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2018年5月9日水曜日

「時間がきたら死ぬだけです」【スマナサーラ】


From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29


話:アルボムッレ・スマナサーラ


…

私は、キリタラマヤのお寺に修行道場のビルを建てています。

最初にまず見積もりを取ったら、ものすごい金額でした。とてもそんなお金は出せません。ですから

「わたしは今、自分がもっているお金を全部つかって造ります。途中でお金がなくなったら、そこで完全に停止させます」

と、決めたのです。

「途中まで造って、残りはどうするんですか?」

と聞かれても、それは私に関係ありません。



3階建てのビルなのですが、予算のなかで骨組みと床スラブはできました。壁も造れました。今、タイルを貼っているところです。タイルをぜんぶ貼るために必要なお金は払っていますが、そこまでで資金がゼロになります。

そのときに「死ぬ前に造って終わりたい」などという非合理的な考えはもちません。「これ以上お金があったら、電気にもトイレの設計にも、まだまだ結構お金がかかるので、それはそれで大ごとだ」というふうに考えます。

合理的に考えれば、苦しみなないのです。「お金がもうなくなりました。そこから先は知りません。後の人が勝手にやってください」と淡々としているので、苦しみはありません。




サグラダ・ファミリアという教会にしてもそうでしょう? 

建築家ガウディは、彼ならではの仕事をしました。サグラダ・ファミリアの設計は、キリスト教というよりも「神は自然そのもの」というコンセプトなのです。自然体にある不思議な調和、不思議なバランス、奇妙なことも、びっくりすることも、すべて彼ならではの哲学でまとめたものです。

ガウディが死んでけっこう時がたっていますが、まだ建設中ですね。あと100年、200年、300年後ぐらい先に完成しても、「別にいいんじゃない?」という感じです。サグラダ・ファミリアは、資金があれば完成できるでしょう。しかし、時間はかかります。一年や二年で完成することはあり得ません。

しかし、誰も「なにが何でも、あと一年で完成させるぞ」などとは思わないので、一人も悩み苦しむことなく、あの教会がちょこっとずつ現れてきているのです。

…

もし、わたしが窓口のなかで対応する立場だったら、その仕事に従事する時間というものがありますね。たとえば、3時間その仕事をすることになっていたら、順番に、その窓口に並んで順番がきた人に対応してあげて、その人が終われば、次に並んでいる人に対応してあげて…と、それを3時間くり返していきます。

やがて時間がきたら、私はそこを立ち去るだけ。

「こんなにまだ並んでいる残りの人はどうするの?」

と聞かれても、それは私の管轄ではありません。わたしは自分に与えられた3時間で、たとえば300人に対応し、あと700人並んでいるなら、その700人は他の人が対応します。わたしが担当する世界とは別世界です。

つまりこれは、人生のたとえです。

私たちの希望が優先順位にしたがって並んでいます。その希望に一個一個対応してあげて、やがて時間切れになったら自分はあの世へいくのです。希望に一つずつ向き合っていたなら、「しっかり仕事をしました」という充実感をもちながら死ねます。

もし私が、希望に対応する時間のなかで、優先順位を無視して、後ろの人を先にやったりしたらどうなるでしょう。スリランカで、仮に窓口に人がたくさん並んでいて、後ろの人を先にやったら殴られます。大失敗ですし、違法でもあります。

実際のところ、われわれは毎日、違法な行為をしています。

…

希望というのは、なにか用事があって窓口に並んでいる人々だと考えるようにしてください。

たとえ、その窓口に一億人が並んで順番を待っていたとしても関係ありません。窓口の担当として、希望を一つずつ一つずつ解決していくだけ。

そこで自分の時間が切れたら、死ぬだけです。自分が死ぬときに、まだ無限の希望たちが並んでいても、なんの意味もありません。希望たちは「わたしの希望」です。「わたし」がいなくなったら、希望たちも自動的になくなります。

どんな希望も、自分が生きているならば成り立つ、一時的な希望です。ですから希望というのは、全部どうってことはないものなのです。

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From:
Samgha JAPAN(サンガジャパン) vol.29

2018年4月27日金曜日

「希望が人を苦しめるのです」【スマナサーラ】


From:
Samga Japan Vol.29





苦しみは希望がつくる
アルボムッレ・スマナサーラ


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私のメガネはよく見えなくて、階段でも平らに見えるほどです。

ですから、大事なのはただ、一歩一歩どう進むか、です。気をつけて一歩一歩、進む。その結果として、ぶつからないで、ケガもしないで、部屋に帰れます。

…

われわれの頭の中に希望は無限にあります。

希望、希望、希望ばかりです。完全に病気なのですが、しかし、希望が一兆個ぐらいあっても、実際、われわれは自動的に何かを選んで動いています。

たとえば、億万長者になる希望があり、そして今、おなかが空いているとします。希望は2つですね。「ご飯を食べなくちゃ」と「億万長者にならなくちゃ」、どちらを実行に移しますか?

