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2017年2月8日水曜日

王さまと人喰い鬼






話:アルボムッレ・スマナサーラ

…

むかしむかし、あるブッダが現れて、涅槃に入って、やがてそのブッダの教えも消えてしまった。そのとき、菩薩は王として生まれ変わっていました。菩薩である王様は、ブッダの教えを聞きたくなって誰か知る者はいないかと探したのですが、誰もいませんでした。そこで、

「ブッダの説かれた真理を聞くことができないならば、自分が人間の王として国を治めても意味がない。真理以外、私にはもう何も要りません」

と言って、王位を捨て、森に入ったのです。



それを知った帝釈天が、

「この人は必死になって法・真理を探している。教えてあげないと、この人は途中で死んでしまうだろう」

と哀れんだのです。その時代の人々の中で、ただ一人この人だけが、ブッダの教えに興味を持っていたのです。



そこで帝釈天は、とても恐ろしい鬼の形に変身して現れた。菩薩の王が、

「あなたは誰ですか?」

と聞いたら、

「私は人喰い鬼だ」

と答えた。でも生きる意味をなくした王は怖がりませんでした。その代わりに、国中の人々に聞いてきた質問をこの鬼にもしたのです。

「あなたは、ブッダの教えを知っていますか?」

と。すると鬼が、

「知っていますよ」

と答えた。王はブッダの教えを知っている人に初めて出会ったのです。



「では、教えてください」

「教えません」

「なぜですか?」

「私は腹が減っているんだ」

「ならば、何でも食べ物を用意しますから教えてください」

「駄目です。私は人喰い鬼だから人しか食べません」

「いくら私が王でも人を差し出すわけにはいきません。ですから私自身を差し上げます。どうぞブッダの法を教えてください」

それでも、

「まず食べてから教えるんだ。腹が減って死にそうだから」

と鬼はゆずらない。

「そんなこと言われても、あんたが私を食べたらどうやって教えるんですか。私はそのときもう死んでいるんだから。ですから先に教えてください」

「駄目だ。こっちは腹が減って死にそうなんだ。先に食べなくては」

「それでは、何か良い案を考えましょう」



そこで王は一つの案を出しました。王(菩薩)は崖の上に登って、そこから鬼に言いました。

「あなたは崖の下で口を開けて待ってなさい。私が崖の上からあなたの口に飛び降りるから、落ちる間にブッダの教えを聞かせてください」

と。それで鬼が先でも王が先でもなく、やりとりは同時に起こるのです。菩薩が崖の上から飛び降りる間に、鬼はブッダの法を教えました。もちろんこの鬼は帝釈天で、人を食べるものではありません。始めから菩薩を助けるために来たのです。知らないのは菩薩だけ。菩薩が飛び降りたところで、帝釈天はちゃんと手で受け止めてあげました。



でもその間に、偈を一つ唱えたのです。その偈は、テーラワーダ仏教徒なら誰でも知っているお釈迦様の言葉です。

諸行は無常である。

生まれては消えていくものだから。

生まれたら、みな消えていく。

そこから解脱したら平安である。

Aniccā vata saṅkhārā uppāda vaya dhammino, Uppajjitvā nirujjhanti tesaṃ vūpasamo sukho.



それだけです。短いけれど真理はきっちり入っているのです。この偈を、人喰い鬼に化けた帝釈天が唱えたのです。この偈は帝釈天のお気に入りの偈なのです。お釈迦様が亡くなったときにも帝釈天はこの偈を唱えて弔辞としたのです。『大般涅槃経』にそう記録されています。

このジャータカ物語では、実際命がなくなることはないのです。教訓は、「真理を知らずに無知で百年生きるよりも、瞬間であっても真理を知って生きることに価値があるのだ」ということです。


…





出典:アビダンマ講義シリーズ〈第3巻〉心所(心の中身)の分析―ブッダの実践心理学




2016年1月11日月曜日

「有為の奥山」とは? [ニー仏]



話:ニー仏(魚川祐司)





