斎藤茂吉
念珠集
8 青根温泉
父は五つになる僕を背負ひ、母は
入用の荷物を負うて、
青根温泉に
湯治に行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その
麓を縫うて
迂回して行くことも出来る。
父の日記を繰つて見ると、明治十九年のくだりに、
『八月七日。雨降。熊次郎、おいく、茂吉、青根入湯に
行。八月十三日、大雨降り大川の橋ながれ。八月十四日。天気
吉。熊次郎、おいく、茂吉三人青根入湯
返り。八月廿三日。天気吉。
伝右衛門、おひで、広吉、
赤湯入湯に行。九月
朔。伝右衛門、おひで、広吉、赤湯入湯かへる』。
ここでは、父母が僕を連れて青根温泉に行つたことを記し、ついで、祖父母が僕の長兄を連れて、赤湯温泉に行つたことを記してゐる。父の日記は
概ね農業日記であるが、かういふ事も漏らさず、極く簡単に記してある。青根温泉に行つたときのことを僕は極めて
幽かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである。
父は小田原
提灯か何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかで
其を非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。
まだ夜中にもならぬうちに家を出て
夜通し歩いた。あけがたに
強雨が降つて
合羽まで透した。道は山中に入つて、小川は
水嵩が増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手を
引かへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちて
鰻が一ぱい
泳いでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。
帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく
莞爾してゐるが、母などよりもいい
著物を著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日
忙しく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。
僕は入湯してゐても毎晩
夜尿をした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな
恰好をして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。
或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、
湯治客がみんなして芝居の
真似をした。何でも僕らは
土戸のところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐる
媼なども交つて芝居をした。その時父は
ひよつとこになつた。それから、その
ひよつとこの
面をはづして、
囃子手のところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。
父の日記に
拠ると、青根温泉に七日ゐた
訣である。それから、
『明治二十
丁亥年六月二日。晴天。夜おいく安産』。
と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は
懐妊したのではないかと僕は今おもふのである。
出典:青空文庫
斎藤茂吉 念珠集
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