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2018年5月16日水曜日

「16年間で2歳しか老化しなかった人」の話


From:
レイ・カーツワイル
Ray Kurzweil
『シンギュラリティは近い』


デザイナー・ベビーブーマー


病気の進行や老化を遅らせるための情報はすでに十分でそろっているので、わたしを含むベビーブーマーは、バイオテクノロジー革命が頂点を極めるまで、この健康をいじできるだろう。そしてバイオテクノロジー革命そのものが、ナノテクノロジー革命への架け橋となる。

わたしは、長寿研究の最先端にいる医学博士、テリー・グロスマンとの共著『素晴らしい未来への航海――永遠の命を手に入れる(Fantastic Voyage: Live Long Enough to Live Forever)』で、画期的な長寿へと導く3つの架け橋(現有の知識、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー)について説いた。

その本に、こう記している。

「同世代の人の中には、老化を人生のひとつの過程として潔く受け入れようとする人もいるが、わたしの考えは違う。老化は『自然なこと』かもしれないが、頭がさびついたり、感覚が鈍くなったり、体が硬くなったり、性欲が衰えたり、なんであれ人間の能力が失われていくのを肯定的にとらえることなど、私にはできない。わたしから見れば、何歳になっていても病気と死は不幸な出来事であり、克服すべきものなのだ」






その本で「第一の架け橋」とみなした「現有の知識」には、知識を最大限に活用し、老化を大幅に遅らせ、心臓疾患や癌、Ⅱ型(インシュリン非依存型)糖尿病、脳卒中といった深刻な病を治すことも含まれる。

われわれは、事実上、自分の生化学的組成をプログラムし直せるようになった。つまり、現有の知識を積極的に活用すれば、大多数の病気を支配する遺伝的運命を克服できるところまで来ているのだ。「遺伝でほとんど決まっている」というのは、健康と老化に対してこれまでと変わらず、受け身でいる人の逃げ口上である。

わたし自身の話が教訓になるだろう。

20年以上も前に、わたしはⅡ型糖尿病と診断されたが、従来の治療では悪化する一方だったので、発明家としての観点から、この健康を脅かす難問に取り組んだ。専門文献を読み漁り、独自のプログラムを開発し、ついに糖尿病の治癒に成功したのだ。

1993年に、この経験をもとにして健康に関する本(『健康的な生活を送るための10%の解決策(The 10% Solution for a Healthy Life)』)を書いた。今もその症状や合併症はまったく出ていない。





40歳のとき、わたしの生物学的年齢は38歳前後だった。

現在56歳だが、グロスマンの長寿クリニックで生物学的年齢を総合的に(さまざまな感覚の鋭敏さ、肺活量、反応時間、記憶力、その他のテストによって)測定したところ、40歳という結果がでた。

生物学的年齢の測定方法についてはいろいろは意見があるが、わたしの点数は40歳の平均値と一致している。つまり、この一連のテストによると、過去16年間で、それほど老いていないことになる。それはいくつも受けた血液検査の結果とも一致しているし、実感でもある。

こうした結果は偶然の産物ではない。わたしは自らの生化学的組成を果敢に再プログラムしてきたのだ。毎日サプリメントを250粒摂取し、週6回、静脈内投与(基本的には栄養補給剤を直接血流に注入し、胃腸管を迂回させる)を受けている。その結果、体内の代謝反応はそうしなかった場合とは格段に違ってきた。

…

ケンブリッジ大学遺伝学科の科学者、オーブリー・デ・グレイは生物の基礎となっている情報プロセスを変化させて老化を阻止することを、深い洞察力をもって熱心に訴えている。

デ・グレイは家のメンテナンスをたとえに使っている。

家はいつまで使えるだろう? それは、あなたの手入れ次第だ。なにもしなければ、じきに屋根から雨漏りしはじめ、家は風雨に侵され、やがて崩壊する。しかし先手をうって構造を手入れし、壊れたところは全て直し、危険に対処し、新しい部材や技術をもちいて修繕やリフォームをしていれば、基本的に家の寿命に限界はなくなる。

われわれの身体や脳も同じことだ。

唯一の違いは、家を手入れする方法は熟知していても、生命の生物学的原則は、まだ完全にわかっていないところにある。しかし、生命の生化学的なプロセスと反応経路への理解が急速に深まるにつれて、その知識もかなりの速さで増えている。

そして老化とは、否応なく前進させられる一本の道ではなく、関連するプロセスのまとまりと見なされるようになってきた。

…



From:
レイ・カーツワイル
Ray Kurzweil
『シンギュラリティは近い』

認知症は『アロマ』で予防できますか?


From:
週刊東洋経済 2016年10/8号



浦上克哉
『認知症予防のQ&A』






認知症予防に、アロマは効果があるのですか?


認知症では、物忘れがはじまるよりも先に、匂いがわからなくなる症状がよくみられる。

アルツハイマー型認知症の原因物質の一つに、アミロイドβタンパクが脳にたまると、まず嗅神経がダメージをうける。そのダメージが、隣接している「海馬」(脳のなかで記憶をつかさどる部位)にも広がり、記憶障害が起こると考えられている。

嗅神経には「適度な刺激を与えると再生する」という、とてつもない能力がある。だから嗅覚をはたらかせるほど脳が活性化する。アロマセラピーが有効なのはこのためだ。





私たちの研究では、介護老人保健施設で軽度から中等度のアルツハイマー型認知症の人をふくむ77人にアロマをもちいた調査を実施し、多くの人に認知機能の改善効果がみられた。

高齢になると、メラトニンというホルモンの分泌が減り、眠りが浅くなる。そして本来は睡眠中に分解されるアミロイドβタンパクが溜まりやすくなる。これを防ぐには、昼間は活動的に過ごし、夜はゆっくり休んで、生活のリズムを整えることが大事だ。

私たちの研究グループは、アロマオイルの使い分けで生活にメリハリをつけ、いい睡眠につなげる方法を提唱している。



昼間用のオイルは、集中力や記憶力を向上させ、交感神経を刺激するブレンドにしている。ローズマリー・カンファーとレモンの組み合わせがベスト。日中はアロマペンダントやシート(パッチ)をもちいて連続使用する。

夜間は、副交感神経を刺激し、リラックスしてぐっすり眠れるよう、真正ラベンダーとスイートオレンジの組み合わせがよい。就寝の一時間もど前から、芳香器をもちいて寝室全体に香りをひろげる。

本来、メラトニンの分泌をうながすには、昼間に日光をあびるのが理想的。しかし外出がままならない高齢者もいるだろうから、手軽に利用できる点でアロマは有用なツールである。





何歳ごろから予防を考えるべきでしょうか?


