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2018年6月24日日曜日

惜敗率日本一と「アサガオの話」【野田佳彦】


From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)




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惜敗率日本一の落選


1994(平成6)年4月、細川護煕(ほそかわ・もりひろ)が首相を辞任した。6月には、自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる連立政権が発足。次回の選挙から小選挙区制が導入されるため、そのままでは不利になる小さな政党は、合流して新党を結成する流れとなった。

野田佳彦(のだ・よしひこ)が所属していた日本新党は、自由改革連合、民社党、新生党などとともに、新進党を結成した。こうして迎えた1996(平成8)年10月の衆議院選挙で、野田は国政二期目を目指し、新進党から出馬した。

野田の選挙区の千葉4区で、自民党からは田中昭一が立候補していた。野田の地道な活動に対する評価に、反「自社さ」政権の票を加えれば、さほど厳しい戦いとは思えなかった。しかし、この選挙区に、鳩山由紀夫や菅直人らが結成した旧「民主党」から立候補者が出たのである。反「自社さ」票が割れることが予想された。



開票率99%の時点で、野田は210票ほどリードしていた。

「当選確実」という報道も流れたため、メディアが事務所に来はじめていた。しかし、「残票が1%あるみたいですから、もう少し待ってください」と落ち着かせた。ちなみに「残票」とは、疑問票のうち、有効か無効かが一回では判断できずに残しておいた票のことだ。

残票の確認を終えた結果は、野田の逆転負けだった。

その差は、105票。惜敗率は、99.9%。惜敗率とは、負けた候補者の獲得票数を、最多得票者の獲得票数で割って算出する。数値が100%に近いほど「惜しかった」度が高いことになる。その選挙での野田の惜敗率は、全国一だった。

選挙区に立候補した候補者は、比例区に重複立候補していれば、惜敗率の高い順に比例復活するのだが、野田は重複立候補していなかったのだ。



しかし、「大敗」も「惜敗」も、敗北は敗北、落選は落選であった。

これは後でわかったことだが、疑問票のなかに、「野田佳彦」の名前とともに、「頑張れ」「祈る必勝」「毎朝、街頭ごくろうさま」「年金問題がんばってください」といった、手紙のような投票用紙がたくさんあったのだ。このような投票用紙は「他事記載」といって無効になってしまうのだ。

駅前演説などの、野田の地道な活動を知っている人たちの、野田に対する応援の気持ちが裏目にでてしまった。



当時の野田は、

「本当に負けた気がしない敗北です。しかし、これも天命と受け止めざるを得ません。いま、西郷南洲(隆盛)の次のような遺訓をかみしめています。

『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし』

やはり、私の思いがほんのわずか、有権者に伝わらなかった部分が敗因です」

と語っている。






落選後の浪人の日々


それから3年8ヶ月、野田は浪人生活を送った。

苦しかったのは、「何でこんな負け方をしたのか」と納得できなかった点だ。一万票や二万票の差があれば、負けたことを実感し、どこが悪かったのかを反省して、「次こそ頑張ろう」と思える。しかし、野田に大きな期待をかけてくれた人たちの票が無効になってしまい、ほとんど勝っていた選挙で負けてしまった。

「なんで俺はこんな負け方をするのか」というのが腑に落ちず、もやもやしていた。「松下(幸之助)さんは、『運はある』と言ってくれたのに、なんで俺はこんなに運がないんだ」と。このように思い悩んでいるときが、いちばん悔しいときだった。

「一人ひとりを大切に」「一票一票が大事だ」と口では言っていた。しかし、本当にそれがわかっていたのだろうか。「あのとき、もう少し強くお願いしていたら、50票ぐらい増えたのかな」「あの人に、もっと強くお願いしたほうがよかったな」「あそこでは、ちょっと遠慮してしまったな」などと、くよくよ考えた。



ストンと腹に落ちたのは、一年ぐらい経ったときだった。それは、倫理法人会の集いに行って「アサガオの話」を聞いたときのことだ。

「アサガオが、早朝に可憐な花を咲かすにには、何がいちばん必要か?」

という問いかけがあった。

野田は、

「いちばん必要なのは、太陽の光だろう」

と思って聞いていた。が、その講師は、

「あえて、いちばん必要なものといえば、その前夜の闇と冷たさである」

と話した。それは、女性のアサガオ研究者の話を引用したものらしかったが、野田は、「これはアサガオの話じゃない、自分のことだ」と感じた。



夜の闇を知ってはじめて、明かりが嬉しいと思う。

冷たさを知ってはじめて、ぬくもりが嬉しいと思う。



このときの落選まで、野田は選挙で負け知らずだった。自分なりに苦しい思いで戦っていたが、大きな挫折を経験したことがなく、闇や冷たさが大事であることは知らなかった。

「そのことに気づくために、こんな負け方をしたのではないか」

と思ったのだ。そして、松下政経塾の『五誓』を思い出した。

『万事研修の事』

すべてのことが師になり、どんな経験も教訓になる、という教えだ。「そうか、この負け方こそ『万事研修』の一つなんだな」ということが実感できた。そして、この時期、松下幸之助や政経塾のことをよく思い出した。



この浪人時代がいちばん苦しかったのだが、同時に、最も人情の機微に触れた時期でもあった。

野田はのちに、「負けて良かったとは言えないが、すごく大事な経験をさせてもらった
と語っている。


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From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)



