2017年7月24日月曜日
家長の方便[法華経]
大乗仏典〈4〉法華経より
…
たとえば、シャーリプトラよ、村か町か、城市か田舎か、田舎のある地方か王国か王都か、どこでもよいが、ここに一人の家長がいるとしよう。彼は老い衰え、長者として年を経て老齢に達してはいるが、富裕であり、財力があり、暮らしも豊かである。彼の大邸宅はまた、高く、広く、年月がたって傾いてはいたが、二百、三百、四百、あるいは五百という(多数の)生命あるものが住んでいる。その邸宅には、門はただ一つあるだけだとしよう。
草におおわれ、露台は崩れ落ち、柱の根もとも腐り、外壁も障壁も塗料も剥落しているこの邸宅が、突然、大きな火の塊りにまるまると包まれ、あちらこちらあらゆる方面で燃え上がったとしよう。この人にはまた、五人とか十人とか二十人とかという多くの子供があったとしよう。そして、この人だけが、その家から外に逃れ出たとしよう。
そのとき、シャーリプトラよ、その人は自分の邸宅が大きな火の塊りにすっかり包まれて燃えているのを見て、おそれおののいて、心が動転したとしよう。また、次のように考えたとしよう。
「私は、この大きな火の塊りに触れもせず、焼かれもしないで、速やかに安穏に、この焼けている家から門を通って逃れ出て、走り去ることができる。しかし、これらの私の息子たちは、まだ幼い子供であって、この燃えている屋敷のなかで、それぞれの玩具で遊び戯れ、喜々として楽しみにふけっている。そして、この家が燃えているとは知らず、それに気がつかず、わかりもせず、考えもせず、心が動転することもない。この大きな火の塊りに焼かれながら、また大きな苦の集まりに迫られながらも、心に苦を感じない。また、外に出ようという考えも起こさない」と。
また、シャーリプトラよ、その人(家長)には力があり、腕の強い人であって、彼はこのように考えるでもあろう。
「私には力があるし、腕の力も強い。それで、私はこれらの子供たちをすべてひとまとめにして、脇にかかえてこの家から逃げ出させたらどうであろうか」と。
しかし、彼はまた次のようにも考えるであろう。
「この屋敷は入口は一つで、扉は閉じている。また、子供たちは片時も落ち着かず、子供らしく走りまわっているが、(どこかへ)迷いこんでしまうようなことがあってはならない。彼らは、この大きな火の塊りによって不運な災禍におちいるかもしれない。だから、私は、彼らに気をつけるように言おう」と。
こう考えて、その子供たちに呼びかけた。
「お前たち、こちらへきなさい。子供たちよ、(すぐに)逃げなさい。この家は大きな火の塊りで燃えている。(お前たち)みながここで、この大きな火の塊りで焼かれたり、思いがけない災難に会ったりしてはいけないから」
ところで、しかし、それら子供たちは、このように(自分たちの)幸せを願って、この人が呼びかけたことを理解できず、心が動転するのでもなく、おそれおののいたり、恐怖におちいったりもせず、何も気にとめないで、走り出ようともしない。また、その焼けているということは、いったいどういうことか、知らないし、わかりもしない。そして、ただ、いろいろなところを走りまわり、くりかえし走り去っては、その父親のほうを眺めているだけである。なぜかというと、これが(無知な)子供のありさまというものだからである。
そこで、実に、その人(家長)はこう考えるであろう。
「この屋敷は火事になり、大きな火の塊りで燃えさかっている。私も、これらの子供たちも、ここでこの大きな火の塊りによって不運な災禍におちいってはならない。それゆえ、私は方便をうまく使って、これらの子供たちをこの家から外へ出させよう」と。
この人はまた、それら子供たちが(かねがね)何を欲しているかを知っており、その性格の傾向も見分けているであろう。そして、それら子供たち(が欲しがっているもの)には多種類の多くの玩具 -- それらは種々異なって、楽しいもので、みなが望んでおり、美しく、愛らしく、気に入るものであり、しかもなかなか得がたいもの -- があったであろう。そこで、その人は子供たちの願望を知っているので、その子供たちにこう言った。
