2017年3月30日木曜日
2017年3月22日水曜日
王家の断絶と戦争[ターガート・マーフィー]
話:R・ターガート・マーフィー
R. Taggart Murphy
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ウィンストン・チャーチルはかつて興味深いことを言っていました。
I saw an interesting comment that Winston Churchill made.
もしアメリカが、第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約の締結時に、ドイツとオーストリアの王族であるホーエンツォレルン家とハプスブルク家の断絶を主張しなかったら、第二次世界大戦は起こらなかっただろう、ということです。それだけ君主制には意味があったかもしれない、ということです。
And he said that, if the United States at the Versailles treaty, Versailles, the negotiations that led to the Versailles treaty at the end of World War Ⅰ, if the United States had not insisted on the end of the Hohenzollern and Habsburg dynasties, the monarchies in Germany and Austria, and turning those two countries into republics, Churchill said, we would never have had the Second World War, so.
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過去にさかのぼれる粒子 [一ノ瀬正樹]
話:一ノ瀬正樹
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ヒュームは「原因と結果」と理解される事象の特徴、すなわち恒常的連接が生じる前提として、「原因と結果は時空的に接近している」、そして「原因は結果に時間的に先行する」という2点を挙げています。
これは、それ自体を考えたときにはもっともなことだと思います。先ほど言ったのは、原因と結果は時間的・空間的に接近しているということです。時間的にもすぐだし、空間的にも文字通り同一の場所です。「原因は結果に時間的に先行する」、これも当たり前で、原因が先に起こらなければいけません。結果は後から起こります。ヒュームはこの2点を挙げているのですが、一見こういう自明な論点でも問題が生じないわけではありません。
たとえば、接近に関していうと、量子力学のEPR相関というものがあります。素粒子が崩壊して2つに分かれた後、一方に波束の収縮が起こると、宇宙の果てまで離れた他方にも、一瞬でその波束の収縮の因果的作用が光速を超えた形で伝わります。これが量子力学のEPR相関です。
アルベルト・アインシュタインやネイサン・ローゼンたちは、「量子力学の考え方を前提にすると、EPR相関という矛盾が起こる」と言いました。アインシュタインは生涯にわたって量子力学に対して批判的で、いろいろな学会で「量子力学の考え方はおかしい」と言いました。「神はサイコロを振らない」というのがアインシュタインの信条でしたが、量子力学にしたがうと、世界の現象は本質的に確率的であるということになってしまいます。それはおかしいとアインシュタインは考えていました。つまり、「宇宙の果てから果てまで、光速を超えた形で因果関係が伝わってしまうのはおかしいではないか」と考えたのです。
しかし、量子力学では反対に「そういうこともあるんだ」と、むしろ認めてしまったわけです。つまり、非局所性という遠隔作用があることを認めたのです。これは、接近していなくても、原因と結果の関係が成立するということの一例です。
さらには時間的先行です。原因と結果で、原因の方が時間的に先行しているということに関しても、「逆向きの因果の可能性」がしばしば言われます。
たとえば、イギリスのオックスフォード大学の哲学者で、マイケル・ダメットというヒトが挙げた「酋長の踊り」という例があります。これは "Bringing about the past" 、「過去を引き起こす」という題の論文の中にあるものです。
ある部族で、成人になるためのプロセスとして、2日かけてライオンのいる草原に出かけ、2日間ライオン狩りを勇敢に遂行して、また2日かけて帰ってくるという通過儀礼をおこなうとします。若者はその通過儀礼を経たうえで、部族の中で成人したと認められます。狩りのあいだ酋長は、若者たちを勇敢に振る舞わせようとして、踊りつづけます。そして最後の2日間も踊りつづけ、若者の行動に影響をあたえようとします。
これを聞いた文明社会の人たちは、こう考えます。若者たちを勇敢に振る舞わせようとして酋長が踊りつづけることが、はたして若者たちに何か影響をおよぼすのか。酋長の踊りが事実的な影響をおよぼすということが、部族の人たちによって何らかの形で信じられています。これは合理的とはいえませんが、1日目から4日目の途中ぐらいまでは、いちおう私たちにも理解可能です。
ところが問題は、最後の2日間、5日目と6日目です。5日目と6日目は、もうライオン狩りが終わって帰ってくるときです。そのときに、若者を勇敢に振る舞わせようと酋長が躍っても、なんの効果もないのではないかと私たちは思います。しかし部族の人たちは、5日目と6日目にも効果があると思っています。「それはおかしいですよ」ということを、その部族の人たちに説き伏せることができるだろうか。これがダメットの問題でした。
結論としては、それを説得することは非常に難しいというものです。そういう意味で、時間を逆向きに、つまり原因と結果の関係において、結果のほうが先に起こっており、原因は後から起こるという考え方を、完全に不合理だとして退けることはできない可能性をダメットは示唆しました。