…

われわれの仕事は「今、どうすればいいか」だけなのです。

「いいえ、おなかが空いたけれど、億万長者になる希望もありますからね、それを先にやって、それからご飯を食べます」といったような生き方をするな、とお釈迦様はおっしゃっています。

…

自分の希望を、ちょっといろいろ考えてみてください。自由に妄想できるので、放っておくと実にさまざまな希望が出てくることでしょう。

でも、仮に一兆個ぐらい希望があっても、短い人生で全部叶うわけがありません。結局ただの妄想で終わったりします。

…

表面上、ちゃんと生きているように見える人でも、余計な希望が頭に入ってしまって、あれもやらなくては、これもやらなくては、とグルグル頭でかき混ぜたりしていると、やっぱり悩みが生まれてきます。

今、やるべきことに集中しないで「本当はこもしたい」「ああだったらいいなあ」などと妄想概念でいっぱいになります。

…





希望というのは、何か用事があって窓口に並んでいる人々だと考えるようにしてください。希望たちがきちんと列をつくって行儀よく待っています。

たとえその窓口に一億人が並んで順番を待っていたとしても関係ありません。窓口の担当として、希望を一つずつ一つずつ、解決していくだけ。そこで自分の時間が切れたら死ぬだけです。

自分が死ぬときに、まだ無限の希望たちが並んでいても、何の意味もありません。希望たちは「私の希望」です。「私」がいなくなったら希望たちも自動的になくなります。

…

「苦」というのは、実現しない・できない、無数・無限の希望の堆積物です。

希望は人を苦しめるのです。希望はすべて叶ってほしいものでしょう? ですから、どの希望が一番いいということはありません。そのとき、なんとなくある一つの希望にこだわってしまったりするだけ。どの希望であっても、引っかかってしまうと苦しくなるのです。

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人間はまず、限りのない希望をつくるという、間違った生き方をしています。

希望というのは、叶えるための時間を要します。そして、私たちの時間には「寿命」という限りがあります。延ばすこともリセットすることもできません。寿命はどんどん減っていって、いつか死んでしまうのですね。

だから無数の希望があったら、その無数の希望が叶うためには一億年かかるかもしれません。でも自分に与えられた時間は、たった60~70年程度。80歳になってくると希望を叶えるどころか、なにもできなくなってきます。

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人間は自己観察しないまま、希望だけをとことん増やし続けてしまいます。

その分いつでも、現実離れに次ぐ現実離れです。現実離れというのは、要するに今を生きていないという状態です。すると、その人は何をやっても失敗します。何ひとつも、成功することができなくなるのです。

希望ばかり追っていて、今を生きていないからです。たくさんの希望はいわば妄想の山です。

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あなたに何か希望がありますか?

もしその答えが「あります」なら、あなたは苦しんでいるということになります。そして、「いいえ、一切希望なんかありません」と答える人は、覚っています。

希望は妄想概念だから、人を苦しませるしかないのです。

…

「ご飯を食べたい」というような、具体的な希望なら問題ありません。

精神的な病気につながってしまう希望とは、合理的でなく、具体的なものでない希望です。たとえば「みんなに好かれたい」「みんな私のことを認めてほしい」という希望をつくったりすると、病気になります。

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「ドゥッカ(苦)とは何ぞや」と言えば、いたって簡単な答えになります。

苦しみとは、人の心にある希望の量なのです。

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合理性や理性がない世間の人間は、好き勝手に妄想工場で希望をつくってしまいます。

希望が増えれば増えるほど、苦しみが増えます。うまくいかないという落ち込みが増えます。手も足も出ないという苦しい状態が増えます。いてもたってもいられない状態をつくります。

本当は、いたって簡単に生きられるのに。空気のように生きられるのに。

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生きることというのは、例えれば、枝にある葉っぱがいつか落ちる、そのような簡単なものなのです。風にそよぎ、いつか枝から抜けて、ゆらゆらと待って地面などに落ちる。

そこに何の心配や不安があるでしょうか?

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生きるということは、葉っぱが枝から落ちるように簡単なのです。仏教は、そういうところに達してください、頭の病気を治してください、と言います。

世間に生きる人々は、希望があればあるほど、心配になったり不安になったり、苦しんでしまうので、仏教では「希望がドゥッカ(苦)だ」と言うのです。

…

覚りに達した人は、どうしても生きているので、その日その日にやるべきことをしっかりやっているだけで、希望はゼロ。

つまり、希望が消えたら覚っている。希望があるならば、まだ覚っていない、苦しんでいる、ということです。

…


From:
From:
Samga Japan Vol.29



2017年8月8日火曜日

比丘パッグナへの戒め[中部経典]



中部経典(マッジマ・ニカーヤ)
『ノコギリのたとえ』より


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このように、私は聞きました。

あるとき、世尊は、サーヴァッティー市(舎衛場)のジェータ林にある、アナータピンディカ居士の僧院に住んでおられた。また、まさにそのころ、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。

比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いたとはこのようなことである。もし、比丘尼の誰かが、比丘モーリヤパッグヤの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグヤの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。



そこで、或る比丘が世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐ったその比丘は、世尊に、こう申し上げた。

「尊師、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います。比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、比丘モーリヤパッグナの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグナの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います」と。



そこで、世尊は、或る比丘を呼ばれた。

「さあ、比丘よ、あなたは、私の言葉をもって、モーリヤパッグナ比丘を呼びなさい。『友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます』」と。

「かしこまりました、尊師」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、比丘モーリヤパッグナのところに近づいて行った。行って、比丘モーリヤパッグナに、こう告げた。

「友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます」と。

「わかりました、友よ」と、まさに、比丘モーリヤパッグナは、その比丘に答えて、世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐った比丘モーリヤパッグナに、世尊は、こう告げた。

「本当ですか。聞くところによると、パッグナ、あなたは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上の関わりをもって)いるとのことです。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、あなたは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、あなたの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです」と。



「そのとおりです、尊師」

「パッグナ、あなたは、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったのではないですか」と。

「そのとおりです、尊師」

「パッグナ、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったあなたにとって、まさにこのことは、ふさわしいことではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)、住むようなことです。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしたからとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を捨て去るべきなのです。



そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちに手でもって殴るとしても、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。



パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、あなたの批判を口にするとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。


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出典:アルボムッレ・スマナサーラ
怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む




2016年1月8日金曜日

原始脳(獣の脳)に誘拐されている人間脳 [スマナサーラ長老]


話:アルボムッレ・スマナサーラ





 …

普通の人々は原始脳(獣の脳)の司令で生きています。大脳を優先した生き方をしていません。原始脳は、生まれるときには神経細胞の配線がすでに完了しています。原始脳にはこれ以上、発達はありません。

対して大脳は発達しないまま・配線ができていないままの状態で人は生まれます。生まれてから長い時間をかけて大脳を配線するのです。「生涯学習」とは人気のあるフレーズです。勉強には終わりがない、死ぬまでやりなさい、という意味です。このテーマで言い換えれば、死ぬまで大脳の配線をしなくてはいけない、ということです。それでも未完成のままで死んでしまいます。

しかし、大脳の配線は決して終わらない作業ではありません。大脳の神経細胞は約140億個と推定されています。他の神経細胞も足してみると、1,000〜2,000億くらいになるそうです。やり方さえあれば、配線を完了することはできると仮定しておきましょう。



原始脳は獣の脳だとも言います。原始脳に思考能力はありません。外の世界を認識する能力もありません。原始脳にあるのは存在欲と恐怖感です。外の世界・現実を知る能力がないから、仏教的に無知・無明だとしているのです。無知・無明を土台にしているため、存在欲と恐怖感(怒り)が起こるのです。それは有名な貪瞋痴(とんじんち)です。

原始脳は生まれるとき、配線は完了しています。よくはたらきます。この獣の脳が発信する信号で、大脳がはたらきます。生きていきたいという存在欲の信号を出すのです。大脳が必死になって、生き延びるためにがんばるのです。そして、人間がおこなう勉強・研究などなど、すべての作業が、生き延びるという目的のためになされます。

それから原始脳は恐怖の信号を出します。大脳は必死になって、存在に邪魔なものを避ける技を身につけます。細菌の退治の仕方だけではなく、同じ人間をライバルとみなして人を殺す道具まで開発するのです。こうして原子爆弾も現れます。科学の進歩も大量破壊兵器の開発も、大脳がやっています。文化・文明も同じことです。生き延びることと敵を倒すことがメインテーマなのです。



要するに、大脳が原始脳に誘拐されているのです。大脳は誘拐犯の言うがままに行動しているのです。それで大脳の配線が現れますが、ろくな結果にはなりません。人間は獣のままです。貪瞋痴に支配されて生きています。存在欲とは、かなわない希望です。したがって、恐怖感(怒り)も消えません。いくら配線しても、問題はそのままです。生涯学習しても同じことです。

この状況は大脳にとって耐えがたいストレスです。死にたくないという気持ちはあっても、人は死ぬのだと大脳の方では知っています。しかし認めたくはありません。そこで誘拐犯にいくらか落ち着いてもらうために、大脳はイカサマを仕掛けます。「私が死んでも、私の魂は死にません」「死後、我々を永遠の天国に連れていく絶対的な神様がいます」などなどの妄想をつくります。

これで原始脳が落ち着きます。自分で自分を洗脳するのです。証拠は一かけらもないのに、魂の存在を信じる。絶対的神様、阿弥陀様、観音様などを信じる。信じる者は救われる、とも言います。実際は信じる者が救われるのではなく、信仰という麻薬で脳が機能低下するだけです。現実が分からなくなるだけです。



お釈迦様は脳の開発方法を見つけられました。正しい配線方法を見つけたのです。目的は、理性のある、世界を知る能力のある、判断能力のある大脳を誘拐犯(原始脳)から解放することです。そのための方法を見つけたのです。

お釈迦様が説かれる道は、大脳にたくさん仕事を与えることです。その仕事は一つも、原始脳の司令とは合いません。人が一度もやったことのない仕事です。それは気づき(sati)の実践です。慣れた仕事をするより、慣れていない仕事をする方がたくさん仕事をしなくてはいけません。じりじりと原始脳と関係のない配線が現れてきます。それは智慧が現れることであり、ものごとをありのままに観察できるようになったことであり、感情に支配されないようになったことであって、自分でもそれがよく分かります。

惛沈(こんちん)睡眠という煩悩があります。脳の成長を妨げる蓋(ふた)だとも言われています。しかし常識的に見れば、健康に生き延びるためには睡眠が必要だとされます。しかし残念です。身体の細胞は寝ません。寝ることも存在欲の一つの姿です。瞑想が進むと、惛沈睡眠が消えてしまいます。それは大脳が新しい配線を作ったということです。






お釈迦様のプログラムは必要な配線がかならず現れるようになっています。悟りに必要な能力は三十七菩提分法であると説かれています。それは脳の正しい配線の仕方を示す話です。修行者は必死に修行しているのです。大脳もどんどん配線をしています。

このように考えてみましょう。神経細胞がICだとします。ICがたくさんあっても、何の仕事もしません。正しく配線すると、ICは仕事をします。私たちが日常使っているパソコンなどは、ICの塊です。しかしびっしり配線されています。だから正しくはたらくのです。神経細胞の場合は、細胞から配線が出ています。それを適当に繋げてみるのです。しかし長い配線もあって、短い配線もあります。このアンバランスの状態でヴィパッサナー(観察瞑想)の汚れが現れるというわけです。一つも悪いものではないのです。がんばって作った配線です。しかし「配線ができた」と満足するのは危険です。

