2015年8月16日日曜日

秋山真之との憶い出 [松岡洋右]



〜話:松岡洋右〜


国家多事の秋に秋山中将を憶ふ


 私が故秋山海軍中将と知合いになったそもそも初めは上海においてである。そのころ私は三十歳で上海に領事としてしばらく赴任していたことがある。そのとき今の侍従長の鈴木貫太郎大将と秋山真之中将が南清警備艦隊の艦長として上海に来られた。私は自分の職責上自然、警備艦隊との交渉が多い。したがって秋山中将との往来も相当頻繁であって、ついには非常に懇意に交際をすることになった。

 そういう風にして交際をすることになったが、秋山中将と私との上海における交際の期間は、比較的短かった、けれどもどういうわけか当時の秋山艦長と私の間は、最初から一見旧知のごとき感を持ち、非常に懇意であった。秋山艦長は時には私の上海における官舎へ来て、二人で深夜まで互いに飲み、互いに談じて、ついには秋山中将は官舎に泊っていったりされたこともあった。そうして私の一身上の事となると、秋山さんも非常に憂いたり、心配されたりしてくれるような間柄になり、ずっと後年までそういう状態であった。

 大正五年に私が大病の後アメリカから帰って来て、その秋、観菊御宴に招かれて行った時にも、あの多勢の人の中をしきりに私を探しておられたということであった。すなわち「松岡を死なしては…」と言いながら探しておられたという話である。しかしそのとき私はとうとう会うことができなかった。



 秋山中将の人格に関しては、私が蛇足を加えるまでもないように、その生存中からすでに定評のある人で、私もその偉い人格に親しく接し、また親しい知己の感までもあったような間柄になったという事を、今日でもなお自分の一生において、特に非常に貴い、かつ有益なる記憶として存するのである。私も秋山中将のことを憶うと、いつでも必ず想起する一つの挿話がある。

 それは当時、上海における南清警備艦隊司令官は寺垣中将(そのときは少将)であったが、その下に鈴木貫太郎、秋山真之の両氏が各々艦長であった。ちょうどその頃、かの有名なイギリスのキッチネル将軍が日支両国を漫遊に来たことがある。そして上海にやって来た。そこで寺垣司令官はイギリス総領事館においてキッチネル将軍に敬意を表された。そのとき秋山中将(そのときは大佐)と私とが同道した。そうして秋山大佐が寺垣司令官のために通訳の労を取られた。日英両将軍の間によもやま話が交換された。

 それからたしかその翌日の夕方であったと思うが、私はキッチネル将軍とふたたびある宴会の席上で一緒になった。そのとき私はキッチネル将軍にむかって「あなたは昨日、寺垣司令官との会見において通訳の労を取られたキャプテン秋山は、何人であるか御存じであったか」と問うた。ところがキッチネル将軍は怪訝な顔をして、「イヤ、あの人は初会見の人で知らない、またあなたのお尋ねの意味はどういう意味であるか」と問い返した。そこで私は

「あれが有名な日本海海戦のキャプテン秋山である」

と言ったところがキッチネル将軍は、非常な驚きの眼をみはって、「それはしまった。自分はちっとも知らなかった。それならキャプテン秋山と大いに話をしてみたかったのだ」と答えられた。

 私も前日の会見の時に、私からでもそのことを簡単にキッチネル将軍に告げたらばよかったと思うたけれども、それは後の祭りである。ここがやはり我々日本人の特性なんだ、「この人が有名なキャプテン秋山大佐である」というような、いかにも不躾(ぶしつけ)な紹介を私どもはちょっとしかねたのである。西洋人ならばすぐするところであろう。また秋山真之中将も自分から「私が、その日本海海戦のキャプテン秋山だ」と言わなかったのである。しかしともかくもキッチネル将軍は非常に残念がっておった。キッチネル将軍その人も英雄であったかもしれないが、他の欧米人と等しくキッチネル将軍自身また非常な英雄崇拝者であった。






 秋山中将については、前にも述べたように私どもが妄評蛇足を加える必要はない。しかし私の眼に映じた秋山真之中将その人について、あえて自分の印象を言えば、一見豪放磊落な人であったけれども、またその裏に非常な周密な思慮と細心の用意をもっている人である。そうして頭脳は恐ろしく明晰で澄んでいた。ひとり軍事のみならず政治の方面、ことに上海方面へ行かれた関係でもあろうが、支那問題には非常に興味をもたれて、明快なる頭で支那問題の研究を相当深くしておられる。対座しておってもいつも話の要点を直ちにつかんでいく人である。一言にして言えば、私はこれくらい物分かりの早いと思った人は稀である。

 そうして人間秋山としては非常に単純で、情の深い人である。ただちに信を人の腹中に置くというような人で、ああいう人は情的方面からいえば容易く人に騙される人であったろうと思う。私もいささか愚かなところがあって、そういう傾きのある点を自らも知っている。そこが秋山中将と私が非常に同気相求めた点かもしれない。当時の人で秋山将軍を憶い出すと同時に、眼の前に浮かぶよく似た人と思えるのは山座圓次郎氏である。

 我々はいまや国家非常時に際会して、内外ともに多事なる秋にあたり、実に秋山中将のごとき英傑を憶い出すことが大切である。秋山中将のごときは教育によってできる人物ではない。生まれつきであるから作ろうにも作れないのである(昭和七年八月)。






引用:秋山真之会『秋山真之』昭和8年




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