2018年6月24日日曜日

惜敗率日本一と「アサガオの話」【野田佳彦】


From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)







惜敗率日本一の落選


1994(平成6)年4月、細川護煕(ほそかわ・もりひろ)が首相を辞任した。6月には、自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる連立政権が発足。次回の選挙から小選挙区制が導入されるため、そのままでは不利になる小さな政党は、合流して新党を結成する流れとなった。

野田佳彦(のだ・よしひこ)が所属していた日本新党は、自由改革連合、民社党、新生党などとともに、新進党を結成した。こうして迎えた1996(平成8)年10月の衆議院選挙で、野田は国政二期目を目指し、新進党から出馬した。

野田の選挙区の千葉4区で、自民党からは田中昭一が立候補していた。野田の地道な活動に対する評価に、反「自社さ」政権の票を加えれば、さほど厳しい戦いとは思えなかった。しかし、この選挙区に、鳩山由紀夫や菅直人らが結成した旧「民主党」から立候補者が出たのである。反「自社さ」票が割れることが予想された。



開票率99%の時点で、野田は210票ほどリードしていた。

「当選確実」という報道も流れたため、メディアが事務所に来はじめていた。しかし、「残票が1%あるみたいですから、もう少し待ってください」と落ち着かせた。ちなみに「残票」とは、疑問票のうち、有効か無効かが一回では判断できずに残しておいた票のことだ。

残票の確認を終えた結果は、野田の逆転負けだった。

その差は、105票。惜敗率は、99.9%。惜敗率とは、負けた候補者の獲得票数を、最多得票者の獲得票数で割って算出する。数値が100%に近いほど「惜しかった」度が高いことになる。その選挙での野田の惜敗率は、全国一だった。

選挙区に立候補した候補者は、比例区に重複立候補していれば、惜敗率の高い順に比例復活するのだが、野田は重複立候補していなかったのだ。



しかし、「大敗」も「惜敗」も、敗北は敗北、落選は落選であった。

これは後でわかったことだが、疑問票のなかに、「野田佳彦」の名前とともに、「頑張れ」「祈る必勝」「毎朝、街頭ごくろうさま」「年金問題がんばってください」といった、手紙のような投票用紙がたくさんあったのだ。このような投票用紙は「他事記載」といって無効になってしまうのだ。

駅前演説などの、野田の地道な活動を知っている人たちの、野田に対する応援の気持ちが裏目にでてしまった。



当時の野田は、

「本当に負けた気がしない敗北です。しかし、これも天命と受け止めざるを得ません。いま、西郷南洲(隆盛)の次のような遺訓をかみしめています。

『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし』

やはり、私の思いがほんのわずか、有権者に伝わらなかった部分が敗因です」

と語っている。






落選後の浪人の日々


それから3年8ヶ月、野田は浪人生活を送った。

苦しかったのは、「何でこんな負け方をしたのか」と納得できなかった点だ。一万票や二万票の差があれば、負けたことを実感し、どこが悪かったのかを反省して、「次こそ頑張ろう」と思える。しかし、野田に大きな期待をかけてくれた人たちの票が無効になってしまい、ほとんど勝っていた選挙で負けてしまった。

「なんで俺はこんな負け方をするのか」というのが腑に落ちず、もやもやしていた。「松下(幸之助)さんは、『運はある』と言ってくれたのに、なんで俺はこんなに運がないんだ」と。このように思い悩んでいるときが、いちばん悔しいときだった。

「一人ひとりを大切に」「一票一票が大事だ」と口では言っていた。しかし、本当にそれがわかっていたのだろうか。「あのとき、もう少し強くお願いしていたら、50票ぐらい増えたのかな」「あの人に、もっと強くお願いしたほうがよかったな」「あそこでは、ちょっと遠慮してしまったな」などと、くよくよ考えた。



ストンと腹に落ちたのは、一年ぐらい経ったときだった。それは、倫理法人会の集いに行って「アサガオの話」を聞いたときのことだ。

「アサガオが、早朝に可憐な花を咲かすにには、何がいちばん必要か?」

という問いかけがあった。

野田は、

「いちばん必要なのは、太陽の光だろう」

と思って聞いていた。が、その講師は、

「あえて、いちばん必要なものといえば、その前夜の闇と冷たさである」

と話した。それは、女性のアサガオ研究者の話を引用したものらしかったが、野田は、「これはアサガオの話じゃない、自分のことだ」と感じた。



夜の闇を知ってはじめて、明かりが嬉しいと思う。

冷たさを知ってはじめて、ぬくもりが嬉しいと思う。



このときの落選まで、野田は選挙で負け知らずだった。自分なりに苦しい思いで戦っていたが、大きな挫折を経験したことがなく、闇や冷たさが大事であることは知らなかった。

「そのことに気づくために、こんな負け方をしたのではないか」

と思ったのだ。そして、松下政経塾の『五誓』を思い出した。

『万事研修の事』

すべてのことが師になり、どんな経験も教訓になる、という教えだ。「そうか、この負け方こそ『万事研修』の一つなんだな」ということが実感できた。そして、この時期、松下幸之助や政経塾のことをよく思い出した。



この浪人時代がいちばん苦しかったのだが、同時に、最も人情の機微に触れた時期でもあった。

野田はのちに、「負けて良かったとは言えないが、すごく大事な経験をさせてもらった
と語っている。





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素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)



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