「子供たちよ、お前たちが玩具にして遊べば、きっと楽しくて、いままで見たこともないようなすてきなもの、いろいろな色が塗られ、種類もいろいろあり、それがもらえなければきっとお前たちはあとで後悔するようなもの -- たとえば牛の車、羊の車、鹿の車(の玩具)など、お前たちが(ほしいと思って)望んでいたもの、美しく、愛らしくて、きっと気に入るもの -- それらをすべて、お前たちが遊ぶようにと、屋敷の外の門のところに私は置いておいた。さあ、お前たち、こちらへきなさい。この屋敷から外へ走って出てきなさい。そうすれば、お前たちのだれが何を求め、何をほしがろうとも、それをみなに私はあげよう。早くそれをもらうために、こちらへ走って出てきなさい」と。
すると、彼ら子供たちは、玩具で遊び、楽しむために、(かねがね)ほしいと思っていたとおりの、また心に描いていたとおりの(玩具)、望んでいた美しく、愛らしく、また気に入っている(玩具)の名前を聞いて、その燃えている家から、すばやく(とび出してきた)。大いに努力し、力を奮うという敏捷さをもって、互いに他のものにはかまわず、「だれが一番か、だれがそれよりも早いか」と言って、身体を互いにぶつけ合いながら、その燃えている家からすばやく走り出てきた。
その人は、そのとき、これらの子供たちが安穏にうまく出てきたのを見て、また(彼らに)もはや心配はいらないことを知って、町の四辻の露地に坐り、喜びとうれしさを生じ、憂悩はなくなり、障害も去って、安堵にひたることになるであろう。そのとき、かの子供たちは父のいるところへ近づき、そこへ行ってからこう言うでもあろう。
「お父上、あのいろいろな楽しい玩具、たとえば牛の車、羊の車、鹿の車などを、どうか私たちにください」と。
そこでシャーリプトラよ、かの人は、それら自分の子供たちに、風のように速い牛の車を与えるであろう。それは七宝からなり、手すりがあり、鈴のついた網が垂れていて、高く、大きく、すばらしく珍奇な宝石で飾られ、宝玉の花環が美しく輝き、華鬘(けまん)で飾られ、綿布や毛布が座に敷かれ、金巾(かなきん)や絹でおおわれ、両側には赤い枕(クッション)が置かれている。それは白く純白で、足のすこぶる速い牛がつながれており、大ぜいの人がついていて、(王者の印の)幡が立っている。彼は(このような)風の力と速さのある、同じ外見で同じ種類の牛の車を、子供の一人一人に与えるであろう。なぜならば、シャーリプトラよ、この人はこのように裕福で、大きな財産があり、また多くの蔵や倉庫をもっていて、(また)次のように考えるであろうからである。
「私は、これらの子供たちに他の(劣った)車を与えるようなことはやめよう。それはなぜかといえば、これらの子供たちは、すべて私の息子であり、すべて私にとっては愛すべきもの、意にかなったものである。しかも、私にはそのような大きな乗り物はいくらでもある。そして、これらの子供たちを、私はみな平等に考えるべきで、不平等であってはならない。また、私には多くの(宝)蔵や(宝)庫があって、すべての人々にでも、このような大きな乗り物を与えることができる。しからば自分の子供たちに(与えるの)はなおさらのことである」と。
そして、彼ら子供たちは、そのときこれらの大きな乗り物に乗って、すばらしいこと、驚嘆すべきことと感ずるであろう。シャーリプトラよ、お前はこのことをどう思うか。それらの子供たちに、以前には三つの乗り物を示し、あとになってそのすべてに大きな乗り物だけを与え、りっぱな乗り物だけを与えたということは、この人は虚言を語ったことにはならないだろうか。
シャーリプトラは申し上げた。
「世尊よ。そのようなことはありません。善逝よ、そのようなことはありません。その人は巧みな方便をもって、その子供たちを燃えている家から引き出して、生命を与えたのであすから。そういう理由から、世尊よ、とにかくその人は虚言者ではないでありましょう。なぜかというと、世尊よ、たとえその人がその子供たちに車を一つとして与えなかったとしても、それでもとにかく、世尊よ、彼は虚言者ではないのです。なぜならば、世尊よ、その人はあらかじめ『巧みな方便をもって、私はこれらの子供たちをこの大きな苦の集まりから逃れさせよう』と、このように考えたからであって、このことからしても、世尊よ、この人には虚言(の罪)はないのです。まして、息子をいとおしと思えばこそ、うまくなだめすかして、かの人は(自分には)多くの蔵や倉庫があることを考えて、同じ外見の同一の乗り物、すなわち大きな乗り物を与えたのですから、なおのこと、世尊よ、かの人には虚言(の罪)はありません」
こう言われたとき、世尊は、長老シャーリプトラに次のように語られた。