じつは、物理学の中ではこういうことがあるのです。
たとえば、「ファインマン=シュテュッケルベルグ解釈」といって、過去にさかのぼって進む「antiparticle」と呼ばれる反粒子の存在です。これはCPT対称性などという概念といっしょに提起されるものですが、時間をさかのぼって過去へ動く粒子です。ということは、原因と結果でいえば、原因が後から来ていることになります。
さらには、これはややSF的な想定、仮説にすぎませんが、「タキオン」という物質があります。これは過去に情報を送ることを可能にするような、光速を超えた形ですすむ物質です。そういう想定、仮説です。光速未満では走れないという想定の物質ですが、仮にこの物質の存在を前提にすると、過去に情報を送れるようになることが知られています。これも因果律をやぶっていて、現在から過去にむかって何か作用をおよぼすという物理学的な概念です。そういう意味で、逆向き因果、つまり結果のほうが先にきて、原因が後にくることは、可能性としてあり得ることになります。
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ラベル:
10ミニッツTVオピニオン,
一ノ瀬正樹
2017年3月9日木曜日
「中国語の部屋」という有名な話
話:松尾豊
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まず「中国語の部屋」という有名な話から始めてみましょう。
ある人工知能のプログラムがあったとします。プログラムには箱があって、その中に「小さな人間」が入っていると考えてください。その人に中国語で話しかけると、中国語で答えてくれます。それで「中国語の部屋」。
部屋の中の人がやっていることは、中国語の文字が入ってきたら、難しい漢字で意味がまったく分からないとしても、「この文字が出てきたらこう返せ」と書かれた分厚い辞書をめくりながら言葉をつくり、できたら箱の外に投げ返すという作業です。
中国語で問いかけると中国語で返してくれますが、中の小さな人は中国語が分かっていると言えるかどうか?
”ああ。理解しているとは言えませんよね”
「人工知能には人間と同じような思考があるか?」という質問は、これと同じなのです。中の小さな人がいくら賢い返答をしたとしても、コンピューターは中国語がまったくわかっていない。これが「中国語の部屋」の話を考えたジョン・サールという哲学者が言いたかったことです。
もう一つ、「チューリングテスト」という、知能があるかないかを試すテストがあります。今度は部屋が2つあるとしましょう。1つの部屋に人間がいて、もう一方には人間、もしくは人工知能が入っている。ここでチャットをします。チャットをする人間が、何時間たっても、もう一方の部屋にいるのが人間かコンピューターかを判断できなかったときに、チューリングテストに合格、初めて人工知能ができたと見なすわけです。
※チューリングテスト…1950年、イギリスの数学者、アラン・チューリングが考案。
”なるほど。人間を騙せるか否かでテストをするということですね。ネット上で顔が見えていなかったら騙せるかもしれません”
ネットでは
"On the Internet, nobody knows you're a dog".
「あなたが犬かどうか誰も知らない」
という有名な言葉もあります。今から30年前には、「ELIZA(イライザ)」という短い対話プログラムを人間だと思った人もいました。
※イライザ(ELIZA)…1960年代にMITのジョセフ・ワイゼンバウムによってつくられた、原始的な自動チャットプログラム。ユーザーが発した言葉をつかった返答をプログラムすることによって、人間らしさを演出した。
これと「中国語の部屋」は対立構造にあります。外から見て賢いふるまいをすれば、それは人工知能だとする立場と、そうは言っても中の小さな人は分かっていないのだから、知能とは言えないよね、という逆の立場です。行動主義か認知主義かのような話ですが、そんな議論もあります。
iPhoneに入っている音声認識プログラムの「Siri(シリ)」を使っている人は、何となく自分の言ったことに答えてくれているような気がすると思います。Siriに英語で「今夜、空いている?」と聞くと、「あなたのためなら、いつでも」と返されるわけですし。この返答は認識であり、Siriはきっと考えているのだろうと人間は想像するわけです。
感覚的にはそうですが、しかし実際は、中にいる小さな人が何かの文字を見ては辞書を引き、お返しする文字をつくっているだけです。
”つまり、じつは考えてはいないということですか?”
それはSiriの答えを「考えている」と言うのかどうかです。「考える」の定義の問題でもありますね。
知的かどうかは往々にして見るほうが思うことで、動物の動きにしても、ハチが巣の周りを探索する様子は非常に賢いように見えます。ただ、ハチは遺伝子に組み込まれている行動をとっているにすぎず、見る側の人間が賢いと思っているだけですよね。
九九にしてもそうです。「三三が九」と自然に数字が出てきますが、計算しているわけではない。一連の言葉として覚えていて、計算を代行しています。それが賢いように見えるわけです。
コンピューターの場合も、事例をたくさん覚えさせて、どの事例に近いかを予測する。
たとえば、就活生の受け答えの仕方をデータとして持っていて、その就活生が結果的に使える人材だったかどうかを示す事例がたくさんあれば、過去のデータベースでどれに近いからきっと使える、いやそうではない、と判断できるでしょう。
ある部分はトレーニングを積むことで、賢く見せることができますから。こういうときはこう動くというルールをたくさん学習して、だんだん賢くなっていくという要素も、人工知能にとっては重要なところです。
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引用:松尾豊・塩野誠「人工知能って、そんなことまでできるんですか?」
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