…

私の訳した本で、ウ・ジョーティカ師という方が書かれた『自由への旅』というウィパッサナー瞑想の解説書があります。そこで最初に言われていることが、

「瞑想はバーゲンではない」

ということなんですね。


−−バーゲン? 冬物とかの?(笑)


ではなくて(笑)bargain という英単語の基本的な意味は「取引」などですから、ここで言われているのは「瞑想は取引ではない」ということですね。


−−瞑想でお金を使った買い物をするわけではないし、それは当たり前のような気もしますが…。


そうですね。ただ、お金のやりとりはしないにせよ、私たちはしばしば瞑想実践に取引の文脈を持ち込みがちなんです。たとえば、「私は○○時間も瞑想したのだから、当然これだけの成果が得られなくてはならない」とか、「これだけのことをしたのだから、そろそろ悟れなくてはおかしい」とか。そんなふうに、「悟り」や「精神集中」や「リラックス」などの成果を”買う”ために、自分の時間や労力を”投資”するというイメージで瞑想を捉えてしまうわけ。


−−ああ、それはありますね。


まあ、ウ・ジョーティカ師によれば、アメリカには

「1,000ドル払えば、悟りにかかるのは3日だけ」

とか、そういう本当の「瞑想バーゲン」もあるみたいですが(笑)






さて、ではそのように瞑想を「取引」として行うことがなぜいけないのか? それを考えるために、ちょっと仏教用語を導入します。

有為(sankhata)と無為(asankhata)

という言葉です。これ、聞いたことありますか?


−−聞いたことはありますけど、意味ははっきりとはわからないですね。


「休日を無為に過ごす」とか、そういう日常用語としても使いますからね。ただ、これは元々は仏教用語なんです。有為というのは「為すが有る」と書きますよね。つまり、形成されている、つくられている、造作されている、そうした物事や状態のことです。そして、形成されているということは、もちろん何かしらの条件があってそうなっているわけですから、それは conditioned すなわち「条件付けられている」という意味にもなる。

無為というのは、その逆ですね。形成されていない、つくられていない、造作されていない、だから unconditioned、条件付けられていない。そのことを無為と称しているわけです。

−−なるほど。

それで、私たちが居るのは有為の世界なんですね。条件によって形成された、つまり縁起によって成り立っている現象の世界に私たちは生きている。仏教の原則的な目標は、その有為の条件付けられた状態から、無為の条件づけられていない状態、すなわち涅槃へと至ることです。


−−そうなんですか!


はい。たとえば「いろは歌」というのがありますね。これは空海がつくったと伝えられていて、だから仏教的世界観が語られている。


いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす


色は匂へど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず


というやつですね。ここで

「有為の奥山、今日越えて」

と言われているのは、そういうわけです。条件付けられていて、ゆえに無常である有為の現象を乗り越えて、無為の涅槃に至りましょうというのが、少なくともゴータマ・ブッダの仏教の場合は、基本的な教説の方向性ですからね。


−−「いろは歌」にはそんな意味が(笑)


じつはあったんです(笑)


−−じゃあ、その有為の現象を乗り越えて無為の涅槃に至るというのは…


「世界」の外に出てしまうことを意味しますよね。だから、仏教では有為の現象の世界のことを「世間(loka)」、そして涅槃のことを、それを超出した境域として「出世間(lokuttara)」と呼称しているわけです。


…







世に逆らうブッダの教え [ニー仏]






話:ニー仏(魚川裕司)


…

さて、「仏教はヤバいもの」というのは、私が仏教の話をするときにいつも最初に言うことなんです。なぜこれを最初に言うかというと、とくに近代日本で仏教が紹介される時というのは、この仏教の「ヤバい」ところをオブラートに包むというか、隠して話をすることが多いんですね。

…

まず、ゴータマ・ブッダが悟った後に説法を躊躇した、つまり他人に自分の悟った内容を語ることをためらって、一時は説法しないでそのまま死んでしまおうと思っていたことはご存知ですか?

−−ちょっと聞いたことがあります。梵天勧請(ブッダのところに梵天が現れて、説法してくれるようにお願いしたこと)の話でしたっけ?

