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2018年5月17日木曜日

空前の字典というべき『説文解字』【三国志・許慎】


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻




…

九月、帝闕(ていけつ)に書物をはこんできた者がいる。

氏名は許沖(きょちゅう)といい、書物を献上にきたのである。

「臣(わたし)の父は、もと太尉南閣祭酒(たいいなんかくさいしゅ)の慎(しん)と申します。賈逵(かき)から古学を学びました。父はいま病なので、臣が父の著作を献上にまいりました」

と、許沖はいい、うやうやしく上書をさしだした。

「さようか。殊勝である。詔書を賜れば、嘉納(かのう)されたことになる。それまで待て」

そういわれた許沖は、翌月にその書物が皇室におさめられたことを知る。許沖には布四十匹が下賜された。


国家の大事件でもないので、『後漢書』にはそれについて記さず、明帝期に創修され、班固(はんこ)から蔡邕(さいよう)まで超一流の学者がたずさわって纂修されたといわれる『東観漢記(とうかんかんき)』には建光元年の項さえなく、『資治通鑑』の九月には、北辺での攻防が記されている。

…

書物献上の記述はみあたらない。

ほとんど注目されなかったこの書物こそ、空前の字典というべき『説文解字』であった。著者は許慎(きょしん)である。





許慎がどういう人物であるかは、『後漢書』に伝があり、わずかに書かれている。それによると、許慎はあざなを叔重(しゅくじゅう)といい、汝南郡召陵県の出身である。性格は淳篤で、少壮のころに経籍を博(ひろ)く学び、大儒で高慢であるとさえいわれる馬融(ばゆう)につねに尊敬された。

当時の人々は許慎のことを「五経無双の許叔重」と、いった。五経とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の経書をいう。

かれは郡の功曹となり、孝廉(こうれん)に推挙され、再遷(さいせん)して洨(こう)県の長となった。召陵の自宅で歿した。生年と歿年は、まったくといってよいほどわからない。


許慎の非凡さは、日常つかいなれている物に目をとめて、凝視しつづけ、思索を深め、思考を広げていったことにある。その物とは、文字、である。許慎は漢字の非凡さに最初に気づいた人でもある。

――文字は、なぜこの形になり、この音になり、この意味になるのか。

許慎の研究が稿本(こうほん)となっていちおうの完成をみたのは、和帝期の永元12年(100年)である。その年から執筆をはじめたという説もないことはない。それから21年後にあたるこの年に、十五巻(十四篇と後叙)、13万3,441字が安帝に献呈された。

説文解字という四字をいれかえると解説文字になり、すなわち、文字の解説である。たとえば、「一(いつ)」とは何であるのか。許慎はこう解く。

これ初め太始(たいし)、道は一に立つ。

天地を造分(ぞうぶん)し、万物を化成(かせい)す。

およそ一の属(ぞく)はみな一に从(したが)う。

道家(どうか)の教義は物の本義にむかい、儒家は転義にむかう。許慎の解説は道家的である。

太始は元始といいかえてもよい。道は、天道であると同時に人の道である。造分は、造り分ける。化成は、成長させる、あるいは、形を変えて別の物にする、ということである。





けっきょくこの字典は、学界のなかで絶対的な地位を占め、その支配力は20世紀の後半までおよんだ。

後漢王朝以降、いくたび王朝が興亡したか。が、『説文解字』は滅びなかった。個々の漢字とその全体を考えるとき、許慎の説にまさる説(体系)を呈示できた者はいなかった。

ところが、日本で昭和48年(1973年)に、『説文新義(せつもんしんぎ)』という書物が刊行された。著者は白川静(しらかわ・しずか)である。

白川静は許慎の知らなかった甲骨文字を研究することによって、先人がなしえなかった許慎の呪縛を解くことに成功した。その偉業は絶賛されるべきものであり、漢字を使用する民族にもたらされた恵訓(けいくん)の巨(おお)きさははかりしれない。

白川静は涵蓄淵邃(かんちくえんすい)の人である。





…


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻
謳歌

宇宙の最初の『巨大な鶏卵』【中国古代神話】


From:
竹内 照夫
四書五経入門―中国思想の形成と展開
 (平凡社ライブラリー) 単行本 – 2000/1/1





盤古(ばんこ)


