2017年8月13日日曜日

鏡に映った自分を、敵と間違えたアメリカ[WW2]



話:ヘレン・ミアーズ







脅威とは何か


日本の興亡を見直すことは重要なことである。この問題は、日本国民の懲罰の正当性にかかわるだけでなく、2回の世界大戦を経験した混乱の時代に、アメリカの外交政策の舵をとるものの資質にかかわっているからである。

この時代を通じて、支配的な世界管理体制とされてきたのは、常に、そして不思議にもイギリス型「安全保障」システムと呼ばれる力の均衡政策だった。イギリスは、仮想敵グループとの均衡を維持するため、伝統的、かつあからさまに、時の弱小国を傍につけてきた。このシステムは、現実には、イギリス帝国の権益を伸ばし、イギリスの覇権に刃向かいそうな国の出現を阻むためにつくられたものなのだ。

アメリカは1812年戦争(米英戦争)以来、伝統的にこのシステムに従ってきた。しかし、第二次世界大戦直前までは、このシステムに対してどういう姿勢をとっているのか、はっきりしなかったし、政策立案者も態度を明確にしていなかった。世論も意識してこのシステムを支持しているわけではなかった。

イギリスが直接支配する広範な地域で、平和を維持し、あるいは安定をもたらし、生活水準を向上させるという点では、このシステムは明らかに失敗だった。今日、アメリカ政府が世界に向けて、このシステムを強化していく考えを明らかにしているだけに、このシステムが極東でどのように機能したかが、きわめて重要な問題となってくる。



力の均衡政策の失敗を最も鮮やかに浮かび上がらせるのは、日本の近代における米英と日本、米英とロシアの関係である。

史実から端的にいうなら、イギリス型「安全保障」体制はまさしくボウリング場だ。たくさんの国がピンのように並べられ、倒されたり、立てられたりしてきた。まずロシアを倒すために日本が立てられた。そして、日本が「信頼できない」とわかると、日本を倒すために、ソ連が立てられた。これがヤルタである。しかし、ソ連も日本以上に「信頼できない」ことがわかったので、今度は中国を立てようとしている。「進歩的」な蒋介石のもとに強力な中央政権をつくって、もう一度ソ連を倒させようというのだ。

私たちが韓国の「安定化」を図っているのも、同じ目的からである。そして、日本列島はそうした活動の基地として考えられている。もしこの愚行が止められなければ、あるいは戦争がなければ、この先20年ぐらいのうちに、私たちは日本かソ連をもう一度立て、中国を倒そうとするかもしれない。



こういう国際関係の愚かさは、1947年3月19日付ニューヨークタイムズの記事「ソ連の拡張が内包するアメリカの危機」によく表れている。「世界征服」を目指す日本の神話的野望について教えてくれた、例のオットー・D・トリシャス記者の報告だが、それによると

「もし中国がソ連あるいは共産主義の手に落ちれば、我が国が日本から守り抜いたもの、つまり中国を共産主義ロシアに与えることになる」

そして彼はさらにこう予測するのだ。

「ソ連の中国征服によって、アメリカの影響力と利益は中国から完全に締め出されるだろう。これは、日本による征服以上に徹底したものになる。それだけでなく、アジア全域で共産主義の地滑りが起こり、人類の半分がわれわれの敵になることを意味する」

そしてトリシャス記者は、「中国を外国の支配に委ねようとする反乱勢力を断固粉砕しようとしている」蒋介石総統を「支持する」ことが解決の道だという。



私たちの新聞を埋めるこういう論評、感情的に「共産主義の脅威」と「ソ連を押しもどす」必要性を叫ぶ政策立案者と政治家の意見を聞いてみると、私たちはいったい何のために日本を「罰しよう」としているか、わからなくなる。

こうなったら、日本の軍部指導者に勲章を、日本国民にカリフォルニアを贈るべきだ。彼ら日本人は「中国を征服」しようとした、非難することはできる。しかし、日本の指導部が満州と中国における行動を説明するのにつかった言葉と、今日私たちアメリカの政策立案者や著名な評論家がアメリカの政策を説明するのにつかっている言葉は、まったく同じなのだ。

日本は彼らの行動について、われわれが満州と中国に軍隊と行政官と資金を送ったのは、われわれの「条約上の権利」を強化し、「共産主義の脅威」を抑え、混乱状態に秩序をもたらし、国家の存立を保全し、外国勢力と国内の軍閥支配からこの地域を解放し、極東の平和と秩序を促進するためである、と言っていた。

この主張は、私たちが朝鮮占領と対中国政策を説明するときの論理とまったく同じである。蒋介石政権に対する巨額な借款、政治的支援、「顧問」の提供、蒋介石軍の増強と内戦中の兵員輸送の援助などの目的は、かつて日本が掲げていた目的と同じである。この政策が日本に関して間違っているなら(私たちはそれを罰している)、私たちに関しても間違いだ。



国際関係に対する私たちの行動がいかにばかげているか、これもニューヨークタイムズを読めば明らかだ。バージニア選出のハリー・F・バード上院議員の発言をあつかったワシントン発の記事(1946年1月31日付)はこういう。

ハリー・F・バード上院議員は本日、ソ連が千島列島を完全に支配しているのに、アメリカが占領した島を国連の信託統治下に置くというのは「愚かなことである」と述べた。同議員はかねてから、太平洋の重要な米軍基地は米国独自の支配下に置くべきであるという意見を、率先して唱えている。

直接引用された同上院議委員の発言は「重要な基地はアメリカが完全支配すべきであるというのが、国民の「事実上一致した感情である」というものである。この問題で国民投票したわけではないのだから、同上院議員がどうやって、一致した国民感情を知ったのか、明らかではない。今日ソ連が千島列島を完全支配している」のは、アメリカ大統領とイギリス首相がパワーポリティクスの典型的密約で決めたことだ。

ソ連はいま、旅順と満州で守られているが、これは連合国首脳間の協定によって「合法的」なのだ。日本も、同じようにして朝鮮と旅順に出ていったのである。



どうやら私たちの政策は、まずよその国の力を強化し、次いでその国に対抗するために自分の力を強化するというものらしい。もしこの政策の狙いがはっきり見えたら、アメリカ国民は「一致して」反対するだろう。

アメリカは戦時中はソ連に協力していたのに、戦後は手のひらを返したようにソ連を敵視している。この豹変をみる日本と「後れた」地域は、いまの教育者である私たちアメリカが、自分たちに何を教え、どういう国になってほしいと思っているのか、混乱するに違いない。

私たちアメリカは現在、「ソ連を押しもどす」そして「共産主義の脅威と戦う」ことを政策として明らかにしている。これは実に日本が、彼らの全近代をかけて実践してきた政策だ。そして、そのために現在どんな扱いを受けているか、思い知らされていることだ。それだけに、私たちがどうやってこの政策を実行していくのか、日本にしてみれば考えるだけで頭がこんがらがってくるだろう。



私たちがいいつづけてきたように、日本が「世界の脅威」、「千年を超える内戦の歴史の中で培われた世界征服の野望でまとまる」民族であるなら、ソ連は極東において歴史的に正しかったわけだ。そして、米英両国の政策担当者は、1894年から1905年まで、その正しいロシアに日本を刃向わせていたのだから、これはまさに「犯罪的に無能だった」ということになる。

今日私たちがいっているように、ソ連が「世界の脅威」であり、日本を支援したかつての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために、満州を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった1931年以降の米英両国の政策担当者は「犯罪的に無能だった」ということになる。

そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールまで悪化させ、その結果、私たちの生命と財産ばかりでなく、極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶりは、犯罪をはるかに超えたものであるというほかない。



私たちの政策担当者は、パールハーバー以前の政策と現在の政策をどう整合させようとしているのか。

何百万の生命と何十億ドルに相当する物量と人力をかけて、私たち自身の民主主義をぶち壊してしまう前に、政策担当者は「脅威」の実体について、もっと透徹した思索をめぐらし、揺るぎない決断を下すべきなのだ。






パワーボリティクスは逆噴射する


国際関係は歴史と同様複雑である。事実をめぐっていつも「解釈」が対立する。

イギリスの安全保障システム(今日ではアメリカの「防衛」システムだが)は、多くの権威によって正当化され、褒めそやされている。しかし、私たちアメリカが掲げる平和と人類の幸福という目的に即してこのシステムを見ると、明らかに不利となる事実を2つ指摘することができる。