よろしい、よろしい、シャーリプトラよ。これはそのとおりである。お前の言うとおりである。シャーリプトラよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は、あらゆるおそれを除き、あらゆる困惑、惑乱、困難、苦悩、憂悩から、また暗黒の無明の闇の膜に包まれておおわれていることから、あらゆる店で完全に離脱している。如来は、(種々の)知、(十種の)力、(四種の)おそれなき自信、(十八種の)仏陀に特有な性質を具備し、神通力によって非常な力を有し、世間の父であり、偉大なる巧みな方便と最高の知との究極に到達せるものであり、大慈悲者であり、心に倦むことなく人々の幸福を願い、あわれみ深くもある。
彼(如来)は、あたかも大きな苦と憂悩(という火)の塊りによって燃え、軒も屋根も朽ちはてた家のようなこの三界のなかに、生をうけるのである。それは、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱のなかにおいて、暗黒の無明の膜に包まれおおわれている衆生たちを、愛欲と憎しみと愚かさから解脱させるためであり、最高の正しい菩提に導き入れるためにほかならない。彼は(この三界のなかに)出現して、次のようにごらんになる。
「人々は、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱によって焼かれ、煮られ、熱せられ、さいなまれている。彼らはまた、享楽のゆえに、また欲楽が原因となることによって、種々の多くの苦を経験する。すなわち、現世において(世俗的なものを)探し求め、利財を積むことにより、来世においては地獄や畜生道やヤマの世界において種々の多くの苦を味わうであろう。(たとえ、)神々や人間(のなかに生まれて)も、貧窮であったり、好しからぬものに会ったり(怨憎会苦)、いとしきものと別れたり(愛別離苦)するという苦を経験するのである。しかも、そのような苦の塊りのなかに(輪廻して)ありながら、遊び戯れ、喜々として楽しみにふけっている。恐ろしいともこわいとも思わず、恐怖におちいらず、気もつかず、考えもせず、動転もせず、(したがって)逃れ出ることを求めようともしない。そして、その燃えている家(火宅)のような三界において楽しみを求め、あちらに向かい、こちらに向かって走りまわり、かの大きな苦の塊りに打ちのめされながらも、それを苦と感じもせず、思いもしないのである」と。
そこで、シャーリプトラよ、如来は次のようなことをごらんになる。
「まことに私はこれら衆生の父であるが、実に、私はこれら衆生たちが喜々として遊んだり、楽しんだり、遊戯したりすることができるように、仏陀の知という量り知れない不思議な楽しさを、彼ら衆生たちに与えねばならない」と。
…
引用:大乗仏典〈4〉法華経より
2017年7月23日日曜日
10% human [prologue]
〜書籍『あなたの体は9割が細菌』より〜
10% Human; Alanna Collen
プロローグ
PROLOGUE
回復はしたけれど
Being Cured
2005年のある夏の夜、私は森から野営所に戻るところだった。
As I walked back through the forest that night in the summer of 2005,
20匹のコウモリをつめた布袋を首から下げ、あらゆる種類の虫がヘッドランプめがけて飛んでくる踏み分け道を歩いていると、
with twenty bats in cotton bags hanging around my neck and all manner of insect life dashing for the light of my head torch,
足首がむずむずするのを感じた。
I realised my ankles were itching.
ズボンは防虫剤でコーティングし、すそをヒルよけスパッツにたくしこんでいる。
I had my repellent-soaked trousers tucked into my leech socks,
その下には念のため、もう一枚余分にスパッツをはいている。
with another pair underneath for good measure.