宇宙の最初、そこには天地も日月もなく、それは暗黒の、混沌たる一つのかたまり、いわば巨大な鶏卵のようなものであった。

――やがて、そのなかに生き物が一つ芽生え、1万8千年かかって成長をとげ、盤古(ばんこ)という神になった。かれは暗黒のなかにじっとせぐくまって、生きておった。


ある日、すさまじい音がして突然に卵が割れ、内部の軽くて清らかな成分は、ふわふわと雲をなし上昇して天空となり、重くて濁った成分は、下に沈み固まって大地となった。

そこで自然に盤古(ばんこ)は突っ立って、頭と両手で天をささえ、両足で大地を踏みしめる形になった。

さて宇宙はすみやかに膨張し、毎日、天は一丈ずつ高くなり、地は一丈ずつ厚くなり、また盤古(ばんこ)の身もずんずん大きくなり、この膨張が1万8千年のあいだつづいた。

――今や、高い青空と広い大地との中間に、途方もない巨人たる盤古(ばんこ)が、天地の柱として突っ立っているのであった。


盤古(ばんこ)は、暗く静まりかえった広大な宇宙のただなかに、まさしく孤独のままで、辛抱づよく天空をささえ、長い時間を耐えたが、やがて疲れ果て、横たわって死んだ。

――すでに天地は固まっていて、この巨人の柱が抜けても崩れなかった。

盤古(ばんこ)が死ぬと、そのいまわのきわの声は雷となり、息は風となり、左眼は太陽に、右眼は月に、手足は山々に、血潮は川になるなど、身体の各部がすべてそれぞれに変化して、天地間の万物になった。


五色の石


天地が開け、山川草木や虫魚鳥獣はでそろったが、まだ人間はいなかった。

そのとき、女媧(じょか)という神が、土を水でこねて、初めて人間を造った。一つ一つ丹念に造っているわけにはゆかないので、しまいには、縄を泥に浸して引き上げ、したたり落ちた泥を人間にした。だから初期に造られたのは上等な人間になり、あとで造られたのは下賤の人間になった。


また、このころ、水神の共工(きょうこう)と火神の祝融(しゅくゆう)がケンカをして、ものすごい闘争を演じたが、ついに敗れた共工は不周(ふしゅう)山に頭を打ちつけて死んだ。その激しさに山が割れ、地が裂け、天空にヒビがはいった。

そこで女媧(じょか)は川の底をさぐって五色の石を拾い集め、火にかけて練り合わせ、これで天のヒビをつくろい、また巨大な亀を殺し、その四脚を切り取って、これを大地の四方に立て、天地の間の柱とした。

これで天地は崩れずに済んだが、このときから天は西北に傾き、そのため日月星辰は東にでて西に沈み、また地は東南にくぼみができて、そのため百川はここに流れ込み、海をなすようになった。


帝俊


人間生活に文明をもたらし、文化を開いた神々は、黄帝(こうてい)・神農(しんのう)・伏羲(ふくぎ)・帝嚳(ていこく)・帝俊(ていしゅん、舜)などであり、「三皇五帝」と呼ばれる諸神もしくは諸英雄がそれである。

そして、これらのなかでも最も重要なのは帝俊(ていしゅん)である。


帝俊(ていしゅん)には三妻があった。ひとりは娥皇(がこう)で、これは三身国を生んだ。その国人はみな一頭三身で、五穀をつくり、また虎・豹・熊などを使いならした。

もうひとりの妻は羲和(ぎか)で、10人の太陽神を生み、東海の海のはずれに住み、毎日ひとりずつ太陽を洗い上げては空にのぼすのであった。

もうひとりの妻は常儀(じょうぎ)で、この人は12月の月神を生み、西方の野に住んで月神のせわをした。


帝俊には后謖(こうしょく)や義均(ぎきん)をはじめ、なお多くの子孫があり、衣食住の法や工芸美術の道を人に教え、文明を大いに進歩させた。

なお帝俊の世には、美しい五彩の鳥が東方の野に舞い遊んでいたが、後世に太平の象徴と認められた鳳凰というのは、この鳥の一種である。


…

以上に述べたのは、中国の古代神話の一部分であるが、むかし中国ではこうした怪奇な物語は四書五経のような正統の経書に記録されず、神話伝説の類をおさめたものは雑説とか小説とかよばれる著述としてあつかわれた。

