2017年8月10日木曜日

日本はいかに拡張主義でなかったか[WW2]



話:ヘレン・ミアーズ







歴史の証言


「日本人は生まれつき軍国主義者であり、拡張主義者である」という宣伝文句ほど、私たちを混乱させるものはない。パールハーバー以前のどんな参考書でもいいから、ざっと目を通せば、それが正しくないことがわかるのだ。

この宣伝文句の大きな問題点はそこにあるのではない。こんなことをいったら、日本人だけでなく、政治意識をもつアジアの人々には、アメリカ人がおろかしくみえる、ということなのだ。

私たちアメリカが日本にきた目的は、軍国主義的侵略性をもって生まれた日本人を「改革」することである。この「生まれつきの軍国主義」なるものを、日本人の過去に求めるとすれば、16世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の失敗の記録ぐらいのものだ。

しかし、この遠征をとらえて日本民族を「生まれつき軍国主義者」と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たちアメリカ自身のことは、どう性格づけしたらいいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は15世紀から、まさしく「世界征服」を目指して続々と海を渡ったではないか。



日本とアジアの目で見ると、日本に歴史的侵略の罪を着せる私たちアメリカ人の姿は、自分のガラスの家を粉々に壊している(自分の罪を棚に上げて、他人を非難している)立派な紳士だ。

私たちの非難は、むしろ、「明治までの日本がいかに拡張主義でなかったか」、これに対して「ヨーロッパ諸国がいかに拡張主義であったか」をきわだたせる。

秀吉の軍隊が朝鮮から追い払われた同じ時期、スペインはペルーとメキシコを征服し終え、フィリピンに地歩を固めていた。ポルトガルは世界を駆け巡り、ジャワ、インド、マレーの沿岸地帯、マカオ、中国沿岸部に及ぶ広大な帝国を築きつつあった。イギリス、オランダはスペイン、ポルトガルと競いながら、徐々にポルトガル領の大部分とスペイン領の一部を収め、中国、日本を目指していた。

17世紀初め、日本が孤立主義にこもったのは、ヨーロッパ諸国の「歴史的拡張主義」のせいなのだ。



17、18、19世紀、日本が世界から身を退いて独自の社会を発展させている間、ヨーロッパ人たちは爆発的拡張をつづけていた。

秀吉の職業軍人集団であるサムライ階級が、茶の湯に親しみ、花を活け、本来の仕事がなくなった無聊を隠遁的芸事で慰めていたとき、イギリス、オランダ、フランス、ロシアは貿易、征服、戦争、植民地化といった本当の意味の帝国の建設を目指して、東西南北に広がっていた。

今日、「世界支配の歴史的野望」を告発されている日本人が、ヨーロッパの獲得したものを数字でみれば、ある種の当惑を覚えるに違いない。



パールハーバー当時、イギリスの本土面積(9万4,278平方マイル)は、日本列島(14万6,694平方マイル)より小さく、本土人口も日本より2,800万人少なかったが、「1,353万9,111平方マイル」の帝国と連邦、「300万平方マイル」のアジア領土、「350万マイル」の太平洋の領土、5億人の上に君臨していた。

本土人口900万、面積1万2,704平方マイルのオランダは、アジアの太平洋島嶼地域73万5,000平方マイル余を含む「78万9,961平方マイル」を支配していた。

本土人口約4,200万、本土面積21万2,659平方マイルで日本よりかなり大きいフランスは、アジア大陸の27万7,800平方マイル、アジア・南太平洋の海外領土24万3,584平方マイルを含む「342万2,300平方マイル」を支配していた。

ソ連は本土面積630万平方マイル、本土人口1億8,300万人で、全支配面積は「881万9,791平方マイル」にのぼっていた。

そして、「歴史的拡張主義者」の日本がパールハーバー当時、太平洋地域で支配していた面積は「全体のわずかに0.2%」だった。



こうした中でアメリカの立場は興味深い。当然のことながら、私たちアメリカ人は自分たちのことを侵略的民族であるとは思っていない。もし誰かにアメリカは「世界支配の歴史的野望」をもって行動していたなどといわれようものなら、私たちは震え上がってしまうだろう。

それでも、私たちの国と文明の発達を、前近代の日本と比較すれば、違いは驚くべきものである。私たちは初めてこの地に移ってきてから300年の間に、先住民、イギリス、メキシコ、スペインを打ち破り、フランスを脅かし、国家統一のための内戦を戦い、大陸の302万2,387平方マイルを獲得して定着した。

そして、国境を越えて進出し、ときには大陸の縁から7,000マイルも外に出て大国と戦ったり、現地住民の反発を抑えて「71万2,836平方マイル(日本列島の5倍に相当する面積)」の海外領土を得たのである。



日本人は民族として活動を開始してから1868年の近代に入るまでの、少なくとも1,800年の間、「征服」して住みついたのはわずかに自分たち自身の島の南と中央だけ、面積にして9万1,654平方マイルの領土にすぎない。1853年、ペリーが「門戸を解放した」ときには、日本人は海外領土をもっておらず、日本固有の北の島に細々と植民しているだけだった。

近代に入ってからパールハーバーまで82年間の日本は、本土人口7,200万、全人口9,000万、領土面積は17万9,257平方マイル(北海道を含む)の帝国だった。ほかに中国・関東州の租借地(1,438平方マイル)と、1932年に傀儡国とした満州を支配していた。

しかし、これらの領土は日本全土からわずか600マイルしか離れていない。そして日本がこの支配権を得るにあたっては、とくに満州の場合、事実上何らの反対も受けなかった。彼らはまた、委任領(カロリン、マーシャル、マリアナ)を統治していたが、これはわずか830平方マイルにすぎず、しかも国際連盟から任されたものだ。



私たちアメリカが最初に入植した13の地域は「86万8,980平方マイル」の面積をもっていた。これに対して日本の南の三島は「9万1,654平方マイル」にすぎなかった。

私たちアメリカ人は初めから土地が狭いといってあがいていたのに、世界で「最も残忍な侵略者」日本人は、1,800年間、狭い領土に満足していた。

ペリーが日本の門戸を開いたときの私たちアメリカ大陸の人口は「2,300万」をわずかに超える程度だったが、小さな日本の人口は「3,300万」だった。それでも世界に出かけて「門戸を解放」させようとしたのは私たちアメリカ人のほうだった。



日本人はこうした事実から、私たちアメリカ人による非難は、西洋の猛烈な対アジア拡張政策から注意をそらすための策謀と考えるだろう。

実は、西洋の拡張政策のほうが日本人の本性や伝統社会より、近代極東の混迷にずっと大きな役割を果たしているのだ。







出典:ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡:日本』




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