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2015年10月24日土曜日

Japan Spirit and Sakura 桜と大和魂



新渡戸稲造 Inazo Nitobe『武士道』Bushido
「武士道の感化」The Influence of Bushido
訳:櫻井鴎村




…


Motoori has put the mute utterance of the nation into words when he sings:

本居宣長は、我国民が不言の言を歌ひて曰く、

"Isles of blest Japan
 Should your Yamato spirit
 Strangers seek to scan,
 Say, scenting morn's sun-lit air,
 Blows the cherry wild and fair"

敷島の大和心を人 問はば
朝日ににほふ山桜花



Yes, the sakura has for ages been the favorite of our people and the emblem of our character.

然り桜は古来我国民の愛玩せる花にして、又た我国民性格の儀型なり。

Mark particularly the terms of definition which the poet uses, the words the wild cherry flower scenting the morning sun.

而して思へ、歌人の特に「朝日に匂ふ山桜花」と曰へる所以のものを。

The Yamato spirit is not a tame, tender plant, but a wild -in the sense of natural- growth;

山桜花は馴雅婉変たる花に非ずして、野生を帯び自然なり。

it is indigenous to the soil;

我国土の特産なり。

its accidental qualities it may share with the flowers of other lands, but in its essence it remains the original, spontaneous outgrowth of our clime.

其偶有性は之を他郷土の花と斉しうするものありと雖、其本質は依然として我国土に自発自生す。

But its nativity is not its sole claim to our affection.

されど其国産たるが故にのみ、吾人の之を愛好するに非らず。

The refinement and grace of its beauty appeal to our aesthetic sense as no other flower can.

其高雅優麗にして日本国民の美徳を動かすの大なるは、高く群芳に絶す。








We cannot share the admiration of the Europeans for their roses, which lack the simplicity of our flower.

吾人は欧州人と共に薔薇を翫賞する能はず。其花や、我国華の単純なるに似ず。

Then, too, the thorns that are hidden beneath the sweetness of the rose, the tenacity with which she clings to life,as though loth or afraid to die rather than drop untimely, preferring to rot on her stem.

而も亦た薔薇の窈窕として其陰に刺針を蔵する、風前に脆く散じて泥汗に委せんことを厭悪し、畏懼し、頑として寧ろ枝頭に腐死せんことを欲する。







Her showy colors and heavy odors -all those are traits so unlike our flower, which carries no dagger or poison under its beauty, which is ever ready to depart life at the call of nature, whose colors are never gorgeous, and whose light fragrance never palls.

又た其色妖冶、其香濃厚なる此等の特質は大いに之を我桜花と其趣を異にす。桜の佳美なるは、毒を蓄へず刃を潜めず、且つ自然の招呼に応じ 欣然として飄落し、又た其姿色太だ華麗ならず。其清香は淡として、遥かに薔薇の人を厭かしむると同じからず。

Beauty of colors and of form is limited in its showing; it is a fixed quality of existence, whereas fragrance is volatile, ethereal as the breathing of life.

形容色彩の美は、花弁の外観を成すに止まりて、其存在に伴ふ常質なり。然るに其芬芳は生命の気息の如くに軽浮す。

So in all religious ceremonies frankincense and myrrh play a prominent part.

故に凡百の宗教に於て、乳香、没薬は主なる儀式を成せり。

There is something spirituelle in redolence.

馨香は清浄聖潔なるものを有す。



When the delicious perfume of the sakura quickens the morning air, as the sun in its course rises to illumine first the isles of the Far East, few sensations are more serenely exhilarating than to inhale, as it were, the very breath of beauteous day.

旭日波を破り、絶東の島嶼初めて紅光を浴び、桜花絢熳、暁風に開くの時、徐に此の美しき日の其気息を吸尽せん乎、胸懐浩々、自から清澄爽快なるものあり。即ち何者の情感か、能く之に儔ひするを得べけんや。



When the Creator himself is pictured as making new resolutions in his heart upon smelling a sweet savor (Gen. Ⅷ, 21), is it any wonder that the sweet-smelling season of the cherry blossom should call forth the whole nation from their little habitations?

創物主すらもノアの捧ぐる馨しき香を開きて、又た地を咀ふことをなさじとの新たなる決心を起こしたりと記されたるを以て見れば(創世記八章二十一節)、桜花陽春の天に薫ずるや、我が全土の民衆をを招いて、茅屋の外に徜徉せしむること、何ぞ異むに足らんや。

Blame them not, if for a time their limbs forget their toil and moil and their hearts their pangs and sorrows.

此時四肢は労役を忘れ、心は悲哀に遠かるとも、何ぞ咎めん。

Their brief pleasure ended, they return to their daily tasks with new strength and new resolutions.

