〜吉川英治「黒田如水」より〜
「お幾歳(いくつ)にならるる」
「ちょうどでござる」
「三十歳よな。それではわしの方がずんと兄だ。九ツも上だから」
初対面の彼にたいして、秀吉は敢て「兄」ということばを用いた。官兵衛は心中にその過分な辞をすこし疑ったが、秀吉はさらにそれを不当とは思っていないらしく、ふと、横の座を顧みて、
「…すると、お許(もと)と官兵衛とは、ちょうど二つちがいになるな。官兵衛が一ばん年下で、次にお許、その上がかくいう筑前か。思えばわしもいつかもう若者の組には入らなくなって来つるわ。さりとて、まだまだ、大人の組にも入りきれぬしのう」
と自嘲をもらして、また大いに笑った。そこにいた一個の人物も、ことばなく黙然と微笑した。初めにちょっと会釈しただけで、ついまだ一語も発せずに秀吉のわきにひたと坐っている一武人である。面(おもて)は白く筋肉は痩せて、たとえば松籟(しょうらい)に翼をやすめている鷹の如く澄んだ眸(ひとみ)をそなえている。官兵衛はさっきからひそかに気になっていたので、
「こちらは、誰方(どなた)でござるか。ご家中の方でいらせられるか」
と、今をその機(しお)と、秀吉に向って訊ねてみた。
「お。こなたの人か」
秀吉はまじめに紹介(ひきあ)わせを述べた。
「竹中半兵衛重治(しげはる)。ご承知もあろうが、美濃岩村の菩提山の城主の子じゃ。いまはこの筑前の軍学の師でもあり、家中のひとりでもあるが、信長卿より羽柴家へ付け置かるるという特殊な関係になっておるので、いつ召し戻されるやも知れぬと、秀吉も内心常に恟々(きょうきょう)としておる厄介な家人だ。それだけに謂わば筑前の無二の股肱。いや官兵衛、御辺(ごへん)とならば、きっと肝胆(かんたん)相照らすものがあろうぞ。刎頸(ふんけい)を誓ったがよい」
秀吉のことばが終ると、その半兵衛重治は初めて静かに向き直って、初対面のあいさつをした。その音声(おんじょう)は秀吉とちがって雪の夜を囁く叢竹の如く沈重であり、言語はいやしくもむだを交じえない。そして一礼のうちにもその為人(ひととなり)の自ら仄(ほの)かに酌(く)めるような床(ゆか)しさと知性の光があった。
「えっ、あなたが竹中殿で。おくれました。それがしは」
と、官兵衛もあわてて礼をむくいたが、秀吉と話している分には、さほどでもない自己の卑下(ひげ)が、この半兵衛に対しては、なぜかはっきり抱かずにはいられなかった。やはり自分は田舎侍であったという正直な負(ひ)け目である。しかし相手がそれを見下しているような倨傲(きょごう)でないことは十分にわかっていた。
それにしても彼は、羽柴家の家中に、これほどな人物が甘んじて仕えていることが、何かあり得ない事を見たような気がした。美濃菩提山城の子竹中重治といっては、世上の軍学者でその名を知らない者はないほど夙(つと)に聞こえている大才である。ある意味で織田家中の羽柴秀吉という一将の名よりも、有名なことでは半兵衛重治のほうが聞こえているかもわからない。
若年、多くは帝都にいたと聞いている。それもたいがい大徳寺に参禅していたもので、ひとたび国許から合戦の通知をうけるや否、馬に乗って一鞭(いちべん)戦場へ駆け、また一戦終ると、禅の床に姿が見られたとは、都あたりの語り草にもなっている。
その戦場に在る日は、つぶ漆のあらあらとした鎧に、虎御前(とらごぜ)の太刀を横たえ、
コノ若殿、魁(サキガケ)ニ御在(オワ)セバ、軍中、何トナク重キヲナシ、卒伍(ソツゴ)ノ端々ニマデ心ヲ強メケル
とは家中のみでなく一般の定評だった。軍学の蘊蓄(うんちく)は当代屈指のひとりと数えられ、戦うや果断、守るや森厳(しんげん)、度量は江海(こうかい)のごとく、その用兵の神謀は、孔明、楠の再来とまで高く評価している武辺(ぶへん)でもある。
