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2013年10月29日火曜日

上杉謙信と禅 [鈴木大拙]



話:鈴木大拙



上杉謙信と武田信玄とは、日本が戦国時代にあった16世紀の二名将であった。2人はその領地が相接していたので、一般にならび称せられ、彼らは幾度かその優越を争わねばならなかった。彼らは武人としても支配者としても、相伯仲した。

また、禅を学ぶ点でも同じであった。彼らは若いとき禅院で教育をうけ、中年にして剃髪して入道を称した(謙信は仏教僧侶と同様に肉食妻帯をしなかった)。謙信の俗名は輝虎、信玄は晴信である。が、法名のほうが知られている。

謙信はかつて、信玄が領民のための塩の欠乏にいたく悩んでいるのを知った時、寛大にも自分の領地からその必要な物資を敵に供給した(日本海に臨んでいるので越後は塩を十分産した)。



川中島の対陣戦の一つでは、謙信は敵の出方の遅いのに業を煮やして、一挙に勝敗を決せんものと単身、信玄の陣に乗り込んだ。謙信は敵将が数人の幕下とともに悠然と椅子に腰掛けているのを見るや、剣を抜いて信玄の頭上真向から斬りつけて、

「いかなるかこれ剣刃上の事」と禅問を発した。

信玄は少しも騒がず、そのとき彼の手にしていた鉄扇で襲いくる武器をかわして、

「紅炉上一点の雪」と答えたという。



謙信は僧・益翁のもとで熱心に禅を学んだ。師僧はつねに彼にこう言った。

「あなたが真に禅を会得せんと欲せるるならば、命を捨てて直下に死の穴に飛び込むことが必要です」

謙信はのちに彼の家臣たちに次のような訓戒をのこした。

「生を必する者は死し、死を必する者は生く。要はただ心志の如何にあり。よくこの心を得て、守持するところ堅ければ、火に入りて焼けず、水に陥って溺れず、なんぞ生死に関せんや。予、つねにこの理を明らかにして三昧に入れり。生を惜しみ死を厭うがごときは、いまだ武士の心胆にあらず」

2013年7月11日木曜日

信長と沢彦。岐阜と岐山



「その岐山の名を、信長殿が岐阜とされたのだなぁ?」

「岐阜」という地名は、中国の「岐山(きざん)」から採られている。その昔、戦国時代の話である。



中国の岐山というのは、古代中国「周の武王」が根拠地にしたところであり、黄河源流、渭水のほとりに位置した。周の武王という人は、君主であった「殷の紂王」を殺して天下を獲った人物。

織田信長が美濃(現在:岐阜県)の稲葉山城を攻め獲った時、「天下布武」という野心があったのは明らかであり、それは周の武王の志にも通ずるものがあったのだろう。ゆえに信長は稲葉山を「岐山」と改めたかったのだという。



しかし、それではあまりに天下への野心が露骨すぎる。そう言って反対したのは「僧・沢彦(たくげん)」。信長の幼い頃から脇についていた僧である。

「『岐山』という名にすれば、武田信玄も上杉謙信などの歴史を知る武将たちは、『信長め、思い上がったか』と悪口を言うでしょう。少しお控えくだされ。岐山の山を低くしましょう。丘にしましょう。岐阜とお命名ください。『阜』というのは丘の意味です」

さすがの信長も、僧・沢彦の意見には苦笑して従ったという。



また、僧・沢彦は稲葉山城が「高い山の頂」にあったことにも苦言を呈している。

「そんな山の上から下を見下ろしていても、地べたを這いずり回っている民の汗と涙の苦しみはわかりますまい。麓へ降りなさい」と。

やはり、その言に従った信長。麓の井ノ口というところに降り、そこに政庁を開いたという。







2013年6月24日月曜日

信州に吹く「真田の風」



「いよいよ、その日が参ったな。源次郎(幸村)」

真田信之は一人、江戸屋敷の濡れ縁に座りながら、暁闇の西の空に向かって語りはじめた。



「お主のことだ。本日の戦では、我ら真田兵法の限りを尽くし、関東勢の荒肝をひしぐに相違あるまい」

時は慶長20年(1615)5月7日、大阪では夏の陣の最終決戦のときを迎えていた。



「赤備えに身を固め、白熊の兜で突進するお主は、徳川の者どもの目には、武田の大御屋形様(武田信玄)が蘇ったように映ろう。それは怖かろうな」

信之は一人、くすりと笑う。だが、すぐに表情が引き締まる。

「ことによると、大御所様(徳川家康)も無事では済まぬやも…」










関ヶ原の合戦直前、兄・真田信之と弟・真田幸村は敵味方に別れており、二人の進む道はすでに違っていた。

家康に従って会津征伐に向かう途中、上方での石田三成挙兵の報を受け、真田親子は「東軍(家康)につくか、西軍(三成)につくか」を話し合ったと云われる。世にいう「犬伏の別れ」。信之の結論は、弟・幸村と「袂を分かつ」というのもであった。