「ピンクの机」とアインシュタイン【野田佳彦】


From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)




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今年はじめ、ある新聞の投書に目がとまりました。

ある小学校の図工の授業で、机の絵を描いたそうです。生徒はみな、机を茶色で描きましたが、一人の少女だけが「ピンク色」の机を描きました。

そうしたら、先生にこっぴどく叱られて、泣きながら家に帰ったという、少女の祖母の投書でした。

これを読んで、とても悲しい気持ちになりました。こんな教育をしていたら、日本からピカソみたいな芸術家は絶対に生まれません。



10年ほど前にも、似たような新聞の投書がありました。

テストで「雪がとけたら何になる?」という問題が出されました。答えは水。しかし、ある少女は「春」と答えました。雪国に住む子どもだったのかもしれません。でも、答案用紙には「X」がついていたそうです。



「ピンクの机」を描いた子も、「春になる」と答えた子も、いずれもユニークかつ素敵な感性の持ち主ではないでしょうか。でも、子供の個性や創造性は、いっさい評価されないのが、現状の教育です。


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野田はまた、千葉県の高校における「退学者数の増加」にも心を痛めている。(中略)学業不振や学校不適応などが主な原因であるが、なかには、たった一教科の単位を落としたために留年し、最終的に中途退学になってしまった生徒もいたという。

野田は、物理学者のアインシュタインが子供のころに、理科と音楽以外の教科がまったく駄目だったという話を挙げて、

「もし、アインシュタインが本県の公立高校に通っていたならば、はたして進級・卒業できるでしょうか?」

と、画一的な教育に疑問を呈している。そして、「さらば平均点、伸ばせ個性の芽」をスローガンにして、たびたび教育問題に斬り込んでいったのだ。


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From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)



2018年6月2日土曜日

野田佳彦の「素志」


From:
素志貫徹 内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾




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「わたしは政治を変えたい。知恵と体力のかぎりを尽くして」

これは、松下政経塾の卒塾提言発表会において、野田佳彦青年が発した最初の言葉である。いわば、かれの素志である。

本書は、地盤・看板・カバンなしの一青年が、文字どおり徒手空拳で政治に挑戦し、日本の内閣総理大臣になっていったプロセスを紹介している。


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松下幸之助塾主がご存命であれば、

「かつてない難局は、かつてない発展の基礎となるものである」

とお話になるであろう。


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「演説の名手」といわれている野田は、この演説(民主党代表選挙)で、みずからをドジョウにたとえた。

「わたしの大好きな言葉、相田みつをさんの言葉に、

『どじょうがさ、金魚のまねすることねんだよなあ』

という言葉があります。ルックスはこの通りです。わたしが仮に総理になっても支持率はすぐ上がらないと思います。だから、解散はしません。ドジョウはドジョウの持ち味があります。金魚のまねをしてもできません。赤いべべを着た金魚にはなれません。

ドジョウですが、泥臭く国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。円高、デフレ、税制改革、さまざまな課題があります。重たい困難です。重たい困難ではありますが、私はそれをしょって立ち、この国の政治を全身全霊をかたむけて前進させる覚悟であります。

ドジョウかもしれません。ドジョウの政治をとことんやり抜いていきたいと思います」

開票作業がはじまり、みなが固唾を呑んで見守っていた。


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From:
素志貫徹 内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾



2015年9月3日木曜日

英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その4(完)



英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その3 からの(つづき)



(Paragraph23)

In Japan, the postwar generations now exceed eighty per cent of its population.

日本では、戦後生まれの世代(the postwar generations)が、今や、人口の八割を超えています。

We must not let our children, grandchildren, and even further generations to come, who have nothing to do with that war, be predestined to apologize. 

あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪(apologize)を続ける宿命を背負わせてはなりません。

Still, even so, we Japanese, across generations, must squarely face the history of the past. 

しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史(the history of the past)に真正面から向き合わなければなりません。

We have the responsibility to inherit the past, in all humbleness, and pass it on to the future.

謙虚な気持ちで(in all humbleness)、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任(the responsibility)があります。


(Paragraph24)

Our parents’ and grandparents’ generations were able to survive in a devastated land in sheer poverty after the war. 

私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原(a devastated land)、貧しさのどん底(sheer poverty)の中で、命をつなぐことができた。

The future they brought about is the one our current generation inherited and the one we will hand down to the next generation. 

そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。

Together with the tireless efforts of our predecessors, this has only been possible through the goodwill and assistance extended to us that transcended hatred by a truly large number of countries, such as the United States, Australia, and European nations, which Japan had fiercely fought against as enemies.

それは、先人たち(our predecessors)のたゆまぬ努力(the tireless efforts)と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手(the goodwill and assistance)が差しのべられたおかげであります。


(Paragraph25)

We must pass this down from generation to generation into the future. 

そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。

We have the great responsibility to take the lessons of history deeply into our hearts, to carve out a better future, and to make all possible efforts for the peace and prosperity of Asia and the world.

歴史の教訓(the lessons of history)を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄(the peace and prosperity)に力を尽くす。その大きな責任があります。


(Paragraph26)

We will engrave in our hearts the past, when Japan attempted to break its deadlock with force. 