原始脳を抑えてはいますが、原始脳を制御してはいません。そこで大脳の配線は長すぎるものをカットしたり、短いものを延ばしてみたりして、原始脳に繋げなくてはいけないのです。原始脳に繋げたら、大脳が原始脳を管理することになるのです。神経回路は使わないとなくなります。そのうち原始脳の司令を受けていた神経回路が壊れてしまいます。獣の支配は終わります。それで貪瞋痴(とんじんち)が消えます。原始脳は大人しく、生命の基本的なはたらきを監督するようになります。例えば思考・判断能力の要らない消化システム、呼吸機能、心臓の動き、などなどです。



理性に基づいて貪瞋痴のはたらきを一時的に抑えて、計画的に大脳をはたらかせたのです。それによって、今までと違った新たな神経回路システムが現れました。それから、その神経回路を原始脳にも繋げて、配線完了しなくてはなりません。それは新たに作った神経回路を適当に切ったり張ったりして、調整しなくてはいけません。

ヴィパッサナー(観察瞑想)の障碍とは、そのとき起こる現象です。じつは障碍ではないのです。心が苦労して育てた能力です。しかし「それだけでは充分ではない」と大脳が発見します。それが障碍を乗り越えたことです。このプロセスさえも、もう一つの神経回路が生まれることなのです。

この状態は、仏教心理学で道非道智見清浄に達したことであると説かれています。仏教は心の科学であって脳科学ではないので、そのような説明になります。ここでは無理をして、現代の脳科学の知識の一部を使って説明してみました。

…




引用:ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第8巻〉瞑想と悟りの分析2(ヴィパッサナー瞑想編)




2015年11月23日月曜日

ジャータカ『兎の話』 [スマナサーラ長老]




手塚治虫『ブッダ』は、焚き火に飛び込むウサギのシーンで幕をあける。





吹雪に行き倒れる僧侶

その身を案じる、クマ、キツネ、そしてウサギ。

これら3種の動物たちは、それぞれ彼らの糧を僧侶に与えようと考える。クマは魚を、キツネはブドウを。だが、ウサギだけは雪中に食を見い出すことができなかった。

ウサギは僧侶に「火をおこせ」と求める。

そして、その火に飛びこみ、自らの身を焼くのである。





…


「アシタさま、ウサギが自分で自分の身を焼いて、その僧に食べられるなんて…」

アシタ「その話は、わしの師、ゴシャラさまのご体験によるものじゃ。だから、ほんとの出来事だよ。ゴシャラさまは、この信じられぬ出来事に、強いショックをおうけになってな…。そのまま、まるで魂をぬかれた人のようにフラフラと里へおり、そのまま10日も寝込んでしまわれた」


…



この話は、仏教の経典『ジャータカ(お釈迦さまの前世物語)』に語り継がれているものである。

以下、スリランカ初期仏教長老、スマナサーラ氏の語るジャータカ、『兎の話』である。






〜話:スマナサーラ長老〜



兎の話



その昔、菩薩(釈尊の前世のことです)は兎として生まれ変わりました。その兎は、猿、キツネ、カワウソという三匹の友達と森の中に住んでいました。兎は菩薩の転生でしたので、普通の動物と違って智慧がありました。

彼らは、昼は各々えさを探しに別に行動していましたが、夜は一緒に集まりました。その時兎は・悪いこと、ずるいことをしてはいけないと戒の話を、また、自分だけ良ければいいという生き方ではなくて、他人のことも心配するべきですよと布施の話を、また、生きているものとして道徳的でモラルを守るべきですよと修行の話などを、よくしていました。



ある満月の日、兎は修行しようと思いました。三匹の友人も誘いました。皆、大変喜んで修行することに決めました。修行してもお腹が空くので、まずえさを探しておこうと思ったのです。

兎は、 「今日は修行中だから、えさをひとりで食べるのではなく、誰かに一部をあげてから食べなさい」 と、注意しました。

そこで、カワウソが川で人が魚を釣ったものを見つけました。キツネは畑仕事の人々が食べ残した肉とチーズのようなものを見つけました。猿は木からマンゴーを取って来ました。兎は草を食べればよいので、食べ物を貯蔵する必要はありませんでした。

その代わりに、大きな悩みが出てきました。食べる前に布施をしなくてはならないと自分で決めたのに、草を乞うてくる人はまずいないでしょう。三匹の友達の食べ物は人間も食べるので、簡単に施しをできるでしょう。何か自分が偽善行為をやっているような気もしました。

「偽善になってはたまらない。誰かが食を乞うて来たら、この身体をあげます。兎の肉を食べたがる人は、いくらでもいるでしょう」と、覚悟を決めました。兎は、修行のために命まで賭けました。



天国(帝釈天)にいる天の王・サッカはこれに驚きました。

皆が正直かどうか試してやろうと、乞食に変身して、一匹ずつ訪ねました。カワウソもキツネも猿も、喜んで自分のえさの一部ではなく、全部施しました。サッカは 「後で来ますから」と言って、えさを返して兎のところに行きました。