だが敵味方に別れてなお、双方の胸のうちには、若き日にともに仰いだ真田家の家紋、誇り高き「六文銭」の旗が翻っていた。










兄・信之と弟・幸村は、その性格がまるで違っていたとも云われる。

信之は幸村を「柔和で怒るようなことはない」と評している。幸村は人質生活が長かったからか、どこか人懐こいところがあり、その気質は豊臣秀吉に通ずるものがあったともいう。

一方の兄・信之は、長男でもあり後に家を守り信州・松代藩の礎を築いたことを考えても、現実的に筋を通す辛抱強さを備えていた。



元々、真田氏は小県郡の真田郷(現在・長野県上田市)における海野氏の一族。

その祖は、清和天皇の子「貞保親王」との説がある。眼を患ったという貞保親王は、当地の温泉で養生するうちに地元民と親しみ、「滋野天皇」と呼ばれるようになったと云われる。

その血を継ぐとされる真田家には、名門一族としての誇りがあった。



だが、信之・幸村の祖父である「真田幸隆」の時代に苦難は訪れる。真田氏は武田信虎(信玄の父)や豪族・村上義清に故郷・小県(ちいさがた)を追われてしまい、流浪を余儀なくされるのであった。

その一族滅亡の危機に遭って、祖父・幸隆はあえて武田家のふところに飛び込み、真田の地の奪還を果たす。それは名門一族の、土地に対する強い自負心がそうさせたのでもあった。



武田家にとって、真田は「外様」である。

それでも、幸隆の活躍奮闘は目覚ましく、武田信玄から厚い信頼を寄せられることになる。幸隆は「大義」のためには、敵であった武田家にさえ、その命を惜しむことがなかった。

それが真田家の「侠気」であり、孫の信之・幸村にまで受け継がれていくものでもある。ゆえに、その大義・侠気さえ失わなければ、兄・信之が徳川方、弟・幸村が豊臣方と敵味方に別れようとも、それは活躍の場が異なるだけのことであった。



豊臣方にいた幸村は、徳川方から「信濃一国を与えるから寝返るように」との誘いを受けたというが、幸村はそれに応じようとはしなかった。

それは徳川方の示す「利」は、真田家の「大義」とまったく相入れるものではなかったからなのだろう。



幸村は「大阪の陣」の決戦にあって、真田家の家紋である「六文銭」の旗を用いなかったと云われている。それは敵である徳川方にいる兄・信之に係累が及ぶことを恐れるためであった。

また、幸村が大阪城から突出した「真田丸」を築いたのは、真田伝来の戦法で自在に戦うためであると同時に、たとえ真田丸が陥落しても、大阪城に迷惑を及ぼさぬための配慮であった。










一方、徳川方の兄・信之は、弟・幸村が大阪の陣で暴れ回ったことで、当然、徳川方から厳しく睨まれる。当時は、ほんの些細な口実でも、容赦なく御家取り潰しになることがあった。

だが、細心なる信之は、幕府方に一切の隙を見せなかった。それは信之の類稀なる手腕であり、「必ず真田家を残す」という執念でもあった。



領地こそ失うことはなかったものの、大阪の陣から7年後、信之は先祖伝来の上田から「松代」への転封を命じられる。加増転封(13万石)とはいえ、真田ゆかりの地域と領民とから切り離されたのである。

真田家の武勇を恐れた将軍・徳川秀忠は、あまりに真田が地元民と繋がりの強いことに警戒したのである。秀忠は関ヶ原の合戦の折、上田に足止めされ戦に遅れるという大失態を演じているが、それは真田家と上田の領民が一丸となって、数倍の秀忠軍を翻弄したためであった。



新たな領地「松代藩」では、信之の次の藩主「信政」の時に、御家取り潰しの危機に瀕している。信政の急逝により、その跡目を巡り真田家には御家騒動が起こってしまったのである。