認知症の発症は、大部分が65歳をすぎてから。ところが認知症の6~7割をしめるアルツハイマー型において、アミロイドβタンパクが溜まりはじめるのは、発症の20~30年前だとわかってきた。

逆算すると、40~50代の段階から積極的に予防に取り組めば、認知症になる人をもっと減らせるようになり、発症の時期をさらに遅らせることができると私は考えている。

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From:
週刊東洋経済 2016年10/8号


2018年4月30日月曜日

思考によって脳はどう変化するのか?【脳の記憶術】


話:レイ・カーツワイル


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脳スキャンが、樹状突起スパインの成長や、新シナプスの形成を検知できるほどの高解像度を達成したことから、われわれの脳が、文字どおり我々の思考を後追いすべく、成長し、適応していくさまを目にすることができる。

これにより、デカルトの格言「われ思う、ゆえにわれあり」の意味に新たなニュアンスが加わった。

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アラバマ大学のエドワード・タウブは、手の指からの触覚入力の評価をつかさどる皮質の領域を研究した。

楽器の演奏経験のない人と、弦楽器の演奏家とを比較すると、右手の指の操作をつかさどる脳の領域に差異は見られなかったが、左手の指の領域については大きな差が見られた。触感の分析につかわれる脳組織の量に比例した大きさで両手の絵を描いたなら、音楽家の左手の指(弦を押さえるほう)は馬鹿でかくなる。

弦楽器の練習を子どものころから始めた人のほうが違いは大きかったが、「40歳でバイオリンをはじめたとしても、脳の再組織化はおこる」とタウブは述べている。

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「人間は、受け取る入力をもとにして、脳を作りあげていくのです」と、ポール・タラル(ラトガーズ大学)は言う。

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脳が自身を配線し直すきっかけを与えるには、思考を身体の動作で表現する必要さえない。

ハーヴァード大学のアルヴァロ・パスクァル-レオネ博士は、ボランティアの人々に簡単なピアノの練習をしてもらい、練習の前と後の脳をスキャンした。ボランティアたちの脳の運動皮質は、練習の影響を直接うけて変化した。

博士はその後、2番めのグループに、ピアノの練習をしていると考えるだけで、身体の筋肉はどこも実際には動かさないよう指示した。これでも、運動皮質のネットワークには、同じくらい顕著な変化があらわれた。

…

マイケル・A・コリコスは言う。

ニューロンの長期にわたる変化は、1時間の学習コースのなかでニューロンが4回刺激されて初めて起こる。シナプスが実際に枝分かれし、新しいシナプスが形成され、永続的な変化がおこり、おそらくは、生涯それが続くことになる。

人間の記憶になぞらえるとこうだ。

なにかを1度、目にしたり聞いたりすると、そのことは頭の中に数分は残るだろう。重要なことでなければ、だんだんぼやけていき、10分後には忘れている。しかし、もう一度それを見たり聞いたりして、1時間の間にそれが何度も起こったら、もっと長い期間にわたってそのことを覚えていることになる。何度も繰り返された事柄は、生涯にわたって忘れないこともある。

ひとつの樹状突起に2つの結合が新たに作られたら、その結合はとても安定していて、失われてしまう恐れはまったくない。こういうものが、一生涯にわたって続くと期待できる種類の変化だ。

…




From:
ポスト・ヒューマン誕生 
コンピュータが人類の知性を超えるとき
レイ・カーツワイル (著)

2018年3月20日火曜日

賢くなる道があるというに…[大統領ガーフィールドの死]


1881年、時のアメリカ大統領、ガーフィールド(James Garfield)が狙撃された。

凶弾は背中に命中、そのおよそ2ヶ月後、ガーフィールド大統領は死亡した。




狙撃犯、ギトー(Charles Guiteau)は裁判の席上、大統領殺害を否認した。

ギトーはこう主張した。

「ガーフィールド大統領は『医療過誤』のせいで死亡した」

と。




歴史研究者のオシンスキー(David Oshinsky)は、著書『ベルビュー病院:米国の最も由緒ある病院における医療と混乱の3世紀』で、こう述べている。

「もし医師たちが苦痛軽減処置のみにとどめていたのなら、ガーフィールド大統領はほぼ確実に生き延びていただろう。しかし医師たちは逆に、洗っていない指で弾丸を不器用に探し回り、不潔な探針を開放創に差し込んだ」





19世紀後半のアメリカでは、いまだ『細菌』の存在が疑問視されていた。

ベルビュー病院のベテラン医師であったルーミス(Alfred Loomis)は、ふざけ半分にこう語っている。

「空気中に細菌がいるそうだが、私には見えないね」

狙撃されたガーフィールド大統領の医療処置にあたった外科医ハミルトン(Frank Hamilton)は、「手や器具を洗浄しようとはまるで考えなかった」。

というのも、手洗いと器具洗浄というのは当時最新の考え方であり、守旧派の60代後半だったハミルトン医師の容認するものではなかったのである。



人間が細菌の存在を信じようと信じまいと、細菌にはお構いなしだ。

ガーフィールド大統領は狙撃から死亡までの2ヶ月間で、体重が100ポンド(45kg)近く落ちた。死後解剖の結果、彼は感染症に侵されており、遺体の大部分は膿だったという。



はたして、狙撃犯ギトーが裁判で主張した言葉、「ガーフィールド大統領は、医療過誤のせいで死亡した」は正しかったのだろうか?