私たちは、自らの行き詰まり(its deadlock)を力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。

Upon this reflection, Japan will continue to firmly uphold the principle that any disputes must be settled peacefully and diplomatically based on the respect for the rule of law and not through the use of force, and to reach out to other countries in the world to do the same. 

だからこそ、我が国は、いかなる紛争(disputes)も、法の支配(the rule of law)を尊重し、力の行使(the use of force)ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。

As the only country to have ever suffered the devastation of atomic bombings during war, Japan will fulfil its responsibility in the international community, aiming at the non-proliferation and ultimate abolition of nuclear weapons.

唯一の戦争被爆国として、核兵器(nuclear weapons)の不拡散(the non-proliferation)と究極の廃絶(ultimate abolition)を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。


(Paragraph27)

We will engrave in our hearts the past, when the dignity and honour of many women were severely injured during wars in the 20th century. 

私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉(the dignity and honour)が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。

Upon this reflection, Japan wishes to be a country always at the side of such women’s injured hearts. 

だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。

Japan will lead the world in making the 21st century an era in which women’s human rights are not infringed upon.

二十一世紀こそ、女性の人権(women’s human rights)が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。


(Paragraph28)

We will engrave in our hearts the past, when forming economic blocs made the seeds of conflict thrive. 

私たちは、経済のブロック化(forming economic blocs)が紛争の芽(the seeds of conflict)を育てた過去を、この胸に刻み続けます。

Upon this reflection, Japan will continue to develop a free, fair and open international economic system that will not be influenced by the arbitrary intentions of any nation. We will strengthen assistance for developing countries, and lead the world toward further prosperity. 

だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意(the arbitrary intentions)にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システム(international economic system)を発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄(further prosperity)を牽引してまいります。

Prosperity is the very foundation for peace. 

繁栄こそ、平和の礎(the foundation for peace)です。

Japan will make even greater efforts to fight against poverty, which also serves as a hotbed of violence, and to provide opportunities for medical services, education, and self-reliance to all the people in the world.

暴力の温床(a hotbed of violence)ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会(self-reliance)を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。


(Paragraph29)

We will engrave in our hearts the past, when Japan ended up becoming a challenger to the international order. 

私たちは、国際秩序(the international order)への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。

Upon this reflection, Japan will firmly uphold basic values such as freedom, democracy, and human rights as unyielding values and, by working hand in hand with countries that share such values, hoist the flag of “Proactive Contribution to Peace,” and contribute to the peace and prosperity of the world more than ever before.

だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値(basic values)を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義(Proactive Contribution to Peace)」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。


(Paragraph30)

Heading toward the 80th, the 90th and the centennial anniversary of the end of the war, we are determined to create such a Japan together with the Japanese people.

終戦八十年、九十年、さらには百年(the centennial anniversary)に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。



August 14, 2015
平成二十七年八月十四日

Shinzo Abe, Prime Minister of Japan
内閣総理大臣  安倍 晋三





2015年9月2日水曜日

英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その3



英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その2 からの(つづき)



(Paragraph15)

Japan has repeatedly expressed the feelings of deep remorse and heartfelt apology for its actions during the war. 

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省(deep remorse)と心からのお詫びの気持ち(heartfelt apology)を表明してきました。

In order to manifest such feelings through concrete actions, we have engraved in our hearts the histories of suffering of the people in Asia as our neighbours: 
those in Southeast Asian countries such as Indonesia and the Philippines, and Taiwan, the Republic of Korea and China, among others; 

その思いを実際の行動(concrete actions)で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、

and we have consistently devoted ourselves to the peace and prosperity of the region since the end of the war.

戦後一貫して、その平和と繁栄(the peace and prosperity)のために力を尽くしてきました。


(Paragraph16)

Such position articulated by the previous cabinets will remain unshakable into the future.

こうした歴代内閣(the previous cabinets)の立場は、今後も、揺るぎないものであります。


(Paragraph17)

However, no matter what kind of efforts we may make, the sorrows of those who lost their family members and the painful memories of those who underwent immense sufferings by the destruction of war will never be healed.

ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみ(immense sufferings)を味わった人々の辛い記憶(the painful memories)は、これからも、決して癒えることはないでしょう。


(Paragraph18)

Thus, we must take to heart the following.

ですから、私たちは、心に留めなければなりません。


(Paragraph19)

The fact that more than six million Japanese repatriates managed to come home safely after the war from various parts of the Asia-Pacific and became the driving force behind Japan’s postwar reconstruction;

戦後、六百万人を超える引揚者(repatriates)が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力(the driving force)となった事実を。

the fact that nearly three thousand Japanese children left behind in China were able to grow up there and set foot on the soil of their homeland again;

中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。

and the fact that former POWs of the United States, the United Kingdom, the Netherlands, Australia and other nations have visited Japan for many years to continue praying for the souls of the war dead on both sides.

米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜(former POWs)の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者(the war dead)のために慰霊を続けてくれている事実を。


(Paragraph20)

How much emotional struggle must have existed and what great efforts must have been necessary for the Chinese people who underwent all the sufferings of the war and for the former POWs who experienced unbearable sufferings caused by the Japanese military in order for them to be so tolerant nevertheless?

戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛(unbearable sufferings)を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤(emotional struggle)があり、いかほどの努力が必要であったか。


(Paragraph21)

That is what we must turn our thoughts to reflect upon.

そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。


(Paragraph22)

Thanks to such manifestation of tolerance, Japan was able to return to the international community in the postwar era. 

寛容の心(manifestation of tolerance)によって、日本は、戦後、国際社会(the international community)に復帰することができました。

Taking this opportunity of the 70th anniversary of the end of the war, Japan would like to express its heartfelt gratitude to all the nations and all the people who made every effort for reconciliation.

戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解(reconciliation)のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ち(heartfelt gratitude)を表したいと思います。




2015年9月1日火曜日

英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その2



英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その1 からの(つづき)



(Paragraph8)

More than three million of our compatriots lost their lives during the war: 

先の大戦では、三百万余の同胞(compatriots)の命が失われました。

on the battlefields worrying about the future of their homeland and wishing for the happiness of their families; 

祖国(homeland)の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣(battlefields)に散った方々。

in remote foreign countries after the war, in extreme cold or heat, suffering from starvation and disease. 

終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢え(starvation)や病に苦しみ、亡くなられた方々。

The atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, the air raids on Tokyo and other cities, and the ground battles in Okinawa, among others, took a heavy toll among ordinary citizens without mercy.

広島や長崎での原爆投下(The atomic bombings)、東京をはじめ各都市での爆撃(the air raids)、沖縄における地上戦(the ground battles)などによって、たくさんの市井の人々(ordinary citizens)が、無残にも犠牲となりました。


(Paragraph9)

Also in countries that fought against Japan, countless lives were lost among young people with promising futures. 

戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。

In China, Southeast Asia, the Pacific islands and elsewhere that became the battlefields, numerous innocent citizens suffered and fell victim to battles as well as hardships such as severe deprivation of food. 

中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難(deprivation of food)などにより、多くの無辜の民(innocent citizens)が苦しみ、犠牲となりました。

We must never forget that there were women behind the battlefields whose honour and dignity were severely injured.

戦場の陰には、深く名誉と尊厳(honour and dignity)を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。


(Paragraph10)

Upon the innocent people did our country inflict immeasurable damage and suffering. 

何の罪もない人々(the innocent people)に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。

History is harsh. What is done cannot be undone.

歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。

Each and every one of them had his or her life, dream, and beloved family. 

一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族(beloved family)があった。

When I squarely contemplate this obvious fact, even now, I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief.

この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念(the utmost grief)を禁じ得ません。


(Paragraph11)

The peace we enjoy today exists only upon such precious sacrifices. 

これほどまでの尊い犠牲(precious sacrifices)の上に、現在の平和がある。

And therein lies the origin of postwar Japan.

これが、戦後日本(postwar Japan)の原点であります。


(Paragraph12)

We must never again repeat the devastation of war.

二度と戦争の惨禍(the devastation of war)を繰り返してはならない。


(Paragraph13)

Incident, aggression, war -- 

事変(Incident)、侵略(aggression)、戦争。

we shall never again resort to any form of the threat or use of force as a means of settling international disputes. 

いかなる武力の威嚇や行使(the threat or use of force)も、国際紛争(international disputes)を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。

We shall abandon colonial rule forever and respect the right of self-determination of all peoples throughout the world.

植民地支配(colonial rule)から永遠に訣別し、すべての民族の自決(self-determination)の権利が尊重される世界にしなければならない。


(Paragraph14)

With deep repentance for the war, Japan made that pledge. 

先の大戦への深い悔悟の念(deep repentance)と共に、我が国は、そう誓いました。

Upon it, we have created a free and democratic country, abided by the rule of law, and consistently upheld that pledge never to wage a war again. 

自由で民主的な国(a free and democratic country)を創り上げ、法の支配(the rule of law)を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。

While taking silent pride in the path we have walked as a peace-loving nation for as long as seventy years, we remain determined never to deviate from this steadfast course.

七十年間に及ぶ平和国家(a peace-loving nation)としての歩みに、私たちは、静かな誇り(silent pride)を抱きながら、この不動の方針(steadfast course)を、これからも貫いてまいります。



(つづく)





関連記事:
英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その1
英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その2
英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その3
英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その4(完)




2015年8月31日月曜日

英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その1


Statement by Prime Minister Shinzo Abe
内閣総理大臣談話

Friday, August 14, 2015
平成27年8月14日
Cabinet Decision
閣議決定


(Paragraph1)

On the 70th anniversary of the end of the war, we must calmly reflect upon the road to war, the path we have taken since it ended, and the era of the 20th century. We must learn from the lessons of history the wisdom for our future.

終戦七十年(the 70th anniversary)を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓(the lessons of history)の中から、未来への知恵(the wisdom for our future)を学ばなければならないと考えます。


(Paragraph2)

More than one hundred years ago, vast colonies possessed mainly by the Western powers stretched out across the world. 

百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地(colonies)が、広がっていました。

With their overwhelming supremacy in technology, waves of colonial rule surged toward Asia in the 19th century. 

圧倒的な技術優位(supremacy in technology)を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。

There is no doubt that the resultant sense of crisis drove Japan forward to achieve modernization. 

その危機感(sense of crisis)が、日本にとって、近代化(modernization)の原動力となったことは、間違いありません。

Japan built a constitutional government earlier than any other nation in Asia. The country preserved its independence throughout. 

アジアで最初に立憲政治(a constitutional government)を打ち立て、独立(its independence)を守り抜きました。

The Japan-Russia War gave encouragement to many people under colonial rule from Asia to Africa.