その危機を回避したのは、隠居していた信之であった。老いたとはいえ、見事に乱れた家臣団を一つに束ねてみせたのである。信之93歳。最後の大仕事。

その後、同年、信之はその役目を終えたかのように、この世を去った…。



信之の守った真田の血は、現在14代目を数え、眞田俊幸さんに受け継がれている。

俊幸さんが子供の頃に聞いた話に「殿様たる者」というものがあるという。それは真田家に長く伝わる話だった。



たとえば真田の殿様は、家臣の沸かす風呂に入り、その湯加減を聞かれた時には必ず「いい湯だ」と答えなければならない。熱かろうがぬるかろうがそうである。

というのも、もし殿様たる者が「熱い」だの「ぬるくてかなわん」などと口にしようものなら、湯を沸かした家臣の首が飛んでしまう。

「殿様たる者、まずは家臣を守ってやらなければならない」

それぐらい、真田家の城下では家臣や領民が思いやられていたのだという。そうした誠実で律儀な気風からは、藩祖である信之の人柄が偲ばれてもくる。



現在の松代・上田にまで伝わる「質実剛健の気風」

それは現代にも吹く、真田家の風である。

その風が、戦国時代、「六文銭」の旗を翻していたのであろう。













(了)






ソース:歴史街道2012年12月号
「真田信之と幸村  六文銭の誇りを貫く」

2013年4月18日木曜日

「一睡の夢、一杯の酒」。毘沙門天・上杉謙信



戦国武将「上杉謙信(うえすぎ・けんしん)」。

彼は僧衣を脱ぎ捨てたのではなく、そのままに鎧を重ねた。







自らを北の守護神「毘沙門天」の転生と信じ切っていた謙信。

「北条の小田原城を囲んだ折は、矢弾の中を城門の前まで進み、そこで弁当をつかい、茶を三杯まで喫したという」

毘沙門天だと思い込んでいなくば、できぬことである。



「友軍の城へと救援に向かう際、『とりあえず』と将みずから、わずか23騎の共を従えて、敵軍の中を駆け抜けた」

川中島では、鎧の上に僧衣をまとった武田信玄を、「ただ一騎、陣中に大将みずから馬を乗り入れて、斬りつける」。







「利」を追い求める戦国武将の中にあって、謙信ばかりは「信」と「義」を高らかと掲げ、彼らの前に立ち塞がった。

「通常なら、群と異なる価値観はすぐさまに撲滅されるであろうが、謙信の場合は違いすぎたために、近寄り難い高みにまで浮き上がった(黒鉄ヒロシ)」

あの織田信長でさえ、贈り物などしながら、謙信を避けまくる。



そんな漢(おとこ)、上杉謙信の辞世の句。

「四十九年 一睡夢 一期栄華 一杯酒」

(49年の生涯は、一瞬の夢のようなものであった。栄華は一杯ほどの酒にひとしい)