それそれ。ではブッダがなぜ「自分の悟ったことは人に喋らないでおこう」と考えたのかというと、それは彼が自分の考えを

「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」

だと理解していたからです。


…


『スッタニパータ』の中ですが、「マーガンディヤ」という経典があります。これはどういう話かというと、マーガンディヤというバラモンがいたんですが、彼がある時ゴータマ・ブッダを見かけて、その立派な姿に惚れ込みまして、

「この人をぜひ自分の娘の婿にしたい」

と思ったんですね。ゴータマ・ブッダという人は、そんなふうに、パッと見た人が惚れ込んでしまうくらいの超絶イケメンであったと言われています。

さて、それでマーガンディヤの娘も評判の美人でしたから、きっとこれを見せれば喜んで承知するだろうと考えて、マーガンディヤは娘を連れてブッダのところに行った。

「ブッダさん、せっかくそんなに超イケメンで有能なのに、ボロい衣を着てフラフラ托鉢なんかして暮らしていても意味がないですよ。そんなことはやめて、うちのこの超美人な娘と結婚しませんか? 私の家は金持ちですから、それで楽しく暮らしてくださいよ」

と言ったわけです。要するに、ニートしてたら美人の女の子が連れて来られて、「この娘と結婚して、金持ちな我が家の息子になってください」と頼まれた、ということ。

−−魅力的なお誘いですね。

美人局かと思うくらい魅力的ですね(笑)。ところが、その魅力的なお誘いに対するゴータマ・ブッダの反応がこれまたすごかった。彼はそのマーガンディヤの美人の娘に対して、

「この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえも触れたくない」

と言ったんです。

−−えっ?

つまり、美人といっても、それは要するに皮一枚のことで、その皮の下には大便や小便などが詰まっているわけです。だから美人とか何とか言ったところで、こんなものは「ただの糞袋ではないか」と。そんな汚い物には私は足も触れたくないと言ったわけですよ。

−−本当かもしれないけど、厳しいですね。

まあ厳しいというか、きついですよね。この話の凄いところとして、ブッダのその言葉を聞いたマーガンディヤの両親は、「この人は立派な人だ」と納得して、ちょっと悟ったらしいんですよ。

でも娘のほうは恨みに思ったんですって。一般の感覚で言うと当たり前だと思うんですけど(笑)。自分の見た目に自信があって、「私はかわいいのよ」と思っている女の人が、「お前の婿は決まったぞ」と連れて行かれたあげく、その相手に「こんな糞袋には足でも触りたくない」みたいなことを言われたから、ものすごく怒ったらしいんです。


… 


さきほど、ゴータマ・ブッダは自分の教えを「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」だと把握していたという話をしましたよね?

−−はい。されてましたね。

ではゴータマ・ブッダは、なぜ自分の教え(法、ダンマ)を「世の流れに逆らうもの」と考えたか? それは経典の同じ箇所の言葉によれば、世の中の人々が

「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる」

からである。だから、自分が教えを説いても無駄だろう、と考えたわけです。たとえば、かわいい女の子がいたら「かわいいなぁ」と思うし、おいしい食べ物があったら「おいしそうだ、食べたいなぁ」って思いますよね。つまり、人間の生には「欲望の対象」というのが常にある。そして、それを追い求めて、その対象をゲットすることで欲望が満たされたら、「あぁ楽しいなぁ、嬉しいなぁ、幸せだなぁ」と思う。それが普通の人間の生き方だということ。そうじゃないですか?

−−まぁ普通の人は、たいがいそうやって生きてますね。

…

ところが、ゴータマ・ブッダの教えは、そうのように人間が普通であれば自然に向かっていく方向性というものを否定して、それに

「逆流しなさい」

と教えるわけです。つまり、人間は自然なこととして「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」存在であって、そうすることで社会を成り立たせて生存を続けているわけだけれども、ブッダはそれをやめなさいと教えるということ。だからそれは「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」である。

−−なるほど…。だから、ゴータマ・ブッダは説法を躊躇したわけですね。

…

ゴータマ・ブッダは、それをやらないと(世の流れに逆らわないと)解脱には達することができないと言う。つまり、普通だったら当たり前のように楽しんでいる欲望の対象への執著を否定して、それがあるからこそ行われている