つまり本格的な学問や教養の対象とするに足りない、雑多な、価値の低い伝承とみられたのである。

…

From:
竹内 照夫
四書五経入門―中国思想の形成と展開
 (平凡社ライブラリー) 単行本 – 2000/1/1



2018年5月9日水曜日

じつは生きていた杜根【三国志】


From:
宮城谷昌光
『三國志』




…

鄧(とう)太后の摂政がつづいている。安帝はすでに27歳である。それでも鄧太后はこの皇帝に新政をゆるさない。

政柄(せいへい)の所在に疑問をおぼえ、匡諌(きょうかん)の言を揚げた者がいなかったわけではない。それに関しては杜根(とこん)がもっとも有名である。

杜根は潁川(えいせん)郡定陵(ていりょう)県の出身で、父の杜安(とあん)はあざなが伯夷(はくい)であることからわかるように、少年のころから志節があり、13歳で太学にはいり、奇童とよばれた。のちに巴(は)郡太守となり、すぐれた行政をおこなったので天下にその名が知られた。

かれの志節は杜根にうけつがれたといってよい。杜根は永初(えいしょ)元年(107年)に孝廉(こうれん)に推挙されて、郎中(ろうちゅう)となった。郎とは男子のことであり、古くは君主に近侍する者を郎中といったが、このころは新人官僚であるとおもえばよい。王朝では鄧太后が実験をにぎり、外戚の鄧氏が格別に恵顧(けいこ)されている実情をみて、

――帝は新政をおこなえぬほど幼くはない。

と、杜根はおもい、政事を帝に奉還すべき旨を上書して直諫(ちょっかん)した。若い正義感がそうさせたのであろう。

このときの鄧太后の怒りはすさまじかった。すぐさま杜根を執(とら)えさせて、縑(きぬ)の嚢(ふくろ)にいれ、殿上において撲殺(ぼくさつ)させた。嚢中(のうちゅう)の杜根はそれで息が絶えたはずであるが、じつは生きていた。執法者が杜根の声名を耳にしていて、

「手加減して叩け」

と、撲打する者にささやいたからである。

嚢は城外に運びだされた。そこで杜根は蘇生した。九死に一生を得た杜根であるから、あわてて逃げだしてもよさそうなのに、そうしなかったのは、かれの知恵が浅くない証拠である。

――太后は用心深い。かならず検視の者をよこすはずだ。

はたして、三日後に検視の役人がきた。杜根の佯死のすさまじさは、眼中に蛆(うじ)を生じさせたことである。むろんその蛆は近くの屍体(したい)から拾ってきたものであろう。精気のぬけた蒼顔(そうがん)にうごめく蛆をみた役人は、小さくうなずき、宮中にもどって、

「杜根はまちがいなく死んでいました」

と、鄧太后に復命した。

「さようか」

鄧太后は残酷さを嗜(この)む人ではない。しかし杜根のようにかるがるしく直言を呈する者が続出してはこまるので、みせしめのために、撲殺という宮中の耳目をそばだたせる処置をあえておこなったのである。

――杜根は何もわかっておらぬ。

鄧太后は荼(にがな)を口に哺(ふく)んだような顔つきをした。幼少のころの安帝は徳の豊かさを人に感じさせた。ところが、人の評価に辛さをもつ鄧太后の目からすると、成長した安帝は失徳者であった。安帝の教育をおこなうべき乳母も姦(わる)い。

王聖(おうせい)

という乳母には淑徳(しゅくとく)が欠けている。国難のさなかにいるのに、安帝に親政をおこなわせたらどうなるのか、火をみるよりもあきらかである。杜根にはそれがわかっていない、と鄧太后の胸は怒りでふるえるが、そのふるえには悲しみがまじっている。安帝を立てたのは、ほかでもない、鄧太后自身なのである。

安帝が聖徳をしめし、群臣を心服させ、人民に恵恤(けいじゅつ)をほどこし、蛮夷をなつかせ、鄧太后をうやまってくれる人であるなら、明日にでも政事を奉還するであろう。そうしないのは、鄧太后から危機意識が去らないからである。

――わたしと兄が国権を掌握しているかぎり、この王朝は頽弊(たいへい)しない。

楽観も悲観もしない鄧太后には自信があり、使命感さえある。王朝の運営者は驕ってはならないという自覚をもっていることも、和帝のころに専横(せんおう)をおこなった竇(とう)氏とはちがう。和帝の手足となって働き、竇氏を覆滅させた鄭衆(ていしゅう)を知っている鄧太后は、

