2014年11月2日日曜日

林檎と文化 [小林秀雄]


〜話:小林秀雄〜




 二十分ばかりお話をいたします。文化ということについて。文化という言葉がたいへん流行しておりますが、その言葉の意味を正確に知っている人が非常に寡(すくな)い様で残念だと思っております。

 今日使われている文化という言葉、これは勿論翻訳語でありますが、文化という言葉は昔から支那にあった、これは政治的な意味があって、武力によらず民を教化するという意味であった。そういう意味の文化という言葉をそのまま英語のculture或は独逸語のKulturという言葉に当てはめて了った。どっちにしろ意味はまるで違うんで、誰が訳したか知りませんが、こういうふうな訳のために、文化と言っても僕等には何が何やらわからなくなって了った。言葉に語感がないという事は恐ろしい事です。ただ文化文化とウワ言の様に言っているのです。

 だけどもカルチュアという言葉は西洋人にとっては、母国語としてのはっきりした語感を持っている筈だ。耳に聞いただけで誤解しようがないのです。カルチュアというのは畑を耕やして物を作る栽培という意味だ。カルチュアという言葉にしたって決して単一な意味ではないが、どんな複雑な意味に使われ様と、カルチュアと聞けば、西洋人には栽培という意味が含まれていると感ずる。これが語感である。

 ジンメルは文化を論じて、そういう点に及び、こういう意味の事を言っています。例えば林檎(りんご)の木を育て、立派な林檎を成らす。肥料を工夫したり、いろいろな工夫を施して野生の林檎からデリシャスだとか、インドだとかいう立派な実を成らすことに成功したならば、その林檎の木は比喩的な意味にしろ、カルチュアを持ったことなんです。だけども、林檎の木を伐ってその林檎の木の木材でもって家を建てたり、下駄を造ったりしても、それは原始的な林檎の木が文化的な林檎の木になったことにはならない。つまり栽培が行われたのではないからです。

 すると、こういう事になります。林檎自身にもともと立派な実を成らす素質があった。本来林檎の素質にある、そういう可能性を、人間の智識によって、人間の努力によって実現させた。そういう場合に林檎の木を栽培したという。だが林檎の木自身に下駄になる素質はない。勝手に人間が下駄を造ってしまった。林檎の木自身ちっとも知らないことです。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)




0 件のコメント:

コメントを投稿