2014年6月8日日曜日

『遠野物語』序より




この話はすべて遠野(とおの)の人、佐々木鏡石君より聞きたり。

鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。

自分もまた一字一句をも加減せず、感じたるままを書きたり。



願わくは、これを語りて平地人を戦慄せしめよ。






遠野の城下はすなわち煙花の街なり。

高処より展望すれば、早稲まさに熟し、晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。

附馬牛(つくもうし)の谷へ越ゆれば、早池峰(はやちね)の山は淡く霞み、山の形は菅笠のごとくまた片仮名のヘの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く、満目一色に青し。



思うに、この類の書物は少なくとも現代の流行にあらず。

いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもって他人に強いんとするは、無作法の仕業なりという人あらん。

されどあえて答う。

かかる話を聞きかかる処を見てきて、のちこれを人に語りたがらざる者、果たしてありや。



明神の山の木兎(みみずく)のごとく、あまりにその耳を尖らし、あまりにその眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。

おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも。













抜粋:柳田国男『遠野物語』序



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