森に仕掛けておいた罠からコウモリを夜中に回収する巡回作業では、闘う相手が山ほどある。湿気、滴る汗、足元のぬかるみ、虎と出くわさないかという恐怖、そして蚊。
The humidity and drenching sweat, the muddy trails, my fear of tigers, and the mosquitoes were enough to contend with as Imade my rounds, collecting bats out of traps in the darkness of the rainforest.
そんな手一杯の状況で私の肌を守ってくれるはずの繊維と化学薬品の防壁を、何かが突破したようだ。
But something had got through the barrier of fabric and chemicals protecting my skin.
何かがチクチクと肌を刺す。
Someting itchy.
22歳だった私は、のちに人生を一変させることになる3か月をマレーシアのクラウ野生生物保護地区の奥深いところで過ごしていた。
A twenty-two, I spent what turned out to be a life-changing three months living in the heart of Krau Wildlife Reserve in peninsular Malaysia.
生物学を専攻し、コウモリに魅せられるようになった私は、イギリスのコウモリ学者が現地調査の助手を探していると聞くや、すぐさま応募した。
During my biology degree, I had become fascinated by bats, and when the opportunity came up to work as a field assistant to a British bat scientist, I signed up immediately.
リーフモンキーにテナガザル、そして多種多様なコウモリに出会える貴重な機会を思えば、オオトカゲの棲む川で体を洗うのも、ハンモックで寝泊まりするのも嫌ではなかった。
Encounters with leaf monkeys, gibbons and an extraordinary diversity of bats made the challenges of sleeping in a hammock and washing in a river populated by monitor lizards seem worthwhile.
しかしこの熱帯雨林での出来事が、単なる一時的な体験に終わらずずっと続くことになろうとは、そのころは夢にも思わなかった。
But, as I was to discover, the trials of like in a tropical forest can live on far beyond the experience itself.
川のそばの空き地に設けられた野営所に戻るなり、私は重ねた衣類をはぎとって不快さの原因を調べた。
Back at base camp, in a clearing next to the river, I peeled back the layers to reveal the source of my discomfort:
ヒルではなくダニだった。
not leeches, but ticks.
50匹ほどがたかっており、皮膚に食い込んでいるのもいれば脚のほうまで這い上がっているのもいた。
Perhaps fifty or so, some embedded in my skin, others crawling up my legs.
ダニをブラシではたき落とせるだけ落とすと、私はコウモリに注意を戻し、できるかぎり手早く必要な計測と記録をした。
I brushed the loose ones off, and turned back to the bats, measuring and recording scientific data about them as quickly as I could.
作業を終えてコウモリを解放してやると、繭のようなハンモックに飛び乗って閉じこもり、ピンセットを手に残っていたダニをヘッドライトの下で最後の一匹まで取り除いた。周囲は漆黒の森で、セミの鳴き声だけが響き渡っていた。
Later, with the bats released, and the forest pitch-black and bussing with cicadas, I zipped myself into my cocoon-like hammock, and, with a pair of tweezers, under the light of my head torch, I removed every last tick.
数か月後、私はロンドンにいた。
A few months later, at home in London,
ダニがもたらした熱帯病は根を下ろしていた。
the tropical infection introduced to me by the ticks took hold.
体が思うように動かず、足の指が腫れていた。
My body seized up and my toe bone swelled.
奇妙な症状が現れては消え、そのたびにさまざまな血液検査と専門医の診察を受けた。
Weird symptoms came and went, as did various blood tests and hospital specialists.
私はまともな暮らしを送ることができなくなった。痛みと脱力感、意識障害に数週間から数か月間とらわれたかと思うと、何事もなかったように平穏な日々が続き、しばらくするとそれがまた繰り返される。
My life would be put on hold for weeks or months at a time as bouts of pain, fatigue and confusion gripped me without warning, then released me again as if nothing had happened.
数年後にやっと正確な診断がついたときには、すっかり定着してしまった感染症を治すのに、家畜の群れをまるごと治療できるほど大量の抗生物質を長期にわたって強力に投与された。
By the time I was diagnosed many years later, the infection was entrenched, and I was given a course of antibiotics long and intense enough to cure a herd of cattle.
