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2018年6月2日土曜日

山崎闇斎、最大の楽しみ[心の砥石]



From:
菜根譚講話 新訳
荻原 雲来




…

むかし会津藩主・保科侯がある日、藩の山崎闇斎(やまざき・あんさい)に向かい、

「先生は何をもって此の世の楽しみとなさるか」

と尋ねた。闇斎はしばらく考えたうえで、

「わたしに楽しみとするものが三つあります。一つは萬物の霊長たる人間と生まれたこと、二つは文治の天下に生まれて自由に書を読み、道を学ぶことのできること、三つは楽しみのなかの最も楽しいことでありますが、これは憚りあって申し上げかねまする」

と答えた。保科侯はそれを聞き、

「ぜひとも、その最大の楽しみを申してみよ」

といわれるので、闇斎は形を改めて、

「それでは申し上げますが、他でもありません。卑賤に生まれて大名に生まれたなかったことが、楽しみのなかの最も大なる楽しみでございます。

その理由は、大名の御殿のなかに生まれ、幼少のころから婦人の手でそだち、御側近侍の者どもから何事も御意(ぎょい)にかなうよう、御無理(ごむり)御尤(ごもっとも)と崇めたてまつられるから、事の善悪も物の道理も少しも知らず、自分ほど偉いものはないように思い、生まれつき賢明な君も、のちには東も西も知らぬような馬鹿殿様になってしまいます。

それに比べると、われわれ下賤の者は、上役からも同役からも、始終叱言(こごと)や忠告をうけるおかげで、是非善悪の何事たるかもわきまえ、自然と身を修め才を磨くことになります。人間としてこれほど有益なことはありません。それで私はこれを楽しみの第一としております」

と答えたので、保科侯も「なるほど」と感心されたという話がある。





…

「良薬は口に苦く、忠言は耳に逆(さから)ふ」

『菜根譚』に云う、

耳中常聞逆耳之言
耳中(じちゅう)常に逆(さから)ふの言を聞き

心中常有払心之言
心中(しんちゅう)常に心に払(もと)るの事あらば

纔是進徳修行的砥石
纔(わず)かに是(こ)れ進徳修行的(の)砥石なり


From:
菜根譚講話 新訳
荻原 雲来



2018年5月9日水曜日

じつは生きていた杜根【三国志】


From:
宮城谷昌光
『三國志』




…

鄧(とう)太后の摂政がつづいている。安帝はすでに27歳である。それでも鄧太后はこの皇帝に新政をゆるさない。

政柄(せいへい)の所在に疑問をおぼえ、匡諌(きょうかん)の言を揚げた者がいなかったわけではない。それに関しては杜根(とこん)がもっとも有名である。

杜根は潁川(えいせん)郡定陵(ていりょう)県の出身で、父の杜安(とあん)はあざなが伯夷(はくい)であることからわかるように、少年のころから志節があり、13歳で太学にはいり、奇童とよばれた。のちに巴(は)郡太守となり、すぐれた行政をおこなったので天下にその名が知られた。

かれの志節は杜根にうけつがれたといってよい。杜根は永初(えいしょ)元年(107年)に孝廉(こうれん)に推挙されて、郎中(ろうちゅう)となった。郎とは男子のことであり、古くは君主に近侍する者を郎中といったが、このころは新人官僚であるとおもえばよい。王朝では鄧太后が実験をにぎり、外戚の鄧氏が格別に恵顧(けいこ)されている実情をみて、

――帝は新政をおこなえぬほど幼くはない。

と、杜根はおもい、政事を帝に奉還すべき旨を上書して直諫(ちょっかん)した。若い正義感がそうさせたのであろう。

このときの鄧太后の怒りはすさまじかった。すぐさま杜根を執(とら)えさせて、縑(きぬ)の嚢(ふくろ)にいれ、殿上において撲殺(ぼくさつ)させた。嚢中(のうちゅう)の杜根はそれで息が絶えたはずであるが、じつは生きていた。執法者が杜根の声名を耳にしていて、

「手加減して叩け」

と、撲打する者にささやいたからである。

嚢は城外に運びだされた。そこで杜根は蘇生した。九死に一生を得た杜根であるから、あわてて逃げだしてもよさそうなのに、そうしなかったのは、かれの知恵が浅くない証拠である。

――太后は用心深い。かならず検視の者をよこすはずだ。

はたして、三日後に検視の役人がきた。杜根の佯死のすさまじさは、眼中に蛆(うじ)を生じさせたことである。むろんその蛆は近くの屍体(したい)から拾ってきたものであろう。精気のぬけた蒼顔(そうがん)にうごめく蛆をみた役人は、小さくうなずき、宮中にもどって、

「杜根はまちがいなく死んでいました」

と、鄧太后に復命した。

「さようか」

鄧太后は残酷さを嗜(この)む人ではない。しかし杜根のようにかるがるしく直言を呈する者が続出してはこまるので、みせしめのために、撲殺という宮中の耳目をそばだたせる処置をあえておこなったのである。

――杜根は何もわかっておらぬ。

鄧太后は荼(にがな)を口に哺(ふく)んだような顔つきをした。幼少のころの安帝は徳の豊かさを人に感じさせた。ところが、人の評価に辛さをもつ鄧太后の目からすると、成長した安帝は失徳者であった。安帝の教育をおこなうべき乳母も姦(わる)い。

王聖(おうせい)

という乳母には淑徳(しゅくとく)が欠けている。国難のさなかにいるのに、安帝に親政をおこなわせたらどうなるのか、火をみるよりもあきらかである。杜根にはそれがわかっていない、と鄧太后の胸は怒りでふるえるが、そのふるえには悲しみがまじっている。安帝を立てたのは、ほかでもない、鄧太后自身なのである。

安帝が聖徳をしめし、群臣を心服させ、人民に恵恤(けいじゅつ)をほどこし、蛮夷をなつかせ、鄧太后をうやまってくれる人であるなら、明日にでも政事を奉還するであろう。そうしないのは、鄧太后から危機意識が去らないからである。

――わたしと兄が国権を掌握しているかぎり、この王朝は頽弊(たいへい)しない。

楽観も悲観もしない鄧太后には自信があり、使命感さえある。王朝の運営者は驕ってはならないという自覚をもっていることも、和帝のころに専横(せんおう)をおこなった竇(とう)氏とはちがう。和帝の手足となって働き、竇氏を覆滅させた鄭衆(ていしゅう)を知っている鄧太后は、

――宦官(かんがん)には用心する必要がある。

ということさえ知っている。かれらをみくびると、突如、足もとをすくわれる。鄧太后には政治感覚がそなわっていたとみてよいであろう。その感覚が、杜根を撲殺する、という恫喝(どうかつ)を必要とした。事実、それ以来、百官や群臣から鄧太后の摂政を非難する声は揚がらなかった。



