2015年8月19日水曜日

ダルマ蔵相[高橋是清]



〜話:阿部真之介『非常時十人男』〜


高橋是清





高橋さんの進退と斎藤内閣


 第六十四回議会も無事にすんだ。二十二億の空前の非常時代予算もほとんど全院一致で通過した。これで非常時は解消したのだ。昭和七年末、鈴木総裁に対して、高橋蔵相が、

「自分としては先の臨時議会に財界応急策を樹て、今議会で財界根本方策を樹立した上は、もはやその職責を尽くしたものとして、蔵相の職を退きたいと思っている。だからせめて本議会だけは国家のため何ぶん穏やかに援助して頂きたい」

と申し出で、斎藤内閣の進退について、暗黙に諒解を遂げてあった時期が来たのだと政友会は観測を下して、ここに斎藤内閣桂冠説が政界を蔽うに至った。果たして政友会の観るごとく非常時局が済んだかどうかは第二の問題として、高橋蔵相が辞めることは、斎藤首相がたびたび言明したように、斎藤内閣を危殆に瀕せしむることなのだ。

 そこで首相ばかりでなく、現内閣の三大支柱の一である荒木陸相まで、高橋蔵相に非常時は未だ解消したものではない。ここで蔵相が辞めることは、国家にとって決して望ましいことではない旨を力説して、蔵相の辞意を翻させようとしている。それほど蔵相・高橋是清子の存在は我が国財界にとって、重要な一礎石になっているのである。



 では誰が高橋をこれまでにしたかということになるのであろうが、しかし彼の場合にあっては「何が」という方が妥当している。彼の足跡を見るとき、常に彼は国家の非常時に際会している。そして、それをともかくも切り抜けてきている。で、その度ごとに彼は、一歩一歩人間として完成の途(みち)をたどって来ているのだ。また経済界における信用を増し、重きを加えてきているのだ。ここに彼の強みがあると言わなければならない。

 彼が初めて国家の大事に直面したのは、日露戦争のときだった。そのとき彼は日本銀行副総裁だった。政府がいよいよ開戦と決意し、松方正義、井上馨の二元老が財政上の世話をすることになたが、当時日本には金がなかった。そこで明治二十七年二月十日、宣戦の詔勅が下ると間もなく、彼は松方元老のところに呼ばれて

「日露両国は開戦のやむなきに至ったが、さきに立つ金がない。この上は外債を募集するより外に方法はないが、君は欧米に行って募債に尽くしてくれ」

と頼まれ、井上 侯からもたってという話で二月二十七日、外債募集の大任を帯びてロンドンに出張した。そして、わが関税の収入を担保として、世界財政の桧舞台に立って非常に苦心惨憺して、第一回の一億円をはじめとして、五回にわたって十億七千万円という当時の我が国力としては極度の外債募集に成功したことは、今に語り草として伝えられているところであるが、このとき翁は英国の財界の巨頭ロスチャイルドにその手腕と誠実とを認められ、それが成功の因となったのである。



 翁の手記によると、明治三十九年の末、外債募集も終わったので、帰国の挨拶のためにロスチャイルドを訪問すると、彼は改まった口調で、

「今回の日本外債の成功の原因はロシアとの開戦の名義が正しかったためで、日本への同情の結晶である。決して日本の財力に与えられた信用の結果ではない。日本もこの点を留意して今後信用を高めるため、第一に国民の負担を軽くし、これによって国内の産業を発展せしめ、第二に日本に減債基金制度を設けて外債の整理をしなければならない」

と教えたという。そしてこれが日本の減債基金制度の基(もと)となったものだと称して、功をロスチャイルドに帰している。この点などまったく翁らしい面目が躍如としているところである。この功績によって翁は華族に列せられ男爵となった。