この句を遺し、毘沙門天はこの世から消えた…。






出典:千思万考(黒鉄ヒロシ)
「謙信的 美」

2013年3月26日火曜日

棋譜に隠されていた主君の真意。真田昌幸



真田昌幸はあることを思い立ち、主君・武田信玄から預かったままになっていた「碁盤と碁石」を引っ張り出してきた。

「思えば、御屋形さまからお預かりしたこの品が、形見分けとなってしまった…」

この時、主君・信玄はすでにこの世になかった。しかし、信玄の遺言により、その死は秘されたままである。



黒石を掴み、碁盤の上に置いていく昌幸。

形をなしたのは六連銭。それは最後に主君と打った六子局だった。

碁打ちとは不思議なもので、対局が終わった後でも、己と相手の打った手を最初から並べ直すことができる。なぜならば、その一手一手にすべて意味があるからだ。



脳裏にはっきりと焼き付いている棋譜を、静かに並べ始める昌幸。改めて並べ直してみると、信玄のこの上なく鋭い手筋が碁盤の天面に浮かび上がってくる。

「まるで、御屋形さまの一手一手が真剣の切っ先のように繰り出されている!」

信玄の打った白石には、どれも裂帛の気魄が籠っていた。相手に六子の優位を与えての一局は、かの信玄といえども、相当に難しかったようである。



そして、いよいよ勝負を分けた「天元への一手」。

昌幸が放ったその一手より先は、まるで新たな一局が始まったかのようであった。



「これは…」

信玄と対局した時の昌幸は、ただただ夢中で打っていただけで、主君の深い真意には気づけていなかった。

信玄は碁盤を地図に見立てて軍略を考えることも多く、囲碁の手合いを通して、軍略用兵の真髄を伝えてくることも多かったのである。



「石の死活は、兵の死活と同じである」

それが信玄の教えであった。



石を並べながら、昌幸は信玄の真意に気づき始めていた。

天元の一手の後、信玄の白石の一つ一つは生命が宿ったかのごとく躍動している。まるで謡曲を舞うように活き活きとしている。

「いま、やっと、わかった。御屋形さまはこの対局を心の底から愉しまれていたのだ…」



信玄の応手からは、軍略兵術の香りは消えていた。そこには何の邪気もない。昌幸を負かそうともしていなかった。

「かように面白き碁、かほどに気分の良い夜もないわ」

対局の後、主君はそう言って笑っていた。



気がつくと、碁石の代わりに大粒の泪が碁盤の上に落ちていた…。

この一局は、あの三方ヶ原の一戦の直後に打たれたもの。信玄がこの世を去る、ほんの少し前のことであった。



「御屋形さま…、不甲斐ない昌幸を許して下さいませ…。童の如く泪を流し尽くさねば、立ち上がれそうにありませぬ…」

碁盤の前で震え続ける昌幸。武将としての鎧を脱いだままに…。



「しかし、泪が枯れたのならば、立ち上がらなければならない…!」

人知れず心に鎧をまとい、主君の死を踏み越えて…。






出典:歴史街道 2012年 10月号 [雑誌]
「我六道を慴れず 真田昌幸 連戦記」

2013年3月22日金曜日

日本と朝鮮半島の狭間で…。苦悩の対馬



「国境の離島」の苦悩

日本と朝鮮半島の間に位置する「対馬(つしま)」。その島主「宗義智(そう・よしとし)」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵には頭から反対だった。



というのも、対馬という貧しい島は、朝鮮との交易に頼らなければ生きていけない。島からの生産物だけでは、食料が絶対的に不足しているのだ(現代に至ってさえ、島の主食の生産量は島民の2ヶ月分しかない)。

「極端にいえば、ある時期の対馬は朝鮮を『宗主国』とせざるを得ないような状況に置かれていた(童門冬二)」



それでも、狂ったような秀吉の朝鮮出兵は敢行された。

交易の利を知る商人連中は皆反対だった。堺の元商人・小西行長も、博多の豪商・島井宗室も。秀吉の側近の石田三成でさえ反対であり、徳川家康もそうだった。

それでも、秀吉は朝鮮に大軍を送ったのだった…。






狂った秀吉の死後、その後の国政を担うこととなった徳川家康は、「全方位外交」という平和的な方針を持っていた。そして、その方針には当然、痛く傷ついてしまった日鮮の国交回復も含まれていた。

「朝鮮との和親の義を打診せよ」

その命を受けた対馬島主・宗義智(そう・よしとし)は、喜び勇んだ。「願ってもない…!」。



慶長四年(1599)、宗義智は朝鮮に和議の使者を送る。しかし、朝鮮に駐留していた明(中国)の将は、その使者を捕縛すると、北京へと護送してしまった。それは、次の使者も、また次の使者も同様だった。つまり、最初の三度の使者は皆、捕らえられてしまったのだ。

そして慶長六年(1601)、四度目の使者となった石田甚左衛門はようやく、朝鮮からの返書を持って戻ってくることができた。



その返書にはこうあった。「朝鮮からの拉致者をすべて送還せよ」。

そこで宗義智は、その返書の言に従うべく諸大名に呼びかけ、秀吉の朝鮮出兵で連行してきた朝鮮の人々を可能な限り送り返した。この慶長六年(1601)から九年(1604)にかけて、朝鮮に送還した男女は延べ1,702人に上ったという。

対馬という島は、日本の果てだったかもしれないが、朝鮮の釜山港からはわずか50kmも離れていない。その交易を再開することは、島主・宗義智の悲願であったのだ。そうした立場は、同じく国境の離島である琉球(沖縄)にも多分に似通っていたであろう。



