意識圏」であり、「くるしみの重さ」もない世界であった。




「(あなたは)あの蒼黒い空に汗ばんでいる円い月だ

 世界を夢に導き、刹那を永遠に置き換えようとする月だ

 それでいい、それでいい」








智恵子は亡くなる前、色紙をハサミで切りながら、それはそれは見事な紙細工をつくっている。

無条件の世界にいた彼女にとって、「このように仕上げないといけない」とか「上手くできない」などという思いとは無縁であった。ただただ我を忘れて、没頭して色紙を切っていたのである。



それはまさに「芸術家たちの住む世界」。

そんな純粋な智恵子の姿を見ながら、高村の心は清められていた。

「彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出されることができた」と高村は述べる。



世間は、高村に同情していた。「可哀想に…」と。

しかし、高村はその世界にはいなかったのかもしれない。きっと、智恵子と同じ世界の住人になっていたのだ…。



「すべてから脱却して、ただあなたに向ふのです

 私にはあなたがある

 あなたがある

 あなたがある」





出典:致知2013年4月号
「智恵子は見えないものを見、聞こえないものを聞く 高村光太郎『智恵子抄 』」

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