「労働と生殖をやめろ」

と言う。そのようにして、私たちが普通に自然に選択する生き方に「逆流しなさい」と教えているゴータマ・ブッダの仏教は、実は基本的には、少なくとも現在の日本人の私たちからしたら、「ヤバい」ものになるわけです。

…






以下、『ブッダのことば―スッタニパータ』より原文引用


マーガンディヤ

※伝説によると、かつてブッダがサーヴァッティーにいたときに、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を盛装させて同道し、ブッダの妻として受納するように乞うたときに、ブッダがこのように語ったという。原始仏教の戒律は厳しいものであった。のち出家した修行僧が婦人と交わるならば、それはバーラージカという大罪を犯したことになり、教団を放逐される。


(師ブッダは語った)

「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ」

(マーガンディヤがいった)

「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た」

マーガンディヤがいった、

「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

マーガンディヤがいった、

「もしも『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか? 『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘(とげ)のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。

想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく」








2015年11月23日月曜日

ジャータカ『兎の話』 [スマナサーラ長老]




手塚治虫『ブッダ』は、焚き火に飛び込むウサギのシーンで幕をあける。





吹雪に行き倒れる僧侶

その身を案じる、クマ、キツネ、そしてウサギ。

これら3種の動物たちは、それぞれ彼らの糧を僧侶に与えようと考える。クマは魚を、キツネはブドウを。だが、ウサギだけは雪中に食を見い出すことができなかった。

ウサギは僧侶に「火をおこせ」と求める。

そして、その火に飛びこみ、自らの身を焼くのである。





…


「アシタさま、ウサギが自分で自分の身を焼いて、その僧に食べられるなんて…」

アシタ「その話は、わしの師、ゴシャラさまのご体験によるものじゃ。だから、ほんとの出来事だよ。ゴシャラさまは、この信じられぬ出来事に、強いショックをおうけになってな…。そのまま、まるで魂をぬかれた人のようにフラフラと里へおり、そのまま10日も寝込んでしまわれた」


…



この話は、仏教の経典『ジャータカ(お釈迦さまの前世物語)』に語り継がれているものである。

以下、スリランカ初期仏教長老、スマナサーラ氏の語るジャータカ、『兎の話』である。






〜話:スマナサーラ長老〜



兎の話



その昔、菩薩(釈尊の前世のことです)は兎として生まれ変わりました。その兎は、猿、キツネ、カワウソという三匹の友達と森の中に住んでいました。兎は菩薩の転生でしたので、普通の動物と違って智慧がありました。

彼らは、昼は各々えさを探しに別に行動していましたが、夜は一緒に集まりました。その時兎は・悪いこと、ずるいことをしてはいけないと戒の話を、また、自分だけ良ければいいという生き方ではなくて、他人のことも心配するべきですよと布施の話を、また、生きているものとして道徳的でモラルを守るべきですよと修行の話などを、よくしていました。



ある満月の日、兎は修行しようと思いました。三匹の友人も誘いました。皆、大変喜んで修行することに決めました。修行してもお腹が空くので、まずえさを探しておこうと思ったのです。

兎は、 「今日は修行中だから、えさをひとりで食べるのではなく、誰かに一部をあげてから食べなさい」 と、注意しました。

そこで、カワウソが川で人が魚を釣ったものを見つけました。キツネは畑仕事の人々が食べ残した肉とチーズのようなものを見つけました。猿は木からマンゴーを取って来ました。兎は草を食べればよいので、食べ物を貯蔵する必要はありませんでした。

その代わりに、大きな悩みが出てきました。食べる前に布施をしなくてはならないと自分で決めたのに、草を乞うてくる人はまずいないでしょう。三匹の友達の食べ物は人間も食べるので、簡単に施しをできるでしょう。何か自分が偽善行為をやっているような気もしました。

「偽善になってはたまらない。誰かが食を乞うて来たら、この身体をあげます。兎の肉を食べたがる人は、いくらでもいるでしょう」と、覚悟を決めました。兎は、修行のために命まで賭けました。