慶長十年(1605)、徳川家康は京都・伏見城にて、朝鮮からの使者である孫文或(そん・ぶんいく)、そして僧の松雲(しょううん)と会見。

そしてここに、「日鮮両国は国交を回復する」との原則が定められることになった。



和議成立の褒美として、対馬島主・宗義智には肥前(佐賀)に二千石を加増、朝鮮使の僧・松雲には、日本の僧にとって最高の名誉である紫衣を与えられた。

喜んだのは朝鮮王(光海君)も同様。彼も家康同様、全方位外交には賛成だったのだ。






こうして日鮮の国交はスムーズに回復したかに見えた……が、その裏では大変なことが起こっていた。

「国書の改竄(かいざん)」

対馬島主・宗義智は、日本側の国書を勝手に書き換えてしまっていたのだ…。それは国境の離島の苦悩の末であり、切羽詰まった現場の苦渋の表れでもあった。



実は、朝鮮側からは「日本の謝罪文」を提出せよ、と言われていた。つまり、徳川家康に「詫び状」を書けというのだ。まさかこんなことを家康に言えるわけがない。

また、朝鮮側の国書の宛名が「日本国王」となっていたのも問題だった。この宛て書きは「もともと宗主国が従属国に出す文書」で使用されるもの。つまり、日本は朝鮮に従属国扱いされていたのである。

家康の肩書きも問題だ。もし「日本国王」と記せば、朝鮮側に日本が従属国であることを認めることになる。そして、それ以上に天皇の存在を無視するという無礼も犯すことになる。



これら3つの問題を回避するため、対馬島主・宗義智は日本の国書を改竄したのであった。

家康の肩書きは「日本国源家康」と曖昧なものとし、この和議は日本から詫び状を送ったという形ではなく、朝鮮から申し出されたものとした。



「国境の離島」の苦悩。

その責めを、現場の島主ばかりに負わせられようか…。

もとはと言えば、耄碌老人の暴挙がその因であったのだ…。







(了)



出典:致知2013年4月号
「林羅山 国書改竄事件 童門冬二」

2012年11月15日木曜日

禅僧・快川紹喜と武田信玄


信玄(戦国大名・武田信玄)は意表を突いて、快川(禅僧・快川紹喜)の力量を試したことがあった。ある日のこと、居室にこもって座禅を組んでいる快川の背後に忍び寄り、いきなりその鼻先に白刃を閃かせたのである。

ところが快川は自若としてたじろがず、間合いをとっておもむろに一篇の偈(げ)を唱えた。

「紅炉上、一点の雪」

紅炉とは、火が赤々と燃えている炉のことを言う。そんな炉の上に一片の雪を置くと、たちまち跡形もなく溶けて消える。それと同じように、人間が本来の仏性に目覚めていれば、仮りに私欲や妄想にとらわれることがあっても、一瞬にして解け去ってしまうものだ。禅の悟りとはそういうものであり、この不動心を備えている限り、どうして自分の生死に拘泥し、不意の白刃に怯えたりすることがあろう。

信玄は、大悟徹底した禅の高僧に相応しい快川のこの応対を前にして、自分の軽率を悔い、虚心に頭を垂れたが、快川はさらに説いて信玄のより高度の自覚を促した。

「公のような国主の立場にある御仁が、軽々しく刀を弄ぶものではありませぬ。肝心なのは心の修養とわきまえ、今後みずから刀を取らぬようお心掛けあられよ」

信玄はこの訓戒を受けて、快川に傾倒することますます深く、その後はついに一度も刀を手にすることはなかったという。



時は下り、天正十年三月。

信玄亡き後の武田領内には、織田信長の下知を受けた軍勢が怒涛のように攻め入り、追い込まれた武田家当主・勝頼は天目山の麓で自害。



そのおよそ一ヶ月後、織田の軍勢は快川のいる恵林寺を包囲し、百余人らの僧を山門に追い上げた。それからほどなく、恵林寺山門は猛火に包まれ、凄惨な修羅場が現出することになる。織田軍が放った火は足元を這いのぼり、見る間に黒煙となって楼上を押し包んだ。

