2013年7月11日木曜日

信長と沢彦。岐阜と岐山



「その岐山の名を、信長殿が岐阜とされたのだなぁ?」

「岐阜」という地名は、中国の「岐山(きざん)」から採られている。その昔、戦国時代の話である。



中国の岐山というのは、古代中国「周の武王」が根拠地にしたところであり、黄河源流、渭水のほとりに位置した。周の武王という人は、君主であった「殷の紂王」を殺して天下を獲った人物。

織田信長が美濃(現在:岐阜県)の稲葉山城を攻め獲った時、「天下布武」という野心があったのは明らかであり、それは周の武王の志にも通ずるものがあったのだろう。ゆえに信長は稲葉山を「岐山」と改めたかったのだという。



しかし、それではあまりに天下への野心が露骨すぎる。そう言って反対したのは「僧・沢彦(たくげん)」。信長の幼い頃から脇についていた僧である。

「『岐山』という名にすれば、武田信玄も上杉謙信などの歴史を知る武将たちは、『信長め、思い上がったか』と悪口を言うでしょう。少しお控えくだされ。岐山の山を低くしましょう。丘にしましょう。岐阜とお命名ください。『阜』というのは丘の意味です」

さすがの信長も、僧・沢彦の意見には苦笑して従ったという。



また、僧・沢彦は稲葉山城が「高い山の頂」にあったことにも苦言を呈している。

「そんな山の上から下を見下ろしていても、地べたを這いずり回っている民の汗と涙の苦しみはわかりますまい。麓へ降りなさい」と。

やはり、その言に従った信長。麓の井ノ口というところに降り、そこに政庁を開いたという。







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