いまとなっては、すっかり後の祭りである。

ギトーはすでに絞首刑に処されてしまったのだから。



S. マースキーは、こう締める。

「人間はいつも、ある大きな問題に直面しがちである。つまり、『賢くなる道があるというのに、あくまでも愚かでありつづけようとする』という問題に、だ」



(了)



出典:日経サイエンス2017年4月号
S. マースキー「見る目を持とうよ」

2017年7月23日日曜日

10% human [prologue]





〜書籍『あなたの体は9割が細菌』より〜
10% Human; Alanna Collen


プロローグ
PROLOGUE
回復はしたけれど
Being Cured


2005年のある夏の夜、私は森から野営所に戻るところだった。
As I walked back through the forest that night in the summer of 2005,

20匹のコウモリをつめた布袋を首から下げ、あらゆる種類の虫がヘッドランプめがけて飛んでくる踏み分け道を歩いていると、
with twenty bats in cotton bags hanging around my neck and all manner of insect life dashing for the light of my head torch,

足首がむずむずするのを感じた。
I realised my ankles were itching.

ズボンは防虫剤でコーティングし、すそをヒルよけスパッツにたくしこんでいる。
I had my repellent-soaked trousers tucked into my leech socks,

その下には念のため、もう一枚余分にスパッツをはいている。
with another pair underneath for good measure.

森に仕掛けておいた罠からコウモリを夜中に回収する巡回作業では、闘う相手が山ほどある。湿気、滴る汗、足元のぬかるみ、虎と出くわさないかという恐怖、そして蚊。
The humidity and drenching sweat, the muddy trails, my fear of tigers, and the mosquitoes were enough to contend with as Imade my rounds, collecting bats out of traps in the darkness of the rainforest.

そんな手一杯の状況で私の肌を守ってくれるはずの繊維と化学薬品の防壁を、何かが突破したようだ。
But something had got through the barrier of fabric and chemicals protecting my skin.

何かがチクチクと肌を刺す。
Someting itchy.



22歳だった私は、のちに人生を一変させることになる3か月をマレーシアのクラウ野生生物保護地区の奥深いところで過ごしていた。
A twenty-two, I spent what turned out to be a life-changing three months living in the heart of Krau Wildlife Reserve in peninsular Malaysia.

生物学を専攻し、コウモリに魅せられるようになった私は、イギリスのコウモリ学者が現地調査の助手を探していると聞くや、すぐさま応募した。
During my biology degree, I had become fascinated by bats, and when the opportunity came up to work as a field assistant to a British bat scientist, I signed up immediately.

リーフモンキーにテナガザル、そして多種多様なコウモリに出会える貴重な機会を思えば、オオトカゲの棲む川で体を洗うのも、ハンモックで寝泊まりするのも嫌ではなかった。
Encounters with leaf monkeys, gibbons and an extraordinary diversity of bats made the challenges of sleeping in a hammock and washing in a river populated by monitor lizards seem worthwhile.

しかしこの熱帯雨林での出来事が、単なる一時的な体験に終わらずずっと続くことになろうとは、そのころは夢にも思わなかった。
But, as I was to discover, the trials of like in a tropical forest can live on far beyond the experience itself.



川のそばの空き地に設けられた野営所に戻るなり、私は重ねた衣類をはぎとって不快さの原因を調べた。
Back at base camp, in a clearing next to the river, I peeled back the layers to reveal the source of my discomfort:

ヒルではなくダニだった。
not leeches, but ticks.

50匹ほどがたかっており、皮膚に食い込んでいるのもいれば脚のほうまで這い上がっているのもいた。
Perhaps fifty or so, some embedded in my skin, others crawling up my legs.

ダニをブラシではたき落とせるだけ落とすと、私はコウモリに注意を戻し、できるかぎり手早く必要な計測と記録をした。
I brushed the loose ones off, and turned back to the bats, measuring and recording scientific data about them as quickly as I could.

作業を終えてコウモリを解放してやると、繭のようなハンモックに飛び乗って閉じこもり、ピンセットを手に残っていたダニをヘッドライトの下で最後の一匹まで取り除いた。周囲は漆黒の森で、セミの鳴き声だけが響き渡っていた。
Later, with the bats released, and the forest pitch-black and bussing with cicadas, I zipped myself into my cocoon-like hammock, and, with a pair of tweezers, under the light of my head torch, I removed every last tick.



数か月後、私はロンドンにいた。
A few months later, at home in London,

ダニがもたらした熱帯病は根を下ろしていた。
the tropical infection introduced to me by the ticks took hold.

体が思うように動かず、足の指が腫れていた。
My body seized up and my toe bone swelled.

奇妙な症状が現れては消え、そのたびにさまざまな血液検査と専門医の診察を受けた。
Weird symptoms came and went, as did various blood tests and hospital specialists.

私はまともな暮らしを送ることができなくなった。痛みと脱力感、意識障害に数週間から数か月間とらわれたかと思うと、何事もなかったように平穏な日々が続き、しばらくするとそれがまた繰り返される。
My life would be put on hold for weeks or months at a time as bouts of pain, fatigue and confusion gripped me without warning, then released me again as if nothing had happened.

数年後にやっと正確な診断がついたときには、すっかり定着してしまった感染症を治すのに、家畜の群れをまるごと治療できるほど大量の抗生物質を長期にわたって強力に投与された。
By the time I was diagnosed many years later, the infection was entrenched, and I was given a course of antibiotics long and intense enough to cure a herd of cattle.

そしてなんとか、本来の自分を取り戻せそうな気がするまでに立ち直った。
At last, I was going to be myself again.



しかし、この話はここで終わらなかった。
But, unexpectedly, the story did not end there.

私はダニ媒介型の感染症を治すために全身を薬漬けにした。
I was cured, but not just of the tick-borne infection. Instead, it seemed I had been cured as if I were a piece of meat.

抗生物質は絶大な効力を発揮してくれた。
The antibiotics had worked their magic,

だが私は、こんどは別の不具合に苦しめられるようになった。以前と同じく症状は多種多様だ。
but I began to suffer new symptoms, as varied as before.