――宦官(かんがん)には用心する必要がある。

ということさえ知っている。かれらをみくびると、突如、足もとをすくわれる。鄧太后には政治感覚がそなわっていたとみてよいであろう。その感覚が、杜根を撲殺する、という恫喝(どうかつ)を必要とした。事実、それ以来、百官や群臣から鄧太后の摂政を非難する声は揚がらなかった。



ところで、死亡したことになった杜根はどうしたか。

――これで追逮(ついたい)はない。

と、みきわめるや、逃竄(とうざん)した。杜根の郷里は潁川郡にあるが、もとよりそこに帰ることはできない。洛陽から南に奔(はし)ったことにさほどのわけがあろうとはおもわれないが、北方や西方にゆきたくなかったのは、異民族による寇擾(こうじょう)がたえまなかったせいであろう。

かれは荊州にはいり、南陽郡をぬけて南部に到った。南郡の郡府は江陵にあるが、そこまでゆかないうちに、宜城(ぎじょう)という大きな県の酒家に傭(やと)われた。宜城は名酒の産地である。怪しまれることなくその家に住み込んだ杜根は、なんと15年もそこですごしたのである。ただし酒家の主人はすくなからぬ人と接し、多くの人を使っているので、人をみる目をもっており、杜根に目をとめて、

――並の賢さではない。

と、看破し、ここにながれてきたわけを問わずに、かれを礼遇するようになった。



鄧氏の勢力が王朝から一掃されたあと、安帝の側近たちは、杜根の忠死について述べたので、安帝は杜根が死んだものとおもい、天下に布告して、せめて杜根の子孫について明らかにせよと命じた。

そのころ杜根が故郷の定陵県に帰ってきたので、県では大騒ぎになった。杜根の子孫についてしらべにきた中央の役人は、死んだはずの杜根に会って仰天し、すぐさま洛陽に報(しら)せをとどけた。

「杜根は生きていると――」

喜んだ安帝は公車(こうしゃ)をさしむけ、杜根を招聘(しょうへい)すると、ただちに侍御史(じぎょし)に任じた。宮中の取り締まりをおこなうところを御史台(ぎょしだい)といい、侍御史はそこの属官である。

杜根は安帝の崩御のあと、順帝(保)のときに、斉陰(せいいん)太守となり、それから官を去り家に還って78歳で歿した。かれなりに道義に遵(じゅん)じた生きかたをしたのであり、志節をつらぬいたといえるであろう。

…

From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 没落



2018年5月7日月曜日

梁鴻と、その妻【三国志『挙案斉眉』】


話:宮城谷昌光
『三國志』

…

厳光(げんこう)ほど有名ではないが、梁鴻(りょうこう)も特色のある人で、かれの妻は「挙案斉眉(きょあんせいび)」という語とともに、人々に感嘆された。

深趣(しんしゅ)をもった夫婦の話である。

梁鴻の父は王莽(おうもう)のときに城門校尉(こうい、首都の城門の警備)となり、脩遠伯(しゅうえんはく)に封ぜられた。けっきょく北地で亡くなったが、そのとき梁鴻はまだ幼く、にわかに乱世になったため、父の遺骸を棺(ひつぎ)に斂(おさ)められず、席(むしろ)で巻いただけで葬った。

のちに梁鴻は太学(たいがく)で学んだ。ちなみに洛陽に太学が設けられたのは建武五年(29年)のことである。当然、梁鴻の入学はそれ以後ということになる。家は貧しかったが、節操を尚(たっと)び、博覧であり、通じないものはないほどであった。

学業を畢(お)えてから、上林苑(じょうりんえん)のなかで豚を飼って暮らしていた。上林苑は洛陽の西、洛水(らくすい)の北岸にある。あるとき火を消し忘れて、その火がほかの舎(いえ)におよんでしまった。梁鴻は焼失した舎の主人をたずねて、損害の程度を問い、そのすべてを豚でつぐなうことにしてもらった。だが、主人は、豚を全部もらっても足りぬ、という。