天国(帝釈天)にいる天の王・サッカはこれに驚きました。

皆が正直かどうか試してやろうと、乞食に変身して、一匹ずつ訪ねました。カワウソもキツネも猿も、喜んで自分のえさの一部ではなく、全部施しました。サッカは 「後で来ますから」と言って、えさを返して兎のところに行きました。

(そして)「何か食べ物をください」と、兎に頼みました。

兎は、「それは良かった。誰にでも真似できないほどすばらしい施しをしますので、薪を拾って火をおこして下さい」と言いました。

サッカは自分の神通力ですぐ、ごうごうと燃え立つ火を作りました。兎は身体についている虫を落とすために身体を振って、火の中に飛び込みました。



身体が丸焼きになると思っていたのに、この火は熱いどころか異常に涼しかったのです。

兎は乞食に尋ねます。「善人よ、あなたの火は威勢がよいのですが、私の毛一本も燃やせるほどの熱はありません。あまりにも涼しいのです」

サッカ天は答えて曰く、「賢者よ、私は乞食ではありません。あなたの修行にかかる気持ちはどれほど正直かと試すために、天から降りたのです」。

サッカは、「善行為を行うことは、どれほど大事かと後世の人々に知らせてあげます」と思って、山を絞り、液体を出して(溶岩では?)、月に兎の形を描き遺しました。


…


引用:ジャータカ物語「兎の話」







2015年11月18日水曜日

ブッダの言葉『スッタニパータ』 [YouTube朗読]



Suttanipāta
スッタニパータ


ブッダのことば
中村元




本書の解説に、中村元氏は言う。

「『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちで最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。これによって、われわれはゴータマ・ブッダその人、あるいは最初期の仏教に近づきうる一つの通路をもつからである。

…

仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)を歴史的人物として把捉するとき、その生き生きとしたすがたに最も近く迫りうる書、少なくともそのうちの一つは『スッタニパータ(Suttanipāta)』であると言っても過言ではないだろう」



YouTube 朗読
スッタニパータ(Suttanipāta)
梅尾泰巌(寂静山禅定院)

※朗読文はほぼ、中村元『ブッダのことば』どおりである。



スッタニパータ
第一 蛇の章





スッタニパータ
第二 小なる章





スッタニパータ
第三 大なる章





スッタニパータ
第四 八つの詩句の章





スッタニパータ
第五 彼岸に至る道の章











以下、アルボムッレ・スマナサーラ長老(スリランカ)による『スッタニパータ(パーリ語原文)』の朗読。

宝経
ラタナ・スッタン Ratana Suttam

慈経
メッタ・スッタン Metta Suttam

勝利の経
ヴィジャヤスッタン Vijayasuttam





アルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)1945〜
ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK] (3675)

パーリ語による読経CDブック
『スッタニパータ』はじめ多数収録




2015年11月12日木曜日

悟りへの第一歩、「無」の体験 [スマナサーラ]



話:スマナサーラ(Sumanasara)長老
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)


…


第7章 悟りについて知る


「ヴィパッサナー瞑想」をすると、悟りの境地へ行けると言いましたが、では、悟りとはいったい何でしょうか? それをわかりやすく説明してみます。

悟りを理解する上では、「ものごとは実体としては存在しない。すべてのものは波動である」ということが、大きなポイントとなります。ものごとは、実際には「もの」ではありません。



たとえば音について考えてみます。スピーカーから音が出てきます。その音は、スピーカーからエネルギーを出す、止まる、出す、止まる、出す、止まる、ということをしています。そう考えれば、音というのは音ではなく、波、つまり波動なのです。

スピーカーから音が出る、止まる、出る、止まる…、ということは、言い換えれば、エネルギーが生まれる状態、何もない状態、生まれる状態、何もない状態…、の繰り返しです。その回数や、音の高低や、音楽や、つまりは振動数が定まって、エネルギーが出て、消えて、出て、消えて、出て、消えて、ということです。仏教用語でいう「生(しょう)」と「滅(めつ)」です。