高橋翁と田中男の腹芸


 その次は、例の第五十二議会の片岡直温蔵相の失言から巻き起された、我が国金融界空前のパニックの後始末で、鈴木商店の破綻から台湾銀行の取付けとなり、若槻内閣は台銀救済のため、日銀から二億円を貸し出さしめ、その補償を政府がするという緊急勅令案が、枢密院の否決するところとなったため、昭和二年四月十七日、闕下に辞表を捧呈した。

 ところが十八日になると日本銀行の貸出しは空前の激増を示して八億七千万円となり、前日の五億八千万円に比べてわずか一日で二億九千万円増加したのであった。十九日になると政友会の田中義一男に大命が降下した。が蔵相となってこの難局に当たろうという人がいない。田中男は参内の帰途、赤坂表町の私邸に翁を訪うて、切に財界救済のため出盧を乞うた。

 ところで当時、田中男と翁との関係はどういうことになっていたかというと、翁は原敬氏の内閣にやはり蔵相として在職していた。時に原氏は東京駅頭に兇手に倒れ、政友会総裁のお鉢は党の長老である翁のところに回ってきた。そして政友会総裁なら下院に議席を持たなければというので子爵を令息に譲り、上院議員を辞めて丸腰となって原敬氏の郷里、盛岡市から下院に立候補し、政友本党の田子一民氏と火の出るような戦いをして、天下の視聴を大慈寺墓畔に集めたものだ。こうして護憲内閣に政友会の首領として入閣したのに、党内の策士のため追い出されて、その後に田中義一が入って総裁となったのである。してみれば普通の人としては、どんなに懇請されても「出る幕ではありません」と固辞しそうなところを、しかも当時病気していたのに、一身を国家に捧げて出盧を肯んじたのであるから、とうてい常人にできない腹芸の持ち主なのだ。

 で、二十日に親任式に臨んだが二十一日は十五銀行が休業となり、同日一日だけで日銀の貸出し六億三千万円、兌換券の発行額二十三億一千余万円という空前の巨額となり、紙幣が足りなくて五十円札、二百円札が急造されて市中に出たが、この二百円札などは鼠色片側刷りで、裏は真っ白というお粗末千万のものであった。



 こういう状態なので翁は一刻も猶予できないと翌二十一日の閣議で

一、二十一日間の支払い猶予令を布くこと。
二、臨時議会を招集して台銀救済、財界安定の法案の協賛を求めること

の二項目を決定し、各銀行は二十二、三日の両日、自発的に休業させた。その結果どういうことになったかというと、二十一日間のモラトリアム緊急勅令案は枢府を通過し、予期された二十四日の銀行休業明けの再取付け騒ぎも起らず、財界安定法案も五月四日から五日間招集された臨時議会で、乗員の阪谷男から

「今や日本は怒涛さかまく海の中に乗り入れた船のようなものである。高橋という老船長が舵をとって、一生懸命にこの波を乗り切って、彼方の岸に達せんとして苦心している。このごとき場合、その船長の耳傍(そば)に行って、あっちへやれ、こっちへやれと指図することは断じて面白くないことである。この際はよし不満足な点があっても、我々は高橋蔵相の人格と手腕と徳望に信頼して、一言一句の修正なく、この両案に賛成したい」

というような賛成演説もあって通過し、また案ぜられたモラトリアムの延期期間満了後の動揺もなく、この未曾有の財界の恐慌を乗り切って、阪谷男の知己の言に酬(むく)い、これで就任当初の目的が遂げて飄然と六月二日三土文相に後事を託して桂冠してしまった。



担ぎ上げられた高橋翁


 それに次いでは、一昨年の若槻内閣の退却後に成立した犬養内閣への入閣だ。この時は事が新しいだけに読者諸君もよくご存知のように、経済国難の声が日本中に漲っていた。ときに民政党内閣は安達、富田の協力内閣実現運動にひっかかって変態的の政変が起った。西園寺公は、憲政の常道にしたがって政友会総裁犬養毅を後継内閣の首班に奏薦した。