日露戦争(The Japan-Russia War)は、植民地支配(colonial rule)のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。


(Paragraph3)

After World War I, which embroiled the world, the movement for self-determination gained momentum and put brakes on colonization that had been underway. 

世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決(self-determination)の動きが広がり、それまでの植民地化(colonization)にブレーキがかかりました。

It was a horrible war that claimed as many as ten million lives. 

この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争(a horrible war)でありました。

With a strong desire for peace stirred in them, people founded the League of Nations and brought forth the General Treaty for Renunciation of War. 

人々は「平和」を強く願い、国際連盟(the League of Nations)を創設し、不戦条約(the General Treaty for Renunciation of War)を生み出しました。

There emerged in the international community a new tide of outlawing war itself.

戦争自体を違法化(outlawing)する、新たな国際社会の潮流が生まれました。


(Paragraph4)

At the beginning, Japan, too, kept steps with other nations. 

当初は、日本も足並みを揃えました。

However, with the Great Depression setting in and the Western countries launching economic blocs by involving colonial economies, Japan's economy suffered a major blow. 

しかし、世界恐慌(the Great Depression)が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化(economic blocs)を進めると、日本経済は大きな打撃(a major blow)を受けました。

In such circumstances, Japan's sense of isolation deepened and it attempted to overcome its diplomatic and economic deadlock through the use of force. 

その中で日本は、孤立感(sense of isolation)を深め、外交的、経済的な行き詰まり(deadlock)を、力の行使(the use of force)によって解決しようと試みました。

Its domestic political system could not serve as a brake to stop such attempts. In this way, Japan lost sight of the overall trends in the world.

国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢(the overall trends)を見失っていきました。


(Paragraph5)

With the Manchurian Incident, followed by the withdrawal from the League of Nations, Japan gradually transformed itself into a challenger to the new international order that the international community sought to establish after tremendous sacrifices. Japan took the wrong course and advanced along the road to war.

満州事変(the Manchurian Incident)、そして国際連盟(the League of Nations)からの脱退(the withdrawal)。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲(tremendous sacrifices)の上に築こうとした「新しい国際秩序(new international order)」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道(the road to war)を進んで行きました。


(Paragraph6)

And, seventy years ago, Japan was defeated.

そして七十年前。日本は、敗戦しました。


(Paragraph7)

On the 70th anniversary of the end of the war, I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences.

戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念(profound grief)を表すとともに、永劫の、哀悼の誠(sincere condolences)を捧げます。







(つづく)



田中角栄の「ブッダ・フェース」



〜話:山折哲雄〜


 昭和60年、6月26日朝のことだった。当時の新聞各紙の社会面に、田中角栄元首相の近況を告げる記事が大きな活字で載っていて、驚かされた。「角さん」はこの年の2月27日に脳梗塞で倒れて入院していたが、それ以来、4カ月ぶりにその姿を人々のまえに現したからだった。

 それらの紙面には、東京目白の私邸でソファに腰かけてくつろぐ3枚の写真がのっていた。ソファに腰かけてはいるけれども、そのすぐそばには車椅子がおいてある。脳梗塞で右半身が麻痺、言語障害も引きおこしていて、リハビリに励んでいる病状をそれとなく写しだしていた。3枚の写真では、書類や手紙を手にしているのは左手であり、右手はいずれも力なく、ソファやからだに添えられたままだった。

…

 たまたま載っているあるコメントに目がとまった。それは当時、社会保険中央総合病院で脳神経外科部長をつとめる三輪和雄さんの談話であったが、氏は記者の質問につぎのように答えていた。

 顔の左頬の筋肉が軽い麻痺を示し、右腕と右足も麻痺していると類推できる。脳卒中などの後遺症で、穏やかな「ブッダ(仏陀)フェース」になることがあるが、元首相の表情は憂鬱そうで、生気のないのが気がかりだ。

 その記事を読んで、私は心にひっかかるものを感じた。「脳卒中の後遺症で、穏やかな”ブッダ・フェース”になる」というくだりである。「仏陀の顔」というのは、いうまでもなく悟った人間の理想的な表情をいったものだ。日本人であれば、仏教を信ずる者も信じない者も、誰しもが思いおこす、あの静かな深味のある顔である。その「ブッダ・フェース」がいったいどうして脳卒中などの後遺症で、たまたま穏やかになった顔をいいあらわすのに用いられているのか。

…




 それが気になっていて、数日たってから私は三輪さんに電話をかけて、くわしい事情をきいてみた。すると即座に、あれは記者がいってきたのに答えたものだといわれる。田中元首相の顔は医学の世界で「ブッダ・フェース」といわれるものではないかと聞いてきたので、そうかもしれないと答えた…。

 けれども三輪さんは、それに話をつなげて、「じつは西欧の近代医学の教科書には、そのようなことが書かれていたのだが、現在はそのように東洋の仏教を差別するような言い方はしていないはずです」と答えられた。

 私は一瞬、なるほどと思いながら、同時にブッダの表情は、西欧人にとって必ずしも価値ある表情とみなされてはいないということを知らされて、胸を衝かれたのである。

…

 実例をもう一つ紹介しよう。米国のジョンスン大統領の時代にラスクという国務長官がいたが、彼は「個人的な感情を一切顔にあらわさない」ということで有名な人物だった。どんな政治的な激動期に入っても、いったい何を考えているかわからない不気味な男であるということで、マスコミの評価はあまり良くなかった。政治家というのは、自分の感情をもろに出したほうが大衆の人気を博するのだが、彼はまったくそういうことをしないタイプの人間だった。