快川は座禅したまま、従容と火中に生命を断ったが、その寸前、次のような人口に膾炙する遺偈を、同座の百余人の衆僧の前で唱えたという。



安禅は必ずしも山水を須(もち)いず

心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し








抜粋:「名将の陰に名僧あり(百瀬明治)」
第三章「武田信玄の陰に快川紹喜」

2012年11月11日日曜日

討つ者も討たるる者も…、みな「土くれ」


討つ者も、討たるる者も土器(かわらけ)よ
砕けてあとは、もとの土くれ



この無常観そのもののような辞世の句を詠んだのは「三浦義同(みうら・よしあつ)」。通称「道寸(どうすん)」の法名で知られる三浦一族本宗家、最後の当主である。

「三浦一族」といえば、鎌倉時代を代表する御家人の一つであるが、この道寸が北条早雲に討たれたことによって、その本流の血筋は途絶えることとなる。



しかし、道寸ほどしぶとく城を守り続けた武将は、日本史上に例がない。

その籠城戦は、日本合戦史上最長の4年あまりにも及んだのだ。

三浦半島(神奈川県)の新井城に籠った道寸は、扇谷上杉家(おうぎがやつ・うえすぎけ)の援軍も待ちながら、ひたすらに耐えていた。しかし悲しいかな、その援軍はことごとく北条早雲によって撃退されてしまう。北条早雲といえば、戦国時代の黎明を告げることとなる男。相手が悪かったとしか言いようがない。



三方を海に囲まれた新井城は、攻めるのに難い分、出撃にも不向きであり、外部からの援軍なしに勝利の道はなかった。そして、その頼みの綱はプッツリと断たれた。

万策尽きた新井城。かくして、その命運は尽きることとなる。永正13年(1516)7月11日、最後の壮絶な戦いのなかで道寸は討ち死。ついに新井城は北条早雲の手に落ちる…。



落城後の焼け跡に立ち、道寸のクビを前にした北条早雲は何を思ったのであろうか。おそらくは早雲も、道寸の辞世の句を知っていたであろう。

”討つ者も、討たるる者も土器(かわらけ)よ。砕けてあとは、もとの土くれ…”

討たれた道寸は「かわらけ」のように砕け、もとの「土くれ」となった…。



小さな救いは、落城以前に逃れていた道寸の次男、のちの正木通綱が生き延びたことだ。その孫にあたる於万の方は徳川家康の側室となり、紀伊頼宣と水戸頼房を生んで、その血を徳川家内に残すこととなる。

一方、一時的な勝者となった北条早雲も、その子孫は天正18年(1590)、豊臣秀吉によって「討たれる者」となり、やはり「土くれ」に帰すこととなる。それは道寸が土くれと化してから74年後のことだった…。





出典:歴史人2012年1月号
「城を攻める 城を守る」

2012年9月15日土曜日

いざという時の「彦根城」


江戸時代以前に築かれた「天守」で現存するのは全国に12基。そのうち国宝となっているのは4基で、「彦根城」はその一つだ。三重三階の天守は、徳川譜代の大藩の城郭にふさわしい優雅な雰囲気を漂わせている。

牛蒡(ごぼう)積みの石垣の上にたつ彦根城。牛蒡積みは野面積みの一種で、細長い石を差し込むようにして積み上げられている。見えている石の面積は小さいけれども奥が深く、非常に堅牢なのだという。



小高い山の上にある彦根城の天守は、遠くからでも眺められるが、防御上の配慮からか、近づくにしたがって見えにくくなる。江戸初期、「大阪城への抑え」として築かれたこともあり、その天守も大手門も大阪の方を向いている(表門だけは江戸の向き)。

じつは彦根藩主、いざという時には「京都の天皇を彦根に移す」という密命を、幕府から受けていた。常備されていた120艘の御用船は、その時のためのものだったという。

今、彦根城の屋形船は観光客用の「舟遊び」の足として、毎日忙しいとのことである。



出典:歴史街道 2012年 09月号
「彦根城」

戦国時代の密室劇「清須会議」


「柴田勝家は僕にはあまり『感覚派すぎる』ように感じられましたし、羽柴秀吉はあまりにも『陰謀的すぎる』。丹羽長秀の『知識人としての苦悩』が、僕自身には一番フィットしました」

脚本家として、劇作家として、そして映画監督として八面六臂の活躍を続けている「三谷幸喜」氏が手がける、初の歴史小説「清須会議」。

「ただし実際に書いてみて、一番筆が進んだのは秀吉です。もともと勝者よりも敗者に感情移入する質(たち)なので、秀吉にはあまり興味がなかったのですが、この人物は掘り下げれば掘り下げるほど面白かった」



出典:歴史街道 2012年 09月号
「肖像画に描かれた武将たちが、本当はどう語ったのだろう? 三谷幸喜」