そしてなんとか、本来の自分を取り戻せそうな気がするまでに立ち直った。
At last, I was going to be myself again.
しかし、この話はここで終わらなかった。
But, unexpectedly, the story did not end there.
私はダニ媒介型の感染症を治すために全身を薬漬けにした。
I was cured, but not just of the tick-borne infection. Instead, it seemed I had been cured as if I were a piece of meat.
抗生物質は絶大な効力を発揮してくれた。
The antibiotics had worked their magic,
だが私は、こんどは別の不具合に苦しめられるようになった。以前と同じく症状は多種多様だ。
but I began to suffer new symptoms, as varied as before.
皮膚に赤い発疹ができ、胃腸が弱くなり、たまたま出合った感染性の病原体を何であれ拾うようになった。
My skin was raw, my digestive system was choosy, and I was prone to picking up every infection going.
一つの疑いが頭をもたげた。あの一連の抗生物質は、私を苦しめていた細菌を全滅させただけでなく、もともと体の中にいた細菌まで絶滅させてしまったのではないだろうか。
I had a suspicion that the antibiotics I had taken had not only eradicated the bacteria that plagued me, but also those that belonged in me.
私は自分の体が微生物の棲めない荒れ地になってしまったように感じ、かつて私の体を棲み処としていた100兆個の友好的な微生物がどれだけ重要な存在であったかを、このときはじめて意識した。
I felt like I had become inhospitable to microbes, and I learnt just how much I needed the 100 trillion friendly little creatures who had, until recently, called my body their home.
あなたの体のうち、ヒトの部分は10%しかない。
You are just 10 per cent human.
あなたが「自分の体」と呼んでいる容器を構成している細胞一個につき、そこに乗っかっているヒッチハイカーの細胞は9個ある。
For every one of the cells that make up the vessel that you call your body, there are nine impostor cells hitching a ride.
あなたという存在には、血と肉と筋肉と骨、脳と皮膚だけでなく、細菌と菌類が含まれている。
You are not just flesh and blood, muscle and bone, brain and skin, but also bacteria and fungi.
あなたの体はあなたのものである以上に、微生物のものでもあるのだ。
You are more 'them' than you are 'you'.
微生物は腸管内だけで100兆個存在し、海のサンゴ礁のように生態系をつくっている。
Your gut alone hosts 100 trillion of them, like a coral reef growing on the rugged seabed that is your intestine.
およそ4,000種の微生物がそれぞれの小さなニッチを開拓し、長さ1.5mの大腸表面を覆う襞(ひだ)に隠れるようにして暮らしている。
Around 4,000 different species carve out their own little niches, nestled among folds that give your 1.5-metres-long colon the surface area of a double bed.
あなたは生まれた日から死ぬ日まで、アフリカゾウ5頭分の重量に匹敵する微生物の「宿主」となる。
Over your lifetime, you will play host to bugs the equivalent weight of five African elephants.
微生物はあなたの皮膚の上にもいる。
Your skin is crawling with them.
あなたの指先には、イギリスの人口を上回る数の微生物が付着している。
There are more on your fingertip than there are people in Britain.
いや、待てよ。
Disgusting, isn't it?
私たちは衛生観念を発達させた進化の頂点に立つ生き物だ。
We are surely too sophisticated, too hygienic, too evolved to be colonised in this way.
樹上生活をやめたとき邪魔になった体毛や尾をなくしたように、寄生する微生物も減らしてきたのではなかったか。
Shouldn't we have shunned microbes, like we did fur and tails, when we left the forests?
より清潔で健康で自立した生活ができるよう、現代医学は微生物を追い払うさまざまな方法を用意してきたのではなかったか。
Doesn't modern medicine have the tools to help us evict them so that we can live cleaner, more healthy, independent lives?
私たちは人体に微生物がたくさん棲んでいることを知ったとき、とくに害がないならいいではないかと黙認した。
Since the body's microbial habitat was first discovered we have tolerated it, as it seemed to do us no harm.