(そして)「何か食べ物をください」と、兎に頼みました。

兎は、「それは良かった。誰にでも真似できないほどすばらしい施しをしますので、薪を拾って火をおこして下さい」と言いました。

サッカは自分の神通力ですぐ、ごうごうと燃え立つ火を作りました。兎は身体についている虫を落とすために身体を振って、火の中に飛び込みました。



身体が丸焼きになると思っていたのに、この火は熱いどころか異常に涼しかったのです。

兎は乞食に尋ねます。「善人よ、あなたの火は威勢がよいのですが、私の毛一本も燃やせるほどの熱はありません。あまりにも涼しいのです」

サッカ天は答えて曰く、「賢者よ、私は乞食ではありません。あなたの修行にかかる気持ちはどれほど正直かと試すために、天から降りたのです」。

サッカは、「善行為を行うことは、どれほど大事かと後世の人々に知らせてあげます」と思って、山を絞り、液体を出して(溶岩では?)、月に兎の形を描き遺しました。


…


引用:ジャータカ物語「兎の話」







2015年11月18日水曜日

ブッダの言葉『スッタニパータ』 [YouTube朗読]



Suttanipāta
スッタニパータ


ブッダのことば
中村元




本書の解説に、中村元氏は言う。

「『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちで最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。これによって、われわれはゴータマ・ブッダその人、あるいは最初期の仏教に近づきうる一つの通路をもつからである。

…

仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)を歴史的人物として把捉するとき、その生き生きとしたすがたに最も近く迫りうる書、少なくともそのうちの一つは『スッタニパータ(Suttanipāta)』であると言っても過言ではないだろう」



YouTube 朗読
スッタニパータ(Suttanipāta)
梅尾泰巌(寂静山禅定院)

※朗読文はほぼ、中村元『ブッダのことば』どおりである。



スッタニパータ
第一 蛇の章





スッタニパータ
第二 小なる章





スッタニパータ
第三 大なる章





スッタニパータ
第四 八つの詩句の章





スッタニパータ
第五 彼岸に至る道の章











以下、アルボムッレ・スマナサーラ長老(スリランカ)による『スッタニパータ(パーリ語原文)』の朗読。

宝経
ラタナ・スッタン Ratana Suttam

慈経
メッタ・スッタン Metta Suttam

勝利の経
ヴィジャヤスッタン Vijayasuttam





アルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)1945〜
ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK] (3675)

パーリ語による読経CDブック
『スッタニパータ』はじめ多数収録




2015年11月12日木曜日

悟りへの第一歩、「無」の体験 [スマナサーラ]



話:スマナサーラ(Sumanasara)長老
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)


…


第7章 悟りについて知る


「ヴィパッサナー瞑想」をすると、悟りの境地へ行けると言いましたが、では、悟りとはいったい何でしょうか? それをわかりやすく説明してみます。

悟りを理解する上では、「ものごとは実体としては存在しない。すべてのものは波動である」ということが、大きなポイントとなります。ものごとは、実際には「もの」ではありません。



たとえば音について考えてみます。スピーカーから音が出てきます。その音は、スピーカーからエネルギーを出す、止まる、出す、止まる、出す、止まる、ということをしています。そう考えれば、音というのは音ではなく、波、つまり波動なのです。

スピーカーから音が出る、止まる、出る、止まる…、ということは、言い換えれば、エネルギーが生まれる状態、何もない状態、生まれる状態、何もない状態…、の繰り返しです。その回数や、音の高低や、音楽や、つまりは振動数が定まって、エネルギーが出て、消えて、出て、消えて、出て、消えて、ということです。仏教用語でいう「生(しょう)」と「滅(めつ)」です。

生滅は、波動を表しています。ものがあるわけではありません。音という何かがあるわけではありません。エネルギーとしては生滅、生滅、生滅、です。それを我々は音と言っています。



生滅の周波数が、どんどん、どんどん、高くなって、高くなって、高くなってくると、我々はそれを超音波と呼んでいますが、聞こえなくなります。さらに、さらに高くなるとどうなるかというと、我々はそれを光と言います。

物体についても、触れるとそれなりの周波数があるだけのことです。実際にあるのは、生(しょう)と滅(めつ)だけ。生まれる、消える。生まれる、消える。

耳についていえば、耳は物質ですから、耳があるということは、いつでも耳は、生まれて、消えて、生まれて、消えて、生まれて、消えて、その波動でいます。そこに音が生まれたとします。耳も物質として生滅を繰り返しています。耳が生まれた瞬間、音のエネルギーと、耳のエネルギーがぶつかります。瞬間的にぶつかったところで、認識が生まれるのです。

「あ、音だ」と認識します。

一つの波が出てきて、もう一つの波が出てきて、波がぶつかるのです。



ぶつかる場合は、その波が「生(しょう)」の状態、「有る」の状態でなくてはいけません。波が「滅(めつ)」の状態でいるときは、触れることは不可能なので、ふつうは認識しません。

ものごとの波動は生滅(しょうめつ)という言葉で理解します。また、「有(う)」と「無(む)」という言葉で理解してもよいです。現象は「有」の状態にいるときは認識します。

音で言うと、音の波が「有」の状態で、耳も「有」の状態でいるとき、音が耳に触れます。それは「触(そく)」と言うのです。「 触(そく)」は仏教の言葉であり、「パッサ(phassa)」と言います。



この触れること、「触(そく)」ということは、とても大事なことです。波が2つぶつかったら、どうなるでしょうか? 違う方向へ、違う波が生まれてしまうのです。それが心の波です。

「有」と「無」がぶつかると、心の波動がそれを認識します。そして、心の波動が周波数ではいちばん高いのです。

心の波動の周波数を説明するときに、われわれの知っているスピードを基準にするのが正しいことかどうかはわかりませんが、心の波動の周波数の速度は、光のだいたい17倍ぐらいです。いちばん速いとされる光の、およそ17倍の速さで心が生滅(しょうめつ)しているのです。ですから、本質的に心と物質とはすごく違うエネルギーです。