第一は、日本はイギリスとアメリカの全面的協力がなければ、軍事大国になることができなかったということである。第二はソ連に関する事実である。イギリスのパワーポリティクスの絶えざる刺激がなかったら、ソ連はどうだったのだろうか。はっきりしているのは、平和を維持し、ソ連を抑止する目的でデザインされたイギリスのシステムは、そのいずれの目的も果たせなかったということである。パワーポリティクスは、日本とソ連では明らかに逆噴射したのだ。



アメリカ人がこの2つの事実から学ぶべきことは、「リーダー」は進路を示さなければならないということである。国際問題でリーダーシップを発揮しようという大国が、隠蔽しようが明示しようが、対立ブロック形式の意図をもって、あからさまに軍拡の道を歩み、隣接の、あるいは遠隔の政権を武装化するなら、その結果は12歳の子供でも予言できる。私たちアメリカは本当に平和を愛しているのか。もし愛しているなら、政策を通して私たちの特性をもっとはっきり示すべきだ。

西洋列強が日本に教えた最初の教科は「力は報われる」ということだった。これに対して、日本の近代史がアメリカ国民に教えているのは「パワーポリティクスは逆噴射する」ということかもしれない。

もし私たちが次の世代に「平和は報われる」という信念を教えたいのなら、やがて制動が利かなくなる「脅威」の創出を止めて、平和の可能性に対する確信を示すべきだ。平和教育は、基地、巨大軍備、軍隊の海外駐留、中国の(その他どこであれ)軍閥の支援、あるいはパワーポリティクス信奉者の旧式な尊大さをもって、成就できるものではないだろう。



今日、極東に平和と秩序をもたらそうしている計画は、かつて失敗したものと同じである。日本は同盟国として信頼できないことが証明された、だから、見せしめに厳しく罰しなければならない、そして中国は日本に代わる近代国家としてつくり上げられなければならない、という。

中国は強力な中央政府のもとに統一されなければならない、制度を近代化する必要がある、国をまとめるために近代的通信網を整備しなければならない、工業化を促進しなければならない、中国が名実ともに大国になるためには、強力な近代的軍事国家にならねばならない、そのためには、輸出をさかんにし、戦争に必要な物資、機械、武器を輸入できるようにしなければならない、という。中国は民主主義諸国と協力して、ヤルタでチャーチルとルーズベルトが同席させたソ連を、極東から締め出す役割を担わなければならない、という。

いまにしてみれば、この政策によって日本は平和と秩序にではなく、戦争と混乱に行き着いたことがわかる。しかし、後知恵で賢くなるのは簡単だ。アメリカ人が本当に平和を求めるなら、事の前に賢くならなければならない。

過去に失敗した政策が、将来に成功するはずがない。成功するという人は、能天気な希望的予測と、日本人は生来好戦的で中国人は生来平和を愛しているというずさんな論理を信じているのだ。「条件さえ与えられれば、すべての人間は好戦的になる」、これが事実だ。私たちはかつて、そういう条件を日本人に与えた。そして今度は中国人に与えようとしている。



日本人が最初に学んだ教訓は、国際関係における「合法性」とは、すなわちパワーポリティクスであるということだった。これに対して、日本の歴史が西洋諸国に教えるのは、パワーポリティクスにおける「安全な」同盟国はいつまでも安全であるわけではないということだろう。

日本を近代的軍事・工業国家に育てる中で、いくつかのことが見落とされていた。つまり、工業化はダイナミックなシステムに向かうこと、力はさらなる力の必要と渇望を生み出すこと、そして「安全な」同盟国は力を強めるにしたがって安全でなくなること、パワーポリティクスが支配する競争世界で、ひとたび覇権の拡大(あるいは「合法的」拡張)に向かうと、物資と市場を競争相手の国に依存しているという事実が不安感と不信感を醸成させ、より多くの物を求めずにはおかない過剰「安全性」に駆り立てること、西洋列強がコミットメントでアジアに深入りし、日本がコミットメントで満州と華北に深入りしたように、コミットメントというものは国家を追い込むものであること、が見落とされている。

このように、日本の最初の教育は、私たちにとって単なる学問ではないのだ。もし私たちアメリカがその教訓をしっかり学ぶなら、いまからでも、破局にいたるのを防げるかもしれない。



しかし現実の政策では、私たちは19世紀と今世紀初めの過ちを、驚くほど正確に繰り返している。

私たちアメリカは現在、ソ連の「脅威」にあまりにもとらわれすぎている。だから、私たちが戦争支援勢力にするため大急ぎで軍事国家に育てている「後れた」地域と小国が、やがて私たちの「脅威」になることを考えてもみない。私たちは蒋介石政権を支援し、中国の支配者にした。この政策によって、恐らく、中国「共産党」はソ連の庇護を求めるようになるだろう。そして人民の正当な革命であるべきものを、パワーポリティクスの複雑かつ破壊的ゲームに引きずり込み、中国人民をまたぞろ私たちの犠牲にするのだ。

この本で考えているのは極東の問題である。しかし、アメリカが強力な「防衛システム」をさらに教科しようとして、南アメリカの「共和国」(アルゼンチンなど)を武装させ、さまざまな工業開発計画で援助していることについて語るのは、けっして無関係ではないと思う。私たちの安全保障の将来を危険にさらすには、これ以上結構な政策はないのである。人口過密の小さな列島、日本が半世紀をかけて行き着いた先がここであった。

やがて南アメリカが世界国家の意識に興奮するとき、あるいは、軍事的に十分強くなって私たちの経済支配と人種的優越性に怨みを抱くとき、彼らはどこまで行っているのだろうか。投入装置がこれほどまでに進歩した今日、ひとつの国を軍事国家にすることは、途方もなく無神経な行為である。私たちは現在の外交政策の指導者(ほとんどが職業軍人とザイバツ)は、力と栄光の夢にまどわされて、日本軍部がアジア支配の妄想にとりつかれたように、現実が見えなくなっている。



アメリカ人にいますぐ答えてもらいたい。

「私たちの力の機械は、すでに私たちの制御能力の及ばないところに飛び出してしまったのだろうか? それとも、まだ機械を制御し、行く先を変える余地が残されているのだろうか?」



(完)





出典:ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡:日本』





2017年8月10日木曜日

日本はいかに拡張主義でなかったか[WW2]



話:ヘレン・ミアーズ







歴史の証言


「日本人は生まれつき軍国主義者であり、拡張主義者である」という宣伝文句ほど、私たちを混乱させるものはない。パールハーバー以前のどんな参考書でもいいから、ざっと目を通せば、それが正しくないことがわかるのだ。

この宣伝文句の大きな問題点はそこにあるのではない。こんなことをいったら、日本人だけでなく、政治意識をもつアジアの人々には、アメリカ人がおろかしくみえる、ということなのだ。

私たちアメリカが日本にきた目的は、軍国主義的侵略性をもって生まれた日本人を「改革」することである。この「生まれつきの軍国主義」なるものを、日本人の過去に求めるとすれば、16世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の失敗の記録ぐらいのものだ。

しかし、この遠征をとらえて日本民族を「生まれつき軍国主義者」と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たちアメリカ自身のことは、どう性格づけしたらいいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は15世紀から、まさしく「世界征服」を目指して続々と海を渡ったではないか。



日本とアジアの目で見ると、日本に歴史的侵略の罪を着せる私たちアメリカ人の姿は、自分のガラスの家を粉々に壊している(自分の罪を棚に上げて、他人を非難している)立派な紳士だ。

私たちの非難は、むしろ、「明治までの日本がいかに拡張主義でなかったか」、これに対して「ヨーロッパ諸国がいかに拡張主義であったか」をきわだたせる。

秀吉の軍隊が朝鮮から追い払われた同じ時期、スペインはペルーとメキシコを征服し終え、フィリピンに地歩を固めていた。ポルトガルは世界を駆け巡り、ジャワ、インド、マレーの沿岸地帯、マカオ、中国沿岸部に及ぶ広大な帝国を築きつつあった。イギリス、オランダはスペイン、ポルトガルと競いながら、徐々にポルトガル領の大部分とスペイン領の一部を収め、中国、日本を目指していた。

17世紀初め、日本が孤立主義にこもったのは、ヨーロッパ諸国の「歴史的拡張主義」のせいなのだ。



17、18、19世紀、日本が世界から身を退いて独自の社会を発展させている間、ヨーロッパ人たちは爆発的拡張をつづけていた。

秀吉の職業軍人集団であるサムライ階級が、茶の湯に親しみ、花を活け、本来の仕事がなくなった無聊を隠遁的芸事で慰めていたとき、イギリス、オランダ、フランス、ロシアは貿易、征服、戦争、植民地化といった本当の意味の帝国の建設を目指して、東西南北に広がっていた。