しかし、サンゴ礁や熱帯雨林を保護しなければと考えるのと同じように、人体に棲む微生物も保護しようとは思わなかった。ましてや、大切に世話する必要性など気づきもしなかった。
But unlike the coral reefs, or the rainforests, we have not thought to protect it, let alone to cherish it.
私は進化生物学者として、ある生物の体の構造やふるまいを見るとき、その利点や意味を考えるよう訓練を受けている。
As an evolutionary biologist, I am trained to look for the advantage, the meaning, in the anatomy and behaviour of an organism.
通常、その生物に有害な特性や相互作用は不利な戦いを強いられるか、進化の過程で失われるかするものだ。
Usually, characteristics and interactions that are truly detrimental are either fought against, or lost in evolutionary time.
私は考えをめぐらせた。
That set me thinking:
100兆個の微生物は、もし何の手土産もなしに私たちの家のパーティーに来ていたなら、いずれ招かれなくなっていたはずだ。
our 100 trillion microbes could not call us home if they brought nothing to the party.
敵を撃退して感染症を治すのが仕事のはずのヒト免疫系は、なぜこれだけの微生物の侵入を許しているのだろうか。
Our immune systems fight off germs and cure us of infections, so why would they tolerate being invaded in this way?
私は、この謎についてもっと知りたくなった。なにしろこの私は、数か月に及ぶ化学兵器戦争で、悪い微生物だけでなく有益な微生物まで殺してしまったのだ。
Having subjected my own invaders, both good and bad, to months of chemical warfare, I wanted to know more about the collateral damage I had caused.
私がこの問題を探りはじめたのは時期的によかった。
As it turned out, I was asking this question at exactly the right time.
そのころやっと、私たちの好奇心に技術が追いついたからだ。共生微生物についての科学研究はそれ以前からあったが、遅々として進んでいなかった。
After decades of slowpaced scientific attempts at learning more about the body's microbes by culturing them on Petri dishes, technology had finally caught up with our curiosity.
人体内に棲む微生物はほとんどは腸内の無酸素環境に適応しており、酸素に触れると死んでしまう。
Most of the microbes living inside us die when they are exposed to oxygen, because they are adapted to an oxygen-free existence deep in our guts.
人体外で育てる(ペトリ皿で培養する)のが困難なのはもちろんのこと、実験するのはさらに困難だった。
Growing them outside the body is difficult, and experimenting with them is even harder.
だが、ヒトの遺伝子をすべて解読するという画期的なヒトゲノム・プロジェクトのおかげで、DNA解析(配列決定)が格段に速く安くできるようになった。
But, in the wake of the seminal Human Genome Project, in which every human gene was decoded, scientists are now capable of sequencing masive quantities of DNA extremely quickly and cheaply.
糞便にまじって体外に出てきた「死んだ」微生物を特定することさえ可能になった。微生物そのものは死んでいても、DNAが無傷で残っているからだ。
Even our dead microbes, expelled from the body in the stool, could now be identified because their DNA remained intact.
これまでだれもが見落としていた共生微生物について、科学はいま、新しい素性を明らかにしようとしている。
We had thought our microbes didn't matter, but science is beginning to revel a different story.
ヒトの暮らしはヒッチハイカー微生物の暮らしと噛み合っていて、そこでは微生物が人体を動かしている。そうした微生物なしにヒトは健康ではいられない。
A story in which our lives are intertwined with those of our hitchhikers, where our microbes run our bodies, and becoming a healthy human is impossible without them.
私の健康被害は氷山の一角だった。
My own health troubles were the tip of the iceberg.
共生微生物のアンバランスが胃腸疾患、アレルギー、自己免疫疾患、さらには肥満を引き起こしているという科学的証拠が続々と出てきていることを私は知った。
I learnt of the emerging scientific evidence that disruptions to the body's microbes were behind gastrointestinal disorders, allergies, autoimmune diseases, and even obesity.
体の病気だけではない。不安症、うつ病、強迫性障害、自閉症といった心の病気にも微生物が影響している。
And it wasn't just physical health that could be affected, but mental health as well, from anxiety and depression to obsessive-compulsive disorder (OCD) and autism.