身体の「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」という波動が、外にある「色」「声」「香」「味」「触」という波動とぶつかると、そこで認識します。一方が「生(しょう)」、あるいは「有(う)」の段階にいて、一方も「有(う)」の段階でぶつかると、

「あ、音だ、音だ」

とか

「見える、見える」

「味わう、味わう」

「触れている、触れている」

などという認識になります。われわれの認識の世界は、ぜんぶ「有(う)」の世界です。私たちは、世界は「有る」と考えています。それは無理もない話です。音が「有(う)」の場合は聞こえているのだから。「無(む)」の場合はわかりませんから。



耳が「有(う)」で、音が「有(う)」のときに、ぶつかって認識します。

そして次に、耳が「無(む)」になり、音が「無(む)」になります。ぶつかっても認識しません。というよりも、ぶつかりません。どちらも「無い」のですから、ぶつかりっこありません。

そして次にまた、耳が「有(う)」になり、音も「有(う)」になるとまたぶつかって、それを認識します。ということは、われわれは「有る」ことしか知らないというわけなのです。ものの存在の一部しか知らないのです。半分しか知らないのです。すべての生命は「有(う)」だという邪見をもっています。邪見というより、間違った考えをもっています。



ものは「有る」けれど、魂はやっぱり「有る」けれど、神様はやっぱり「いる」のでしょうけれど、それは半分の世界です。仏教は、そういう「有(う)」と「無(む)」の論を語りました。

それが大乗仏教では、法身(ほっしん)という概念が出てきて、大宇宙を支配している法身如来、大日如来がいると言ったりしています。そこまで「有(う)」論は発展しました。初期仏教の、世界は「有(う)」と「無(む)」からできているというポイントからみれば、それは正しいとは言えません。

とかく人間は「有(う)」論しか語れません。「有(う)」論しか考えることができません。実際、「有る」ことは「有る」のです。でも、ものには「有る」だけではなくて、「無い」状態もあるのです。



瞑想していると、音は波であることが身にしみてわかります。生滅(しょうめつ)、生滅(しょうめつ)しています。自分の身体も瞬間、瞬間、生滅(しょうめつ)していることがよくみえてきます。

同じ音に対して、ときには良い音だととらえたり、ときには気持ち悪い音だととらえたり。同じ味に対しても、良い味だと思ったり、あまりおいしくない味だと思ったりしますね。ずーっと、波の流れ、生滅する流れがあることが、どんどんみえてきます。みえても残念ながら悟りは開けないのですが。

ずーっと瞑想を続けていくと、認識が変わってきます。ここに音があれば、それはいつでも「有る」と「無い」とであることがわかります。耳があれば、やはり「有る」と「無い」状態があるとわかります。



たとえば耳なら、耳の感覚がどんどん鋭くなって、徹底的にものすごくシャープになって、なんでも認識できる状態にまで観察の力が強くなります。そうなるためには、余計な思考や妄想はほとんどなくなっていないとできません。

そのとき、ちょっとしたズレが起こるのです。そのズレは、じつはいつでも起こっていますが、普段は気づきません。

たとえば、耳が「有(う)」で、音も「有(う)」であるとき、音を認識します。耳でも音でも一つが「無(む)」になったら認識しません。ズレというのは、耳が「有(う)」の瞬間なのに、音が「無(む)」の瞬間です。

妄想がほとんど消えている人は、これに気づくのです。初めて「無(む)」の存在も知るのです。初めて現象の「滅(めつ)」に気づくのです。



これこそが革命的な発見です。

今まであった実体論、魂論、自我意識…、それらが

「ただの勘違いでした」

「幻覚でした」

と瞬時にわかります。







これは、簡単に説明すれば悟りの第一段階です。

「生(しょう)」と「滅(めつ)」の両方を認識できる瞬間まで進むためには、いくつかの智慧の段階を進んでいかなくてはなりません。実況中継(ヴィパッサナー瞑想)さえしていけば、悟りに達するまでの過程は自然に起こります。

普通の状態では、ものごとがすべて生滅(しょうめつ)、有無(うむ)であっても、無い状態は見えないし、わかりません。でも、瞑想して、瞑想して、徹底的に感覚が鋭くなったら、「有(う)」もみて、「無(む)」もみえます。「無(む)」も体験します。体験したら、

「なるほど、実体が無いのだ、ものごとは波動だ」

と思います。悟りの第一段階が生まれます。



いつも耳で聞く音の聞き方は「有(う)」だけ選んでいます。でも波動なので、いつでも2つのものの波長が合っているわけではありませんから、時間のズレは絶えず起こっています。ただ、それを悟らないでいるだけです。

瞑想をずーっと続けて、徹底的に観察が鋭くなったら、ものごとが存在しない瞬間をつかまえます。そこで初めて、実体論、自我論、有身見(うしんけん)が消えます。自分の体験として理解するので、その後でどんな哲学を言われても、どんなお説教をされても変わりません。心が変わってしまうのです。

存在しない瞬間を体験でつかんだら、ものごとは実体として存在すると思わなくなります。それは悟りという体験です。それはかなり大変なことで、かなり修行が進んでいないと経験できません。本当は「存在しない瞬間を経験する」などということは、生命には絶対不可能というぐらいのことです。「有る」ものはつかめるでしょう。でも、「無い」ものをつかめということですから、本当は不可能です。それを一生懸命にやって可能にするのです。