皮膚に赤い発疹ができ、胃腸が弱くなり、たまたま出合った感染性の病原体を何であれ拾うようになった。
My skin was raw, my digestive system was choosy, and I was prone to picking up every infection going.

一つの疑いが頭をもたげた。あの一連の抗生物質は、私を苦しめていた細菌を全滅させただけでなく、もともと体の中にいた細菌まで絶滅させてしまったのではないだろうか。
I had a suspicion that the antibiotics I had taken had not only eradicated the bacteria that plagued me, but also those that belonged in me.

私は自分の体が微生物の棲めない荒れ地になってしまったように感じ、かつて私の体を棲み処としていた100兆個の友好的な微生物がどれだけ重要な存在であったかを、このときはじめて意識した。
I felt like I had become inhospitable to microbes, and I learnt just how much I needed the 100 trillion friendly little creatures who had, until recently, called my body their home.





あなたの体のうち、ヒトの部分は10%しかない。
You are just 10 per cent human.

あなたが「自分の体」と呼んでいる容器を構成している細胞一個につき、そこに乗っかっているヒッチハイカーの細胞は9個ある。
For every one of the cells that make up the vessel that you call your body, there are nine impostor cells hitching a ride.

あなたという存在には、血と肉と筋肉と骨、脳と皮膚だけでなく、細菌と菌類が含まれている。
You are not just flesh and blood, muscle and bone, brain and skin, but also bacteria and fungi.

あなたの体はあなたのものである以上に、微生物のものでもあるのだ。
You are more 'them' than you are 'you'.

微生物は腸管内だけで100兆個存在し、海のサンゴ礁のように生態系をつくっている。
Your gut alone hosts 100 trillion of them, like a coral reef growing on the rugged seabed that is your intestine.

およそ4,000種の微生物がそれぞれの小さなニッチを開拓し、長さ1.5mの大腸表面を覆う襞(ひだ)に隠れるようにして暮らしている。
Around 4,000 different species carve out their own little niches, nestled among folds that give your 1.5-metres-long colon the surface area of a double bed.

あなたは生まれた日から死ぬ日まで、アフリカゾウ5頭分の重量に匹敵する微生物の「宿主」となる。
Over your lifetime, you will play host to bugs the equivalent weight of five African elephants.

微生物はあなたの皮膚の上にもいる。
Your skin is crawling with them.

あなたの指先には、イギリスの人口を上回る数の微生物が付着している。
There are more on your fingertip than there are people in Britain.



いや、待てよ。
Disgusting, isn't it?

私たちは衛生観念を発達させた進化の頂点に立つ生き物だ。
We are surely too sophisticated, too hygienic, too evolved to be colonised in this way.

樹上生活をやめたとき邪魔になった体毛や尾をなくしたように、寄生する微生物も減らしてきたのではなかったか。
Shouldn't we have shunned microbes, like we did fur and tails, when we left the forests?

より清潔で健康で自立した生活ができるよう、現代医学は微生物を追い払うさまざまな方法を用意してきたのではなかったか。
Doesn't modern medicine have the tools to help us evict them so that we can live cleaner, more healthy, independent lives?

私たちは人体に微生物がたくさん棲んでいることを知ったとき、とくに害がないならいいではないかと黙認した。
Since the body's microbial habitat was first discovered we have tolerated it, as it seemed to do us no harm.

しかし、サンゴ礁や熱帯雨林を保護しなければと考えるのと同じように、人体に棲む微生物も保護しようとは思わなかった。ましてや、大切に世話する必要性など気づきもしなかった。
But unlike the coral reefs, or the rainforests, we have not thought to protect it, let alone to cherish it.



私は進化生物学者として、ある生物の体の構造やふるまいを見るとき、その利点や意味を考えるよう訓練を受けている。
As an evolutionary biologist, I am trained to look for the advantage, the meaning, in the anatomy and behaviour of an organism.

通常、その生物に有害な特性や相互作用は不利な戦いを強いられるか、進化の過程で失われるかするものだ。
Usually, characteristics and interactions that are truly detrimental are either fought against, or lost in evolutionary time.

私は考えをめぐらせた。
That set me thinking:

100兆個の微生物は、もし何の手土産もなしに私たちの家のパーティーに来ていたなら、いずれ招かれなくなっていたはずだ。
our 100 trillion microbes could not call us home if they brought nothing to the party.

敵を撃退して感染症を治すのが仕事のはずのヒト免疫系は、なぜこれだけの微生物の侵入を許しているのだろうか。
Our immune systems fight off germs and cure us of infections, so why would they tolerate being invaded in this way?

私は、この謎についてもっと知りたくなった。なにしろこの私は、数か月に及ぶ化学兵器戦争で、悪い微生物だけでなく有益な微生物まで殺してしまったのだ。
Having subjected my own invaders, both good and bad, to months of chemical warfare, I wanted to know more about the collateral damage I had caused.



私がこの問題を探りはじめたのは時期的によかった。
As it turned out, I was asking this question at exactly the right time.

そのころやっと、私たちの好奇心に技術が追いついたからだ。共生微生物についての科学研究はそれ以前からあったが、遅々として進んでいなかった。
After decades of slowpaced scientific attempts at learning more about the body's microbes by culturing them on Petri dishes, technology had finally caught up with our curiosity. 

人体内に棲む微生物はほとんどは腸内の無酸素環境に適応しており、酸素に触れると死んでしまう。
Most of the microbes living inside us die when they are exposed to oxygen, because they are adapted to an oxygen-free existence deep in our guts. 

人体外で育てる(ペトリ皿で培養する)のが困難なのはもちろんのこと、実験するのはさらに困難だった。
Growing them outside the body is difficult, and experimenting with them is even harder.



だが、ヒトの遺伝子をすべて解読するという画期的なヒトゲノム・プロジェクトのおかげで、DNA解析(配列決定)が格段に速く安くできるようになった。
But, in the wake of the seminal Human Genome Project, in which every human gene was decoded, scientists are now capable of sequencing masive quantities of DNA extremely quickly and cheaply.