私たちが人生の一部として甘受している病気の多くはどうやら、遺伝子の欠陥や体力低下のせいではなく、ヒト細胞の延長にある微生物を軽んじたせいで出現した、新しい病態のようなのだ。
Many of the illnesses we accept as part of life were not, it seemed, down to flaws in our genes, or our bodies letting us down, but were instead newly emerging conditions brought on by our failure to cherish the long-held extension to our own human cells: our microbes.
私が知りたかったのは、投与された抗生物質が自分の微生物集団に与えたダメージについてだけではない。微生物のどんな作用が私を体調不良に陥れたのか、また熱帯雨林でダニに噛まれる前まで保たれていた微生物のバランスをとり戻すにはどうしたらいいのかについても調べたいと思った。
Through my research, I hoped not only to discover what damage the antibiotics I had taken had done to my microbial colony, but how it had made me unwell, and what I could do to restore the balance of microbes I had harboured before the night of the tick bites, eight years earlier.
その一環として、DNA解析をするプログラムに参加する同意書にサインした。
To learn more, I signed up to take the ultimate step in self-discovery: DNA sequencing.
ただし、解析するのは私の遺伝子ではなく、私の腸内に築かれている微生物集団の遺伝子 -マイクロバイオーム- である。
But rather than sequence my own genes, I would have the genes of my personal colony of microbes - my microbiome - sequenced.
私は改善への道のりの出発点として、まずは自分の腸内にいる菌種や菌株を知ろうと思った。
By knowing which species and strains of bacteria I contained, I would have a starting point for self-improvement.
そしてそれを、本来なら私の腸内にいるべき微生物についての最新知識と突きあわせれば、与えてしまったダメージの大きさが推測でき、修復を試みることもできるだろう。
Using the latest understanding of what should be living in me, I might be able to judge just how much damage I had done, and attempt to make amends.
私が参加したのは市民科学プログラムの一つ、アメリカン・ガット・プロジェクト(AGP)だ。アメリカのコロラド州ボールダーにあるコロラド大学のロブ・ナイト研究室が主体となっているこの活動には、世界中のだれもが参加できる。
I used a citizen-science programme, the American Gut Project, based at the laboratory of Professor Rob Knight at the University of Colorado, Boulder.
参加者が自分の糞便サンプルを提供すると、AGPはその中に含まれる微生物のDNAを解析する。AGPはヒトの体内にいる微生物のサンプルをできるだけ多く集め、微生物の種類と、それが私たちの健康に与える影響を調べようとしている。
Available to anyone around the world for a donation, the AGP sequences samples of microbes from the human body to learn more about the species we harbour and their impact on our health.
私は糞便サンプルを送り、お返しに私の腸内生態系の「スナップ写真」を受けとった。
By sending a stool sample containing the microbes from my own gut, I received a snapshot of the ecosystem that called my body home.
うれしいことに、何年も抗生物質の治療を受けていたにもかかわらず、私の腸内にはちゃんと細菌がいた。
After years of antibiotics, I was relieved to find I had any bacteria living in me at all.
私の腸内細菌の様相は、少なくとも他のAGP参加者のそれと比べて大きな違いはなかった。
It was pleasing to see that the groups I harboured were at least broadly similar to those in other American Gut Project participants,
私がひそかに心配していた「有毒物質で汚染された腸内で、奇怪な変異菌種がほそぼそと命をつないでいるような」荒廃した光景は広がっていなかった。
and not the microbial equivalent of mutant creatures eking out a living on a toxic wasteland.
だが、ある程度予想していたことだが、私の腸内細菌は多様性に欠けているようだった。
But, perhaps predictably, the diversity of my bacteria seemed to have taken a beating.
生物の分類で「界」のつぎに大きな分類群である「門」で比べたとき、私の腸内細菌の多様性は相対的に低く、二大勢力に属する細菌の占める割合が他の参加者よりも多かった。
At the highest level of the taxonomic hierarchy, the diversity was relatively low, looking a bit bipartisan compared with the guts of other people.