ところで、死亡したことになった杜根はどうしたか。

――これで追逮(ついたい)はない。

と、みきわめるや、逃竄(とうざん)した。杜根の郷里は潁川郡にあるが、もとよりそこに帰ることはできない。洛陽から南に奔(はし)ったことにさほどのわけがあろうとはおもわれないが、北方や西方にゆきたくなかったのは、異民族による寇擾(こうじょう)がたえまなかったせいであろう。

かれは荊州にはいり、南陽郡をぬけて南部に到った。南郡の郡府は江陵にあるが、そこまでゆかないうちに、宜城(ぎじょう)という大きな県の酒家に傭(やと)われた。宜城は名酒の産地である。怪しまれることなくその家に住み込んだ杜根は、なんと15年もそこですごしたのである。ただし酒家の主人はすくなからぬ人と接し、多くの人を使っているので、人をみる目をもっており、杜根に目をとめて、

――並の賢さではない。

と、看破し、ここにながれてきたわけを問わずに、かれを礼遇するようになった。



鄧氏の勢力が王朝から一掃されたあと、安帝の側近たちは、杜根の忠死について述べたので、安帝は杜根が死んだものとおもい、天下に布告して、せめて杜根の子孫について明らかにせよと命じた。

そのころ杜根が故郷の定陵県に帰ってきたので、県では大騒ぎになった。杜根の子孫についてしらべにきた中央の役人は、死んだはずの杜根に会って仰天し、すぐさま洛陽に報(しら)せをとどけた。

「杜根は生きていると――」

喜んだ安帝は公車(こうしゃ)をさしむけ、杜根を招聘(しょうへい)すると、ただちに侍御史(じぎょし)に任じた。宮中の取り締まりをおこなうところを御史台(ぎょしだい)といい、侍御史はそこの属官である。

杜根は安帝の崩御のあと、順帝(保)のときに、斉陰(せいいん)太守となり、それから官を去り家に還って78歳で歿した。かれなりに道義に遵(じゅん)じた生きかたをしたのであり、志節をつらぬいたといえるであろう。

…

From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 没落



2018年5月3日木曜日

犬が魚をくわへて…【尋常小学校・國語読本】


From:
尋常小学校
國語読本



『犬のよくばり』


犬が
魚をくわえて

橋の上を
とおりました

下を見ると

川の中にも
魚をくわえた犬がいます

その魚も欲しくなって
ワンと一声ほえました

ほえると
口が開いて

くわえていた魚は
川の中へ落ちてしまいました




2017年2月15日水曜日

バッハと庖丁、達磨





話:齋藤孝

…

バッハは、どうしたらそんなにうまくオルガンが弾けるのかと訊かれて、

「楽譜どおりに定められたタイミングで、定められたところに指を置くだけ」

と言ったという逸話が残っています。いま置くべき位置に置くべき指を置く。つぎのタイミングでも置くべき位置に指を置く。ひたすらこれを積み重ねていくことがすばらしい演奏につながる。一つ一つの鍵盤タッチだけを考え、後のことも先のことも考えない。

…

『荘子』に庖丁(ほうてい)という料理の名人の話が載っています。彼の刀は19年使っても刃こぼれがしなかったといいます。肉の筋にそってすすーっと求められるがままに切るので、まったく力が入らず、刃こぼれがしなかったからだそうです。

頭で考えずに、瞬間瞬間に求められるがままに手を動かしているゆえのことです。

…

達磨(だるま)は、

「外に所縁(さまざまな因縁)を止(とど)め、内に心が喘(あえ)がぬこと、心は牆壁(しょうへき、囲い)のようになって、はじめて道に入ることができる」

と説いています。達磨から数えて六代目の祖(六祖)慧能(えのう)も、外に向かって心の思いが起こらないのを「坐」と言い、自分の内側に本性を見て動じないのを「禅」と言うと定義しています。

不動の壁を見つづけることで、外に向かっていた心が内に向かい、何事にも動じない不動の心になり、雑念や妄念に惑わされない境地に落ち着いていく。自分があたかも壁のようになり、自分が壁を見ているのか、壁が自分を見ているのかわからなくなる。

達磨の「壁観(へきかん)」を柳田聖山氏は、

「壁が観(み)るのである、壁を観るのではない。壁となって観るのである。何を観るのか、空を観るのである」

と説いています。





…


出典:声に出して読みたい禅の言葉




2016年1月3日日曜日

佐藤一斎『重職心得箇条』 (原文・現代語訳・評)








【安岡正篤】

…

佐藤一斎先生が自分の出身の岩村藩のために選定しました藩の十七条の憲法、これが「重職心得箇条」です。これは段々有名になりまして、伝え聞く諸藩が続々と使いを派遣してこの憲法を写させて貰ったということです。

それがどうしましたか、明治以来すっかり世に忘れられてしまいまして、自然、「重職心得箇条」というものの原稿の所在も不明になっていました。確か大正になりまして、ふとしたことから東京帝大の図書館の蔵書の中から発見され、改めて識者の間に注意を引くようになったという歴史があります。

これを読んでみますと、実に淡々として少しもこだわらずに極めて平明に重職の心得べき憲法を叙述しています。聖徳太子の十七条憲法なども非常に優れたものですが、この心得箇条も非常にくだけた文章で、しかも高い見識のもとに、国政にあずかる重要な職務にあたるものはかくしなければならんということを、実に要領よく把握している名作だと思います。

…




一.

重職と申すは、家国の大事を取り計らうべき職にして、此の重の字を取り失ひ、軽々しきはあしく候。

重役というのは国家の大事を取り計らうべき役職のことであって、その重の一字を失い、軽々しく落ちつきがないのは悪い。

大事に油断ありては、其の職を得ずと申すべく候。

大事に際し油断があるようでは、この職は務まらない。

先づ挙動言語より厚重にいたし、威厳を養ふべし。

まず挙動言語から重厚にし、威厳を養わねばならない。

重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重うして百事挙がるべく、物を鎮定する所ありて、人心をしづむべし、斯くの如くにして重職の名に叶ふべし。

重役は主君に代わって仕事をする大臣であるから、大臣が重厚であってはじめて、万事うまくいくし、物事をどっしり定めるところがあって、人心を落ちつかせることができるものである。それでこそ重役という名に叶うのである。

又小事に区々たれば、大事に手抜きあるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜け目あるべからず。

また小事にこせついていては大事に手抜かりがでてくる。小さなとるに足らない物を省けば、自然と大事に抜け目がなくなるものである。

斯くの如くして大臣の名に叶ふべし。

このようにして初めて大臣という名に叶うのである。

凡そ政事は名を正すより始まる。今先づ重職大臣の名を正すを本始となすのみ。

およそ政事(まつりごと)というのは名を正すことから始まる。今まず重役大臣の名を正すことが政事の一番の本であり始めである。



【安岡正篤】

これは、明治、大正、昭和と、国政の 衝にあたった人達を順々に考えて参りましてもわかります。やはり西郷とか大久保とか、ああいう人々がおった時は、何ということなく、人心がどっしり落ちついている。それから後世になると段々軽くなる。軽くなるというと争いが始まり、浮調子になる。

重職というものは、何となくどっしりとして重みがあり、その人がおると人々が落ちつくというふうでなければならない。



二.