秀吉のごときはその渇仰者(かつごうしゃ)の随一人であった。彼がまだ洲股(すのまた)の城にいて、ようやく一個の城砦を狭い領土とをはじめて持ったとき、早くもこの若き偉材を味方に迎えんとして、半兵衛重治の隠棲していた栗原山の草庵へ、何十度となく、出廬(しゅつろ)を促すために通ったことは、世間に余りに知れわたっている話である。その事を、むかし漢土において、劉玄徳が孔明の盧を叩いた三顧の礼になぞらえて、
(羽柴筑前の熱心は、ついに臥龍(がりょう)半兵衛を、自己の陣営へひき込んだ)という者もあった。
いずれにせよ、この戦国において、この事ほど武辺の話題になったことはない。ただ惜しむらくは、竹中半兵衛ほどな人物に、なぜか天は逞(たくま)しい肉体を与えなかった。弱冠から多病の質である。それだけが惜しまれてもいたし、秀吉もまた、破れ易い名器を座右に置いているように、いつも一方ならぬ気遣いをしているようであった。
中国の僻地(へきち)にいるかなしさには、黒田官兵衛も疾(と)く噂は聞いていたが、およそのことを想像して、忘れるともなく忘れていた。今、あらゆる予備的な世評をいちどに思い出して、厳然と、その存在と人物の重さに、襟を正さしめられたのは、まさに今夜その人と間近に対(むか)い合ったときからであった。
…
秀吉も酒を愛し、竹中半兵衛もすこし嗜(たしな)む。加うるに、官兵衛との三人鼎坐(ていざ)であったが、量においては、官兵衛が断然主人側のふたりを凌いでいる。
夏の夜はみじかい。殊に、巡り合ったような男児と男児とが、心を割って、理想を断じ、現実を直視し、このとき生れ合わせた歓びを語り合いなどすれば、夜を徹しても興は尽きまい。
…
「明日でも、お目にかかれば、御辺もまた信長様のご風格をよく察するであろうが、ご主君も陽気がお好きで、ご酒をあがられるとよく小姓衆に小唄舞(こうたまい)など求められ、ご自身も即興を微吟(びぎん)あそばしたりなされる。官兵衛、御辺には何ぞ芸があるか」
秀吉の横道ばなしに、官兵衛はやや業を煮やして、「小唄舞も仕(つかまつ)る。猿舞も仕る」と、嘯(うそぶ)いて答えた。
すると秀吉は、「それは器用な男だ。どうじゃ一さし舞わんか」と、自分の持っていた扇子を与えた。
「ここではご免です」と官兵衛は手を振って断った。そして隅の方に眠たげにひかえている小姓へ向い、硯筥(すずりばこ)を求めて、その扇子へ何やらしたため終ると、「殿こそ、お謡(うた)いください」と、秀吉の手へ返した。
酬(むく)われた一矢(いっし)を苦笑してうけながら、秀吉は脇息(きょうそく)から燭の方へ白扇を斜めにしながら読んでいた。
更(ふ)けてのむほど
酒の色
かたりあふほど
人の味
夜をみじかしと
誰かいふ
いづみ、尽きなき
さかづきを
「半兵衛。この裏へ、何ぞ認(したた)めてつかわせ」
巧みに交(か)わして、秀吉はそれを、竹中半兵衛へあずけた。半兵衛は筆をとって、裏面へ、
与君一夕話
勝読十年書
と書いて、「殿のおいいつけなので、ぜひなく汚しました」と、さしだした。
ふと手に取ったが、官兵衛は、じっと見つめている眼から、次第に酒気を払って、まだ墨の乾かぬ白扇をそっと下へ置き直すと、ていねいに両手をつかえて、半兵衛へ、「ありがとうございました」と頭を下げた。
眼もとに深淵の波紋のような笑(え)みをちらとうごかしながら、半兵衛重治も、「わたくしこそ」と、膝から両手を辷(すべ)らせた。
もう夜が明けていた。寺房の奥では、勤行(ごんぎょう)の鐘の音がしているし、寺門に近い表のほうでは厩の馬がいなないていた。
…
出典:吉川英治「黒田如水」
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