 そこで政友会内閣成立という段取りになるのだが、ここで一番問題になったのは何といっても満州事変が起っている際であり、経済国難の叫びが挙がっている時だから、陸相と蔵相に人を得なければならない。陸相のほうは幸いに荒木貞夫中将が引き受けたが、蔵相に誰を据えるかが問題、するとさすがは犬養木堂で、内閣総理大臣の前官礼遇を受けている高橋是清翁を訪ねて

「現下の時局は重要問題が山積しているが就中(なかんずく)財界の対策については最も深甚の考慮を遂げ、善処せねばならぬと信ずる。自分も老躯を顧みず大命を拝したる以上、全力を傾注して多難なる時局に処し、大任を全うすべく最後の御奉公を尽くしたい決心であるから、ぜひ貴下の御援助を乞う」

と口説いたところ、気のよいお爺さん、すぐと承諾してしまった。


 驚いたのは主治医で、七十八歳の爺さんが蔵相の激職に耐えられるものかと心配して、健康診断にとんで来たりなんかしているのに、当人、案外しっかりしいて、

「医者からはえらく厳しく申し渡されて、人には『面会を十分で切り上げろ、その後ですぐ寝ろ』なんてやられてるし、酒も不味くてあまりやりたくてもやれんという塩梅だからね。しかし、この重大な時にそんなことも言っては居られない。いったん大任を御引き受けした以上は、身体の続くかぎりやるつもりだ」

と家の子、郎党を喜ばせたり、心配させたりしたものだ。世間でもこの病蔵相の出演に犬養内閣の初登場を喝采をもって迎えた。



 で、翁は予定された通り赤字時代を救うために金の輸出禁止という荒治療を振るってしまった。翁の説に従えば、財界の不況深刻なところへ正貨が流出するから、従って金利が騰(あが)って金融が梗塞するのだと。正貨の流出が止まったらこの反対現象が招来されて、財界は景気が回復するというのであった。この財政策が当を得たものか得なかったかは、諸君のすでに切実に感じられていることであろうし、翁の財政的手腕まであげつらうことは本稿の目的でないからこの辺でやめるが、高橋蔵相というと「放漫政策のインフレ景気病患者」だと思い込んでいるらしいのに、去る一月二十八日の下院の予算委員会で、民政党の田中貢から

「インフレーションの浸透は経済界に種々の影響をあたえているが、そのうち最も注意すべきは思惑人気の発生で、民間会社のうちには、この表面的な景気の出たのに乗じて増配を企てるものがある」

と突っ込んだのに対して蔵相は

「常に機会のあるごとに整理の必要を言明しているが、情けないことに会社の重役というものは、徒らに株主の機嫌のいいように配当する。増配より整理に力を入れて会社を強固にすべきにかかわらず、なかなかやらない。政府はこういうことのないように経済界に希望する」

とインフレ景気に頂門の一針をあたえている通り、単なる放漫居士でないことを一言しておく。



非常時内閣の鉄柱


 で、今度の斎藤非常時内閣なのだが、五一五事件の直後の日本の与論はどうなっていたかというと、満州事変にともなう対外硬はもちろんとして、国民一般に望んだものは、円価の暴落による物価の騰貴、財界不況による失業、ことに農村方面においては生産品の価格の暴落と負債の増加などを、強力な挙国一致的な政府の手で救えということであった。そこで重臣の意向も決定し、斎藤実子を首班とする協力内閣となったが、軍部を除いては一流の政治家を集めるということはできなかった。

 こうした国家の重大な場合にも政党人は自派に有利な展開を計ってばかりいて、伴食でもなんでも、国家のために一身を賭して尽くすという純粋な気持ちになれないものとみえる。で、入閣を承諾したのはいずれも腕はともかくとして、顔ぶれからいえば第二流的な人物ばかりであった。こうした中に過去の閲歴をかなぐり捨てて勇敢に飛び込んだのは、民政党の山本達雄男、政友会では高橋是清だったのである。この二人あるために、斎藤内閣もいささか重きをなすようになったのである。