…


これこそが科学的な瞑想実践です。

主観を絶って、真理に達する方法です。

悟りを開けるかどうかはさておき、まずは実況中継(ヴィパッサナー瞑想)という、笑えるほど簡単な実践を行ってみましょう。


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これは、巨大な力をもっている心の能力を妨げる障害を取り除く方法です。心を清らかにする方法です。


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引用:アルボムッレ・スマナサーラ
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)




2015年11月2日月曜日

絶世の美女シリマー、その遺体 [スマナサーラ]



話:アルボムッレ スマナサーラ
あべこべ感覚―役立つ初期仏教法話7



…


お釈迦さまがいらした時代、インドのコーサラ国にあまりにもすごい美人がいました。名はシリマー(Sirima)といいました。

人々は、一日彼女と生活するために、たとえば千両のような高額なお金を払わなくてはいけない決まりになっていました。しかし、そんなに払っても一日だけです。その一日で、彼女は料理をつくったり、歌ったり、踊ったり、なんでもしてくれます。ですから、たとえすごく高い料金でも、一日だけ絶世の美女と一緒に生活できることにすごく喜びを感じます。それほど美しかったのです。

本当は、誰もが何度も高いお金を払って、一緒に過ごしてもらいたいと思うのですが、一般人にはとても払える値段ではありません。わざとそういう値段設定にしています。王様や億万長者やほんの数人にしか、彼女を呼んでお祭りをすることはできません。



さて、そんなとき、ある人が出家しました。仏道の世界に入ったのです。仏道の世界に入ったばかりのときに

「あの絶世の美女シリマーは、ブッダの信者さんだ」

と耳にしました。出家したばかりの人は、

「あの有名人も仏教徒ですか」

と、とてもびっくりしました。しかし、他のお坊さんたちにとっては、シリマーもただ一人の信者でしかありません。

「あぁシリマーさんも、ときどき来ます」

という程度です。シリマーさんも来るし、国王も来るし、偉い○○さんも来るしで、なにも特別なことはありません。国王が来てもお坊さんたちは、いきなり立ち上がってお辞儀をしたり、瞑想をやめたりなど、そんなことは全然ありません。たとえ国王が来ても、国王のほうが修行の迷惑にならないように、皆を避けながらお釈迦さまのところに行きます。仏教の世界は、そういう世界です。人間は平等です。

この人は出家したばかりで、まだまだ成長していないし、だらしない状態でした。そして、絶世の美女と名高いシリマーは、他のお金持ちの人と当番で、お釈迦さまと比丘たちにお布施をしていました。たくさんお坊さんたちがいますからね。彼女は毎日、何人かにお布施をしていたのです。



お坊さんが、いつも300人や500人ぐらいはいました。毎日、食事をお布施している人のところに、お坊さんが振り分けられます。

「この10人のお坊さんは、あちらに行きなさい」
「この5人のお坊さんは、あの家に行きなさい」
「この20人のお坊さんは、あちらに行きなさい」

というように、認定されているお坊さんが行く先を決めます。そのお坊さんに逆らってはいけないと、これも戒律で決められています。そこに行ってもらうと決めたその人の判断は絶対で、逆らうことはできません。言われたところに行くしかありません。



シリマーのところに行くお坊さんも、そのように決められます。判断するお坊さんも、平等にやらなくてはなりません。個人的な好みでやってはいけないし、人の顔色を見てやってはなりません。

たとえば、お布施をする在家の人々に

「サーリプッタ尊者に来てほしいですか?」

と聞けば、みんな一斉に

「ぜひ家に来てください」

と言うでしょう。サーリプッタ尊者は一人ですから、一日一ヶ所にしか行けません。

「うちこそがサーリプッタ尊者にお布施したかった」

などと、在家で文句ばかりがあがったり、争いが起こってはたまりません。ですから、不満を言うのは在家も禁止。まぁ、空いていれば要求は聞いてあげますが、空いていなかったら、どうしようもない、担当のお坊さんの指示に文句も言わずに従うことになっています。



昔のお坊さんたちは、個人的に接待を受けるのは遠慮していました。リクエストがあっても

「サンガ(僧団)に注文を出してください」

と答えます。

「サンガが決めて、誰かが行くでしょう」

という方法をとっていました。そのほうが公平で安心です。

お布施を受けるお坊さんは、毎日クジを引きます。毎日、お坊さんたちはそのクジを取り、そこに誰の家かと書いてありますから、そこに行きます。このクジの結果は、誰にも文句を言うことができない決まりです。



あるとき、例の出家したばかりのお坊さんに、シリマーの家に行くクジが当たりました。悪いことに、という感じです。まだ修行をはじめたばかりでだらしないので、次の日から夜も

「なんてツイていることか」

などと考えてしまいます。ただで見られますからね。しかしそのときは、彼女はもうそんなに若くありませんでした。老人とまではいきませんが、若くて元気はつらつで、皆を喜ばせるほどの年齢ではありませんでした。

シリマーは、仏教の信者になってからはお布施や瞑想で忙しく、かつて一日千両ももらっていたおかげで、お金の不自由はありませんでした。ですからシリマー自身、美しさの見返りに誰かに一日千両をもらうなどということは、どうでもよくなっていました。



さて、例のお坊さんがシリマーの家にお布施をいただきに行ったとき、彼女は発作を起こしました。発作を起こして、体がたいへんなことになりました。いきなり目が変なところに向いてしまうし、口が曲がる、よだれが出る、身体が震える、とてもひどい状態です。なんの美しさのかけらもありません。