糞便にまじって体外に出てきた「死んだ」微生物を特定することさえ可能になった。微生物そのものは死んでいても、DNAが無傷で残っているからだ。
Even our dead microbes, expelled from the body in the stool, could now be identified because their DNA remained intact.

これまでだれもが見落としていた共生微生物について、科学はいま、新しい素性を明らかにしようとしている。
We had thought our microbes didn't matter, but science is beginning to revel a different story.

ヒトの暮らしはヒッチハイカー微生物の暮らしと噛み合っていて、そこでは微生物が人体を動かしている。そうした微生物なしにヒトは健康ではいられない。
A story in which our lives are intertwined with those of our hitchhikers, where our microbes run our bodies, and becoming a healthy human is impossible without them.



私の健康被害は氷山の一角だった。
My own health troubles were the tip of the iceberg.

共生微生物のアンバランスが胃腸疾患、アレルギー、自己免疫疾患、さらには肥満を引き起こしているという科学的証拠が続々と出てきていることを私は知った。
I learnt of the emerging scientific evidence that disruptions to the body's microbes were behind gastrointestinal disorders, allergies, autoimmune diseases, and even obesity.

体の病気だけではない。不安症、うつ病、強迫性障害、自閉症といった心の病気にも微生物が影響している。
And it wasn't just physical health that could be affected, but mental health as well, from anxiety and depression to obsessive-compulsive disorder (OCD) and autism.

私たちが人生の一部として甘受している病気の多くはどうやら、遺伝子の欠陥や体力低下のせいではなく、ヒト細胞の延長にある微生物を軽んじたせいで出現した、新しい病態のようなのだ。
Many of the illnesses we accept as part of life were not, it seemed, down to flaws in our genes, or our bodies letting us down, but were instead newly emerging conditions brought on by our failure to cherish the long-held extension to our own human cells: our microbes.



私が知りたかったのは、投与された抗生物質が自分の微生物集団に与えたダメージについてだけではない。微生物のどんな作用が私を体調不良に陥れたのか、また熱帯雨林でダニに噛まれる前まで保たれていた微生物のバランスをとり戻すにはどうしたらいいのかについても調べたいと思った。
Through my research, I hoped not only to discover what damage the antibiotics I had taken had done to my microbial colony, but how it had made me unwell, and what I could do to restore the balance of microbes I had harboured before the night of the tick bites, eight years earlier.

その一環として、DNA解析をするプログラムに参加する同意書にサインした。
To learn more, I signed up to take the ultimate step in self-discovery: DNA sequencing.

ただし、解析するのは私の遺伝子ではなく、私の腸内に築かれている微生物集団の遺伝子 -マイクロバイオーム- である。
But rather than sequence my own genes, I would have the genes of my personal colony of microbes - my microbiome - sequenced.

私は改善への道のりの出発点として、まずは自分の腸内にいる菌種や菌株を知ろうと思った。
By knowing which species and strains of bacteria I contained, I would have a starting point for self-improvement.

そしてそれを、本来なら私の腸内にいるべき微生物についての最新知識と突きあわせれば、与えてしまったダメージの大きさが推測でき、修復を試みることもできるだろう。
Using the latest understanding of what should be living in me, I might be able to judge just how much damage I had done, and attempt to make amends.

私が参加したのは市民科学プログラムの一つ、アメリカン・ガット・プロジェクト(AGP)だ。アメリカのコロラド州ボールダーにあるコロラド大学のロブ・ナイト研究室が主体となっているこの活動には、世界中のだれもが参加できる。
I used a citizen-science programme, the American Gut Project, based at the laboratory of Professor Rob Knight at the University of Colorado, Boulder. 

参加者が自分の糞便サンプルを提供すると、AGPはその中に含まれる微生物のDNAを解析する。AGPはヒトの体内にいる微生物のサンプルをできるだけ多く集め、微生物の種類と、それが私たちの健康に与える影響を調べようとしている。
Available to anyone around the world for a donation, the AGP sequences samples of microbes from the human body to learn more about the species we harbour and their impact on our health.

私は糞便サンプルを送り、お返しに私の腸内生態系の「スナップ写真」を受けとった。
By sending a stool sample containing the microbes from my own gut, I received a snapshot of the ecosystem that called my body home.



うれしいことに、何年も抗生物質の治療を受けていたにもかかわらず、私の腸内にはちゃんと細菌がいた。
After years of antibiotics, I was relieved to find I had any bacteria living in me at all.

私の腸内細菌の様相は、少なくとも他のAGP参加者のそれと比べて大きな違いはなかった。
It was pleasing to see that the groups I harboured were at least broadly similar to those in other American Gut Project participants, 

私がひそかに心配していた「有毒物質で汚染された腸内で、奇怪な変異菌種がほそぼそと命をつないでいるような」荒廃した光景は広がっていなかった。
and not the microbial equivalent of mutant creatures eking out a living on a toxic wasteland.

だが、ある程度予想していたことだが、私の腸内細菌は多様性に欠けているようだった。
But, perhaps predictably, the diversity of my bacteria seemed to have taken a beating.

生物の分類で「界」のつぎに大きな分類群である「門」で比べたとき、私の腸内細菌の多様性は相対的に低く、二大勢力に属する細菌の占める割合が他の参加者よりも多かった。
At the highest level of the taxonomic hierarchy, the diversity was relatively low, looking a bit bipartisan compared with the guts of  other people.

二大勢力とはヒトの腸内で多数派の二つの「門」に属する細菌集団で、私の場合は97%以上の細菌がこのどちらかの分類群に属していた。平均的な参加者の場合は90%程度にとどまる。
Over 97 per cent of my bacteria belonged to the two major bacterial groups, compared with around 90 per cent making up these two groups in the average participant.

これは私が使っていた抗生物質が少数派の菌種を絶滅させ、それに耐えた菌種だけが残った結果なのだろう。
Perhaps the antibiotics I had taken had killed off some of the less abundant species, leaving me with only the hardy survivors.

この多様性の喪失が、ここ数年の私の体調不良に関係があるかもしれないと私は思った。
I was intrigued to know whether this loss might be related to any of my more recent health troubles.