大臣の心得は、先づ諸有司の了簡(りょうけん)を尽くさしめて、是れを公平に裁決する所其の職なるべし。

大臣の心得として、まず部下、諸役人の意見を十分発表させて、これを公平に裁決するのがその職分であろう。

もし有司の了簡より一層能(よ)き了簡有りとも、さして害なき事は、有司の議を用いるにしかず。

もし、自分に部下の考えより良いものがあっても、さして害のない場合には、部下の考えを用いる方が良い。

有司を引き立て、気乗り能(よ)き様に駆使する事、要務にて候。

部下を引き立てて、気持ち良く積極的に仕事に取り組めるようにして働かせるのが重要な職務である。

又些少の過失に目つきて、人を容れ用いる事ならねば、取るべき人は一人も無き之れ様になるべし。

また小さな過失にこだわり、人を容認して用いることがないならば、使える人は誰一人としていないようになる。

功を以て過を補はしむる事可也。

功をもって過ちを補わせることがよい。

又堅才と云ふ程のものは無くても、其の藩だけの相応のものは有るべし。

また、とりたててえらいというほどの者がいないとしても、その藩ごとに、それ相応の者はいるものである。

人々に択(よ)り嫌いなく、愛憎の私心を去って用ゆべし。

択(え)り好みをせずに、愛憎などの私心を捨てて、用いるべきである。

自分流儀のものを取り計るは、水へ水をさす類にて、塩梅を調和するに非ず。

自分流儀の者ばかりを取り立てているのは、水に水をさすというようなもので、調理にならず、味もそっけもない。

平生嫌ひな人を能(よ)く用いると云ふ事こそ手際なり。

平生(へいぜい)嫌いな人間を良く用いる事こそが腕前である。

此の工夫あるべし。

この工夫がありたいものである。



【安岡正篤】

「自分流儀のものを取計るは、水へ水をさす類にて、塩梅(あんばい)を調和するに非ず。平生、嫌ひな人を能く用いると云うこそ手際なり」

これは一斎先生の「重職心得箇条」の中での一つの名言といわれるものであります。どうも人間というものは好き嫌いがあって、いやだ嫌いだとなると、とかくその人を捨てるものであります。

たとえ自分の気に入らなくてても、「できる」「これはよくやる」とか「これは正しい」「善い」ということになれば、たとえ嫌いな人間でもそれをよく用いる。才能を活用する。これが重職たるものの手際である。この工夫がなければならないということで、もっともな意見です。



三.

家々に祖先の法あり、取り失ふべからず。

家々には祖先から引き継いで来た伝統的な基本精神(祖法)があるが、これは決して失ってはならない。

又仕来(しきた)り仕癖(しくせ)の習いあり、是れは時に従って変易あるべし。

また、しきたり(仕来)、しくせ(仕癖)という習慣があるが、これは時に従って変えるべきである。

兎角目の付け方間違ふて、家法を古式と心得て除(の)け置き、仕来り仕癖を家法家格などと心得て守株(しゅしゅ)せり。

とかく目の付け所を間違って、祖法伝来の家法を古くさいと考えて除(の)けものにし、しきたり・しくせを家の法則と思って一生懸命守っている場合が多い。

時世に連れて動かすべきを動かさざれば、大勢立たぬものなり。

時世に連れて動かすべきものを動かさなければ、大勢はたたない(時勢におくれてしまって役に立たない)。



【安岡正篤】

「守株(しゅしゅ)」というのは、皆さんもご承知の名高い故事のある熟語です。

ある愚かな百姓が、どこからか追われてきたウサギが勢いこんで飛び込んできたとたん、切り株にぶつかって死んだ。ウサギを一匹うまく拾った。それから、この阿呆はいつもそこで、またウサギが出てきて鼻づらをぶつけて死ぬのを待っておったという故事。

これから愚かな習慣にとらわれることを守株(しゅしゅ)、株を守ると申します。



四.

先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先づ今此の事を処するに、斯様斯様あるべしと自案を付け、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引き合わすべし。

昔からの習わしとか先例というものには二種類ある。一つは家法からくる憲法的なきまりであり、もう一つは因襲のきまりである。今、ある問題を処理する場合、こうあるべきだという自分の案をまず作成し、時と場合を考えた上で習わしとか先例とかを調べて、これで良いかを判断しなければならない。

仕癖の例格にても、其の通りにて能(よ)き事は其の通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。

単なる慣習からくる習わしや先例であっても、その通りで良い事はその通りにすれば良いが、時宜に合わない事には拘泥していてはならない。

自案と云ふもの無しに、先づ例格より入るは、当今役人の通病(つうへい)なるべし。

自案というものを持たずに、まず古い習わしとか先例とかから入っていくのは、当今の役人の共通の病気である。



【安岡正篤】

「時宜に叶はざる事は拘泥すべからず」

もはや時の宜(よろ)しきを得ない、時が変わってしまって適応できないことには拘泥してはならん。



五.

応機と云ふ事あり肝要也。

機に応ずということがあるが、これは重要なことである。

物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也。

何事によらず、後からやって来る機というものは事前に察知できるものである。

其の機の動き方を察して、是れに従ふべし。

その機の動きを察知してそれに従うのがよい。

物に拘(こだわ)りたる時は、後に及んでとんと行き支(つか)へて難渋あるものなり。

物に拘っていて(この機をのがした時に)は後でとんといきつかえてどうにもならぬ。



【安岡正篤】

「物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也」

我々は注意しておると、後でどういうことが起こるかということが先に見える。だから医者が人体を診察すれば、これはこういう病気が起こるとか、こうなるとかがわかる。そこで、「その機の動き方を察して、これに従うべし」となります。



六.

公平を失ふては、善き事も行はれず。

公平を失っては善い事すらも行われない。

凡そ物事の内に入ては、大体の中すみ見へず。

だいたい物事の内に没頭してしまうと、どこが中か隅かもわからなくなってくる。

姑(しばら)く引き除(の)きて、活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし。

しばらく問題を脇に除けて、活眼でもって全体を見わたし、中をとるのがよい。



七.