「ほかに財はありません。わたしが小作になって働き、つぐなわしてください」

と、梁鴻はたのんだ。

「いいだろう」

そこで梁鴻は朝夕おこたらずに勤めた。尋常な勤めぶりではなかった。隣家の老人たちは人を視(み)る目をもっている。かれらは梁鴻がなみの人ではないとおもい、そろって舎の主人を責め、梁鴻は人の上に立つ人であると称(ほ)めた。主人はようやく梁鴻の異能に敬意をはらい、もらった豚をすべて還そうとした。が、梁鴻はうけとらず、上林苑を去って故里の扶風(ふふう)郡平陵(へいりょう)県に帰った。

扶風郡は右扶風(ゆうふふう、うふふう、とも読む)といったほうがよく、平陵県は前漢の首都であった長安から遠くない。その地の名家の主(あるじ)は、梁鴻の高節を慕い、娘をもらってもらいたいと申しこんだ。梁鴻はすべてをことわり、娶(めと)らなかった。

県内にある孟(もう)氏という家に娘がいた。容姿がまことに悪い。太っていて醜く、しかも色が黒い。ただし力は石臼(いしうす)をもちあげるほど強い。この娘はえりごのみをして嫁にゆかぬまま、30歳になった。

「なぜ、嫁にゆかないのか」

と父母にきびしく問われた娘は、

「梁伯鸞(はくらん)のような賢い人にとつぎたい」

と、うそぶいた。伯鸞は梁鴻のあざなである。うわさが梁鴻の耳にとどいた。何をおもったか、梁鴻はこの娘を娶ることにしたのである。喜んだ娘は木綿の着物に麻の靴、それに針箱、紡績の道具を作ってもらい、それらを嫁入り道具のなかに納めてから、絹の着物をまとい、着飾って梁鴻の家の門にはいった。

それから七日たっても梁鴻は口をきかなかった。妻は牀下(しょうか)にひざまずいた。

「ひそかに聞いたところでは、あなたは理想が高く、いくつかの縁談をしりぞけたそうですね。わたしもまたたやすく嫁にゆきませんでした。今こうして、あなたはわたしを択(えら)んでくださったのに、わたしのどこがいけないのでしょうか」

そう問われた梁鴻はようやく口をひらいた。

「わたしは裘褐(きゅうかつ)という質素な衣服を着て、ともに深山に隠れて暮らす者を求めていた。ところがおまえはぜいたくな綺縞(きこう、絹織物)を衣(き)て、白粉(おしろい)と眉墨(まゆずみ)で化粧をしている。そういう女をわたしが気にいるとおもうか」

すると妻はさわやかに破顔した。

「あなたの志を観ようとしただけです。わたしは隠れ栖(す)むための服をもってまいりました」

しりぞいた妻は、さっそく髪を引っ詰めにし、木綿の着物に着替え、針と糸を手にして、ふたたび夫のまえにあらわれた。それをみて大いに喜んだ梁鴻は、

「それでこそ梁鴻の妻である。いまからわたしに仕えることができよう」

と、いい、妻にあざなをつけて、徳曜(とくよう)、とよんだ。妻の本名は孟光(もうこう)である。

しばらく暮らしたあと、妻は夫に強い目をむけた。

「あなたはつねに患(わざわ)いを避けるために隠栖(いんせい)したいとおっしゃっていた。何をぐずぐずなさっているのですか。まさか人に頭をさげて、官に就(つ)こうとなさっているのではありますまいね」

このことばに梁鴻はすばやく反応した。

「よし」

と、いうや、かれは妻をともなって覇陵(はりょう)山にはいり、耕織(こうしょく)をおこなって暮らした。詩を詠み、書物を読み、琴を弾じて、娯(たの)しんだ。

ふたりがその山をでて函谷関をぬけ、関東の地にむかったのは、異民族である羌族や山賊の跳梁(ちょうりょう)が烈しくなったからかもしれない。そうでなければ、覇陵山でせっかく得た静寧(せいねい)を捐(す)てる理由がみつからない。

京師(けいし、洛陽の都)を通過するとき、梁鴻は、

「五噫(ごい)の歌」

を作って、歌った。噫は、ああ、というのにひとしく、嘆きの声である。歌の内容は、宮殿が嵬(たか)くそびえるほど人民の劬労(くろう)はながびく、というものであった。この歌が虚空を飛んで、ときの皇帝である章帝(光武帝の孫)の耳にはいるはずはないのだが、どういうわけか章帝が知ったのである。