今日、「世界支配の歴史的野望」を告発されている日本人が、ヨーロッパの獲得したものを数字でみれば、ある種の当惑を覚えるに違いない。



パールハーバー当時、イギリスの本土面積(9万4,278平方マイル)は、日本列島(14万6,694平方マイル)より小さく、本土人口も日本より2,800万人少なかったが、「1,353万9,111平方マイル」の帝国と連邦、「300万平方マイル」のアジア領土、「350万マイル」の太平洋の領土、5億人の上に君臨していた。

本土人口900万、面積1万2,704平方マイルのオランダは、アジアの太平洋島嶼地域73万5,000平方マイル余を含む「78万9,961平方マイル」を支配していた。

本土人口約4,200万、本土面積21万2,659平方マイルで日本よりかなり大きいフランスは、アジア大陸の27万7,800平方マイル、アジア・南太平洋の海外領土24万3,584平方マイルを含む「342万2,300平方マイル」を支配していた。

ソ連は本土面積630万平方マイル、本土人口1億8,300万人で、全支配面積は「881万9,791平方マイル」にのぼっていた。

そして、「歴史的拡張主義者」の日本がパールハーバー当時、太平洋地域で支配していた面積は「全体のわずかに0.2%」だった。



こうした中でアメリカの立場は興味深い。当然のことながら、私たちアメリカ人は自分たちのことを侵略的民族であるとは思っていない。もし誰かにアメリカは「世界支配の歴史的野望」をもって行動していたなどといわれようものなら、私たちは震え上がってしまうだろう。

それでも、私たちの国と文明の発達を、前近代の日本と比較すれば、違いは驚くべきものである。私たちは初めてこの地に移ってきてから300年の間に、先住民、イギリス、メキシコ、スペインを打ち破り、フランスを脅かし、国家統一のための内戦を戦い、大陸の302万2,387平方マイルを獲得して定着した。

そして、国境を越えて進出し、ときには大陸の縁から7,000マイルも外に出て大国と戦ったり、現地住民の反発を抑えて「71万2,836平方マイル(日本列島の5倍に相当する面積)」の海外領土を得たのである。



日本人は民族として活動を開始してから1868年の近代に入るまでの、少なくとも1,800年の間、「征服」して住みついたのはわずかに自分たち自身の島の南と中央だけ、面積にして9万1,654平方マイルの領土にすぎない。1853年、ペリーが「門戸を解放した」ときには、日本人は海外領土をもっておらず、日本固有の北の島に細々と植民しているだけだった。

近代に入ってからパールハーバーまで82年間の日本は、本土人口7,200万、全人口9,000万、領土面積は17万9,257平方マイル(北海道を含む)の帝国だった。ほかに中国・関東州の租借地(1,438平方マイル)と、1932年に傀儡国とした満州を支配していた。

しかし、これらの領土は日本全土からわずか600マイルしか離れていない。そして日本がこの支配権を得るにあたっては、とくに満州の場合、事実上何らの反対も受けなかった。彼らはまた、委任領(カロリン、マーシャル、マリアナ)を統治していたが、これはわずか830平方マイルにすぎず、しかも国際連盟から任されたものだ。



私たちアメリカが最初に入植した13の地域は「86万8,980平方マイル」の面積をもっていた。これに対して日本の南の三島は「9万1,654平方マイル」にすぎなかった。

私たちアメリカ人は初めから土地が狭いといってあがいていたのに、世界で「最も残忍な侵略者」日本人は、1,800年間、狭い領土に満足していた。

ペリーが日本の門戸を開いたときの私たちアメリカ大陸の人口は「2,300万」をわずかに超える程度だったが、小さな日本の人口は「3,300万」だった。それでも世界に出かけて「門戸を解放」させようとしたのは私たちアメリカ人のほうだった。



日本人はこうした事実から、私たちアメリカ人による非難は、西洋の猛烈な対アジア拡張政策から注意をそらすための策謀と考えるだろう。

実は、西洋の拡張政策のほうが日本人の本性や伝統社会より、近代極東の混迷にずっと大きな役割を果たしているのだ。







出典:ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡:日本』




2017年8月9日水曜日

「動かないアヒル射ち」[WW2]



話:ヘレン・ミアーズ







つくられた脅威


日本占領はアメリカの自衛上必要な軍事作戦だったという。しかし、果たしてそうだったろうか?

ドイツと違って、日本の指導部は本土侵攻を前にして無条件で降伏し、最高に厳しい要求を受け入れた。スチムソン元陸軍長官は、日本は「アメリカ人だけでも百万人を殺傷できる」力を残しながら降伏したという。それなら、なぜ日本は降伏したのか? 世界で「最も軍国主義的国家」であり、「ファナティック(狂信的)な好戦的民族」がなぜ、武器を置いて占領を受け入れ、精いっぱい友好的な顔をして征服者に協力しているのか?

公式説明は、原子爆弾が彼らを震え上がらせ、野蛮な根性を叩き潰したからだという。しかし、もっと証拠に近寄ってみれば、そうはならない。日本民族は好戦的ではなかった。日本の戦争機関は、占領や原爆投下のずっと前に完敗していたのだ。



「日本 = 世界の脅威」とは、実に大げさなつくり話だ。日本は簡単に転がり込んできた初期の戦果に浮かれていたときでさえ、軍事大国とはいえなかった。日本の軍事費はアメリカとくらべて、問題にならないほど少なかったし、軍事物資は質量ともにアメリカには及ばなかった。

日本兵は、無敵にスーパーマン戦士などではなく、ほとんどが食うものも食わず、満足な装備もなく、しかも極度の消耗と栄養失調から、しばしばヒステリーに陥っていた。死者が多かったのは、「降伏より死を選ぶ」狂気の覚悟によるものではない。私たちの火力が圧倒的にまさっていたからだ。そして日本兵が披露、恐怖、ヒステリーから集団自決を図ったからだ。

日本の委任統治領にあった基地は、難攻不落の「ジブラルタル」どころか、装備はお粗末きわまりなく、何とか守っているといった状態だった。そういう事実は戦場からの報道や、占領後の公式調査報告からも明らかだ。



「日本の脅威」に対する私たちアメリカ人の恐怖は、異常に誇張されていた。パールハーバーの衝撃と日本軍が緒戦に見せた意外に迅速な展開ぶりから、とかく誇大に描かれてきた日本兵の不屈の戦闘精神や戦争機関の攻撃能力が本物になってしまったのだ。

日本軍が開戦から数ヶ月の間にあげた戦果は、表面的にみれば、確かにめざましい。最初の一撃で私たちの太平洋艦隊は半身不随にされ、堅固といわれていたイギリスの要塞、香港とシンガポールが陥落した。日本軍は脅威的なスピードで欧米軍を降伏させ、フィリピン、オランダ領東インド諸島を占領し、ビルマになだれ込み、インドに進撃した。

アメリカの新聞は「史上稀にみる巨大帝国の出現」という記事であふれた。1942年の地図をざっと見るかぎり、この表現は必ずしも誇張とは思えなかった。アメリカの広報担当者たちは、こうした事実を基にして、「凶暴で猛々しい戦闘民族像」をつくり出した。日本軍が緒戦に勝った理由を十分に分析しないで、日本の兵士の勇猛さとか指導部の野望に結びつけた。

だから、いまでも、日本軍はあと1cmでアメリカを「征服」し、「ホワイト・ハウスで講話を結ぶ」ところまできていたと信じているアメリカ人が少なくない。



日本人の勇猛さに対する恐怖は、ほとんど根拠のないものだったが、誇張されたプロパガンダがそれを覆い隠してしまった。日本の戦争機関は一度も「アメリカの安全を脅かした」ことはなかったのだ。

日本が実際にやったことといえば、私たちの海岸線から3,700kmも離れた軍港にいる艦船を爆撃したことである。彼らが私たちの大陸に最も近づいたのは、3,000km離れたアリューシャン列島の島を2つ占領したときである。それも攻撃の先鋒としてではなく、アメリカの攻撃を遅らせるための自衛手段だった。

日本が最もファナティック(狂信的)だった時期の最もファナティック(狂信的)な日本人でも、アメリカを「征服」できるなどとは考えていなかった。



山本提督が「ホワイト・ハウスで講話を結ぶ」といったことが徹底して宣伝され、この発言はいまやアメリカ人にとって消しがたい神話の一部となっているが、彼はけっしてそう豪語したのではない。

この言葉はむしろ、アメリカとの間で問題をこじらせると、日本にとって非常にむずかしいことになるという警告だったのだ。彼がその中で「豪語」したという手紙は、占領後に日本で見つかった。その内容はこうである。

