私たちは誰しも、「4つの間(ま)」に生きている。
それは「時間・空間・世間・人間」という4つの「間」である。
しかしながら現在、これらの「間」はギチギチに詰まってしまい、はなはだ息苦しく、居心地が悪くなってしまっている。
現代文明はあたかも「密度を高めることが進歩発展」と思い込んでいるかのようだ。あらゆる隙間は「ロスやムダ」として埋められていく一方である。
かつて能の世阿弥は、芸と芸との間の「何もしない間(ま)」を至芸とした。
逆に、演じすぎる芸を見苦しいとしたのである。
世阿弥の言う「何もしない間」とは、「せぬ隙(ひま)」とも呼ばれるものだ。
「せぬ隙」とは、芸を生かすための空虚の間、充実した空である。
この「せぬ隙」が芸にあることにより、能が抜群の生気を帯び始めるのである。
ところで現在、ギチギチに詰まってしまった4つの間(時間・空間・世間・人間)に、間を入れ、間のびさせ、遊びを入れようとする人たちもいる。
それはたとえば、落ちこぼれやニート、オタクなどと呼ばれる人々かもしれない。
そうした人々は、世間では「間抜け」とも蔑まれる。俗世のルールや価値観に従わず、日常の約束事も守らぬのだから…。
しかし、4つの間に隙間があってこそ、やっと人は息をつける。
「意味」でぎっしり詰め込まれた俗世に、「無意味」を忍び込ませることで、ようやく息がつけるのだ。
「せぬ隙」によって、能が生気を帯び始めるように、人々は間が抜けて初めて、生き生きとしてくる。
この世で、一番きれいなこととは?
「何がきれいといって、空っぽにまさるものはない」
出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「空っぽ賛 藤原成一」
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