「けしからぬ」

章帝は梁鴻を逮捕せよと命じた。が、道をいそいだふたりは役人の追跡のとどかぬところに到り、用心のため、梁鴻は姓を運期(うんき)、名を耀(よう)、あざなを侯光(こうこう)と改めた。かれらは東方の斉と魯のあいだに隠れ栖んだ。

しばらくして、ふたりはそこを去り、南方の呉へゆくことにした。役人の目を恐れたからであろう。隠者でありつづけることが王朝を批判することであるのは、後漢時代にはじまったことではなく、孔子が生きていた春秋時代、いや、上古(じょうこ)からあった。

おそらく梁鴻は旺盛な批判精神の持ち主であるがゆえに、王都の宮殿を遠望したとき、ついその精神をむきだしてしまったのであろう。呉へゆくときにも、かれは詩を作っている。詩人のことを騒人(そうじん)ともいうが、まさに梁鴻は愁えによって心の鎮まらぬ人であった。

かれは理想を求めて周流した孔子を想い、愛国の儒者といわれる魯仲連(ろちゅうれん)を尊敬し、呉王の位を辞退しつづけた王子・季札(きさつ)が住んだという延陵(えんりょう)をたずねてから、呉に到着した。

呉に皋伯通(こうはくとう)という大家がいる。ふたりはその家の軒下を借りた。梁鴻は人に傭(やと)われて舂米(しょうべい、米をつくること)の仕事をし、帰ると、いつも妻の孟光は膳をととのえて待っていた。

孟光は梁鴻のまえではけっして仰視せず、案(あん、膳)を挙げて自分の眉の高さに斉(そろ)えた。それを四字でいえば、挙案斉眉(きょあんせいび)ということになる。たまたまその光景を目撃した皋伯通(こうはくとう)は、かわったことをする、とおもい、

「あの傭者(ようしゃ)は、あのように妻をしつけている。凡人ではあるまい」

と、家人にいった。ここでようやく夫婦を家のなかにいれて住まわせることにしたのである。梁鴻は部屋にとじこもって十余篇の書を著わした。やがて病に苦しみ、もはやたすからぬとわかると、梁鴻は皋伯通に、

「むかし中原(ちゅうげん)諸国に使いをした延陵の季子(季札)は、帯同した自分の子が客死すると、贏(えい)と博(はく)のあいだの地に埋葬し、郷里に遺骸をはこばなかった。どうかわが子にも、わたしのなきがらを持ち帰らせないようにしてもらいたい」

と、たのんだ。うなずいた皋伯通は、梁鴻が亡くなると、呉の要離(ようり)という勇者の冢(はか)の近くに梁鴻を埋めた。要離を知らぬ者は呉にはいない。とはいえ、多少の説明は要るであろう。

春秋時代に呉に寿夢(じゅぼう)という名君は末子の季札を愛し、季札に王位を継がせようとした。が、季札が固辞したため、長男が継いだ。その兄弟は順々に王位を継いでゆくという約束をかわしたのだが、季札の番になると、またかれは辞退した。

そのため僚(りょう)という王子が呉王になったが、寿夢の嫡孫(寿夢の長男の子)である光(こう)は、季札が呉王にならないのであれば、王統を嫡流にもどすべきだ、と強く意(おも)い、王僚を襲う機会を待った。たまたま隣国の楚から亡命してきた伍子胥(ごししょ)という胆知にすぶれた士に謀(はか)り、専諸(せんしょ)という者をつかって王僚を暗殺した。専諸は魚の腸(はら)のなかに剣をかくし、魚をすすめつつ、その剣で用心深い王陵を刺殺したのである。

直後に位に即(つ)いた光が呉王の闔廬(こうりょ、闔閭)である。闔廬には懸念があった。王陵の子の慶忌(けいき)が他国にいて、かれが諸侯の力を借りて攻めてくることを恐れた。しかし慶忌を殺せる者がいない。ここで伍子胥に推薦されたのが要離(ようり)である。要離を慶忌に近づけ、信用させるために、闔廬はあえて要離に罪を衣(き)せ、要離の妻子を捕らえて焚(や)き殺した。出奔した要離は慶忌のもとへゆき、闔廬の無道を訴え、信用を得た。

やがてふたりは呉へゆくために江水(こうすい、長江)を渡ることになったが、江(かわ)のなかばに舟がさしかかったとき、要離は剣をぬいて慶忌を刺そうとした。殺気を察していた慶忌は体(たい)をかわすや、要離の髪をつかんで、水中に投げ落とした。要離が浮かんで舟にのぼろうとすると、また投げ落とした。みたびおなじことをした慶忌は、ついに、

