話:ヘレン・ミアーズ
…
戦争犯罪とは何か
ジョンストン島にいたわずかな間にも、また一つ、複雑で不可解な国際問題を突きつけられた。島のラジオで「マレーの虎」山下将軍がマニラで戦犯として処刑されたことを知ったのだ。
山下将軍が有罪とされたのは、大きく分けて「人道に対する罪」と「崇高なる軍人信仰の冒涜」によってであった。具体的にいうと、日本軍がマニラを「非武装都市」とみなすことを拒否したこと、一般人と捕虜を虐待したこと、フィリピン作戦中に民間人を虐殺したこと、などの罪である。
山下は、自ら大量虐殺や虐待を命令したという理由で有罪になったのではない。配下の部隊を統制できなかった罪を問われたのである。彼は「軍服、階級章、その他軍人であったことを証明するものいっさいの剥奪」をいい渡され、軍司令官としてではなく、武人の本分を汚した一犯罪人として絞首された。
山下将軍を裁いたのは軍事法廷である。しかし、有罪の認定と不名誉な条件での死刑判決は、マッカーサー将軍、米最高裁、トルーマン大統領の審理を経て確定した。つまり、山下裁判はアメリカの司法基準に基づいて審理されたものとして記録されたのだ。
パールハーバー同様、戦争犯罪人の問題は何百万語を費やして論議されてきた。しかしながら、これもまたパールハーバーと同じで、議論は基本的で重要な問題を明確にするよりは、むしろ覆い隠そうとするものだった。きわめて重要な意味をもつ決定が、その問題の意味について論議も、理解もされないまま、飛行機の速さで下されている。だから、下された決定は、そうでなくてもわかりにくい状況を、ますますわかりにくくしてしまうのだ。
山下を戦争犯罪人として罰したことは、アメリカ人が実際に考えている以上に重大な意味をもっている。私たちとヨーロッパのナチスもしくはファシストとの関係は、基本的にいって、同じ文明から出てきた同一種類の人間との関係である。したがって、彼らを罰することによって、私たちは狂気に走った私たち自身の文明を罰しているのである。戦争行為に贖罪の意味がこめられていた。
しかし、山下が代表しているのはアジアである。彼は「解放」の旗をかざしてアジアと太平洋の島々を駆け巡った「有色人種」の代表なのだ。抑圧されたアジアの同胞と「有色植民地住民」を「白い」圧制者から「解放」するという山下たちの旗は、政治的には偽りであっても、心情的には真実である。
日本は戦争宣伝の中で、アジアの「原住民族」に次のように呼びかけている。白色人種は、抑圧された民族を解放しようとする「有色人種」のいかなる試みも圧殺するために戦いを仕掛けてくるだろう。白色人種は占領国日本には、イタリアやドイツに対するより、ずっと厳しい扱いをするだろう。日本が大国として認められるまで、白色人種が占めていた元の場所に「有色人種」を追いもどすのが、彼らの狙いなのである…。
戦争の原因とその後の展開をこのように意味づけるのは、アメリカ人からみれば、きわめて悪質な歪曲である。しかし、日本に最初の勝利をもたらしたのは、実にこのプロパガンダだったのだ。これから、何千万のアジア人はこうした歴史的経過に照らして、アメリカの戦後計画をみきわめていくだろう。
山下裁判が始まった直後の1945年10月、ニューヨーク・タイムズの社説は「山下司令官のような階級にある軍人が、部下が犯した残虐行為の責任を問われた例はいまだかつてない」と次のように論評している。
これは、一国の将官たちの前で開かれる純粋な軍法会議である。したがって判決の是非を審理するのは軍当局でしかない。だとすれば、その判例は、仮に判例たりえたとしても、連合国がニュールンベルクで打ち出そうとしているものほどには重要ではない。しかしながら、日本人に西洋の考え方を改めて教えこむためには、意味のある判決でなければならない。
ニューヨーク・タイムズの山下裁判の位置づけは、結果的には間違っていた。というのは、判決は米最高裁で審理されたからである。しかし、「日本人を再教育するための判決」という後段の記述は、社説の筆者が考えたほど正しくなかったともいえるし、それ以上に正しかったともいえる。