衆人の圧服する所を心掛くべし。無利押し付けの事あるべからず。

衆人が服従するのを厭がるところをよく察して、無理押付はしてはならない。

苛察を威厳と認め、又好む所に私するは皆小量の病なり。

きびしく人の落度などを追及することを威厳と考えたり、また自分の好むがままに私したりするのは、皆人物の器量の小さいところから生ずる病である。



【安岡正篤】

「少量の病なり」

知識というものはごく初歩というか、一番手近なもので、知識がいくらあっても「見識」というものにはなりません。見識というのは判断力です。見識が立たないと、どうも物事はきまらない。

見識の次に実行という段になると、肝っ玉というものが必要になる。これは実行力です。これを「胆識」と申します。知識、見識、胆識、これが「識」というものの3つの大事なことです。



八.

重職たるもの、勤め向き繁多と云ふ口上は恥ずべき事なり。

重役たる者、仕事が多い、忙しいという言葉を口に出すことを恥ずべきである。

仮令(たとえ)世話敷(せわし)くとも世話敷きと云はぬが能(よ)きなり。

たとえ忙しくとも、忙しいといわない方が良い。

随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば、大事に心付かぬもの也。

随分、手をすかせたりして、心の余裕がなければ、大事な事に気付かず、手抜かりが出るものである。

重職小事を自らし、諸役に任使する事能(あた)はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事になる勢いあり。

重役が小さな事まで自分でやり、部下に任せるという事ができないから、部下が自然ともたれかかって来て、重役のくせに仕事が多くなるのである。



【新井正明評】

常日頃、「忙しい、忙しい」と口癖のように言っておった重役が、先生(安岡正篤)の講義を聴いた後で、「勤向繁多という口上は恥ずべき事なり。たとえ世話しくとも世話しきと言わぬがよきなり、云々」には参った、と感想を述べていたのが印象的でした。



九.

刑賞与奪の権は、人主のものにして、大臣是れ預かるべきなり。

刑賞与奪の権は主君のもので、大臣がこれを預るべきである。

倒(さかし)まに有司に授くべからず。

逆様に部下に持たせてはならない。

斯くの如き大事に至っては、厳敷(きびし)く透間あるべからず。

このような大問題については厳格にして、ぬかりのないようにしなければならない。



十.

政事は大小軽重の弁を失ふべからず。

政事においては大小軽重の区別を誤ってはならない。

緩急先後の序を誤るべからず。

緩急先後の順序も誤ってはならない。

徐緩(じょかん)にても失し、火急にても過つ也。

ゆっくりのんびりでも時機を失することになり、あまり急いでも過ちを招くことになる。

着眼を高くし、惣体を見廻し、両三年四五年乃至十年の内何々と、意中に成算を立て、手順を遂(お)いて施行すべし。

着眼を高くし、全体を見廻し、両三年、四、五年ないし十年の内にはどうしてこうしてと心の中で成算を立て、一歩一歩と手順を踏んで実行しなさい。



十一.

胸中を豁大(かつだい)寛広にすべし。

心を大きく持って寛大でなければならない。

僅少の事を大造(=大層)に心得て、狹迫なる振る舞いあるべからず。

ほんのつまらぬ事を大層らしく考えて、こせこせとした振舞をしてはならない。

仮令(たとえ)才ありてお其の用を果たさず。


たとえ素晴らしい能力を持っていても、それではその能力を発揮させることができない。

人を容るる気象と物を蓄うる器量こそ、誠に大臣の体と云ふべし。

人を包容する寛大な心と何でも受けとめることのできる度量の大きさこそが、まさに大臣の大臣たるところというものである。



十二.

大臣たるもの胸中に定見ありて、見込みたる事を貫き通すべき元より也。

大臣たるもの胸中に一つの定まった意見を持ち、一度こうだと決心した事を貫き通すべきであるのは当然である。

然れども又虚懐公平にして人言を採り、沛然と一時に転化すべき事もあり。

しかしながら心に先入主、偏見をもたないで公平に人の意見を受け入れ、さっとすばやく一転変化しなければならない事もある。

此の虚懐転化なきは我意の弊を免れがたし。

この心を虚しうして意見を聞き一転変化することができない人は、我意が強いので弊害を免れることが出来ない。

能々(よくよく)視察あるべし。

よくよく反省せられよ。



【安岡正篤】

「沛然と一時に転化すべき事もあり」

「沛然(はいぜん)と」、つまり夕立ち・大雨が降ってくるように、大変な勢いで、からりと転化しなければならないこともある。

仕来り(しきたり)、仕癖(しくせ)というものは、あるにはあって、これも軽んずるわけにはいかないが、ある時期、ある必要な時には、今まで晴れておったのに、おやっというふうに雲が出てきてドーッと雨が降るように、一時に転化することが必要な時もある、ということです。



十三.

政事に抑揚の勢いを取る事あり。

政事においては抑揚の勢といって、或いは抑えたり、或いは揚げたり調子をとらねばならぬことがある。

有司上下に釣り合いを持つ事あり。

また部下上下の間に釣合いを持たねばならぬこともある。

能々(よくよく)弁(わきま)ふべし。

よくよくこれをわきまえねばならない。

此の所手に入て信を以て貫き義を以て裁する時は、成し難き事はなかるべし。

このところを充分心得たうえで、信を以って貫き、義を以って裁いていけば、成し難い事はないものである。



十四.

政事と云へば、拵へ事繕ひ事をする様にのみなるなり。

政事というと、こしらえ事、つくろい事をするようにばかりなるものである。

何事も自然の顕れたる儘(まま)にて参るを実政と云ふべし。

何事も自然に現われたままでいくのを実政というのである。

役人の仕組む事皆虚政也。

役人の仕組むような事は皆、虚政である。

老臣など此の風を始むべからず。

殊に老臣などは役人の模範であるから、こういう悪風を始めてはならない。

大抵常事は成るべき丈は簡易にすべし。手数を省く事肝要なり。

通常起こる大抵の仕事は、できるだけ簡易にすべきである。手数を省くことが肝要である。



【安岡正篤】

「手数を省くこと肝要なり」

論語のはじめに皆さんもよくご承知の「吾、日に三たび吾身を省みる」という語があります。この「省」という字を「かえりみる」と読んだのでは50点です。

「省」という字には、少なくとも2つの大事な意味がある。一つは「省(かえり)みる」ということ、もう一つは「省(はぶ)く」ということです。反省し、省(かえり)みることによって、不要なこと、無駄なことを省(はぶ)いていく、これが「省」という字の逸してはならない2つの大事な意味です。

だから論語のはじめのこの文章を、「吾、日に三たび吾身を省(かえり)みる」と読んだのでは50点だというのです。やはりここは「省(しょう)す」、あるいは「省(せい)す」と読まなければなりません。

古人はなかなか隅に置けないところがあり、役人という者はとかく無駄が多い、馴れて省みなくなる。ごたごたと仕事を複雑にする。そこで省(かえり)みて省(はぶ)かなければならない。というので、役所の名前に「省」の字をつけた。昔の人はよく考えたものです。今の役人もこういうことを覚えておき、省いていくことが肝要です。



十五.