しかし、高木と低木、あるいは鳥類と哺乳類というような大きな分類群の割合だけで熱帯雨林と温帯の森を比較しても、それぞれの生態系がどう機能しているかはわからない。同じように、私の腸内細菌を大きな分類群の割合で比べたぐらいで腸内の微生物環境が健全かどうかなどわかるはずがない。
But, just as comparing a tropical rainforest and an oak woodland by looking at the proportion of trees to shrubs, or birds to mammals, reveals little about how both ecosystems function, comparing my bacteria at such a broad scale may not tell me all that much about the health of my inner community.

生物の分類群では「門」の下に「属」や「種」がある。
At the other end of the taxonomic hierarchy were the genera and species that I contained.

私の治療中にずっと耐えていたであろう細菌や、治療終了後にどこかから戻ってきた細菌の種類が詳しく特定できれば、私の現在の健康状態が明らかになるのだろうか?
What could the identities of the bacteria that had either clung on throughout my treatment, or returned since it ended, reveal about my current state of health?

それよりもっと切実な問題として、抗生物質による無差別攻撃で消滅した細菌種の「不在」は、いまの私の体調にどう関係しているのだろう?
Or perhaps more pertinently, what did the absence of species that might have fallen victim to the chemical warfare I had unleashed on them, mean for me now?



私は、自分自身とその中にいる微生物についての探求に乗り出したとき、得られた知識を実践に活用しようと決めていた。
As I embarked on learning more about us - myself and my microbes - I resolved to put what I learnt into practice.

有益な微生物をとり戻したかったし、ヒト細胞と調和する微生物バランスを築くためには生活習慣を変える必要があることも理解していた。
I wanted to get back on their good side, and I knew I needed to make changes to my life to restore a colony that would work in harmony with my human cells.

無差別攻撃で微生物環境を壊してしまったことが私の近年の体調不良の原因なら、それを元に戻すことでアレルギーや皮膚のトラブル、年がら年中の感染症から抜け出すことができるかもしれない。
If my most recent symptoms were stemming from the collateral damage I had inadvertently inflicted upon my microbiota, perhaps I could reverse it and rid myself of the allergies, the skin problems and the near-constant infections?

これは自分のためだけではなく、これから産み育てたいと思っている子どものためでもあった。
My concern wasn't just for myself, but for the children I hoped to have in the coming years.

生まれてくる子どもに遺伝子だけでなく微生物も手渡すことになるのなら、私は手渡すに値する微生物を保有していると、胸を張って言えるようになりたかった。
As I would pass on not only my genes, but also my microbes, I wanted to be sure  I had something worth giving.



私は微生物を最優先に考え、微生物たちのニーズに合うよう食生活を変えることにした。
I resolved to put my microbes first, altering my diet to better suit their needs.

そしてそのあとで、もう一度サンプルを送ってDNA解析をしてもらおうと計画した。食生活を変える努力によって微生物集団の多様性とバランスに何らかの効果が現れることを私は期待していた。
I planned to have a second sample sequenced after my lifestyle changes had had a chance to take effect, in the hope that my efforts might be evident from the change in the diversity and balance of the species I play host to.

何よりも、微生物に対する私の投資の見返りとして、より健康で幸せになるための扉を開くカギを手に入れられることを期待していた。
Most of all, I hoped that my investment in them would pay dividends, by unlocking the door to better health and happiness.


…






引用:
あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた
10% Human: How Your Body's Microbes Hold the Key to Health and Happiness


2016年12月15日木曜日

ネコ背になる本当の理由とは?[小池義孝]






〜小池義孝『ねこ背は治る!』より〜


知れば、ねこ背が治る!


胸をはって背筋を伸ばす。

そのような格好を「良い姿勢」だと思っている人がほとんどです。

私も子供のころ、嫌というほど、この姿勢をしつけられました。少しでも気をゆるめると、「背筋、ピンッ!」と母の厳しい声が飛んできたものです。がんばってこの格好を維持していれば、やがては良い姿勢が当たり前になる。その頃は、そんな風に漠然と考えていました。それは母も同じだったようです。

何年も何年も、根気よくしつけられ続けられましたが、私のねこ背が矯正される様子はありませんでした。この方法でねこ背を矯正するのは、私には不可能だと、ついには諦めました。これが20代半ばのころです。


…


結局は、無理に背筋をのばす解決方法が、そもそもの間違いです。それでは「姿勢が悪いから、姿勢が悪い」と言っているようなものです。ねこ背になってしまう原因は、決して「ねこ背だから」ではありません、正解を知れば、姿勢の改善は一瞬です。

人間がねこ背になってしまうのは、立っている時、座っている時です。寝ている時にはねこ背になりません。これは当たり前ですけれども、もう一つ、ねこ背にならない状態があります。

それは膝立ちをしている時です。膝立ちをしていると、背筋がスッと伸びます。実際に試してみてください。いかがでしょうか。普段はねこ背ぎみの人でも、自然な形で良い姿勢になれたと思います。無理にがんばって背筋を伸ばす必要もありません。





ではなぜ、膝立ちだと姿勢が良くなるのでしょうか?

全身の骨格図を見てください。大腿の太い骨を「大腿骨(だいたいこつ)」と呼びます。骨盤と上半身全体が、大腿骨に支えられています。太く頼もしい骨に乗っているので、骨盤が安定しています。変な傾き方はしていません。ですから背骨もその上で、きれいに伸びていられます。

美しい姿勢は、こんな風につくられていきます。骨が骨を自然に支えて、無理のない状態です。





また、右膝のアップの図を見てください。膝が一点で重さを支えているのがわかります。膝のすぐ上には大腿骨があります。

膝立ちは無条件に、大腿骨で身体を支える姿勢をつくります。大腿骨に上手に乗れば、人間は良い姿勢に楽に到達できるのです。

良い姿勢とは、このように、骨が自然と立っている状態を指します。決して無理に背筋をのばして、強引につくるものではありません。膝立ちをした時に、楽にスッと伸びる背筋。ここに正解があります。