生滅は、波動を表しています。ものがあるわけではありません。音という何かがあるわけではありません。エネルギーとしては生滅、生滅、生滅、です。それを我々は音と言っています。



生滅の周波数が、どんどん、どんどん、高くなって、高くなって、高くなってくると、我々はそれを超音波と呼んでいますが、聞こえなくなります。さらに、さらに高くなるとどうなるかというと、我々はそれを光と言います。

物体についても、触れるとそれなりの周波数があるだけのことです。実際にあるのは、生(しょう)と滅(めつ)だけ。生まれる、消える。生まれる、消える。

耳についていえば、耳は物質ですから、耳があるということは、いつでも耳は、生まれて、消えて、生まれて、消えて、生まれて、消えて、その波動でいます。そこに音が生まれたとします。耳も物質として生滅を繰り返しています。耳が生まれた瞬間、音のエネルギーと、耳のエネルギーがぶつかります。瞬間的にぶつかったところで、認識が生まれるのです。

「あ、音だ」と認識します。

一つの波が出てきて、もう一つの波が出てきて、波がぶつかるのです。



ぶつかる場合は、その波が「生(しょう)」の状態、「有る」の状態でなくてはいけません。波が「滅(めつ)」の状態でいるときは、触れることは不可能なので、ふつうは認識しません。

ものごとの波動は生滅(しょうめつ)という言葉で理解します。また、「有(う)」と「無(む)」という言葉で理解してもよいです。現象は「有」の状態にいるときは認識します。

音で言うと、音の波が「有」の状態で、耳も「有」の状態でいるとき、音が耳に触れます。それは「触(そく)」と言うのです。「 触(そく)」は仏教の言葉であり、「パッサ(phassa)」と言います。



この触れること、「触(そく)」ということは、とても大事なことです。波が2つぶつかったら、どうなるでしょうか? 違う方向へ、違う波が生まれてしまうのです。それが心の波です。

「有」と「無」がぶつかると、心の波動がそれを認識します。そして、心の波動が周波数ではいちばん高いのです。

心の波動の周波数を説明するときに、われわれの知っているスピードを基準にするのが正しいことかどうかはわかりませんが、心の波動の周波数の速度は、光のだいたい17倍ぐらいです。いちばん速いとされる光の、およそ17倍の速さで心が生滅(しょうめつ)しているのです。ですから、本質的に心と物質とはすごく違うエネルギーです。



身体の「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」という波動が、外にある「色」「声」「香」「味」「触」という波動とぶつかると、そこで認識します。一方が「生(しょう)」、あるいは「有(う)」の段階にいて、一方も「有(う)」の段階でぶつかると、

「あ、音だ、音だ」

とか

「見える、見える」

「味わう、味わう」

「触れている、触れている」

などという認識になります。われわれの認識の世界は、ぜんぶ「有(う)」の世界です。私たちは、世界は「有る」と考えています。それは無理もない話です。音が「有(う)」の場合は聞こえているのだから。「無(む)」の場合はわかりませんから。



耳が「有(う)」で、音が「有(う)」のときに、ぶつかって認識します。

そして次に、耳が「無(む)」になり、音が「無(む)」になります。ぶつかっても認識しません。というよりも、ぶつかりません。どちらも「無い」のですから、ぶつかりっこありません。

そして次にまた、耳が「有(う)」になり、音も「有(う)」になるとまたぶつかって、それを認識します。ということは、われわれは「有る」ことしか知らないというわけなのです。ものの存在の一部しか知らないのです。半分しか知らないのです。すべての生命は「有(う)」だという邪見をもっています。邪見というより、間違った考えをもっています。



ものは「有る」けれど、魂はやっぱり「有る」けれど、神様はやっぱり「いる」のでしょうけれど、それは半分の世界です。仏教は、そういう「有(う)」と「無(む)」の論を語りました。

それが大乗仏教では、法身(ほっしん)という概念が出てきて、大宇宙を支配している法身如来、大日如来がいると言ったりしています。そこまで「有(う)」論は発展しました。初期仏教の、世界は「有(う)」と「無(む)」からできているというポイントからみれば、それは正しいとは言えません。