 特に高橋蔵相は非常な期待を一身に負わされて入閣したのだった。犬養内閣でも大鉄骨だったように、斎藤内閣でもその留任がオール日本の財界から望まれていたのだから大したものだ。政友会では党の代弁者として後に残してきたように思っているが、この代弁者少しも党の思惑通りにならない。単に一個の国家の重臣・高橋是清として、非常時予算を切り盛りしているのだから、この点確かに輿望に副(そ)うていることになる。で、政友会から蔵相問責などとび出るのである。

 臨時議会では時局匡救予算として二億六千三百万円の協賛を得て、主としてこれを土木事業費にあてようとして。この手腕についてはまた論ずるに人があるから何ともいわれないが、翁ならこそまず思い切ってここまでやったのだと思う。



 翁が健康上かなり無理をするので、愛弟子の三土忠造君がびっくりして、八月の酷暑の最中そんな乱暴なことをして、もしものことがあったら大変だと勧告に出かけたが、翁は

「この非常時に、わしの一身の勝手など許されぬ」

と断じて譲らない。で三土氏も

「主治医に相談したのですか」

と妥協を申し込んだところが

「馬鹿なことを言っては困る。主治医の耳に入れば無論止められるに決まっている。わしはもうこの頃は死を覚悟しとる。この際国家のためだ、君もわしのことを心配してくれるのは有難いが、医師には言ってくれないように頼む」

と悲壮な覚悟を洩らして、三土氏を感激させたそうだが、そのくらいの決心はもちろん持っていたであろうし、また持ち得る人でもある。






 そうした無理がたたって臨時会議後、身体を悪くして葉山に静養していた。政友会のほうではどうもあまり言うことをきいてくれないし、それに翁が辞めれば後任難で政府がつぶれるとみているものだから、高橋蔵相辞職説を盛んに伝える。世間でも年が年だし病気ならばと思っていると、皮肉な親爺だけに、辞めるかどうかとききに行った新聞記者の

「蔵相を辞(よ)されるんではないですか」

というのに返答して

「どうしてどうして。そんなんならここまで来て静養しないよ。みんな充分静養させてくれるつもりなんだろう。訪問客もあまり見えないよ」

とやっつけている。しかもそのすぐ前に首相と三土鉄相の訪問を受けていながら。



 が、12月に入って寒さのために、身体がきかなくなってまた臥床した。すると政友会のほうでは気が気でないものだから、病蔵相をめぐって何とか彼(か)とかやろうとする。政府の方でもまた政友会を押さえるには蔵相を頼るより他ないのだから、また翁に期待している。という具合で翁が六十四議会は、政府として非常時局対案の提出時機だから、この議会さえ乗り切ればということになって、鈴木総裁に援助を乞い、同時側近者の隠退希望に応じようという気持ちになったものらしいが、これが盛んな政変説を生む原因となったものだ。

 六十四議会では前述のように二十二億余円の大予算をとおし、大部分を公債によって、増税しないという方針を採ったものだ。この予算は金額が大きいために、蔵相の日頃の放漫財政の顕れのように世間で噂され、議会でも質問されたが、蔵相、無頓着のようなとぼけたところがあるのに、気になったとみえていささかしょげていたところが、米国の経済学者で、エール大学の教授のアーヴング・フィッシャー氏の最近の著『好景気及び不景気論』を読んだところが、その財政理論が高橋財政理論と少しも違わないことを発見して、子供のように喜んで、さっそくその翻訳を知己に配布したが、これなども蔵相の気持ちが実によく浮かんでいるように思える。