正しくなかったというのは、マッカーサー将軍は、山下判決を確定するにあたって、日本の新聞に対しては厳重な報道管制を敷き、判決の詳細を報道することを禁じたからである。つまり、マッカーサー将軍は、「西洋の考え方」を示すことが日本の「民主化」に役立つとは考えていなかったということになる。新聞に報道されたマッカーサー将軍の声明を読むアメリカ人も、この判決が日本の民主化に役立つとは思わないだろう。
将軍は次のようにいうのである。
かつてこれほど残虐で非道な事実が、衆目にさらされたことはない。それ自体、すでに吐き気を催すものだが、それでも、軍人の職分をかくも邪悪に逸脱した罪の重大さには及ばない。
兵は敵味方を問わず、弱きものと武器をもたないものを守る義務がある。それが兵の本分であり、存在理由である。兵が神聖な信念に背くとき、彼は自ら崇拝すべきものを冒涜するのみならず、国際社会の構造をも脅かすのである。戦士の伝統は長く、高邁なものであり、人間のもっとも高貴な特性、すなわち犠牲の上に成り立っているのである。
占領国日本に向かう途中、この声明を読んだ私の頭は完全に混乱してしまった。まず第一に、日本の国家宗教である神道を軍国主義を美化するものとして、最初の占領軍指令で禁じたアメリカ人の口から、「軍人の職分」に対する「崇拝(カルト)」を礼賛する言葉が飛び出したことが不思議だった。
それ以上に重要なのは、ここに倫理の二重基準が浮き彫りにされていることである。これまであまり取り上げられたことはないが、この二重基準こそが、国際的な混乱を引き起こしている重大な原因なのである。
日本軍がフィリピンで犯した残虐行為は、日本の歴史にとって永久の汚点となるだろう。日本兵が残酷で残忍であったことは明らかな事実だ。それでも、山下裁判とマッカーサー声明の根底にある考え方は受け入れがたい。戦争は非人間的な状況である。自分の命を守るために闘っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。
ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、脅えきった若い米兵が、日本兵のあとにつづいて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、脅えきっている人間なのである。
戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局、それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。
政策としての大量殺戮を告発するほうがより重要である。戦争当初、日本の戦争機関が恐怖政策の一環として中国の非戦闘員を爆撃したことに対するアメリカ人の怒りは正当な感情だった。しかし、戦争終結と山下裁判の時点までに、アメリカは倫理的優位性を失ってしまったのだ。
山下裁判の記録を詳細に読むと、彼の最も大きな罪とされているのは、人口2,000のフィリピンの村を、男、女、子供を問わず全村殺戮したことである。近接地域を掃討しつつ進撃してきた米軍がフィリピンに着いたときには、すでに村民は殺されていた。これは、戦闘の狂気と恐怖で錯乱状態に陥った部隊による殺戮であって、政策として命令されたものではない。
追い詰められてヒステリー状態にあったとはいえ、2,000の非戦闘員を殺すということは、もちろん恐るべき犯罪である。
しかし、絶体絶命の状況のもとで戦っているわけでもない強大国アメリカが、すでに事実上戦争に勝っているというのに、一秒で12万人の非戦闘員を殺傷できる新型兵器を行使するほうが、はるかに恐ろしいことではないか。
山下将軍の罪は、なぜ広島、長崎に原子爆弾の投下を命じたものの罪より重いのか? 日本のプレス向けに出した声明を自ら点検しながら、マッカーサー将軍は無意識のうちに、この疑問に悩まされていたのかもしれない。
もちろん、人道に対する罪を犯したものは罰しなければならない。しかし、占領国日本に島伝いに向かう私の行く手には、希望とその現実の間に、答えてもらえない疑問の山がそびえ立っているように思えるのだった。
…
出典:ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡:日本』
0 件のコメント:
コメントを投稿