風儀は上より起こるもの也。

風儀というものは上の方から起ってくるものである。

人を猜疑し蔭事を発(あば)き、たとへば誰に表向き斯様に申せ共、内心は斯様なりなどと、掘り出す習いは甚だあしし。

人を疑ってかかり、隠されている事まで発(あば)き、例えば「誰某に表向きこのように言ったけれど、実はこうなのだよ」などとほじくり出す習いは非常に悪い事である。

上(かみ)に此の風あらば、下(しも)必ず其の習いとなりて、人心に癖を持つ。

上にこのような風儀があれば、下は必ず見習い、人心に悪い癖がつく。

上下とも表裏両般の心ありて治めにくし。


上下ともに心に表裏ができ、治め難くなってくる。

何分此の六(むつ)かしみを去り、其の事の顕(あらわ)れたるままに公平の計(はから)ひにし、其の風へ挽回したきもの也。

したがって、このようなむつかしみを去り、その事の現れたまま正直に公平にやれるよう、その風へ挽(ひ)き回したいものである。



【安岡正篤】

「上下とも表裡両般の心ありて治めにくし。何分此六かしみを去り」

表と裏がある、見えない所がある。陰で何をするかわからないというように「六(むつ)かしみ」を去って、ということ。この「六(むつ)かしみ」は当て字です。こういう所、大学者の一斎先生、一向にこだわらずに、五、六の「六」の字をくだけて使っている。

普通なら艱難の「難」の字を使うのですが、こういうユーモアといいますか、屈託がないといいますか、ここの文章の一つの特徴です。



十六.

物事を隠す風儀甚だあしし。

物事を何でも秘密にしようとする風儀は非常に悪い。

機事は密なるべけれども、打ち出して能(よ)き事迄も韜(つつ)み隠す時は却って衆人に探る心を持たせる様になるもの也。

大切な問題は秘密でなければならぬが、明け放しても差し支えのない事までも包み隠しする場合には、かえって人々に探ろうという心を持たせるようになってくる。



十七.

人君の初政は、年に春のある如きものなり。

人君が初めて政事をする時というのは、一年に春という季節があるようなものである。

先づ人心一新して、発揚歓欣の所を持たしむべし。

まず人の心を一新して、元気で愉快な心を持たすようにせよ。

刑賞に至っても明白なるべし。

刑賞においても明白でなければならない。

財帑(ざいど)窮迫の処より、徒(いたず)らに剥落厳沍(げんご)の令のみにては、始終行き立たぬ事となるべし。

財政窮迫しているからといって寒々とした命令ばかりでは、結局うまくいかないことになるだろう。

此の手心にて取り扱いあり度(たき)ものなり。

ここを心得たうえでやっていきたいものである。



【安岡正篤】

「財帑(ざいど)窮迫の処より、徒(いたず)らに剥落厳沍(げんご)の令のみにては、始終行き立たぬ事となるべし」

金がない、予算がないというところから、いたずらに「あれもいかん」「これもいかん」という。「沍(ご)」は冷える、寒いという字ですから、きびしくしめ、寒々とした令だけの政治では、始終行き立たぬことになるだろうといって、最後に「此の手心にて取り扱いあり度(たき)ものなり」と結んでいる。








【安岡正篤】

いま読みました「重職心得箇条」は、じつによく機微をうがって、しかもあまり窮屈でなく、どこか余裕しゃくしゃくとしたところがあり、名作の名に恥じないものだと思います。

こういうものは、ただお話しただけでは印象にあまり残りませんので、耳と同時に眼を働かせて読み、読みながら聞くというふうにして、あとあとまで心に滲み残るように一緒に読みながらご説明した次第です。

先ほども申しましたように、重要な職務に当たりますと、知識をもつだけでは何にもならないので、知識に基づいて批判する、判断する、つまり見識を立てて、そうしてこれを実行しなければなりません。このように、先哲、先賢の言葉や行い、言行を知る、学ぶ、行う。これを「活学」というゆえんです。

…




2015年10月20日火曜日

切り株まもって待ちぼうけ [韓非子]



守株待兎
【しゅしゅたいと】

株を守りて兎(うさぎ)を待つ


中国の春秋時代、宋の国にある農夫がいた。畑の中に木の切り株があった。ある日、兎がその切り株にぶつかって、首の骨を折った。農夫は労せずして兎を得た。農夫は思った、この切り株で待っていれば、また兎が獲れる、と。しかし、待てど暮らせど、二度と兎は来なかった。

『韓非子』「五蠹」篇「守株」
宋人有耕田者。田中有株、兎走觸株、折頸而死。因釋其耒而守株、冀復得兎。兎不可復得、而身爲宋國笑。今欲以先王之政、治當世之民、皆守株之類也。

過去の幸運をあてにする愚かさのたとえ。


童謡『まちぼうけ』はこの故事にちなむ。

待ちぼうけ、待ちぼうけ
ある日せっせと、野良稼ぎ
そこに兎がとんで出て
ころりころげた 木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
しめた、これから寝て待とうか
待てば獲物が驅けてくる。
兎ぶつかれ、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
昨日鍬取り、畑仕事
今日は頬づゑ、日向ぼこ
うまい切り株、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
今日は今日はで待ちぼうけ
明日は明日はで森のそと。
兎待ち待ち、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
もとは涼しい黍(きび)畑
いまは荒野の箒草(ほうきぐさ)
寒い北風木のねっこ





また『論語(论语)』には

工欲善其事,必先利其器

工、其の事を善(よ)くせんと欲せば、
必ず先(ま)ず其の器を利にす

という言葉がある。


2015年10月2日金曜日

神輿に刺さる、清盛の矢 『新平家物語』



吉川英治『新・平家物語』より



…


「院には、なんの誠意も見られぬ。請願の儀は、二件とも、突っ返された。加賀白山の一か条だに、裁可ある見込みはない。このうえは、神輿を奉じて、法王の蒙(もう)を、ひらき奉れ」

 いま、鳥羽院から帰って来た横川ノ実相坊や止観院ノ如空坊は、ここに交渉の帰結を待っていた二千余の大衆にむかって、感神院の石段の上から、交渉の決裂を、揚言した。

 大衆は憤激して、

「行けっ。懲(こら)しめろ」

と、すぐ身じだくにかかり、神輿の動座にむらがった。

 動座に先立って、百星にまがう灯明がともされた。祇園の林も煙るばかりに護摩をたく。梵音(ぼんおん)、磬音(けいおん)の仏楽(ぶつがく)は、出陣の鉦鼓(しょうこ)に似ていた。何か、ものすさまじい呪気(じゅき)がただよう。やがて、白丁(はくちょう)を着た人びとの肩に、担(にな)い出された日吉(ひえ)山王の神輿は、金色さんさんと、陽(ひ)を照り返し、大衆の鬨(とき)の声に乗って、ゆら、ゆら、ふもとの大路へむかって進んで来た。