高橋翁とインフレ政策


 話が理に落ちてばかりいるから、ここらで転向しようと思うが、翁は前に述べたようにインフレーションの権化みたいと見られているが、翁に

「あなたの政策はインフレーションですな」

ときけば必ず

「ノー」

と来る。そして

「インフレーションとは戦後のドイツ政府が紙幣を乱発して、マルクの相場を激落させたようなことをさすので、今度のは政府は増税を不可として、公債を発行して日銀が背負いこんだだけで、真のインフレとは違うよ。けれども先頃の農村救済は農村に金をバラ撒くという意味で、インフレになりそうだったな」

と答えるだろう。難しい理論は抜きにして、翁の家庭はまたインフレでなくて、デフレーション政策を採っている。質素にとなかなかのしまり屋で、畳は赤くなり、洋服は洋行時代のお古という風だが、また一方下の人には、農村救済のようにインフレ政策で、思いやりのある実によい御主人様だ。これは翁のもちろん人格にもよるけれども、幼い時からの境遇にもよるものと思われる。



 翁の前半生は翁の語るところによると突飛の連続である。実父は川村庄右衛門という徳川幕府の御絵師で画名を探昇といった。この人と同家の侍女北原きんとの間にもうけられたのが翁で、和喜次という幼名であった。

 両親が結婚できないので里子にやられたが、その先が仙台の藩士・高橋覚治是忠、そこで高橋姓を名乗り、是清となったが十二歳のとき藩から選ばれて、横浜に行ってパーラー夫人という人から英語を教わった。十五歳のとき今度は米国へ留学させられたが、留学生の会計方が公金を拐帯してしまったので万里の異境で進退に困った末、さっそく労働者になってパンを得たというのだから、その時分からあまり物事に屈託もなかったのだろう。翁はそれから同藩の先輩・富田鉄之助に救われて労働者から抜け出し、やや勉強して帰朝したが、横浜税関を通るとき、米国仕込みのハイカラ振りを見せてやろうと、大声で米国の流行歌を歌いながら通ったというのだから呆れる。

 ここで面白いのは、翁はどんなに困った時でも猟官運動をしなかったことで、常に向こうから転がって来るぼた餅を待っていたものだ。これは八十歳の今日まで同じことで、しかも運勢は翁のもとにまたよい地位を運んでくるから不思議なものだ。この時も帰朝したが職がない。ブラブラしていると英語ができるという評判から、共貫義塾というところから雇いに来て先生となった。この塾生中に奥田義人や大岡育造、犬養毅などいるのだから愉快だ。この生徒から翁も政治意識を吹きこまれたらしい。この時の月給が四十五円、今と物価のけたが全然違う時分だったから四十五円とは大変な月給なのだ。有るにまかせて若い元気で遊ぶ。徹底的に耽溺した結果教師をやめて、惚れていた東屋の桝吉という芸妓の家に転がりこんで居候になってたが、遊んでいるのが具合いが悪いところから、茶気満にも箱屋になった。この箱屋先生、桝吉のところに通っていた千葉周作のところの若先生に刀を持って追いかけられ、涼み台の下に逃げこんで命拾いしたというのだから滑稽だ。

 しかしこの無限軌道的人物は、いつまでも箱屋などしていない。今度は肥前の唐津にまた英語の先生に雇われて行った。この時の月給は百円、そのうち六十円を学校に寄付して四十円で暮らしていたが、学校が旧城内にあるところから、豚を飼って養っていたそうで、英語の教師ながら殖産のために計画したものとかで、将来の理財家たることが、この時から約束されていたものである。

 唐津の学校が廃され、東京に再び舞い戻り、大学予備校などで相変わらず英語を教えていたが、今度は農商務省に雇われたようだ。ここでは翁の虎の巻は百科事典だった。およそありとあらゆる知識は、百科事典から摂取した。統計的ではないが、恐ろしく広汎な知識をもつようになった。