 そんなラスクを皮肉って、新聞記者たちに「彼の顔はブッダのような顔である。何を考えているかわからない。気味の悪い顔である」と書きたてたのである。私はあらためて、西欧人と東洋人のあいだの価値観の根深い違いを思い知らされたような気がした。



…





出典:月刊「武道」2015年9月号
山折哲雄「文武一如」


2014年3月22日土曜日

外国人に意味不明。安倍首相の英語「積極的平和主義」


話:ジェラルド・カーティス


 安倍首相の語る英語には、非常に誤解を招きやすいものが多いのです。ぼくが一番気になる、というよりも早くやめてほしい表現は、「積極的平和主義」。これはもう、非常に誤解を招く言い方なのです。

 これを日本の外務省、官邸がどう英語に訳しているかというと、「積極的」が「proactive」、「平和主義」は「pacifism」。2つを足して「proactive pacifism」。これは英語としては全くノンセンスで、「何の意味?」ということになる。

 「pacifism」は「武力を使わない」という意味です。安倍さんは、できれば外交問題を平和的に解決したい気持ちはあるに違いない。しかし、絶対武力を使ってはいけないとも思っていない。自分の国が侵略されそうになったら、たとえば中国が尖閣諸島を獲ろうとしたら、やはり日本は武力を使いますよね。国を守るために武力使用が必要であるからこそ、日米同盟がある。アメリカは日本を守るために、必要であれば核兵器まで使うというのが日米同盟でしょう。「pacifism」ではないのです。

 ですから、その意味の「積極的平和主義」ならば、「proactive pacifism」ではなくて、「proactive peaceful diplomacy」でしょうね。ただ、これもまた意味のない言葉です。世界のどの国も、できればピースフルに問題を解決したい。そして、どうしようもない場合に、必要に武力・軍事力を使う。そのことを言うだけだったら、「proactive pasifism」だの「積極的平和主義」などと、あれほど言い続ける必要はないのです。

…



出典:10ミニッツ TVオピニオン
ジェラルド・カーティス(コロンビア大学政治学教授)
いまアメリカが日本に問う(2)誤解を招きがちな首相の表現・言語



2013年7月5日金曜日

政教分離は「先進国の鉄則」。靖国問題



政治問題に「宗教」を絡めてはならない。

これは先進国の間で守られる「国際社会の鉄則」だ、と歴史学者の渡部昇一教授(上智大学)は言う。



「ヨーロッパにおける三十年戦争(1618〜1648)を終結させた『ウェストファリア条約』があります。三十年戦争はプロテスタントとカトリックの『宗教戦争』です。その条約締結以来、先進国の間では『政治問題に宗教を絡めてはならないことが決まりました」

これは400年近く経った今も、先進国間では固く守られているという。

「アメリカのブッシュ前大統領がイラクに軍を派遣した時、テロ行為は厳しく批判しつつも、イスラム教それ自体については一言も批判しなかったのはそのためです」と渡部教授は言う。



では、なぜ日本は「靖国参拝」を他国にとやかく言われるのか?

これは「宗教問題」ではないのか?








渡部教授は「『宗教問題に口出ししないのは先進国の常識です。それができない国は先進国に値しない』くらいのことをハッキリ言ってあげたらいいのです」と言う。

「靖國参拝がこじれた時、政府がすぐに『それは宗教問題である』と断じれば、良識ある世界の国々は『そうか、宗教問題には口出ししてはいけないな』と納得します」



ところが残念ながら、日本の靖國参拝に口出しするは「良識ある先進国」ではないようである。

具体的に申し上げれば、それは世界広しといえども「中国と韓国」の2カ国だけである。しかも、それは戦後40年も経ってからの話である。








昭和60年(1985年)、時の首相「中曽根康弘」氏は、内閣総理大臣として靖國参拝を参拝。

この時はじめて中国が「いわゆる(第二次世界大戦の)A級戦犯が祀られている靖國神社に首相が『公式参拝』することは中国人民の感情を傷つける」と激しく日本に抗議。

もしここで、中曽根氏が「靖國参拝は国内問題であり、宗教問題である」と毅然としていたら、その後の展開はどうなったかわからない。だが現実は、中国の抗議を飲んで以後の参拝を取りやめてしまった。



日本がすんなり中国の言い分を聞いたことにより、この時以来、靖國参拝は「外交カード」と化したといえる。時は中国が成長路線へと転じ、国力と自信を増しつつある頃でもあった。

ちなみに韓国が抗議をはじめたのは、それよりもずっと後の話で、顕著になったのは盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領あたりからである。






先進国である日本には、「政教分離の原則」がある。

それは、日本国憲法第二十条第三項に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならない」と記されている。

この点、中韓の抗議を別にしても、国内問題として「政府公人の靖國参拝」は日本国憲法に抵触する恐れがある。



それを懸念したのが、昭和50年(1975年)の「三木武夫」元首相。

彼は、「総理としての参拝ではなく、渋谷区南平台の一住民、三木武夫として参拝する」と言った。実際に彼は、公用車を使わずにタクシーで靖國神社に乗り付け、そして記帳の際は「内閣総理大臣」の肩書きを外して「三木武夫」とだけ記した。