二大勢力とはヒトの腸内で多数派の二つの「門」に属する細菌集団で、私の場合は97%以上の細菌がこのどちらかの分類群に属していた。平均的な参加者の場合は90%程度にとどまる。
Over 97 per cent of my bacteria belonged to the two major bacterial groups, compared with around 90 per cent making up these two groups in the average participant.
これは私が使っていた抗生物質が少数派の菌種を絶滅させ、それに耐えた菌種だけが残った結果なのだろう。
Perhaps the antibiotics I had taken had killed off some of the less abundant species, leaving me with only the hardy survivors.
この多様性の喪失が、ここ数年の私の体調不良に関係があるかもしれないと私は思った。
I was intrigued to know whether this loss might be related to any of my more recent health troubles.
しかし、高木と低木、あるいは鳥類と哺乳類というような大きな分類群の割合だけで熱帯雨林と温帯の森を比較しても、それぞれの生態系がどう機能しているかはわからない。同じように、私の腸内細菌を大きな分類群の割合で比べたぐらいで腸内の微生物環境が健全かどうかなどわかるはずがない。
But, just as comparing a tropical rainforest and an oak woodland by looking at the proportion of trees to shrubs, or birds to mammals, reveals little about how both ecosystems function, comparing my bacteria at such a broad scale may not tell me all that much about the health of my inner community.
生物の分類群では「門」の下に「属」や「種」がある。
At the other end of the taxonomic hierarchy were the genera and species that I contained.
私の治療中にずっと耐えていたであろう細菌や、治療終了後にどこかから戻ってきた細菌の種類が詳しく特定できれば、私の現在の健康状態が明らかになるのだろうか?
What could the identities of the bacteria that had either clung on throughout my treatment, or returned since it ended, reveal about my current state of health?
それよりもっと切実な問題として、抗生物質による無差別攻撃で消滅した細菌種の「不在」は、いまの私の体調にどう関係しているのだろう?
Or perhaps more pertinently, what did the absence of species that might have fallen victim to the chemical warfare I had unleashed on them, mean for me now?
私は、自分自身とその中にいる微生物についての探求に乗り出したとき、得られた知識を実践に活用しようと決めていた。
As I embarked on learning more about us - myself and my microbes - I resolved to put what I learnt into practice.
有益な微生物をとり戻したかったし、ヒト細胞と調和する微生物バランスを築くためには生活習慣を変える必要があることも理解していた。
I wanted to get back on their good side, and I knew I needed to make changes to my life to restore a colony that would work in harmony with my human cells.
無差別攻撃で微生物環境を壊してしまったことが私の近年の体調不良の原因なら、それを元に戻すことでアレルギーや皮膚のトラブル、年がら年中の感染症から抜け出すことができるかもしれない。
If my most recent symptoms were stemming from the collateral damage I had inadvertently inflicted upon my microbiota, perhaps I could reverse it and rid myself of the allergies, the skin problems and the near-constant infections?
これは自分のためだけではなく、これから産み育てたいと思っている子どものためでもあった。
My concern wasn't just for myself, but for the children I hoped to have in the coming years.
生まれてくる子どもに遺伝子だけでなく微生物も手渡すことになるのなら、私は手渡すに値する微生物を保有していると、胸を張って言えるようになりたかった。
As I would pass on not only my genes, but also my microbes, I wanted to be sure I had something worth giving.
私は微生物を最優先に考え、微生物たちのニーズに合うよう食生活を変えることにした。
I resolved to put my microbes first, altering my diet to better suit their needs.
そしてそのあとで、もう一度サンプルを送ってDNA解析をしてもらおうと計画した。食生活を変える努力によって微生物集団の多様性とバランスに何らかの効果が現れることを私は期待していた。
I planned to have a second sample sequenced after my lifestyle changes had had a chance to take effect, in the hope that my efforts might be evident from the change in the diversity and balance of the species I play host to.
何よりも、微生物に対する私の投資の見返りとして、より健康で幸せになるための扉を開くカギを手に入れられることを期待していた。
Most of all, I hoped that my investment in them would pay dividends, by unlocking the door to better health and happiness.
…
引用:
あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた
10% Human: How Your Body's Microbes Hold the Key to Health and Happiness
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