 と。突然。

「凶徒ども、待てっ」

と、どなって、神輿の行く前に、立ちふさがった一個の男がある。

 なんのかざりもない、鉄(くろがね)のかぶとをかぶり、荒目の具足を着、わらじばき、手に、強弓(ごうきゅう)をたずさえていた。

 すこし、うしろに、かれの義弟・時忠と、平六家長のふたりが、無手ではあるが、まるで、仮面(めん)のような、硬直した顔をそろえて、突っ立っていた。

「鳥羽院に仕える安芸守・平ノ清盛とは、おれだ。叡山(えいざん)に人間がいるならば、これへ出て、人間のことばを聞け。凶徒どもの中には、物の分かる人間もいるだろうに」

 何か、真っ黒な、等身大の阿修羅の彫刻でも口でもあいて、怒鳴っているように、その姿は見えた。





 この不敵な男の態度と、ことばに、山法師の大群は、勃然(ぼつぜん)怒りを逆巻いて、

「すわ! 清盛ぞ」

「葬むれ。血まつりに」

と、吠え猛(たけ)った。

 大法師の如空坊、実相坊、乗円坊などは、さすがに、あわてもしなかった。ひきいる大衆を制止して、こうなだめた。

「いや、いわせてみろ。何を吐(ほ)ざくか。手を出すな。まず、いわせてみるがいい」

 その間に、神人(しんにん)たちの、白い群れは、

「神輿を汚(けが)さすな。神輿を」

と、うしろへ、うしろへと、列を、押しもどした。



 天地の生んだ一個のもの。その清盛は、大路の真ん中にあった。そしてなお、しゃがれ声を、張りつづけていた。

「なんじらの欲するものは、なんじらに与えてやろう。ここに連れてきた舎弟時忠、家人平六のふたりを、受けとるがいい。ただし、ふたりとも、生きものだということを知っておけよ」

「………」

 こう聞くと、対峙して、見すえていた如空坊たちは、苦笑をうかべた。苦しい妥協に来ての負け惜しみと聞いているらしい。が、清盛は、ひと息入れて、さらに、いい放った。

「因(もと)は、祇園の喧嘩であった。神も見よ、仏も、耳の穴をほじって聞け。理非いずれは、双方、酒のうえのこと。喧嘩は両成敗と、むかしからの慣(なら)わしにも聞く。清盛の愛する二名の家人(けにん)を、忍んで叡山へ渡すからには、叡山の主たる、日吉山王の神輿へも、安芸守清盛が、物申さでは、さし措かれぬ」



「あはははっ。……あははは。やよ見ろ、安芸守清盛は、気が狂うたのだ。気が狂うて、来たとみゆるぞ」

「だまって聞け。法師どもっ」

 清盛は、声を張るのに、満身を揺すった。まるで、熱鉄の上の水玉のように、ほお、あご、耳のうらから、汗の玉が、散るのだった。

「狂気か、正気かは、気をしずめて、なお、われのいうところを聞いてからにしろ。日吉山王の神輿も聞けよかし。およそ、神だろうが、仏だろうが、人を悩ませ、惑わせ、苦しませる神やある仏やある。あらは外道(げどう)の用具に相違ない。叡山の凶徒にかつがれ、白昼の大道を押しあるく、なんじ、日吉山王の神輿こそ、怪しからぬ。幾世、人を晦(くら)まし、迷わせて来つらんも、この清盛を、たぶらかすことはできぬぞ。喧嘩は両成敗ぞ。覚悟せよ、邪神の輿っ」



 あ? と、うろたえの表情が、無数の面上をかすめたとき、もう清盛は、弓に矢をつがえ、き、き、き……と、満をしぼって、神輿へ、鏃(やじり)を向けていた。

 横川ノ実相坊は、おどり上がって、頭から火を出すような、大喝(だいかつ)を放った。

「あな、無法者っ、罰あたりめっ。血へどを吐いて、死ぬのも知らぬか」

「血へど? 吐いてみたい!」

 びゅんと、一線の弦鳴(つるなり)が、虚空(こくう)に聞こえたとき。矢は、さっと、風を切り、神輿のまん中に、突き刺さっていた。



 とたんに、狂せるような諸声(もろごえ)が、二千余人の荒法師の口から揚がった。白 丁の神人たちも、とび上がって、何ら口ぐちにいった。哭(な)くが如き声、怒る声、傷(いた)む声、戸まやどいの声、放心の声、悲しむ声、吠える獣のような声。声、声、声の一つ一つに生きものの感情がどぎつくほとばしっていた。

 古来。

 どんなことがあっても、神輿に、矢のあたった例(ため)しはない。また、神輿の大威徳を冒(おか)して、矢を向けるばかもないが、もしあれば、矢は地に落ち、射手は立ち所に、血へどを吐いて、即死する。

 こう、かたく、信じられていた。

 ところが、矢は、神輿に刺さった。

 清盛は、血へども吐かず、なお、立っている。



 迷信は、白日(はくじつ)に破れた。それは迷信利用の中に、生活の根拠と、伝統の特権をもっていた山門大衆が、赤裸にされたことでもあった。かれらは、狼狽(ろうばい)と、おどろきの底へ、たたきこまれた。

 しかし、祈祷(きとう)のきかないことを、だれより知っていたのは、祈祷する者たちでもあった。大衆を指揮する大法師たちは、大衆の幻滅と狼狽を、すぐかれらの怒気へ誘って、

「やあ、希代な痴(し)れ者っ。そこな外道(げどう)を、取り逃がすな」

と、暴力を、けしかけた。

 うわっ……と、襲いかかる荒法師の長柄(ながえ)の光りや、土ほこりや、神人たちの棒の雨の中に、清盛の姿は、たちまち蔽(おお)いつつまれて、見えもしなくなった。

 乱闘の渦は、べつな所にも起こった。同じように、時忠、平六の二人も、取り囲まれてしまったとみえる。



 振りまわしていたのは、弓であった。もちろん、弦(つる)は、跳ねてしまう。

 清盛は、横なぐりに、三、四人はそれで、なぐりたおした。あとの行動は、無意識の修羅である。

 だた、目にあまる法師群には、笑うべき抵抗だった。ましてかれらの手には、長柄(ながえ)、薙刀(なぎなた)などの有利な武器も持たれている。

「殺すな。つかまえろ」

 衆徒は、ただひとりの清盛を、狩場(かりば)の猪(しし)みたいに見て、なぶり合った。



「捕(と)って伏せろ。生かして、叡山(えいざん)へ、ひいて帰れ」

「生け捕りにこそ。生かしてこそ」

 実相坊か、如空坊か、声をからして、いっている。

 かれ等の首脳たちが、清盛をここで殺すまいとするのは、慈悲ではない。後日、鳥羽院へする掛け合いのためであり、また、信仰の大反逆人清盛と謳(うた)って、世人の前で極刑にすることの方が、叡山(えいざん)の威を示すゆえんであると考えたからである。