以後、「福田赳夫」「大平正芳」「鈴木善幸」各首相も同様、「私的参拝」という立場での参拝となった。








靖國神社に限らず、終戦直後は「公的資格での神社参拝」が禁じられていた。それはアメリカのGHQが「神道指令」によって、それを禁じたからである。

「そんなことは馬鹿げている!」と怒ったのは、「吉田茂」元首相。彼はアメリカ軍の占領直後から明治神宮や伊勢神宮、熱田神宮などを平然と参拝していた。

しかし、靖國神社となるとさすがにGHQの目が厳しく、吉田茂氏をもってしても容易には参拝が叶わなかった。



吉田茂氏が首相として靖國神社に参拝するのは、昭和26年(1951年)。サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が独立を果たしてからである。

条約が結ばれたのが9月。その直後10月の「秋の例大祭」、吉田茂氏は靖國神社に参拝。日本の主権回復を奉告したという。以後、日本の首相は靖國神社の催す「春秋の例大祭」に参拝する流れができあがる。

この頃、靖国参拝は国内問題にもなっておらず、むしろメディア各社は好意的に扱っていた。








だがその後、先に記した通り、福田赳夫氏の時に国内問題から「私的参拝」となり、中曽根康弘氏の時から他国の抗議を受けて「参拝取りやめ」となったのである。

その参拝中止から16年後の2001年、「小泉純一郎」元首相が靖國参拝を復活。

これは日本国内でも「憲法違反」として大変問題視されたわけだが、小泉元首相による参拝違憲訴訟のすべては原告の敗訴。つまり、日本国憲法の定める「政教分離の原則」には違反しないと判断されている。



つまり、靖國参拝で問題となるのはもはや「中国と韓国」の2カ国による外圧のみ。

だが、先進国における国際社会の鉄則は、冒頭で述べたように「政教分離」。先進国間であればあり得ない国際問題である。

安倍首相は中韓の抗議に対して国会で問われ、「国のため尊い命を落とした英霊に対して、尊崇の念を表すのは当たり前だ。閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保していく」と内政干渉を毅然としてはねつけた。

それは今年(2013)の靖国神社の春季例大祭に3閣僚、国会議員168人が大挙して参拝したことを受けての言だった。



とかく感情論にもなりがちな靖国問題であるが、国際社会には厳然としたルールがあり、欧米社会はその法に敬意を払う習慣がある。つまり、公的な問題解決は法に訴えねばならぬのであり、裁判所の判決は飲まなければならないということだ。

それは不幸にして、日本人には疎い感覚でもあるのだが…。













(了)






ソース:致知2013年7月号
「歴史の教訓 渡部昇一」
「知っておきたい靖國神社参拝問題 基礎知識」

2013年6月29日土曜日

主婦から政治家へ。有村治子・参議院議員



妊産婦や赤ちゃんのために、「マタニティ・マーク」を制定した国会議員「有村治子(ありむら・はるこ)」さん。

彼女は、自民党が全国区ではじめて公認した「無名の主婦」だったという(当時30歳)。







有村さんは当時をこう振り返る。「一人の国民として、野田聖子先生に手紙を出したんです。党も制度も疲労を起こしているようですので、若い力を取り入れてぜひこの状況を乗り越えていただきたい、と」。

当時の自民党内閣の支持率は8%にまで低迷(森政権末期)。有村さんは「会社を辞めて大学院に進学した主婦」だった(日本マクドナルド → 青山学院大学)。



はじめての選挙活動は「生易しいものではなかった」。

「選挙に出ると『親類と友だちの半分を失う』、とよく言われますが、街頭に立てば『黙れ!』とツバや罵声が飛んできました」と有村さんは語る。

なんの組織も持たない有村さんは、駅や商店街で「名刺」を配るのが精一杯。一日中、名刺を配っていたという。

「でも、ちゃんと受け取ってくださる方は、一時間に2人くらい。破り捨てられることもしょっちゅうです」



じつは有村さんの父は「県会議員」。その落選も目にしている。

「私が16歳の時に、父が県議会選挙に落選しました。それまで父のことを『有村先生』と呼んでいた方が、一晩で『有村っ!』って怒鳴るようになりました。高校生ながらに、そういう人間の2つの面を見たことは、本当に貴重な体験でした」







有村治子さんが参議院に当選を果たすのは、奇跡のような「小泉旋風」に後押しされてのことだった。

「本当に私はギリギリのところで当選させていただいたのです」

そして、政治家になった印象はというと

「政治というのは生存競争が激しく、現代における唯一『合法な戦争』じゃないかと思いました」



また、政治家の成果を測る「物差し」が、あまりに短いことにも驚く。

「日本は平成になってからの25年間で、17回も首相が交代しています。それが海外にも伝わって、首脳会談もセットできない。他国との交渉のテーブルにすら着けない悲哀を、私は目の当たりにしてきました」

さらに、今の日本には「国運」もない。

「国運とは『一人ひとりの運気 × 国民の数』です。人の集団が『国の運』をつくるのだと考えますが、東日本大震災の時には『政治のもたつきによる人災』も指摘されました」



有村さんは、政治家の仕事を「国家の行く末を確かにすること」と考えている。

「たとえば、私たち民族の安全がこのコップの中に入っているとしたら、これをどこに置くかでその安全性は変わってきますよね。不安定なところに置けば、落ちて割れてしまいます」

「ですから、国民全体が依って立てる『確固たる足場』をつくること。それこそが政治家の使命と考えています」







(了)






ソース:致知2013年7月号
「主権の大切さを訴え、国運高揚に全力! 有村治子」

2013年5月24日金曜日

税の世界における「クロヨン問題」とは?