翁と原敬氏との縁


 時の農商務大臣が井上馨侯で、この人に認められるとともに一人の知己を得た。それは後に翁と切っても切れない仲となった当時の農相秘書官・原敬である。そのうちに累進して特許局長となったときにペルーの銀山問題が起き上がった。これはアメリカの詐欺師に当時の大官がひっかかったのが問題で、ペルーに大銀山があるというところから、翁は特許局長の栄職をなげうって、鉱夫を率いて渡米した。行ってみたところが、それは全くの廃坑で、事業はすっかり失敗し、世間から一時はまるで見はなされてしまった。

 だが人生七転び八起きで、当時の日銀総裁に川田小一郎という傑物がいた。この男が翁のことをききこんで拾い上げ建築掛に雇ってくれた。翁はこの川田から教えられるところが非常にあった。川田の態度には国家のために自己を没却するというところがあった。また思い切った所信を断行することもあったが、義によっては反対者をも助けるという風だった。川田の下にあって翁は人格と経済上の修練を得たのであった。

 この日銀に入ってから、さすがの達磨さんも、ようやく地盤が安定して動揺しなくなった。そして建築部長から栄進して日銀の副総裁となったが、この時の総裁が現在同僚の山本達雄男である。でこの二人がここで正副総裁になったが、二人の仲はこれが初めてでなくて、その前に正金に手をつないで川田総裁時代に入っている。そしてこのとき翁のたてた偉功は、正金の現在の海外為替相場の建値(たてね)を発表するようになったことで、それまでは、ロンドンの銀塊相場が香港に入り、それがさらに香上銀行の相場となって決定してから正金がこれに追随して発表してきたものだ。それでは貿易上からいっても日本の大変な不利益というので正金独自の建値を発表するように改めたことで、それがため正金の信用の増加は無論のこと、どれだけ海外との取引上、貿易商が利益を得たかはいうまでもないことである。



山本内閣で最初の入閣


 こういういきさつから、翁はその後、正金の頭取になった。そして日露役には前記のように在外財務官として赫々たる功績をたて、ついで山本内閣に蔵相として初めて入閣し、政友会に入会した。その後、内閣に席を列すること六度、そのうち二回は首相の印綬を帯びた。

 その間に翁の飄々乎とした人格は築き上げられたもので、その蔵相としての手腕については若槻礼次郎のごとく精密でなく、また勝田主計のように緻密でもない。そこが放漫だといわれる所以で、これは必ずしも当たっていないようだ。政友会の蔵相として、党の本来の立場である積極政策を採るのは、蔵相個人の意思をもってしてはどうにもならないものだからである。翁として、他の蔵相級の人物とかけはなれているのは常に大綱を掴んでいて、これを一断するの果敢な胆力をもっていることだ。これもまた、過去の経歴の集積した結果であろう。

 斎藤非常時内閣が、二十二億の膨大な予算案を提出して、毫も財界の不安を招来せず、信任を受けているのは一に翁の在るがためで、もし翁が何らかの野心をもち、己れのためにするという意思をもっていたなら、とうてい現在のイデオロギーをもつ軍部はもちろん、国民の指示を絶対に得られないであろう。

 斎藤非常時内閣は、翁の進退問題で難局に立ったが、翁も政友会への言質と、国家への自己の信念のためにまた板ばさみになっている。朋党重きか、国家軽きかはわれわれの言をまたないところだが、政党人の苦悶はまたここにあるのではないか。英国の労働党のマクドナルドが、大英国のために多年自分が育て上げ、培った労働党を分裂させてまでも、挙国一致内閣に留まった先例もある。名利を求めない翁のことだから、またこの先例を踏襲するかもしれない。そして八十の老爺として最後の御奉公をするところに死に場所を見出すかもしれない。翁本来の面目が発揮されるかどうか、翁を知る者にとっては斎藤内閣の命運とともに非常に興味深いものであるのである。








引用:阿部真之介『非常時十人男』昭和8年




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