もし日本とアメリカの間で戦争が起きれば、グアム、フィリピンを取るだけでは十分ではない。ハワイ、サンフランシスコを取ってもまだ十分ではない。われわれはワシントンまで攻め入って、ホワイト・ハウスで条約に調印する以外に道はない。

わが国の政治家は、果たして開戦がもたらす結果に確信をもっているであろうか、そのために支払うべき犠牲を覚悟しているであろうか。

私たちの戦争に関する説明と平和計画は、こういう「証拠」の上に成り立っている。





パールハーバー以前は、経済封鎖に対する日本の脆さを知っている人なら、日本が大国にとって軍事的脅威になるなどということを、誰も本気で考えたことはない。

日本は近代戦のための重要物資をすべて輸入しなければならないのだから、物資の補給が遮断されれば、戦争機関は自動的に停止してしまう。しかも、日本は食料も輸入しなければならないのだから、海上輸送路が遮断されれば、通常の国内経済は立ちゆかなくなる。

パールハーバー以前の日本軍には、事実上無防備の中国なら十分やっつける力はあったろう。長征部隊の奇襲攻撃や暴発的反抗なら叩くことはできただろうが、大国相手の本格的長期戦に勝てるとは考えられていなかった。



パールハーバー以前の日本の軍事力が基本的に弱かったのは、日本軍が「日華事変」に苦労していたことからも明らかだ。この戦争の5年間、日本の戦闘機関はイギリス、オランダが中国内にもつ鉱山から、あるいはアメリカに助けられて物資を補給していた。

イギリスはビルマ鉄道を封鎖するなどして側面から援助していたし、華北でもさまざまな形の経済的、財政的援助をしていた。にもかかわらず、日本は「事変」を軍事的に終結させるだけの決定的勝利を収めることができなかった。新聞や政治家は、日本軍は「中国を征服する」どころか、孤立した拠点の周辺を守るのが精いっぱいの状態である、と繰り返し伝えていた。

スチムソンは1940年6月までにニューヨーク・タイムズに送った手紙の中で、日本軍は「泥沼に入り始めた」といっている。汪精衛(おうせいえい、南京政権と大軍閥を率いていた)のような中国人指導者や、上海、香港の多くの中国人協力者の全面的協力がなかったら、アメリカの武器援助があったにしても、日本軍が戦争を継続できたかどうか、きわめて疑わしい。



蒋介石のオーストラリア人顧問、W.H.ドナルドがルソンの日本軍捕虜収容所から解放されたあとのインタビューで語ったところによると、日本は1938年から1941年の間に「十二の和平提案」を行っている。

日本側の条件は中国側に「有利」なものだった、という。つまり、日本の要求は、満州国の独立の承認、華北の経済と開発に関する何らかの権利、「外蒙古から及ぶロシアの影響力の伸長を阻止するための内蒙古の政治的調整」だけだった。ドナルドは「日本はこれらの提案の中で、領土的要求はいっさいしていない」と語っている。

これが、中国における日本の目的にすべてだったとはいえないが、パールハーバー以前のアメリカの公式資料には、これとほぼ同じ内容の日本の公式声明が記録されている。



このように日本の脆弱さは十分に知られていたから、パールハーバー以前は、日本はまかり間違っても英米連合と戦争する危険を冒すことはあるまいと、広く信じられていた。パールハーバー前の英米の政治・経済戦略はこうした日本の基本的脆弱さを前提としていたようである。

だから、日本の第一撃の規模と速さはアメリカの軍事専門家を驚かせたのだが、これは日本国民にとっても驚きだった。日本の電撃戦の勝利が、日本の軍事力に対する認識を大きく狂わせた。

この成功をとらえて、日本はいまや「世界で最も巨大な帝国」を支配しているといった人々が、日本が東南アジアの占領地域を帝国の一部であると主張したことはないという事実については、何もいわないのだ。

これら占領地域について日本は、アメリカがアイスランドや北アフリカを占領したのと同じように、戦時の「防衛」手段として占領した、あるいは「有色植民地住民」をヨーロッパの宗主国から自由にするための「解放」軍として占領したものである、と主張していた。日本はほとんどの占領地域で現地「独立」政権をつくって、自分たちの主張が偽りでないことを証明しようとした。



もちろん、占領地域を征服領土にしようとした証拠がないからといって、日本の軍部がとくに自由を愛していたことにはならない。

それに、日本の緒戦段階での領土獲得は、軍事的成果ではなく政治的成果、あるいは放棄によるものである。日本はフランスのビシー政権との合意に基づいてインドシナを占領した。これはアメリカの北アフリカ占領を認めたダルラン提督が力を貸した結果なのだ。イギリスとオランダは植民地から撤退し、あるいは、抵抗らしい抵抗もせず領土を明け渡した。

そして、現地住民は消極的にしろ積極的にしろ、おおむね日本側についた。マレーとビルマからイギリスが撤退したのは、どこまでが軍事的結果で、どこまで政治戦略だったか明らかではないが、インド参戦の条件として、戦後の独立の保証を要求していたインド会議派の指導者とメンバー数千人が、日本のインド侵攻が間近に迫っていることを理由に逮捕されている。



私たちはパールハーバーで大きな損害を受けたものの、その後は善戦した。フィリピンでは相当数のフィリピン人が私たちとともに戦い、日本が当初送り込んだ兵士2万人のうち1万7,000人を殺した。日本軍は満州と中国から部隊を増派して、ようやくフィリピンを奪ったが、これは米軍が兵力を削減したあとのことである。

どちらが戦争を始めたかはともかく、私たちの戦争目的は、日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった。戦前、戦中を通じて、日本が帝国の一部として、あるいは委任統治領として支配する地域に攻め入り、アメリカ本土からはるか遠くに広がるアジアの島と領土を占領することがアメリカの目的だった。

そして、ついには日本の本土を占領することが私たちの目的だったのだが、「ふくれあがった軍国主義日本の虚像」が、この事実から私たちの注意をそらしてしまった。



ところで、日本を征服するために私たちが戦わなければならなかった「敵」は、兵站線と地形だった。気候と地形がまったく違う広大な場所に展開する膨大な兵力への補給、恐怖と困難に加えて、ジャングル特有の疾病、毒虫、爬虫類、そういう敵が数多くいた。この悪条件のもとでは、日本兵がとくに強くなくても、戦闘は十分厳しいものだった。

日本軍が快進撃を果たしたのは初めの2、3ヶ月にすぎない。彼らは事実上ほとんど抵抗を受けないで進撃したが、実際はこの段階ですでに戦争に負けていた。彼らは戦線を広げすぎて、自分の首に縄をかけてしまった。私たちは、日本軍の補給線を切断して、首の縄を絞めさえすればよかったのだ。

私たちは、日本軍の扼殺に向かって着実に前進していた。パールハーバーとフィリピンでこうむった被害にもかかわらず、1942年5月には、早くも私たちは日本軍の進撃を食い止めた。



しかし、日本軍は別にアメリカ本土を目指していたわけではない。アメリカとオーストラリアの連絡路を切断するために前進していたのだ。1942年6月のミッドウェー海戦で、私たちは「海軍航空力の優位を確保し…その結果、海軍力全体の優位」を確実にした。

日本軍の軍事物資不足に加え、「お粗末な作戦指揮と戦術」のおかげで、私たちは開戦初年で、日本の海上輸送、兵員増強、補給の首を「絞め上げ」始めていた。オーブリー・W・フィッチ提督によると、1943年までに、われわれは「従来規模の電撃戦なら総攻撃をかけられる」だけの戦力を配備し終えていた。

1944年に入ると、アメリカの工業生産は本格的に回転を始めた。日本では、ただでさえ足りない工場施設が生産の限界に達し、必需物資さえ不足し始めていた。



早くもこの段階で前線からの報道は、日本の戦争機関は急速に失速しているとの観測を伝え始めた。2月8日、フランク・クラックホーン記者は、ニューギニアから次のような記事を書き送っている。

ジャップ(日本軍)は遠隔の占領地を守る意欲も能力ももっていない。南太平洋のいたるところで、ジャップ(日本軍)はずたずたにされるだろう。…ジャップ(日本軍)の状況は、わが海軍、陸軍、空軍、ワシントンが現認し…思っていたよりもっと悪化している。

もはや日本の海軍と空軍はささやかな抵抗しかできなくなっていた。日本陸軍の主力部隊は、後方基地と補給拠点から切り離され、ゲリラ集団と化していた。

1944年4月3日付のニューヨーク・タイムズは、米軍は南・南西太平洋地域で少なくとも10万の日本軍部隊を封じ込め、「日本兵は弾薬が尽きるまで戦うか、ジャングル深く逃げ込んで飢えて死ぬか、病死するかの絶望的な状況に追い込まれている」と伝えた。4月11日付の同紙は「日本兵は次第に発見しにくくなっている。わが軍の前線指揮官にとっては、これが悩みのたねである」というローウェル将軍の言葉を伝えている。