膝立ちのときは良くても、足の裏で立つと、やはりねこ背に戻ってしまいます。今から、その理由を説明します。ねこ背が治る光明は、もう見えています。

膝で立つのと、足の裏で立つのとでは、何が異なるのでしょうか。大腿骨は膝と接していますが、足の裏からは遠く離れています。この違いがあります。膝の下にスネの骨が2本あって、足首があります。その下に足の裏です。

大腿骨に乗るためには、つながるスネの骨に乗らなければなりません。スネの骨は2本ありますが、乗るのはもちろん、内側の太い方の骨です。外側の細い方では、体重を乗せるには頼りありません。太い骨のサポートぐらいに考えておいてください。





下の図の◯印は、足の裏から見たスネの太い骨の場所です。この場所に体重を乗せてください。肩幅くらいに足を広げるとわかりやすくなります。

そうするとスネの太い骨に乗って、大腿骨に乗って、膝立ちと同じような状態になります。少し内側に絞るイメージになります。





足の裏は地面に触れている面積が広いので、膝立ちのように一点では支えられません。スネの太い骨を中心にして、広範囲で支えるようなイメージになります。

この時に、スネの太い骨に乗る意識を強くもってください。



スネの太い骨に乗れたら、今度は全身の力を抜きます。

そして自分の背筋を意識してください。スッと楽に、自然に伸びていれば成功です。無理に胸をはって、背筋を強引に伸ばすのとは違います。背筋自体には、まったく力を入れていません。

これが本当の「良い姿勢」です。

おそらくあなたは今まで、こんなにも脱力して立った記憶がないと思います。上手に骨格で身体を支えてあげると、立っている姿勢とは、ここまで楽なものです。立ったまま休んで、疲れた身体も癒せるほどです。



ねこ背になる、本当の原因


ねこ背になる本当の原因は、正しく骨に乗れていないからです。

足の裏は広いので、つま先から踵まで、好きなところに体重をかけられます。体重をかける場所を、スネの太い骨から外すと姿勢が崩れてしまいます。

ねこ背は「結果」ではありません。足の裏の間違った重心のせいで、倒れそうになる身体を修正する「手段」です。手段を矯正して治そうとしても、うまくいくはずがありません。無理に良い姿勢に見えるものをつくって、身体に辛い思いをさせるだけです。表面だけを追ってしまうと、このゆに間違いに間違いを重ねてしまいます。



ねこ背になってしまう原因として、足の裏の重心の場所は、あまりに小さ過ぎるものです。ほとんどの人から見過ごされてきたのも仕方ありません。

ねこ背は、原因と症状が同じものと考えられてきました。それが常識でした。先ほども申し上げた「ねこ背だから、ねこ背になってしまう」という理屈です。



正しく座る


では、座っている状態では、どのように考えればよいのでしょうか?

大腿骨の下がスネの太い骨ですから、上は骨盤です。骨盤にきれいに乗るのが、座っている場合の正解です。

骨盤には「坐骨(ざこつ)」という骨があります。椅子に座ったときに、下に当たる骨です。





坐骨の角度をみてください。

前が狭く、後ろが広くなっています。これには意味がちゃんとあります。もし坐骨が真っ直ぐに平行だったら、安定が悪くて仕方ありません。左右にグラグラとして、落ち着いて座れません。改めて人間の身体は機能的にできていると感心します。

骨盤にきれいに乗るためには、うまく坐骨を活かします。坐骨を外すと、身体は極端に不安定になります。不安定な身体のバランスをとるためには、やはり姿勢を悪くするしかありません。

基本的な理屈は、立っているときの場合とすべて同じです。坐骨を外して前に体重をかければ、ねこ背になります。外すのが後ろなら仰け反ってしまいます。



正座やあぐらでも、理屈は同じです。正座の場合には坐骨の下に自分の足があります。坐骨をきれいに足に乗せられるように調整して、力を抜いてください。

背筋がスッと伸びると、椅子に座ってやる作業が楽になります。正しい座り姿勢では、骨格が体重を効率よく支え、筋肉の負担は最小限に抑えられます。長時間の作業も楽になります。

パソコンのキーボード操作でも、首や肩の負担は減り、キーボード操作も軽快になります。目からきていると思っていた首と肩のこりは、じつは姿勢のせいだったということもあるかもしれません。



正しい姿勢とは、骨格にうまく体重を預けて、リラックスしている状態です。力が抜けているので、必要な筋肉がすばやく反応できます。

なんだか武道の真髄のような話ですが、実際の日常生活にも通じるものがあります。



原因の最初から正さないと、満足な結果はでません。

スネの太い骨に体重を乗せる。坐骨に乗る。たったこれだけのことで、手強かったねこ背は自動的に正されます。真相は意外なほどにシンプルです。

あなたがこの事実を伝える発信源になって、ぜひ一般常識を変えてしまってください。

1. 膝立ちから説明して

2. スネの太い骨に乗る、

3. 坐骨に乗る

という順番だと、伝わりやすいです。


…





出典:小池義孝『ねこ背は治る!』




肺は思ったより大きいゾ![小池義孝]






〜小池義孝『ねこ背は治る!』より〜


酸欠状態の恐ろしさ


人間の身体は取り込める酸素量が少なくなると、その少ない酸素で、なんとかやり繰りをしてバランスをとろうとします。すべての組織や細胞が、平等に酸素不足になってしまう訳ではありません。つまり優先順位を決めて、酸素の配分調整をします。

それをするときに、まず重要なのは「死なない」ことです。脳や内臓の機能が落ちてしまったら危ないので、こうした生命活動の大切な部分は優先的に守ろうとします。その分、どこかを酸欠にせざるを得ないことになります。歩いたり、立ち上がったり、手をついたりする、身体を動かすための筋肉にしわ寄せがいく形になります。

家計を預かる主婦が、限られた収入のなかで懸命にやり繰りをして頑張っている姿に似ています。



しかし優先順位が下になってしまっても、その組織や細胞を殺してしまうほど追い込んではいけません。細胞が生き続けられるぐらいの最低限の供給はおこなおうとします。

その結果、全身の筋肉のあちらこちらに、死ぬほどではないけれども満足に機能できない部分がつくられてしまいます。また身体はその際にも、筋肉と筋肉とのあいだで調整をおこなっているかもしれません。