 しかし、勢いは、意のままには、うごかない。

 狂せる大衆と、死を思わない一個との、咬(か)みあいだ。

 清盛は、敵の長柄を奪って、いよいよ荒れまわった。かれのすねや小手(こて)にも、血しおが見え、地上にも、死者、怪我人が六、七人は、たおれはじめた。

 一方、やや離れて、ここと同じ死地にある時忠と、平六も、戦いたたかい、つむじ風のように、清盛のほうへ、移動して来ながら、ひたすら、清盛を、案じているらしく、

「わ、若殿っ……」

と、かなたで叫び、

「兄者人(あんじゃひと)っ……。あ、あんじゃひと!」

と、断(き)れぎれな叫びを送っている。

 清盛も、呼び交わした。

「時忠あっ。平六っ……。怯(ひる)むな、気をのまれるな。おれたちの上にも、日輪はあるぞ」

 終わりの言葉は、自分へいっているのであろう。



 そして、すべては、一瞬間のできごとだったが、騒動は、これだけに、止(とど)まらなかった。

 騒ぎを聞き伝えた付近の細民たちは、いつのまにか、まっ黒に、ここを遠巻きにしていた。何か、わんわんいっていたが、

「叡山の狼(おおかみ)に、食い殺させるな」

と、ひとりが、小石を持ったのを見、

「外道の弟子め」

「法師面(ほうしづら)よ」

「強欲の、悪僧ばらを、やっつけろ」

と、口ぐちから、日ごろの感情を吐き出した。

 次には、われもわれもと、小石をひろって、投げはじめたのだ。弥次馬(やじうま)的な心理とするには、余りに、忿懣(ふんまん)のうなりが聞こえる。突如、降って来た天譴(てんけん)の石の雨と、いえないこともない。



 これと時を一にして、祇園の木々の間から、黒煙りを、ふき出していた。

 一か所や二か所ではない。感神院の境内や、八坂、小松谷、黒谷あたりにも、煙りがみえる。

 法師勢が、秩序も強がりも失って、乱れ立ったのは、このためだった。伏兵がある。敵の伏勢が立ちまわったぞ、と口走りながら、にわかに、潰走(かいそう)しはじめた。

 逃げ足となっては、神輿といえども精彩がない。崩れゆく衆徒の上に舞う砂ほこりに、輿(こし)の屋根を傾(かし)がせ、金色(こんじき)の鳳凰(ほうおう)を横ざまにしながら、見ぎたなく粟田口(あわだぐち)方面へと、立ち退いて行くのだった。



「やあ、むなしく退いて行くわ。これは。奇妙だ」

 清盛は、東山の一角に立ち、はるかを見て、笑っていた。よろいの黒革胴(くろかわどう)を、そばに脱ぎ捨て、半裸の姿で、大汗を吹いている。

 実に、おかしい。笑わざるを得ない。



 二千余の大衆よりも、逃げたのは、もちろん、こっちが先なのだ。

 一矢(いっし)を神輿に射たら、すぐ、脱兎(だっと)のごとく、逃げるつもりで、初めから、心に計っていたのである。

(犬死するな。見得を思わず、逃げ落ちろ)

とは、とかく死にたがっている時忠や平六にも、前もって、かたく、いいふくめていたことである。落ち合う場所も、清水寺のうしろの峰、霊山(りょうざん)の岩鼻と、きめておいたものだった。



 それなのに、あの驕慢(きょうまん)な山法師の大群が、何にあわてて、さきに潰走(かいそう)し出したのか。

 石の雨にも、驚いたのだろうが、諸所に揚がった黒煙りに、すわと、疑心暗鬼に追われたものにちがいない。

「しかし、なんの煙りだろうか」

 清盛にも分からなかった。余煙はなお、太陽を鈍赤(にぶあか)くしている。清盛は瞳孔(どうこう)がひらいたような眼を向けていた。そこへ、時忠ひとりが、登って来た。

「あ。御無事でしたか」

「やあ。来たか。時忠。平六はどうした、平六は」

「平六も、血路をひらいて、逃げました」

「あとから、来るのか」

「とどろき橋の下で、出会いましたが、あちこちの煙りを見て、これはきっと、父の木工助家貞が、何か謀(はか)ったことにちがいない。見とどけて来るといって、八坂(やさか)の方へ、駆け去りました。やがて、参るにちがいありません」

「そうか。……いや、そう申せば、六波羅(ろくはら)の家に、むなしく留守している木工助でもない。じじめが、何か、敵の裏をかいた火の手かも知れぬのう……」



…



引用:吉川英治『新・平家物語』




「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」 『徒然草』最終段



第二百四十三段



八(や)つになりし年、父に問ひて云はく、

「仏は如何(いか)なるものにか候(さうら)ふらん」

と云ふ。父が云はく、

「仏には、人の成りたるなり」

と。



また 問ふ、

「人は何にして仏には成り候(さうら)ふやらん」

と。父また、

「仏の教(をしへ)によりて成るなり」

と答ふ。



また 問ふ、

「教へ候(さうら)ひける仏をば、何が教へ候(さうら)ひける」

と。また答ふ、

「それもまた、先の仏の教(をしへ)によりて成り給(たま)ふなり」

と。



また問ふ、

「その教へ始め候(さうら)ひける、第一の仏は、如何(いか)なる仏にか候(さうら)ひける」

と云ふ時、父、

「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」

と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍(はんべ)りつ」と、諸人に語りて興じき。





2015年6月15日月曜日

益田池碑銘[空海] 解説2


〜坂田光全『性霊集講義』より〜
益田池碑銘[空海]解説1からの「つづき」



章意:
淳和天皇の御即位について記し奉れるもの

今上 膺堯揖譲 馭舜寳圖 照玉燭乎二儀 撫赤子於八島

今上(きんじょう)堯(げう)の揖譲(いうじゃう)に膺(あた)って舜(しゅん)の寳圖(ほうと)を馭(ぎょ)す。玉燭(ぎょくしょく)を二儀(じぎ)に照(てら)し、赤子(せきし)を八島(はったう)に撫(ぶ)す。