1944年2月29日には、ノックス海軍長官が米潜水艦は日本の艦船のほぼ半分を沈めたと発表した。「日本は所有する、あるいは押収または購入によって取得した全輸送船750万トンのうち300万トン以上を失った」。これに対して、同作戦中にわが方の潜水艦がこうむった損害は「驚くほど小さい」ものだった。

1944年5月の段階で、フォレスタル海軍長官の言明として伝えられたところによれば「われわれは太平洋の敵領海内2,400kmの地域で思いのまま作戦活動ができる」ところまできていた。そして「戦艦・空母からなる機動艦隊の積極攻撃はまったく日本海軍の妨害を受けていない」のだった。

1944年5月14日付のニューヨーク・タイムズの見出しは、アメリカが「太平洋の制海権」を握ったことを伝えていた。1944年8月までに、戦闘はほとんど終わり、あとは「掃討作戦」を残すだけだった。フィッチ提督によれば「いままさに攻撃を開始しようとしている艦船、航空機、新旧合わせた各種武器の大規模展開にくらべたら、過去8ヶ月にわたって日本軍に鉄槌を加えてきたタスク・フォース(機動艦隊)58は夏の微風程度のもの」だった。



1944年8月までに、米軍は何回か日本本土の目標を爆撃している。さらに12月にかけて、週に4、5回、定期的に本土爆撃に出動した。

1945年3月21日の記者会見で、ジョージ ・C・ケニー中将は、「9月1日以来、日本空軍は1万機の飛行機を失った」ことを明らかにし、「日本空軍は壊滅した。もはや脅威ではない」と語った。この会見のさい、日本列島上空に「危険な迎撃態勢」が展開されているか、という質問が報道検閲官の注意を受けたが、将軍はこれを無視し「日本軍はもはや脅威ではないだろう」といいきった。そして、仮にわれわれが日本に飛行機を与えても、日本にはそれを操縦できるパイロットも、維持点検できる整備兵もいない、とつけ加えた。

「日本の優秀な整備兵たちは遠くラバウル、ブーゲンビル、ウェーク、ニューギニアの沼地にいる。日本が彼らを連れて帰ることは不可能だ。なぜなら、船を送っても、うちの若者たちが出ていって、沈めてしまうからだ」

ケニー将軍はまた、1月9日のルソン進攻開始以来、わが軍は敵機にまったく悩まされていないと語った。



このように、日本の攻撃力の壊滅がはっきりしているにもかかわらず、アメリカは1945年3月、東京に対して焼夷弾の絨毯爆撃を開始した。

そして7月までに、日本の空・海軍力は、ルメイ将軍が「敵の戦争指導者と彼らの防衛能力を辱めるジェスチャーとして」日本の主要11都市に爆撃予告のビラを撒くところまで、インポテンツ(機能不能)にされていた。ビラは「2、3日以内に」これら全都市が爆撃されることを予告したもので、同将軍は「よく知られたアメリカの人道主義に注意を喚起し、市民に町から逃げるよう呼びかけた。

同じ7月、ハルゼー提督は艦砲の射程内まで艦隊を海岸に近づけ、「抵抗なき猛撃」を始めた。3月1日以降、日本の軍事行動は米軍の本土上陸を遅らせようと無駄な努力を重ねることでしかなかった。



1945年フィリピン奪回作戦に関する公式報告は次のように述べている。

…日本軍はこの地域に展開させていた全部隊と補給物資のすべて、それに中国、満州から派遣した三・五師団を失った。フィリピン作戦全体では彼らは9,000機の飛行機を失った。1945年3月1日、日本軍は本土以外の地上軍には補給物資を送らないことを決定した。引き延ばし作戦は別にして、日本は本土防衛に全力を傾注せざるをえない状態であった。

同報告はさらに、1945年3月段階での日本の危機的状況を次のように概括している。

…日本本土に対する直接的な大規模爆撃までに、日本軍はカミカゼ攻撃隊だけになっていた。艦隊は沈められるか、無力化されていた。輸送船団の多くが失われ、地上軍の大半が孤立していた。そして経済は窒息し始めていた。

海軍は4月までに、日本の主要都市の「海峡と港湾に機雷を敷設する大規模計画」を作成していた。まさに全面封鎖だった。日本の侵略的戦争機関は完全に無力化された。



3月の東京爆撃以後、米軍は日本軍相手ではなく、主に「一般市民」を相手に戦争をしていた。

ニューヨーク・タイムズの軍事専門記者、W・H・ローレンスは1945年8月14日、グアム発の記事の中で、3月9日(日本時間、10日未明)の東京爆撃はわれわれの戦争の新局面であり、「大きな賭け」というべきものだ、と書いている。ローレンス記者は「ルメイ将軍は先例のない低空まで飛行機を送り込もうとしていた…これは危険な作戦であり、ドイツ相手なら自殺行為だ。アメリカ人の心情からしても、ギャンブルである。大都市を焼き払い、市民を殺戮するために全力をあげるというのは、初めてのことだからだ」と作戦の危険性を指摘している。

つまり、この一種の恐怖戦争に対してアメリカ世論が否定的反応を示すかもしれないところにギャンブル性がある、とみたのだった。軍指導部は、ドイツがチェコスロバキアのリディッツェ(プラハ近郊の村。1942年、ナチ高官暗殺の報復攻撃を受け壊滅した)を破壊し、イタリアがスペインのゲルニカを破壊したときの、私たちの強い反応を覚えているだろうから、それよりもっと恐ろしい政策を国民が支持するかどうか、確信がもてなかったのではないか、というわけだ。



ところが、アメリカ国民は何の抗議もせずに、すんなり大爆撃を受け入れた。この爆撃でも、その後の64都市に対する焼夷弾爆撃でも、都市全域が目標だった。ローレンス記者が伝えたところによると、この焦土作戦によって「日本の都市工業地域158平方マイルが焼かれ、推定850万人の市民が家を失うか、死亡した」。

3月10日の爆撃について、ニューヨーク・タイムズの特派員はこう書いている。

「東京の中心部はなくなった。つい24時間前、大小さまざまな工場、住宅が建っていた首都の中心部15平方マイルが灰とくすぶりつづける瓦礫に覆われている。…優先攻撃目標から外されたのは、高級住宅地のある周辺の丘陵地隊ぐらいだった」

また5月29日の横浜爆撃では「市民は群れをなして逃げ惑ったが、…安全な場所はなかった。町全体が目標だった」。紙と木でできた日本独特の建造物が焼夷弾の火つけ木の役割を果たし、そのために日本の全都市で多くの人命と財産が失われていった。横浜爆撃を伝えた特派員は「高級住宅地は現代的建築だったから、いくぶんは火の回りは遅かったが、一般の住宅地は昔ながらの木と紙の家屋だった」とコメントしている。



8月3日、グアムから記事を送ったW・H・ローレンスは、こうした現状に疑問を呈している。同記者は、陸海空三軍の間に対抗意識がなければ、もっと手ひどく、もっと早く日本を倒すことができるだろうに、と首をかしげるのだ。

信じられないような一ヶ月だった。ウィリアム・F・ハルゼー提督が率いる艦隊…これだけの機動力が1ヶ所に集められたのは太平洋戦史上初めてという最強の艦隊が、7月初めから日本列島沿岸を遊弋し、艦載機を発進させている。…一連の出撃で日本海軍は無に帰し、敵は戦闘機数百機を失った。ときおり戦艦、巡洋艦、駆逐艦を十分接近させて、工場施設に艦砲射撃を加えている。その間、この大艦隊は…「大攻勢」の名に値する反撃を受けることがなかった。われわれにすれば、撃墜すべき敵の機影が空中にあまりにも少なすぎるのが悲劇だった。

この期間、マリアナを基地とするB29も大活躍していた。われわれは、爆撃する都市を事前に予告して出撃するところまできている。それでも予期したほどに反撃が強まる訳でもなく、予告どおり出撃し爆撃できた。7月の一ヶ月間だけで、当地から出撃したB29は約4万トンの爆弾を39の主要工業地帯と13の工場に投下した。

この作戦で私たちが失ったのは飛行機11機だった。ローレンス記者はこれに一応満足しながらも、陸海空三軍の攻撃力が一本にまとまっていたら、結果はもっと良かったろうに、と嘆くのだ。



