「人は皆、不死である。そのことがわからずに説明できることは何もない」
「岡潔(おか・きよし)」、直筆の色紙にはそうある。
彼は「数学者」であり、そして「純粋な日本人」であった。
「僕は、論理も計算もない数学をやってみたい」と語っていた三高時代。表面的なことを追いかけるだけでは、答えが見えてこないと感じていた。
フランスに留学すると、「幾何・代数・解析が三位一体となった美しい理論」を見事に展開。
その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられずに、「岡潔」というのは数学者集団によるペンネームであろうと思われていたという。
大学の教壇では「日本民族」を講義したという岡潔。
日本は「自他弁別・合理主義・物質主義」によって「無明」に位置してしまっていると述べている。
「無明」というが仏教用語である通り、岡は仏教に帰依していた。
「真善美妙を大切にせよ」と言った岡。
真には「知」、善には「意」、美には「情」が対応し、それらを「妙」が統括すると考えた。
日本民族は「知」が不得手であるとし、その代わりに「情」を大切にせよ、「日本民族は人類の中でもとりわけ『情の民族』だ」と述べている。
数学者としての岡は、まさにその「情」をもって数学的世界を創造したのであった。
数学であれ仏教であれ、岡にとってそれは表裏一体のものであったという。
そんな彼の理想は、日本の「神代」にあった。
素戔嗚尊(スサノオ)の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」という歌に代表されるのように、神代の日本には「矛盾のない知情意」があったのだ、と岡は言う。
日本に「無明」がはじまるのは、仏教伝来とともに「氏姓制度」が入ってきてから。自分と他人を隔てる「氏」が悪習となった、と岡は考えていた。
その無明は時代が下るとともに、広く広く広まっていく。
平安時代末期の僧・西行の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」は、美しくも弱々しく
武士の世となった源実朝の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」で、すっかり無明に呑まれてしまった、と岡は言う。
江戸時代の松尾芭蕉は、辛うじて神代の「情」を保ったものの、やがて不得手の「知」が暴走したがために、明治時代以降、日本民族は戦争漬けとなってしまったのだ、と岡は言う。
「氏」が日本に入り、自分と他人の区別が明確になり、それは「自他の対立」を生むことになった。「氏」という悪習に取り憑かれた日本民族は「小我」になってしまったと、岡は嘆く。
その「小我」から脱そうとしたのが「武士道」であり「大和魂」である。さらに進めば、自他を対立させずに衆善奉行できる「真我」や「大我」につながる、と岡は言う。
外側に参照する基準はない。唯一の基準は心の中に宿っており、日本民族にとってそれは「情(情緒)」だと、岡は言っている。
その情緒を大切にすることで、分別智と無分別智が働かせ、その上で「知」を身につけるべきだ、と岡は提唱している。
それが「日本の心」だ、と。
出典:Wikipedia「岡潔」
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