字訓:
「今上」…淳和帝
「堯揖譲」…昔支那の堯帝が礼儀をつくして舜に位を譲られたといふ故事を指す。
「寳圖」…寳位のこと
「玉燭」…四時に気候の調和をすること。即ちこれ帝の仁政に基くものである。されば帝の徳光を意味す。
「二儀」…天地のこと。
「赤子」…万民のこと。
「八島」…大八洲の国で、日本全国のこと。

講義:
今上陛下淳和天皇は、先帝嵯峨天皇の堯の揖譲のそれよりも麗はしき譲位をうけさせられ給はれて、寳位に御して徳光を以て二儀の天下を普く照したまひ、大八洲の万民を我が子の如くに撫愛し給ふ。



寶圖(宝図)

玉燭
二儀

八島


章意:
淳和帝により藤紀二氏の代りに新に二名の長官が任命せられ給ひしことを示す。

簡伴平章事國道 代撿國事 并抜藤廣任刺史 兩公撿挍池事

伴平章事國道(はんへいしゃうじくにみち)を簡(えら)んで代(かは)って國の事を撿(けん)せしむ。并(ならび)に藤廣(ふじひろ)を抜(ぬき)んでて刺史(しし)に任ず。兩公(りょうこう)池の事に撿挍(けんぎゃう)す。

字訓:
「伴平章事國道」…伴は大伴氏、平章事は参議。國道は名である。
「藤廣」…姓は藤、名は藤廣。大和の守に任ぜらる。
「刺史」…国の守。
「撿挍」…事務を検知、校量すること。

講義:
仁慈にまします淳和帝は、参議大伴氏の國道を選ばれて大和の国の国事を撿知せしめ、また藤の藤廣を抜擢して大和の国の守たる刺史に任命せらる。かくてこの両公を以て更に益田の池の築造の事務を検知、校量せしむることにしたのである。


國事

藤廣

刺史

撿挍

事



章意:
池の工事の進捗の有り様を記せしもの。

於焉 靑鳬引塊 數千之馬日聚 赤馬驅人 百計之夫夜集

焉(ここ)に於(おい)て靑鳬(せいふつ)塊(つちくれ)を引(ひき)て數千(すうせん)の馬日(ひび)に聚(あつま)り、赤馬(せきば)人を驅(かっ)て百計之夫(はくけいのふ)夜(よなよな)集(あつま)る

字訓:
「靑鳬」…銭のこと。これにつき左の如き故事がある。即ち蝉に似て蝉よりも大きい所の虫があり、これを青蚨と名く。この青蚨の子を捕へ帰るときは必ずその母飛び来って子に就く習性がある。そこで其の母を殺して銭に塗りつけ、其の子を殺して貫(ぜにさし)に塗りつく。かくて母を塗りたる方の銭を以て市場で買物して家に帰れば、その銭も帰ってくるのであると言はれている。この銭を青蚨と名け、いま靑鳬と云うは「鳬」と「蚨」と音同じ故に鳬の字を用いたのである。
「赤馬」…『便蒙』には舟の義とし、『私記』には舟車とし、『聞書』には趨車の義とす。今は『聞書』に従い「趨車」の義をとる。
「驅人」…趨車を見ていると、人は車の前にあり車は人の後にありて走っている様はあたかも車が人を逐っているかの如くに見ゆる故に「驅人」と云う。
「百計」…百人千人等たくさんの人のこと。
「夜集」…夜を以て昼の盛事を偲ばし顕わさんとすること。

講義:
新長官によりて池の工事の進捗する有り様を記すと。日日銭を以て数千の馬を雇ひ集めて塊を引かせているのであるけれども、それは恰(あたか)も銭によって聚っているのではなくして、かの子の青鳬の処へ、母なる青鳬が飛び来る如くに自発的に慕ひ集って来、一生懸命に塊を運んでいるかの様に思はれ、その塊を運ぶ車の走れるさまは丁度車が人を逐っているかの如き観を呈しながら、百人千人等の多くの人々が日々夜々に働いているのである。


於焉

馬

集



章意:
前章に同じく工事の有り様を記せしもの。

既而車馬轟轟而電往 男女磤磤而靁歸 土雰雰而雪積 堤倏忽而雲騰

既(すで)にして車馬(しゃば)轟々(くわうくわう)として電(いなびかり)のごとくに往(ゆ)き、男女(だんじょ)磤々(いんいん)として靁(いかづち)のごとくに歸(おもむ)く。土(つち)雰々(ふんふん)として雪のごとくに積み、堤(つつみ)倏忽(しくこつ)として雲のごとくに騰(あが)る。

字訓:
「轟々」…かまびすしき昔の形容。
「電往」…いなづまの如くにはやく往来すること。
「磤々」…「磤」は殷で、殷々は盛なる貌。
「靁」…雷の本字。
「雰々」…雪の降る貌。
「倏忽」…たちまちに。

講義:
既にか様にして車馬轟々とかまびすしき音をたてながら電の如くにすばやく往来し、多くの男女が殷々とにぎやかに雷の如きやかましき音をとどろかせながら往来し、かくて土塊雰々として雪の如くに積み上り、池堤たちまちのうちに雲の如くに高く築き立つことが出来たのである。


既

轟々

男女

而

雰々

雪

雲



章意:
築造工事の速かなることを記せしもの。

宛如靈神之 挺埴 還疑洪鱸之化産 成也不日 畢也不年 造之人也 辨之天也

宛(あたか)も靈神(れいしん)の埴(はに)を挺(ねや)せるが如し。還(かえ)って洪鱸(こうろ)の化産(くわさん)せるかと疑(うたが)う。成(なる)ること不日(ふじつ)にして畢(おは)ること不年(ふねん)なり。之(これ)を造(つく)るは人(ひと)也。之を辨(べん)ずるは天(てん)也。

字訓:
「宛」…サナガラの義。
「靈神」…「靈」は天神、「神」は地神。
「挺埴」…「挺(原文は土偏)」はねやし和すこと。「埴」はねば土のこと。即ち粘土をねり和して器を作ること。
「洪鱸」…大爐。
「化産」…化生に同じ。
「不日」…やがての意。
「不年」…年ならずの意であるが早速なることの譬であるから、少しばかりの年月なることを意味す。
「天」…天子の御こと。

講義:
か様に池の工事はたちまちに成れることは丁度霊神が粘土をねり和して器物を作れるが如にして、忽ちに天地の大爐を以て化生せしめたのであるかとさへ思ふ程に速になされたものである。さればその成就すること不日にしてその畢ること不年なりと云ふべきである。か様に速に工事をなし遂げたのは工事にたずさはれる人々の努力であるが、之を能く弁じ築造するに至れるは 上御一人の御力であられ給ふのである。


靈神

還

不日

畢

也

造

天地



次回につづく