2014年11月3日月曜日

カメラと露出計 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 私は、持物をどこかに置き忘れる癖があって、例えば帽子でも傘でも、いくつ買ってもむだなのである。カメラと露出計を持って旅行に出かけるのを見て、家内は、どうせ持って帰りはしない、請合っておく、と言った。彼女の予言は、いまいましいが的中した。まず露出計が、ある日エジプトのルクソールのホテルで、姿を消した。何処に置き忘れたかわからない。もっともわかるくらいなら紛失もしまい。

 ところが、これが後日判明した。エジプトからギリシアにまわり、ローマでゆっくりしている間に、それまで撮った写真を現像させてみたところ、ルクソールの沙漠(さばく)の中の廃墟で、同行の今日出海君を写したもののなかに、露出計が見つかった。彼の傍の石の上に、はっきり写っていたのである。その日、写真を撮ったのはそこが最後で、二人はそこからまっすぐホテルに帰り、私は露出計の無いことに気がついたのであるから、置き忘れた場所は、まさに、その石の上であったことに間違いはない。

 写真を眺めて、ヤッ、ここにあった! と大きな声を出した私の顔を、今君は見て、馬鹿野郎、と言った。何もローマから取りに行きたいと言うのではない。私が大声を発したのは、事実を確かめ得た歴史家としての喜びを表わしたに過ぎないのである。つまらぬ冗談をいうと人は笑うであろうか。



 さて、ローマでぶらぶらしているうちに、ある日、今度はカメラをどこかに置き忘れた。多分、タクシーの中であろうが、カメラがカメラを撮影するという奇跡は起こり得ないから、今もってこれはどこだかわからない。どうせ二つともなくすのなら、カメラの方を先きになくせば、露出計は俺がもらっておいたのに、と今君は言った。私は、別段がっかりもしなかった。それどころか、今までよくもったものだ、と感心した。そういう心理の動きは、私のようによく物をなくす人間には、習慣上備わっているものだ。

 ところがカメラをなくしてみて、意外な発見をした。実は、カメラなぞ私には邪魔だったのである。われながら小まめにパチパチ写していた間は、結構楽しかったのであるが、カメラがなくなってみて、こうさばさばした気持ちになるところをみると、ただ楽しかったような気がしているだけの話だったに相違ない。私には心の奥底で、カメラのメカニズムに屈従するのが、いつも気に食わなかったのかも知れない。

 いずれにせよ、首根っこからぶら下がった小さな機械が紛失したおかげで、私の視力は、一度失った気持ちのよい自由感を取戻したという感じは、大変強いものであった。このことは、私に文学の仕事の上でのリアリズムという言葉の意味について、今更のようにいろいろのことを考えさせた。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)」写真




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