とかく人間は「有(う)」論しか語れません。「有(う)」論しか考えることができません。実際、「有る」ことは「有る」のです。でも、ものには「有る」だけではなくて、「無い」状態もあるのです。



瞑想していると、音は波であることが身にしみてわかります。生滅(しょうめつ)、生滅(しょうめつ)しています。自分の身体も瞬間、瞬間、生滅(しょうめつ)していることがよくみえてきます。

同じ音に対して、ときには良い音だととらえたり、ときには気持ち悪い音だととらえたり。同じ味に対しても、良い味だと思ったり、あまりおいしくない味だと思ったりしますね。ずーっと、波の流れ、生滅する流れがあることが、どんどんみえてきます。みえても残念ながら悟りは開けないのですが。

ずーっと瞑想を続けていくと、認識が変わってきます。ここに音があれば、それはいつでも「有る」と「無い」とであることがわかります。耳があれば、やはり「有る」と「無い」状態があるとわかります。



たとえば耳なら、耳の感覚がどんどん鋭くなって、徹底的にものすごくシャープになって、なんでも認識できる状態にまで観察の力が強くなります。そうなるためには、余計な思考や妄想はほとんどなくなっていないとできません。

そのとき、ちょっとしたズレが起こるのです。そのズレは、じつはいつでも起こっていますが、普段は気づきません。

たとえば、耳が「有(う)」で、音も「有(う)」であるとき、音を認識します。耳でも音でも一つが「無(む)」になったら認識しません。ズレというのは、耳が「有(う)」の瞬間なのに、音が「無(む)」の瞬間です。

妄想がほとんど消えている人は、これに気づくのです。初めて「無(む)」の存在も知るのです。初めて現象の「滅(めつ)」に気づくのです。



これこそが革命的な発見です。

今まであった実体論、魂論、自我意識…、それらが

「ただの勘違いでした」

「幻覚でした」

と瞬時にわかります。







これは、簡単に説明すれば悟りの第一段階です。

「生(しょう)」と「滅(めつ)」の両方を認識できる瞬間まで進むためには、いくつかの智慧の段階を進んでいかなくてはなりません。実況中継(ヴィパッサナー瞑想)さえしていけば、悟りに達するまでの過程は自然に起こります。

普通の状態では、ものごとがすべて生滅(しょうめつ)、有無(うむ)であっても、無い状態は見えないし、わかりません。でも、瞑想して、瞑想して、徹底的に感覚が鋭くなったら、「有(う)」もみて、「無(む)」もみえます。「無(む)」も体験します。体験したら、

「なるほど、実体が無いのだ、ものごとは波動だ」

と思います。悟りの第一段階が生まれます。



いつも耳で聞く音の聞き方は「有(う)」だけ選んでいます。でも波動なので、いつでも2つのものの波長が合っているわけではありませんから、時間のズレは絶えず起こっています。ただ、それを悟らないでいるだけです。

瞑想をずーっと続けて、徹底的に観察が鋭くなったら、ものごとが存在しない瞬間をつかまえます。そこで初めて、実体論、自我論、有身見(うしんけん)が消えます。自分の体験として理解するので、その後でどんな哲学を言われても、どんなお説教をされても変わりません。心が変わってしまうのです。

存在しない瞬間を体験でつかんだら、ものごとは実体として存在すると思わなくなります。それは悟りという体験です。それはかなり大変なことで、かなり修行が進んでいないと経験できません。本当は「存在しない瞬間を経験する」などということは、生命には絶対不可能というぐらいのことです。「有る」ものはつかめるでしょう。でも、「無い」ものをつかめということですから、本当は不可能です。それを一生懸命にやって可能にするのです。


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これこそが科学的な瞑想実践です。

主観を絶って、真理に達する方法です。

悟りを開けるかどうかはさておき、まずは実況中継(ヴィパッサナー瞑想)という、笑えるほど簡単な実践を行ってみましょう。


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これは、巨大な力をもっている心の能力を妨げる障害を取り除く方法です。心を清らかにする方法です。


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引用:アルボムッレ・スマナサーラ
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)