2015年8月31日月曜日

田中角栄の「ブッダ・フェース」



〜話:山折哲雄〜


 昭和60年、6月26日朝のことだった。当時の新聞各紙の社会面に、田中角栄元首相の近況を告げる記事が大きな活字で載っていて、驚かされた。「角さん」はこの年の2月27日に脳梗塞で倒れて入院していたが、それ以来、4カ月ぶりにその姿を人々のまえに現したからだった。

 それらの紙面には、東京目白の私邸でソファに腰かけてくつろぐ3枚の写真がのっていた。ソファに腰かけてはいるけれども、そのすぐそばには車椅子がおいてある。脳梗塞で右半身が麻痺、言語障害も引きおこしていて、リハビリに励んでいる病状をそれとなく写しだしていた。3枚の写真では、書類や手紙を手にしているのは左手であり、右手はいずれも力なく、ソファやからだに添えられたままだった。



 たまたま載っているあるコメントに目がとまった。それは当時、社会保険中央総合病院で脳神経外科部長をつとめる三輪和雄さんの談話であったが、氏は記者の質問につぎのように答えていた。

 顔の左頬の筋肉が軽い麻痺を示し、右腕と右足も麻痺していると類推できる。脳卒中などの後遺症で、穏やかな「ブッダ(仏陀)フェース」になることがあるが、元首相の表情は憂鬱そうで、生気のないのが気がかりだ。

 その記事を読んで、私は心にひっかかるものを感じた。「脳卒中の後遺症で、穏やかな”ブッダ・フェース”になる」というくだりである。「仏陀の顔」というのは、いうまでもなく悟った人間の理想的な表情をいったものだ。日本人であれば、仏教を信ずる者も信じない者も、誰しもが思いおこす、あの静かな深味のある顔である。その「ブッダ・フェース」がいったいどうして脳卒中などの後遺症で、たまたま穏やかになった顔をいいあらわすのに用いられているのか。






 それが気になっていて、数日たってから私は三輪さんに電話をかけて、くわしい事情をきいてみた。すると即座に、あれは記者がいってきたのに答えたものだといわれる。田中元首相の顔は医学の世界で「ブッダ・フェース」といわれるものではないかと聞いてきたので、そうかもしれないと答えた…。

 けれども三輪さんは、それに話をつなげて、「じつは西欧の近代医学の教科書には、そのようなことが書かれていたのだが、現在はそのように東洋の仏教を差別するような言い方はしていないはずです」と答えられた。

 私は一瞬、なるほどと思いながら、同時にブッダの表情は、西欧人にとって必ずしも価値ある表情とみなされてはいないということを知らされて、胸を衝かれたのである。



 実例をもう一つ紹介しよう。米国のジョンスン大統領の時代にラスクという国務長官がいたが、彼は「個人的な感情を一切顔にあらわさない」ということで有名な人物だった。どんな政治的な激動期に入っても、いったい何を考えているかわからない不気味な男であるということで、マスコミの評価はあまり良くなかった。政治家というのは、自分の感情をもろに出したほうが大衆の人気を博するのだが、彼はまったくそういうことをしないタイプの人間だった。

 そんなラスクを皮肉って、新聞記者たちに「彼の顔はブッダのような顔である。何を考えているかわからない。気味の悪い顔である」と書きたてたのである。私はあらためて、西欧人と東洋人のあいだの価値観の根深い違いを思い知らされたような気がした。









出典:月刊「武道」2015年9月号
山折哲雄「文武一如」


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