8月6日、同記者は別の記事で次のように書いている。

空軍が行なった空の大要塞作戦の戦果は、史上最大、圧倒的なものだった。あらゆる戦争の中でも最も激しい今度の戦争の、その中でも前代未聞といえる破壊を空軍は成し遂げつつある。しかも、わが方には人的、物的損失がほとんどない。この9日間に、B291,000機を3班に分けた大編成部隊が、敵本土の14の主要工業施設と3つの主要石油貯蔵施設に1万4,000トンの焼夷弾と破壊用爆弾を投下した。

日本側はこれら全都市の破壊を事前に通告されていたにもかかわらず、3回の出撃でわれわれがこうむった損害といえば、2機の爆撃機が行方不明になっただけである。…決死の敵に対して、これほど小さい損害で、これほど恐ろしい破壊が行われたことは戦史上例がない。この大爆撃作戦の遂行者たちは、自分たちの爆撃の正確さと効率の良さ、帝国の都市防衛に立ち上がれない日本空軍の無力さに驚いている。日本の対空砲火は、焦土作戦を展開している空の艦隊にとって、大きな妨げになっていないのである。



前の記事で「都市全域が爆撃目標である」と伝えたローレンス記者が、爆撃の正確さを口にするのは皮肉である。なぜ日本空軍が迎撃に飛び立たないのかという疑問に対しては、「日本の優秀なパイロットはほとんどが戦死した」という1945年6月7日の戦時情報部(OWI)報告が答えている。これに対して、戦争が終わった段階で、アメリカには海軍のパイロットと海兵隊員だけで4万7,000人もいた。

悪いことは、なるべく良くみせたいものだ。それにしても、太平洋における戦闘の推移を新聞報道で追ってみると、「平和愛好国民」たるアメリカ人が大喜びで敵を追っ駆けていたかのようである。わが特派員たちは「いい猟」とか「獲物」とか「マリアナの七面鳥射ち」などと書いていた。彼らは戦時記事にスポーツ用語をつかう、イギリス人の悪い癖に安易にはまりこんでいた。

このように、いつも私たちが使っていた言葉で表現するなら、7月から始まった一般市民に対する焼夷弾爆撃は「動かないアヒル射ち」だった。























なぜ原爆より重罪なのか? [山下裁判]



話:ヘレン・ミアーズ







戦争犯罪とは何か


ジョンストン島にいたわずかな間にも、また一つ、複雑で不可解な国際問題を突きつけられた。島のラジオで「マレーの虎」山下将軍がマニラで戦犯として処刑されたことを知ったのだ。

山下将軍が有罪とされたのは、大きく分けて「人道に対する罪」と「崇高なる軍人信仰の冒涜」によってであった。具体的にいうと、日本軍がマニラを「非武装都市」とみなすことを拒否したこと、一般人と捕虜を虐待したこと、フィリピン作戦中に民間人を虐殺したこと、などの罪である。

山下は、自ら大量虐殺や虐待を命令したという理由で有罪になったのではない。配下の部隊を統制できなかった罪を問われたのである。彼は「軍服、階級章、その他軍人であったことを証明するものいっさいの剥奪」をいい渡され、軍司令官としてではなく、武人の本分を汚した一犯罪人として絞首された。



山下将軍を裁いたのは軍事法廷である。しかし、有罪の認定と不名誉な条件での死刑判決は、マッカーサー将軍、米最高裁、トルーマン大統領の審理を経て確定した。つまり、山下裁判はアメリカの司法基準に基づいて審理されたものとして記録されたのだ。

パールハーバー同様、戦争犯罪人の問題は何百万語を費やして論議されてきた。しかしながら、これもまたパールハーバーと同じで、議論は基本的で重要な問題を明確にするよりは、むしろ覆い隠そうとするものだった。きわめて重要な意味をもつ決定が、その問題の意味について論議も、理解もされないまま、飛行機の速さで下されている。だから、下された決定は、そうでなくてもわかりにくい状況を、ますますわかりにくくしてしまうのだ。

山下を戦争犯罪人として罰したことは、アメリカ人が実際に考えている以上に重大な意味をもっている。私たちとヨーロッパのナチスもしくはファシストとの関係は、基本的にいって、同じ文明から出てきた同一種類の人間との関係である。したがって、彼らを罰することによって、私たちは狂気に走った私たち自身の文明を罰しているのである。戦争行為に贖罪の意味がこめられていた。



しかし、山下が代表しているのはアジアである。彼は「解放」の旗をかざしてアジアと太平洋の島々を駆け巡った「有色人種」の代表なのだ。抑圧されたアジアの同胞と「有色植民地住民」を「白い」圧制者から「解放」するという山下たちの旗は、政治的には偽りであっても、心情的には真実である。

日本は戦争宣伝の中で、アジアの「原住民族」に次のように呼びかけている。白色人種は、抑圧された民族を解放しようとする「有色人種」のいかなる試みも圧殺するために戦いを仕掛けてくるだろう。白色人種は占領国日本には、イタリアやドイツに対するより、ずっと厳しい扱いをするだろう。日本が大国として認められるまで、白色人種が占めていた元の場所に「有色人種」を追いもどすのが、彼らの狙いなのである…。

戦争の原因とその後の展開をこのように意味づけるのは、アメリカ人からみれば、きわめて悪質な歪曲である。しかし、日本に最初の勝利をもたらしたのは、実にこのプロパガンダだったのだ。これから、何千万のアジア人はこうした歴史的経過に照らして、アメリカの戦後計画をみきわめていくだろう。



山下裁判が始まった直後の1945年10月、ニューヨーク・タイムズの社説は「山下司令官のような階級にある軍人が、部下が犯した残虐行為の責任を問われた例はいまだかつてない」と次のように論評している。

これは、一国の将官たちの前で開かれる純粋な軍法会議である。したがって判決の是非を審理するのは軍当局でしかない。だとすれば、その判例は、仮に判例たりえたとしても、連合国がニュールンベルクで打ち出そうとしているものほどには重要ではない。しかしながら、日本人に西洋の考え方を改めて教えこむためには、意味のある判決でなければならない

ニューヨーク・タイムズの山下裁判の位置づけは、結果的には間違っていた。というのは、判決は米最高裁で審理されたからである。しかし、「日本人を再教育するための判決」という後段の記述は、社説の筆者が考えたほど正しくなかったともいえるし、それ以上に正しかったともいえる。

正しくなかったというのは、マッカーサー将軍は、山下判決を確定するにあたって、日本の新聞に対しては厳重な報道管制を敷き、判決の詳細を報道することを禁じたからである。つまり、マッカーサー将軍は、「西洋の考え方」を示すことが日本の「民主化」に役立つとは考えていなかったということになる。新聞に報道されたマッカーサー将軍の声明を読むアメリカ人も、この判決が日本の民主化に役立つとは思わないだろう。





将軍は次のようにいうのである。

かつてこれほど残虐で非道な事実が、衆目にさらされたことはない。それ自体、すでに吐き気を催すものだが、それでも、軍人の職分をかくも邪悪に逸脱した罪の重大さには及ばない。

兵は敵味方を問わず、弱きものと武器をもたないものを守る義務がある。それが兵の本分であり、存在理由である。兵が神聖な信念に背くとき、彼は自ら崇拝すべきものを冒涜するのみならず、国際社会の構造をも脅かすのである。戦士の伝統は長く、高邁なものであり、人間のもっとも高貴な特性、すなわち犠牲の上に成り立っているのである。

占領国日本に向かう途中、この声明を読んだ私の頭は完全に混乱してしまった。まず第一に、日本の国家宗教である神道を軍国主義を美化するものとして、最初の占領軍指令で禁じたアメリカ人の口から、「軍人の職分」に対する「崇拝(カルト)」を礼賛する言葉が飛び出したことが不思議だった。

それ以上に重要なのは、ここに倫理の二重基準が浮き彫りにされていることである。これまであまり取り上げられたことはないが、この二重基準こそが、国際的な混乱を引き起こしている重大な原因なのである。



日本軍がフィリピンで犯した残虐行為は、日本の歴史にとって永久の汚点となるだろう。日本兵が残酷で残忍であったことは明らかな事実だ。それでも、山下裁判とマッカーサー声明の根底にある考え方は受け入れがたい。戦争は非人間的な状況である。自分の命を守るために闘っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。

ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、脅えきった若い米兵が、日本兵のあとにつづいて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、脅えきっている人間なのである。





戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局、それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。

政策としての大量殺戮を告発するほうがより重要である。戦争当初、日本の戦争機関が恐怖政策の一環として中国の非戦闘員を爆撃したことに対するアメリカ人の怒りは正当な感情だった。しかし、戦争終結と山下裁判の時点までに、アメリカは倫理的優位性を失ってしまったのだ。



