2016年3月26日土曜日
「あなたを、なだめたくて」 [ノリーナ・ベンツェル]
話:クリストファー・マクドゥーガル
私にとってのアラビアのロレンス --
ヒロイズムは美徳ではなくスキルだ
と初めて気づかせてくれた人物-- は、ペンシルヴェニア州の片田舎で小さな小学校を運営する大きな丸眼鏡の中年女性だった。
…
2001年2月2日、ノリーナ・ベンツェルが校長室にいたとき、山刀(マチェーテ)をもった男が校内に併設された幼稚園の園児たちに襲いかかった。
そのあとに起きたことを知ってから10年、私は今になってようやくある疑問の答えがわかりはじめている。
なぜ、彼女はあきらめなかったのか?
戦闘経験のない42歳の小学校校長が、逆上した陸軍退役軍人を相手に、木の枝も真っ二つにできる刃物で切りつけられながら、どうやって戦いを --執拗に、素手で、160cmという小柄な身体で-- つづけられたというのか?
立ち向かう不屈の精神があったことも驚きだが、本当の謎は
勝ち目はないとすぐにわかったはずなのに、どうやって食い下がったのか
だ。というのも、それがヒロイズムにつきまとう忌まわしい真実だからだ。試練がスタートするのに、こちらの準備を待ってはくれないし、疲れたからといって終わるわけでもない。タイムアウトもウォーミングアップもトイレ休憩もなしだ。
たまたま頭痛がする日のことものあれば、ふさわしいパンツをはいていないこともあるだろうし、あるいは気づくと --ノリーナのように-- スカートにローヒールの靴という格好で学校の廊下にいて、足元の床が自分の血でみるみるうちに滑りやすくなっているかもしれない。
マイケル・スタンキウィッツは、ボルティモアのハイスクールの社会科教師で、3番目の妻に去られてから怒りと被害妄想でいまにも破裂しそうになっていた。脅迫行為が原因で解雇され、入院させられ、あげくには投獄された。
釈放後、彼はマチェーテ(山刀)を手にし、ペンシルヴェニア州ヨーク郡の静かな田園部にあるノースホープウェル・ウィンターズタウン小学校に車を走らせた。そこは以前、義理の子供が通っていた学校だった。
昼休み直前、ノリーナ・ベンツェルがふと窓の外に目をやると、ふたりの子供を連れた母親の背後に、入り口から忍びこむ人影が見えた。何者か確かめにいくと、見知らぬ男が付属の幼稚園をじっとのぞいていた。
「失礼ですが」
とノリーナは言った。
「どなたかお探しでしょうか?」
スタンキウィッツが向き直り、ズボンの左脚からマチェーテ(山刀)を引き抜いた。それをノリーナの喉元に切りつけると間一髪はずれ、首から下げたプラスチック製のIDカードが切り裂かれた。
悲しくもやけにはっきりした考えが彼女の頭をよぎった。まわりに助けてくれる人はいない。ここにいるのは自分ひとり。
つぎの数秒間にどうするか
で、誰が生きてこの学校を出るかが決まる。
ノリーナは悲鳴をあげて逃げてもよかった。
身体を丸めて慈悲を乞うことも、スタンキウィッツの手首に体当たりすることもできただろう。だが彼女は
腕を顔の前でX字形に交差させ、後ずさりした。
スタンキウィッツは、なおも切りつけ切り裂こうとしてきたが、ノリーナは攻撃をかわし、相手から決して目を離さず、差をつめて倒そうとするのを許さなかった。
ノリーナはスタンキウィッツを誘い出して教室から遠ざけ、廊下を校長室に向かった。そしてどうにか部屋に入ると、ドアのボルトをかけ、深傷(ふかで)を負った血まみれの手で、室内待機警報を作動させた。
一瞬おそかった。
ちょうど園児が何人か教室から出たところで警報が鳴ったのだ。
スタンキウィッツはその園児たちに襲いかかった。教師の腕に深傷を負わせた彼は、女児ひとりのポニーテールを切り落とし、男児ひとりの腕を折った。
園児たちは校長室のほうに逃げ、そこでノリーナはまたスタンキウィッツと対峙した。
マチェーテ(山刀)が両手に深く切りつけられ、指が2本切断された。ノリーナはもはやこれまでと見え、スタンキウィッツは新しい犠牲者を求めて振り返る。
ノリーナが跳んだのは、そのときだ。
抱きついて両腕を巻きつけ、ありったけの力でしがみつくと、男はジタバタもがき--
カタッ
マチェーテ(山刀)を落とした。養護教諭がつかみ、廊下へ隠しに駆けだした。スタンキウィッツがよろよろとデスクに倒れこんでも、ノリーナはまだ背中にかじりついていた。
まもなくサイレンと雷鳴のような足音が近づいてきた。
ノリーナは血液を半分ちかく失ったが、病院に担ぎこまれて一命をとりとめた。
スタンキウィッツは投降した。
この衝撃後の数日間には、”運”と”勇気”が語られることが多かった。だが、さまざまな要因のうち、いちばん重要でなかったのがこの2つだ。
勇気はあなたを苦境に追いやる。必ずしもそこから脱出させてくれない。そして、相手がすべって転びでもしないかぎり、マチェーテ(山刀)を手に襲いかかってくる男と戦って勝つことに、運はなんの関係もない。
ノリーナ・ベンツェルが生き延びたのは
一連の決断を即座に、ありえないほどの重圧がかかるなかで下し、その成功率が生死の分かれ目となったから
だ。
腕を交差させて後ろに下がったとき、彼女が本能的にとったのは、まさしくパンクラティオンで推奨される姿勢だった。
この古代ギリシャのルールのない格闘技は、第二次世界大戦中に”天の双子(heavenly twins)”ことビル・サイクスとウィリアム・フェアベアンに採用され、現在もその接近戦のテクニックが特殊部隊につかわれている。