しかし、発作で倒れても彼女は、お布施だけはちゃんと召使いに頼んでやらせました。そして、お坊さんたちに挨拶をする時間になったら、彼女は

「お礼をしに行かなくては」

と必死です。毎日やっていることですから、発作で倒れたその日も

「私をお坊さんたちのところに運びなさい」

と、召使いに命じました。皆、ぼろぼろになっている彼女をなんとかして、お坊さんたちが托鉢に来たところに運んで行きました。すると、彼女はすごく両手が震えるのに、震えた手できちんと礼をしました。

そのあとはさすがに家来が家の中に運んで、寝かしておきました。そして、その日、シリマーは亡くなったのです。ですから、ふつうのちょっとした痙攣ではなくて、心臓発作か脳出血などを起こしたのでしょうね。



礼のお坊さんが見たのは、もう、ぼろぼろで醜くなって瞬間のシリマーでした。シリマーの人生でいちばんカッコ悪い、最悪の姿です。それなのに、修行はまだまだで捏造は達人ですから、いちばん醜い姿を見ても

「この方は、そうとう美人だ」

と思ったのです。

「体格や肌の色など、元気なときは、さぞや素晴らしかったでしょう」

と思ってしまいました。実際に見たのは最悪最低、いちばん身体の形も悪いときです。なんの見栄の一かけらもない、醜い姿。それなのに

「それでも美人だ」

と思ったというのですから、すごい顛倒です。



そのお坊さんは、本気になってしまいました。そのままお寺に帰って寝込んでしまいました。お坊さんたちがいろいろなことを言っても、ご飯も食べません。お釈迦さまはその様子を知り、

「この人は相当なショックを与えなければ治らない」

と思いました。お釈迦さまは

「放っておけ」

とおっしゃって、国王に

「葬式は中止にしてください」

と、メッセージを送りました。シリマーの死体は国の財産でしたから、国葬です。お釈迦さまに言われて国王は

「困ったなぁ」

と思いながらも言われた通り、葬式をとりやめました。現代人とちがって、昔は国王であっても政府であっても、お釈迦さまに言われたらその通りに従うのが当たり前でした。お釈迦さまは

「遺体は、そのまま放っておきなさい」

とおっしゃったので、国王はその通りにしました。



お釈迦さまから国王に

「では、そろそろ葬式を出してもいいでしょう」

と連絡が来たのは、一週間もたってからのことでした。遺体はもちろん腐っていました。膨らんだり、膿が出て、ものすごくひどい臭いが出はじめていました。

お釈迦さまは

「では葬式をやりましょう。わたしも行きます」

とおっしゃって、王様の命令で、皆を集めるように伝えました。町の人々や彼女を知っている人々を皆、集めたのです。



お釈迦さまは、比丘たちと葬式に行く際に、アーナンダ尊者に

「あの比丘にも一緒に行きましょうと言いなさい」

と伝えました。そこでアーナンダ尊者が、礼のお坊さんに

「お釈迦さまが、お葬式にはあなたも一緒に行きなさいと言っています」

と言うと、

「あぁ、そうですか。シリマーさんのお葬式ですね。わかりました。行きます」

と答えて、一週間もご飯を食べていなかったのに何のこともなく、さっと起き上がって出かけたのです。一緒に行くとはいっても、お釈迦さまはメッセージを送っただけで、その人はお坊さんのランクでは最下位ですから、後ろにいるだけです。おそらくお釈迦さまの顔を見ることもなかったでしょう。



お釈迦さまと国王が会話します。

「彼女は若い時代には、一日どれくらいの料金をとっていたのですか?」

とお釈迦さまが質問をし、王様は

「一日、千両です」

と教えます。それを聞いてお釈迦さまは

「では王様、これ(シリマーの遺体)を競(せ)りに出してください」

と指示しました。

「千両で買って持っていってくださいと、競りに出しましょう。前は一日だけでしたが、今は千両出せばずっと一緒にいられますから、たいへんお得です」

とおっしゃいました。



国王はお釈迦さまのおっしゃる通りに、職人さんに頼んで、シリマーの遺体を競りに出しました。

「彼女は、前に千両払ってもたった一日だけしか一緒にいられませんでしたが、今度は千両で権利ぜんぶを与えます。ずっと一緒にいられます」

と条件をはっきり、皆に示しました。その上で

「千両で買いたい人は、どなたでしょうか?」

と聞くと、その場にお金持ちはいっぱいいましたが、誰も手を上げません。お釈迦さまは顔色ひとつ変えずに、

「どうやら売れないみたいだねぇ。じゃあ、値段を下げてみましょう」

とおっしゃって、値段を下げて競りを続けさせました。



値段を下げても、下げても、誰も手を上げませんでした。最後には日本式に言うとたった一円になってしまいました。お釈迦さまは

「あれまぁ、一円でも買わないんだね」

とおっしゃって、

「では、誰か欲しい人にでもあげなさい」

と指示しました。そこで最後に

「では、ただでもらう人は、どなたかいるでしょうか?」

と尋ねてみました。誰も手を上げません。そこでとうとう、お釈迦さまが

「誰もいない? そう、誰もいないでしょうね」

とおっしゃって、

「そんなものですよ、この身体は。こんなものに執着するのは、愚か者以外、誰でもありません。肉体は不浄なものです。愚か者が、誰かにすごい価値があると思い込んだとしても、しょせんは腐ってしまう肉体ですよ」

と厳しく説法しました。そうして、お葬式に参加して帰ったのです。

例のお坊さんは、その説法を聞いてすっかり病気が治って、悟りに達しました。


…





引用:
アルボムッレ・スマナサーラ
『あべこべ感覚―役立つ初期仏教法話7 (サンガ新書)』