「なんじは天下の国士である。なんじを殺さず、なんじの名を天下に知らしめてやろう」

と、いい、要離を岸にあげて、自身は対岸へ去って二度と呉の土を踏まなかった。復命した要離は、ねぎらう呉王のまえで、

「妻子を殺し、先王の子を殺そうとし、しかも相手に助けられました。不仁をおこない、不義を犯し、恥辱をあたえられたのです。生きてはいられません」

と、述べ、剣に伏して自殺した。要離とはそういう人である。

皋伯通(こうはくとう)が埋葬の地をさがしているとき、

「要離は烈士であり、伯鸞は清高である。ふたりを近づけるべきだ」

と、みなにいわれた。埋葬が畢(お)わると、妻子は郷里に帰った。

…



From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 四知

2018年4月28日土曜日

坐禅をうまくやるコツ



「ところで、坐禅をうまくやるコツって、あったりします?」


僧「いえ、ないですね」


僧「仏の道はみな同じようで、それぞれに異なる。ですから、自分の法は、各々にしかわからないのです」

…




From:
善の研究 (まんがで読破 MD129) 
文庫 – 2014/1/30
西田幾多郎  (著)

西行と西田幾多郎【小夜の中山】


年たけて

また越ゆるべしと

思ひきや

いのちなりけり

小夜(さよ)の中山

西行




鎌倉時代初期、京都から遠くはなれた関東は、ほとんどが未開の地。とりわけ、鈴鹿(三重)、小夜の中山(静岡)、箱根(神奈川)は東海道の三大難所であった。

西行にとって生涯2度目となった、奥州への旅路。すでに齢69、死を覚悟してのことだった。まさか、生きてふたたび、小夜(さよ)の中山を越えることになろうとは…。その感慨ひとしおに、西行きっての秀歌をこの地に遺す。


…

あづまのかたへ

相識りたる人のもとへ

まかりけるに

小夜の中山見しことの

昔になりたるける

思ひ出でられて

年たけて

また越ゆべしと

思ひきや

いのちなりけり

小夜の中山

…






西田幾多郎は名著『善の研究』において、この西行の歌を以下のように引用している。

…

まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。

その頃の考がこの書(『善の研究』)の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この書がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この書の重版を見ようとは思いもよらないことであった。

この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。

…




2017年4月23日日曜日

良いものはカタツムリ[ガンディー]





良いものはカタツムリのように進むのです。

マハトマ・ガンディー『真の独立への道』







無畏の勇者[ガンディー]




勇者とは、剣や銃の類(たぐい)ではなく、無畏(むい)をもって武装した人のことです。

恐怖にとりつかれた者たちだけが、剣や銃で身がまえるのです。

マハトマ・ガンディー





理想の状況を言えば、

太陽がわたしたちの唯一の料理人であるべきです。

マハトマ・ガンディー





わたしたちには、自分が必要としないものは、一物たりとも受けとってはなりません。 
要(い)りもしない果物をもらったり、必要以上に多量にもらうのは、盗みです。

マハトマ・ガンディー



2016年10月19日水曜日

ピラミッドよりも大きい、日本の古墳


大阪府にある
大仙陵(だいせんりょう)古墳
全長486m × 幅305m


墓としては世界最大級
ピラミッドよりもはるかに広大な面積をほこる


この巨大な古墳をつくるためには、一日に1,500人が働いたとしても15年以上かかる計算になる。



古墳の数は日本全国で16万基以上。コンビニよりも数が多い。





出典:NHK高校講座「日本史」

清水寺、78本のケヤキ柱





京都・清水寺



高さは12m、4階建てのビルに相当。
78本の柱に支えられている。

釘は一本もつかわれず、貫(ぬき)のみによる構造。




現在の姿は1633年、徳川家光の再建




腐った柱の根元を「根継ぎ」によって更新



周辺をジャッキで支えて、新しい木と交換する



清水寺のために樹齢数百年のケヤキが育てられている。



ちなみに、清水の舞台を支える78本の柱は、建物の重量を支えるという点からいえば過剰とのこと。およそ半分の本数でも耐えられるのだという。





出典:NHK「国宝に会いに行くⅡ」清水寺