話:ニー仏(魚川祐司)
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私の訳した本で、ウ・ジョーティカ師という方が書かれた『自由への旅』というウィパッサナー瞑想の解説書があります。そこで最初に言われていることが、
「瞑想はバーゲンではない」
ということなんですね。
−−バーゲン? 冬物とかの?(笑)
ではなくて(笑)bargain という英単語の基本的な意味は「取引」などですから、ここで言われているのは「瞑想は取引ではない」ということですね。
−−瞑想でお金を使った買い物をするわけではないし、それは当たり前のような気もしますが…。
そうですね。ただ、お金のやりとりはしないにせよ、私たちはしばしば瞑想実践に取引の文脈を持ち込みがちなんです。たとえば、「私は○○時間も瞑想したのだから、当然これだけの成果が得られなくてはならない」とか、「これだけのことをしたのだから、そろそろ悟れなくてはおかしい」とか。そんなふうに、「悟り」や「精神集中」や「リラックス」などの成果を”買う”ために、自分の時間や労力を”投資”するというイメージで瞑想を捉えてしまうわけ。
−−ああ、それはありますね。
まあ、ウ・ジョーティカ師によれば、アメリカには
「1,000ドル払えば、悟りにかかるのは3日だけ」
とか、そういう本当の「瞑想バーゲン」もあるみたいですが(笑)
さて、ではそのように瞑想を「取引」として行うことがなぜいけないのか? それを考えるために、ちょっと仏教用語を導入します。
有為(sankhata)と無為(asankhata)
という言葉です。これ、聞いたことありますか?
−−聞いたことはありますけど、意味ははっきりとはわからないですね。
「休日を無為に過ごす」とか、そういう日常用語としても使いますからね。ただ、これは元々は仏教用語なんです。有為というのは「為すが有る」と書きますよね。つまり、形成されている、つくられている、造作されている、そうした物事や状態のことです。そして、形成されているということは、もちろん何かしらの条件があってそうなっているわけですから、それは conditioned すなわち「条件付けられている」という意味にもなる。
無為というのは、その逆ですね。形成されていない、つくられていない、造作されていない、だから unconditioned、条件付けられていない。そのことを無為と称しているわけです。
−−なるほど。
それで、私たちが居るのは有為の世界なんですね。条件によって形成された、つまり縁起によって成り立っている現象の世界に私たちは生きている。仏教の原則的な目標は、その有為の条件付けられた状態から、無為の条件づけられていない状態、すなわち涅槃へと至ることです。
−−そうなんですか!
はい。たとえば「いろは歌」というのがありますね。これは空海がつくったと伝えられていて、だから仏教的世界観が語られている。
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
というやつですね。ここで
「有為の奥山、今日越えて」
と言われているのは、そういうわけです。条件付けられていて、ゆえに無常である有為の現象を乗り越えて、無為の涅槃に至りましょうというのが、少なくともゴータマ・ブッダの仏教の場合は、基本的な教説の方向性ですからね。
−−「いろは歌」にはそんな意味が(笑)
じつはあったんです(笑)
−−じゃあ、その有為の現象を乗り越えて無為の涅槃に至るというのは…
「世界」の外に出てしまうことを意味しますよね。だから、仏教では有為の現象の世界のことを「世間(loka)」、そして涅槃のことを、それを超出した境域として「出世間(lokuttara)」と呼称しているわけです。
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