ノリーナはあわてて足がもつれることも、行き止りに逃げこむこともなく、
わざと後退する作戦
を採った。アドレナリンが限界値に達するままにしていたら、エネルギーが燃え尽きて、打つ手はなくなっただろう。ところがガス欠になったのはスタンキウィッツのほうで、ノリーナは待っていた好機をものにすることができたのだ。
身体の強さや体格、残忍さの勝負になっていたら、ノリーナは手も足も出なかった。そこで力をぶつけ合う代わりに、彼女はもっといい解決策をみつけた。
筋膜、つまり皮膚の内側で身体を包んでいる繊維質の結合組織を頼った
のだ。人間の上半身には、胸を横切り一方の手からもう一方の手にまで走る帯状の筋膜がある。スタンキウィッツを両腕で包むことで、ノリーナは
その筋膜の輪を閉じた。
いわば人間投げ縄となって、スタンキウィッツの腕を太いゴムケーブルで縛り、彼の力を無効にしたわけだ。
だが、そうするために、ノリーナはまず自分の扁桃体を制御しなくてはならなかった。
扁桃体は恐怖の条件づけに関わる脳の部位だ。そこは長期記憶にアクセスし、過去にやったことのなかに現在やろうとしていることと似たものがないかスキャンする。
もし一致するものがヒットしたら、先に進んでいい。筋肉はほぐれ、心拍数は安定し、疑念は消える。だが過去に、たとえば高い木から下りた形跡が見つからなかった場合、扁桃体は神経系にその行為を中止するよう圧力をかける。
扁桃体こそ、人が消防士の用意したハシゴに乗らずに焼け死に、ライフガードの首から手を放そうとせずに溺死する原因だ。5歳のころは自転車に乗るのがむずかしいのに、5年ぶりに乗るのはたやすい理由でもある。一度おぼえたら、扁桃体はその行動を認識してゴーサインを出す。
あなたの扁桃体は判断しない。反応するだけだ。
だから扁桃体を詭計(トリック)にかけることはできない。訓練(トレーニング)するしかないのだ。
ほとんどの人は、いくら強くても、また勇敢であっても、マチェーテ(山刀)で襲撃されるという異常事態に見舞われたら扁桃体が圧倒され、その場で動けなくなる。
ノリーナが天才的だったのは、自分のスキルに合った戦略を見つけたことにあった。戦うことはできなくても、抱きしめることなら得意だ。
腕で人を包みこむのは慣れた動作だから、感覚器も反対しなかった。
ノリーナがそのハグをやってのけたのは、直感的にひらめいたからだ。つまり、スタンキウィッツの怒りを抑えつけるのは無理でも、鎮めることならできるんじゃないか、と。
「私は、あなたの身体に腕をまわしました」
マイケル・スタンキウィッツに判決が下された日、彼女は証言台から被告にそう告げる。
「あなたを、なだめたくて」
スタンキウィッツは、じっと彼女を見つめた。
そして声に出さずに「ありがとう」と口にすると、禁固264年の刑に服するために連れていかれた。
では、マチェーテ(山刀)をもった狂人の襲撃に、どう備えたらいいのか?
その質問は私の口をついて出るとバカみたいに感じられるし、状況を考えれば無作法といってもいい。私は今、ノリーナの学校にいる。あの襲撃からようやく一年といったところだ。だがノリーナも内心、ずっとおなじことを自問してきた。
「外で話しましょう」
と彼女は提案する。上品で上機嫌、子供たちに魅了されている彼女は、教師となって17年がたった今も、休み時間にはしゃぎまわる彼らを、仕事の合間に眺めるのが好きだ。
腕は、稲妻のような傷跡に覆われている。
4回の再建手術をへて、手の機能はだいぶ回復したものの、まだ自分の手という感じはしない。いつも冷たく痺(しび)れ、こんな暖かい秋の午後にもカイロを握りしめたままだ。それでも、夫や子供たちとまた手をつないだり、ペン州立大ブルーバンドの同窓会でアルトサックスを吹いたり、運動場でわれわれの姿を見るなり駆け寄ってくる児童の髪をクシャクシャにすることはできる。
「おかしな話に聞こえるでしょうが、
あの日は準備ができていたのです
」とノリーナは言う。
そうだったに違いない。彼女は落ち着いていて、理性的で、強かった。パニックを起こすことも、死を受け入れるつもりもなく、選択肢を検討し、次にどう動くかプランを立てていた。彼女の反応は行き当たりばったりだったのではない。
自然で、意図的だった。
意図的どころか、「天から導かれた」感じだったという。ただ実際は、内面から導かれていた。彼女は何をすべきか知っていて、
身体はそれをどのようにすべきかを知っていた
のだ。
「この子たちを大切にするという理由で、わたしを英雄とお呼びになるなら、それもけっこうです。でも、
毎日仕事でしていることです
」とノリーナは言う。これは興味深い手がかりだ。
彼女が落ち着いていたのは、状況が熱を帯びたときに冷静でいられる訓練を積んだ終生の教師だからだろうか?
視線を合わせたままだったのは、かんしゃくを起こす子供や興奮した親に毎日そうやって接しているからだろうか?
手がサックス吹きとして何十年も練習した位置に上がったこと、そして彼女が両腕で攻撃をそらしたり防御したりする両手利きだったことは偶然だろうか?
ほんの数分、彼女と校庭にいるだけで、この子たちのために死ぬまで戦おうとした理由はわかる。
依然として不可解なのは、とりわけノリーナにとっては
なぜ勝てたのか
だ。
…
引用:ナチュラル・ボーン・ヒーローズ―人類が失った"野生"のスキルをめぐる冒険
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