山下裁判の記録を詳細に読むと、彼の最も大きな罪とされているのは、人口2,000のフィリピンの村を、男、女、子供を問わず全村殺戮したことである。近接地域を掃討しつつ進撃してきた米軍がフィリピンに着いたときには、すでに村民は殺されていた。これは、戦闘の狂気と恐怖で錯乱状態に陥った部隊による殺戮であって、政策として命令されたものではない。

追い詰められてヒステリー状態にあったとはいえ、2,000の非戦闘員を殺すということは、もちろん恐るべき犯罪である。

しかし、絶体絶命の状況のもとで戦っているわけでもない強大国アメリカが、すでに事実上戦争に勝っているというのに、一秒で12万人の非戦闘員を殺傷できる新型兵器を行使するほうが、はるかに恐ろしいことではないか

山下将軍の罪は、なぜ広島、長崎に原子爆弾の投下を命じたものの罪より重いのか? 日本のプレス向けに出した声明を自ら点検しながら、マッカーサー将軍は無意識のうちに、この疑問に悩まされていたのかもしれない。

もちろん、人道に対する罪を犯したものは罰しなければならない。しかし、占領国日本に島伝いに向かう私の行く手には、希望とその現実の間に、答えてもらえない疑問の山がそびえ立っているように思えるのだった。







出典:ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡:日本』




2017年8月8日火曜日

数字でみる日米軍事差[WW2]





話:ヘレン・ミアーズ





私たち(アメリカ人)は日本人の「ファナティック(狂信的)な好戦的」性格を強調しすぎてきた。だから、たとえ日本人がその何倍もファナティック(狂信的)だったにせよ、私たちとのいかなる戦争にも勝てるはずはなかったという事実がぼかされているのだ。

私たちは日本の「軍国主義的性格」にこだわりすぎたために、近代戦の勝利はほとんど、狂信的兵士にではなく工場労働者に負っている事実がみえなくなっている。1944年1月末の時点で、アメリカの産業死亡件数は戦死者数を7,500件上回っている。兵士個々の英雄的行為と苦難は、敵味方いずれの側であれ、軽んじるつもりはない。しかし、軍事力が高度に機械化された今日の世界では、工業生産力を無視して「世界の脅威」を正しく論議することはできないのだ。

総じて私たち(アメリカ人)は、日本をドイツと同じぐらい豊かな工業国だと思ってきたが、これはまったく違う。戦時生産局の推定によれば、第二次大戦中、ドイツとドイツ統治領は枢軸国の軍事物資の90%を生産していた。イタリアと日本は残りの10%を分担していたにすぎない。アメリカが1942年末までに生産した戦車、航空機、鉄砲、艦船の量は枢軸国全体の生産量に匹敵する。この推定の確度はともかくとして、工業、軍事国家としての日本はドイツやアメリカにくらべて「ピグミー程度のもの」だったのだ。



日米の軍事費の差は圧倒的だ。満州事変以降の両国の軍事予算を比較すると、日本軍がアジアで活発に動いていた(私たちアメリカの公式非難によれば、世界を征服しようとしていた)ときでも、アメリカの平時における通常軍事費のほうが日本の軍事費をはるかに上回っている。

たとえば1931年の米軍事予算はもう少しで日本の3倍を超えるところまできていた。満州事変に関する公式報告が正しければ、この年日本は「1億5,200万ドル」に満たない軍事予算で世界征服を開始し、一方、私たちは国内の軍隊を満足させるだけで「6億6,700万ドル」を必要としていた。

もし日本が本気で世界征服に乗り出したというのなら、これでいったいどうするつもりだったのか。日本が近代的軍事力をもつには、飛行機部品、屑鉄、石油、工作機械、ゴム、スズ、銅、綿など必要な物資や基本原料をアメリカ、イギリス、オランダから買い入れなければならなかったし、まして米ドルと英ポンドで支払わなければならなかったことを考えると、日本のいわゆる世界征服は初めから本物ではなかったといえるのだ。

確かに日本の軍事予算は満州事変以降、着実に増えていった。日本の国家予算の規模からいえば、きわめて大きな伸びである。しかし、米ドルに換算し、アメリカの軍事費増と比較すると、それほどの伸びではない。1941年までに、日本の年間軍事費は13億3,400万ドルに達しているが、アメリカの「国防」支出は60億ドルにまでふくらみつつあった。

日米関係が戦争に向かって急速に悪化していた1941年11月中旬、両国政府はそれぞれの議会に軍事予算の増額を求めている。ルーズベルト大統領は「70億ドルの増額」を、日本政府は「9億8,000万ドル」の増額を要請した。1943年1月のルーズベルト大統領の予算教書によれば、パールハーバー直後から私たちは毎月「20億ドル」を支出している。日本が重大なパールハーバーの年の一年間に認められた軍事費をほとんど一ヶ月でつかっていた。

日本の軍事予算は1944 - 45年に380億円を追加計上してピークに達した。これは「ほぼ90億ドル」に相当するが、すでに日本の工業生産は成長が止まっていたし、基本物資不足のために減少し初めていたのだから、これは単なる期待値にすぎない。これに対して、同じ時期、私たちは「970億ドル」にのぼる国防費を認められて、戦闘態勢に入ったのだ。

1937年7月の「日華事変」からパールハーバーまでの4年5ヶ月の間に、日本は中国と満州の軍事・防衛活動に「62億5,000万ドル」をつかった。1940年7月から1941年3月までに、アメリカは「1,610億ドル」をつかっている。満州事変から降伏まで、14年間の日本のそう軍事予算は「480億ドル」を下回っている。これはアメリカが武器貸与法で同盟国に供与した額をやや上回る程度である。戦争の全期間を通じて私たちが支出した軍事費は「3,300億ドル」にのぼっているのだ。



こうした数字を艦船、航空機、戦車、弾薬に置き換えてみると、「脅威」の内容がよくわかる。対日戦略を策定した人たちが、日本の狂信的神道崇拝なるものではなく、厳しい経済状態を事実に即して見ていたら、貴重な人命と財産をこれほど犠牲にしなくても日本の軍部は敗北していただろう。

国家は人間によって統治されているから、人間と同じように自分の立場で他人を見ようとする。あまりにも豊かで強大な国に住む私たちアメリカ人は、戦争が始まったとたん、日本の軍事力を過大評価するようになった。同じように、逼迫した経済状態の国に住む日本人は、とかくアメリカを過小評価していたのだ。

パールハーバーの時点で、私たちの戦時生産計画は日本をはるかに超えていた。私たちは「日本人はファナティック(狂信的)な軍国主義者である」という公式非難を鵜呑みにして、日本の生産態勢が1942年半ばまでは、必ずしも全面的に戦争目的に振り向けられていなかったことに気づいていない。一方、日本は緒戦にたやすく勝ってしまい、アメリカ、イギリス、オランダが太平洋とアジアの領土に蓄えていた戦争物資を手に入れることができたから、軍事大国幻想にとり憑かれてしまった。



パールハーバーの時点で日本の陸海軍がもっていた飛行機は全部で「2,625機」だった。アメリカと連合国が太平洋の基地に配備していた飛行機は「1,290機」にすぎない。一見して日本のほうが圧倒的に有利に思える。しかし、日本の飛行機は満州から南太平洋まで、広く薄く配備しなければならなかった。月間生産量はわずか「642機」で、9ヶ月間このままの数字で推移している。1944年9月に月間生産量は最高の「2,572機」に達したが、それからすぐ原材料不足のために落ちはじめる。もちろん、訓練されたパイロット、整備兵、燃料も足りなかった。

私たちのほうは1941年6月には月間「1,600機」の飛行機を製造していた。以後生産量は急速かつ着実に伸びて、1943年に「8,000機」を超え、1944年には「9,000機」に達した。1945年には私たちの一年間の製造機数は、日本が1941年から降伏までに製造した飛行機の2倍にのぼっている。

そのうえ日本はアメリカの「1」に対して「10」の割合で飛行機を失っていった。そして、戦闘用飛行機といえば、航続距離の長い巨大爆撃機「空の大要塞」を考える私たちアメリカに対して、日本人は脆弱なゼロ戦と小型の片道カミカゼ飛行機を考えていたのだ。