足を上げたり、身体をねじったり、ある動作をおこなう際には、通常は複数の筋肉が協同して作業にあたっています。歩けなくなるなど、特定の動作がまったくできなくなってしまわないよう、身体は何とかバランスを取ろうとします。

脳や内臓ほどには重要と考えていなくても、歩けなかったり起き上がれなかったりしたら、それはそれで深刻な状態です。場合によっては生命の危機ですらあります。ですから、よほどの不足でない限り、筋肉を酸欠で追い詰めるようなやり方はしません。



この無意識の調整が、自覚できない酸欠の問題を深刻にしています。

その人は日常生活に特別な支障を感じておらず、自分の身体の機能が落ちている事実すら把握できずに、毎日を過ごしていってしまうからです。

ですが、この筋肉の酸欠状態は、筋力検査をすればすぐに明るみにでます。治療院の現場でも、特定の筋肉にほとんど力を入れられない状態だけれども、本人は特に日常で問題を感じていなかった例が数多く確認されています。原因は酸欠だけの問題とは限りませんが、呼吸が改善されたときに、ケースの多くが同時に改善される傾向があります。

この配分調整の動きは、現代医療の目を惑わせているようです。現代医療では酸欠状態か否かを「血中酸素濃度」の測定によって判断します。けれどもこの測定方法では、今お話しているような酸欠状態はでてきません。



ある高齢の入院患者さんに出張施術をおこなった時のことです。あまりにも呼吸が浅く、顔色も暗く悪くなっていました。本人も息苦しさを感じており、息も絶え絶えでまともに話をするのも難しい状態です。

施術によって呼吸が深く楽になると、顔色も赤みがでてきました。そこでお話をお伺いして、驚きました。血中酸素濃度が正常値であったため、病院で呼吸には何も対処をしていなかったのです。

見れば息苦しそうで顔色も悪い。素人目にも異常が明らかな患者さんを、数値上は正常だと放置していたのです。この部分については、医療の分野も、早急に考え直してほしいです。


…


筋肉が酸欠をおこせば柔軟性が損なわれ、硬直してしまいます。それは血流を悪くさせ、身体を冷やします。

血流の悪さと身体の冷えは、東洋医学で言われる”未病”状態です。未だ病気ではないけれども、その予備軍で、いつどんな病気になっても不思議ではない危険な状況です。じつは現代社会の多くの人が未病状態で生活しています。そして問題なく健康だと考えている人の多くも、未病の少し上にいるだけで、あまり差がありません。

慢性的な酸素の欠乏は、このようにして結局はその人の生命活動の中枢を脅かしてしまいます。またそれがさらに呼吸を浅くさせる原因になり、悪循環に陥っていきます。酸素の欠乏は人間の生命活動の根幹にかかわります。



呼吸を深く安定させよう


呼吸が浅くなるのには、さまざまな原因が考えられますが、その中にはほぼ全員が抱えている「共通の問題」が存在しています。この問題を解決するだけでも、あなたの呼吸は大幅に改善できます。

このイラストをよく見てください。下は肋骨の底辺近く、上は鎖骨を少し越えたあたりまで、肺は大きく広がっています。このイラストのイメージを5秒、じっくりと観察してください。そうしたら、ゆっくりと深呼吸してみてください。




どうですか?

胸の上の方、鎖骨近辺が膨らんでくるのが感じられましたか?

もしそれが感じ取れたなら、この試みは大成功です。

では次に、このイラストをご覧ください。





肺は背中側に大きく広がり、背骨の真ん中あたりまで及んでいます。

このイラストのイメージをまた5秒、じっくりと観察してください。また同じように、吸うときの身体の動き方をよく観察しながら、深呼吸を2、3回くり返してください。

今度は自分の背中が大きく膨らんだのを、感じとれましたか? 今さっき確認した鎖骨の周辺も、同時に膨らみが感じとれているはずです。



いま、あなたの身体に何が起こったのでしょうか?

驚きのなかで、この文章を読まれている方も多いはずです。それをこれから、ご説明します。まずはこのイラストをご覧ください。





このイラストは間違っています。

けれども、つい数分前までの、あなたの肺の大きさと場所のイメージは、こんな感じでした。厳密には個人差があると思いますが、おそらくは大きくは違わないでしょう。また中には、背中側のイメージは正確だったけれども、まさか鎖骨を越えてくるとは思わなかった人もいるでしょう。

そうです。あなたは今まで、肺という臓器の大きさを、小さく小さくイメージしていたのです。あなたには、常識的な知識として、肺という臓器の存在を知っていました。しかし、その身体の中での大きさと場所については、「胴体の上のほうにある」という認識にとどまります。あなたの先ほどまでの認識を整理すると、大よそ、このような計算式になると思います。

「肺という呼吸のための臓器がある」+「それは胴体の上のほうにある」+「呼吸のときに胸が大きく膨らむ」

この計算から導き出された解答が、「肺は胸の前のほうに小さくある」という誤った認識だったのです。肺の大きさと場所を、本当の姿よりも著しく小さくしてしまっていたのです。



今までこの本を読みすすめられてきて、正しい肺の大きさと場所を、ほぼ正確に認識しています。ここで改めて、ご自分の呼吸の様子をみてみてください。

肺の大きさと場所の意識は、おそらく少しは、薄れていたでしょう。一度手に入れた正しい認識は生きつづけます。本人がずっと気にして意識しつづける必要はありません。こんな楽な健康法は、他にないでしょう。

呼吸が深くなると、酸素の摂取量が上がります。酸素の摂取量が上がると、酸欠状態にあった組織、細胞にも酸素が行き届くようになります。これだけで、身体は間違いなく改善します。

あなたはおそらく、この事実を家族や友人に伝えたいと思っているはずです。ぜひ教えてあげてください。ここで得られた情報は、あなたの知人の助けとなるはずです。


…





出典:小池義孝『ねこ背は治る!』