日本国民のすべてに「番号」が割り振られて管理されることになる「マイナンバー法案」。

ひとたび与えられた十数ケタの番号は、原則として一生変わらないとのこと。

現国会で審議中のこの法案が通れば、2015年の10月から一斉に国民に通知され始められることになる。







政府の狙いはというと、国民の「所得」をより正確に把握すること。つまり「納税者番号」として利用することにある。

マイナンバーの導入によって、国民一人ひとりの所得が今よりも正確に、しかも一発で把握することができるようになり、「過少申告や脱税を防ぎやすくなる」。



税の世界でかねてから大きな課題とされてきた「過少申告や脱税」。

俗にいう「クロヨン問題」

その解消に、マイナンバー制度が一役買うと見られている。



ところで、「クロヨン問題」とは?

たとえば「サラリーマン」は、給料をもらう時にはすでに税金が天引きされているので、所得のおよそ「9割」までを国が把握していると考えられている。

ところが一方、たとえば「自営業者」の場合は、所得全体のうち「6割」程度しか国は把握できていないとみられ、とりわけ「農家」はその「4割」しか課税対象になっていない、と一般に言われている。



すなわち、サラリーマン「9割」、自営業者「6割」、農家「4割」。

これがその、「ク(9)ロ(6)ヨン(4)問題」である。



だが、たとえ番号制度が導入されようとも、結局、自営業者や農家の場合は、仕事しての「経費」と個人で使った「私費」の境は依然として曖昧なままである。

つまり、この境が明確でなければ、国民の所得全体に正確に把握することは難しいとされている。







(了)






出典:NHK時論公論「マイナンバー制度」

2013年3月19日火曜日

戦後の英雄政治家たちよ…



戦後の「壊滅的な敗戦」。

そのドン底から這い上がる「奇跡的な発展」に、日本の「政治」は大きく貢献していた(今では考えられないかもしれないが…)。

「世界でも稀に輩出するような『立派なリーダーの群像』が戦後を彩った(島田晴雄)」



吉田茂、日本の独立を成したあとの彼は、「朝鮮戦争に参加しない」という奇跡を演じてみせた。

アメリカから派兵の圧力が重くのしかかる中、吉田首相は「共産化への危惧」を盾に、朝鮮戦争への日本の不参加をアメリカに承服させたのである。

「それが戦後の平和日本の礎になった(島田晴雄)」






岸信介、彼の「安保改定」は国内では著しい不評を買ったものの、それは偉大な業績であった。

吉田総理が結んだ日米安保は、「植民地安保」とも揶揄されるほどに隷属的、そして屈辱的なものであった。ゆえに、岸総理は「この不平等を何とか変えたい」と願ったのである。



その不平等条約を是正するため、岸総理はアジア諸国、オーストラリアやニュージーランドを歴訪。賠償を確約していった。「ニュージランドでの謝罪演説では、スタンディング・オベーションが起きたとさえ言われる(島田晴雄)」

こうした「海外諸国の信頼」という成果とともにアメリカはワシントンに赴いた岸総理。安保改定の提案を行い、苦労の末に「対等に近い安保条約」を結ぶに至るのである。






その後、池田勇人総理が所得倍増計画を前倒しで達成すると、佐藤栄作総理のときに日本はOECD(経済開発協力機構)への加盟を果たす。つまり「先進国」の仲間入りをしたのである。

同佐藤総理は「沖縄返還」をも達成。田中角栄総理は、大戦後に断絶していた「日中国交」の正常化に成功する。

まさに、戦後の日本政治は「世界でも稀に輩出するような立派なリーダーの群像」に彩られていたのであった。






こうした卓抜したリーダーを支えたのは、「世界最強のシンクタンク」と言われた優秀な官僚集団である。

さらに当時の自民党は、多数の政党が入り乱れて成立していた経緯をもつため、「それらが常に内部で切磋琢磨し、政治力が磨かれた(島田晴雄)」。



政治・官僚・業界、これらの織りなす「鉄のトライアングル」。通常予算の倍以上もある特別会計は、このトライアングルを不動もののとしていた。

しかし、あまりに不動であったため、そこに安住してしまった自民党。

「そこから自民党の趨勢的凋落がはじまった(島田晴雄)」



自民党の得票数は続落。単独過半数は遠のき、公明との連立も不可欠に。

「6割が世襲議員で、政治は利権化し、新しい血が入らない(島田晴雄)」

現在の日本の低空飛行、それは「政治と官僚の劣化」が原因である、と島田氏は述べる。



過ぎ去りし英雄の群像たち…。

叩かれても叩かれても潰れなかった彼らであるが、悠久の歴史の中にあっては蜉蝣(かげろう)のように儚い。

先人たちの言う通り、不幸のタネは幸運な時に撒かれるものなのであろうか…。






出典:盛衰 島田晴雄