日本海軍は常に日本の巨大兵器であるといわれてきた。しかし、総重量トンと戦略のいずれの面でも、第一級の海軍国家と本格戦争を構えられるようなものではなかった。

1940年2月の帝国議会予算審議で、海軍は2,780万円の「近代化後肝炎計画」の承認を求めた。この審議の模様を伝えた新聞報道によれば、国会は軍の要求を法外なものとして「怒り」を表明したという。しかし、海軍の要求は「700万ドル程度」で、むしろ控え目とさえいえるものだった。同じ年の7月、米国議会は戦艦44隻、非戦闘艦1隻を補強する海軍拡充計画を承認している。総額「5億5,000万ドル」、一艦当たり1,200万ドルの支出である。アメリカ海軍からみれば、日本海軍は「手漕ぎボート程度」の計画を立てていたのである。

日本は「127万1,000総トン」の艦船で戦争を始めた。戦争中、彼らは新たに104万8,000トンの艦船を建造し、総重量は231万9,000トンとなった。1941年に私たちアメリカが新たに建造したのは「93万5,422トン」である。1942年には、日本海軍の総トン数に相当する艦船を増強した。1944年になると、私たちは日本が戦争開始から終結までに保有した全艦船の3倍に匹敵するトン数を新造した。ところが、すでに日本海軍は沈没と燃料不足から形ばかりの防衛戦力に成り下がっていた。

1943年9月には、私たちアメリカは「史上最強の艦隊、世界最強の海軍航空兵力」を宣言する。米戦略爆撃調査によれば、1945年春の段階で、日本の「わずかに残った艦船は燃料がないために廃棄されるか、カムフラージュされて対空施設につかわれているにすぎない」状態となっていた。

日本の輸送船は底をついていた。米戦略爆撃調査は「…日本が戦争を始めたとき、輸送船団はわずか600万トンで、ぎりぎり最低限の要求に応じられる程度のものだった。日本の建造量はたちまち損失量に追い越された。日本が保有していた輸送船総数の88%が戦争中に撃沈された」と述べている。戦争が終わった時点で、私たちは5,500万トンの船を残していた。



鉄鋼生産だけとってみても、十分状況がわかる。鉄はいかなる軍事計画にとっても筋肉であり骨である。1939年、アメリカは「5,250万トン」の鉄を生産していた。生産はさらに増大し、1942年には「8,800万トン」に達した。これはドイツ占領下のヨーロッパも含む枢軸国全体の推定生産量を上回る数字である。

日本の生産量は「世界征服」に乗り出した年の1943年で「333万4,000トン」である。大戦中の1943年に「780万トン」までもっていくが、これをピークとして1944年には「590万トン」まで落ち込んでいる。この間、基本原料の保有量と海上輸送圏は著しく縮小され、戦争終結時の鉄鋼生産量は「150万トン」になっていた。ちなみに1946年には32万トンを生産したにすぎない。



アメリカと諸外国の生産能力を数字の上で比較するにつけ、なぜ私たちアメリカが日本を怖れてきたか、わからなくなるのだ。アメリカは精神鑑定が必要かもしれない。

日本が経済的に窮乏していたという事実は、一つひとつが極めて重要な意味をもっている。もし日本が1931年に世界征服を開始したとしたら、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスは征服事業の協力者といわなければならない。これら各国が支配する地域からの物資供給がなければ、日本は満州事変と日華事変を遂行できなかったし、パールハーバー、シンガポールも攻撃できなかったろう。そればかりでなく、多くの日本人が食べていけなくなったろう。アメリカ、イギリス、オランダ三国は、日本の軍事必需品の85%を供給していた。1938年には、アメリカだけで57%を供給しているのだ。

日本の戦争機関が形成されたのは1938年以降のことである。全生産を戦争に振り向けるようになったのは、ようやく1942年になってからだ。日本が日華事変を継続させることができたのは、アメリカとイギリス、オランダ両帝国から買っていた綿、工作機械、石油、屑鉄など戦略物資のおかげなのだ。そのおかげで対米関係の悪化に備えて備蓄もできた。そして、戦争開始から数年間を賄うだけの軍事力がもてたのは、シンガポール、マレー、フィリピン、インドで得た略奪品のおかげなのだ。しかし、海上輸送手段と産業施設が不十分だったために、占領地域で原料を増産することができなかった。米戦略爆撃調査はその点についてこういっている。

「海上封鎖が占領地域の資源開発を妨げ、日本経済を失調させ、原料物資不足をもたらした。この結果、戦時生産は停滞し、石油不足から艦船、航空機の活動は停滞し、訓練回数も削減された」

つまり、私たちは小規模の「脅威」をつくり出し、それがいかにも巨大であるかのごとくに追いまわしていたのだ。







出典:アメリカの鏡・日本 完全版




『アメリカの鏡:日本』[WW2]



『アメリカの鏡:日本』より


占領が終わらなければ、日本人は、この本『Mirror for Amerianas: JAPAN』を日本語で読むことはできない。

ダグラス・マッカーサー




1948年、翻訳家・原百代氏は、ヘレン・ミアーズより原著『Mirror for Americans: JAPAN』の寄贈を受け、日本での翻訳出版の許可を得た。

原氏は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に嘆願書を添えて、日本における翻訳出版の許可を求めた。しかし、その望みは断たれた。翻訳出版不許可の決定がくだされたのだ。





占領が終了した翌年の1953年(昭和28年)、原氏の翻訳は『アメリカの反省』と題してやっと出版された。しかし、当時はなにゆえかあまり注目されず、その後は、ごく限られた専門家以外には、その存在すら忘れられていた。

現代史を勉強している私は、アメリカにいる友人からこの本『Mirror for Americans: JAPAN』の存在を教えられ、その内容を知った。そして自分自身で構築した歴史観を裏付けるその内容に激しい衝撃を受けた。50年も前に「後知恵」でなく、しかも、アメリカ人によって書かれていたこの本を、わたしは少しでも多くの日本人が読むべきであるとの強い思いを抱いた。





ヘレン・ミアーズは言う。


「私たちが、本当に平和を望んでいるのなら、世界の戦争原因を究明するにあたって、もっとも現実的になる必要があるだろう。そのためには日本は絶好の出発点である。



日本が第一次世界大戦時には『敵』ではなく『同盟国』だったから重要なのである。一つの国がいきなり『友人』から『敵』に変わった理由がわかれば、私たち地震の考えと政策が他国の人々に向けられるとき、それがどのように見えるか、知ることができる。

この本の意図は、少なくともその探求をはじめることにある。



日米双方で悪を演じているのは『危機的事態』なるものなのだ。第二次世界大戦を、三幕物の悲劇の第二幕だけで終わらせるためには、この危機の正体こそ検証しなければならない、と思ったのである。



日本帝国の彗星のような出現と消滅は、その意味についてまだ十分に議論されていない。近代にはいってわずかな間に、平和な鎖国主義から軍事大国主義へ急転換した日本の歴史は、四半世紀にわたる西洋世界の歴史の縮図なのである。

私たちは日本を客観的に研究することによって、私たちが生きる激動の時代の問題と矛盾を明らかにすることができる。そこではじめて、私たちは未来への流れをはっきりと方向付けることができるのだ。



力というものは、あまりに大きすぎると、小さすぎるのと同じように危険である。









比丘パッグナへの戒め[中部経典]



中部経典(マッジマ・ニカーヤ)
『ノコギリのたとえ』より





このように、私は聞きました。

あるとき、世尊は、サーヴァッティー市(舎衛場)のジェータ林にある、アナータピンディカ居士の僧院に住んでおられた。また、まさにそのころ、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。

比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いたとはこのようなことである。もし、比丘尼の誰かが、比丘モーリヤパッグヤの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグヤの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。



そこで、或る比丘が世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐ったその比丘は、世尊に、こう申し上げた。

「尊師、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います。比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、比丘モーリヤパッグナの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグナの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います」と。



そこで、世尊は、或る比丘を呼ばれた。

「さあ、比丘よ、あなたは、私の言葉をもって、モーリヤパッグナ比丘を呼びなさい。『友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます』」と。

「かしこまりました、尊師」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、比丘モーリヤパッグナのところに近づいて行った。行って、比丘モーリヤパッグナに、こう告げた。

「友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます」と。

「わかりました、友よ」と、まさに、比丘モーリヤパッグナは、その比丘に答えて、世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐った比丘モーリヤパッグナに、世尊は、こう告げた。

「本当ですか。聞くところによると、パッグナ、あなたは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上の関わりをもって)いるとのことです。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、あなたは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、あなたの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです」と。



「そのとおりです、尊師」

「パッグナ、あなたは、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったのではないですか」と。

「そのとおりです、尊師」

「パッグナ、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったあなたにとって、まさにこのことは、ふさわしいことではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)、住むようなことです。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしたからとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を捨て去るべきなのです。



そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちに手でもって殴るとしても、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。



パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、あなたの批判を口にするとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。







出典:アルボムッレ・スマナサーラ
怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む