一瞬の快楽尽くるや、彼等は復た新力、新意を提げて、日常の業に還る。



Thus in ways more than one is the sakura the flower of the nation.

此れに由って観るも亦た、桜花は実に日本の花なり。

Is, then, this flower, so sweet and evanescent, blown whithersoever the wind listeth, and, shedding a puff of perfume, ready to vanish forever.

然るに妍葩麗蕋、飄々として春風に舞ひ、一道の清香吹いて未だ幾何ならず。忽爾として消散するの斯花や。

 Is this flower the type of the Yamato spirit?

桜花は果たして日本精神の儀表なる乎。

Is the Soul of Japan so frailly mortal?

大和魂は斯花と其開謝を同じくするものなる乎。


…







2015年10月23日金曜日

年号も知らぬ神様[渋沢栄一]







修験者の失敗


余が十五歳の時であった。自分には一人の姉が脳を患って発狂し、二十歳といふ娘盛り(むすめざかり)でありながら、婦人にあるまじき暴言暴行を敢(あへ)てし、狂態が甚(はなは)だ強かったので、両親も余も之を非常に心配した。

兎に角(とにかく)女のことであるから、他の男に其の世話はさせられぬ。余は心狂へる姉の後ろに附随して歩き、様々に悪口されながらも、心よりの心配に駆られて能(よ)く世話をしてやったので、その頃近所の人々の褒め者(ほめもの)であった。

然(しか)るに此(こ)の心配は独り一家内の上ばかりでなく、親戚の人々も等しく憂慮して呉(く)れたが、中にも父の実家なる宗助(そうすけ)の母親は大の迷信家であったので、「此の病気は家の祟(たたり)のある為であるかも知れむから、祈祷するが宜(よ)い」と頻(しき)りに勧誘したけれども、父は迷信が大嫌ひで、容易に聞入れなかったが、その中(うち)に姉を伴(つ)れて転地保養かがたが上野(かうつけ)の室田(むろた)といふ所へ行かれた。此の室田(むろた)といふ所は有名の大瀧がある所で、病人を其の瀧に打たすれば宜(よ)いとのことであった。

しかるに父の分(で)た後、母はとうとう宗助の母親に説き伏せられ、父の留守中に家にあるといふ祟(たたり)を払ふため、遠加美 講(とほかみかう)といふものを招いて御祈祷することになった。余も父と同じく少年時代より迷信をひどく嫌ったので、其の時極力反対したけれども、未(ま)だ十五歳の子供の悲しさ、一言(いちごん)の下(もと)に伯母なぞにしかりつけられて、余が説は通らない。



さて両三人の修験者が来て其の用意に掛(かか)ったが、中座(なかざ)といへる者が必要なので、その役には近い頃家に雇入れた飯炊女(めしたきおんな)を立てることになった。而(さう)して室内には注連(しめ)を張り、御幣(ごへい)などを立てて厳(おごそ)かに飾りつけをし、中座(なかざ)の女は目を隠して、御幣(ごへい)を持って端座(たんざ)して居(お)る。

その前で修験者は色々の呪文(じゅもん)を唱へ、列座の講中信者(かうちゅうしんじゃ)などは、大勢して異口同調に遠加美(とほかみ)といふ経文体(きゃうもんたい)のものを高声(かうせい)に唱へると、中座(なかざ)の女、初めの程(ほど)は眠って居るやうであったが、何時(いつ)かは知らず持って居(お)る御幣(ごへい)を振立てた。この有様(ありさま)を見た修験者は、直(ただ)ちに中座(なかざ)の目隠(めかくし)を取って、其の前に平身低頭し

「何(いづ)れの神様が御臨降(ごりんかう)であるか、御告(おつげ)を蒙(かうむ)りたい」

などと曰(い)ひ、それから

「当家の病人に就(つい)て何等(なんら)の祟(たたり)がありますか、何卒(どうぞ)お知らせ下さい」

と願った。すると中座(なかざ)の飯炊女(めしたきおんな)めが如何(いか)にも真面目くさって、

「此(こ)の家には金神(こんじん)と井戸の神が祟(たた)る。又(また)この家には無縁仏(むえんぼとけ)があって、それが祟(たたり)をするのだ」

と、さも横柄に曰(い)ひ放った。



それを聞いた人々の中でも、別(べつ)して初めに祈祷を勧誘した宗助(そうすけ)の母親は得たり顔(えがりがほ)になって、

「それ御覧(ごらん)、神様の御告(おつげ)は確かなものだ。成る程(なるほど)老人(としより)の話に、何時(いつ)の頃か、此(こ)の家から伊勢神宮に出立して其れ限(き)り帰宅せぬ人がある。定(さだ)めし途中で病死したのであらうと云ふことを聞いて居たが、今御告(おつげ)の無縁仏(むえんぼとけ)の祟(たたり)といふのは、果たして此の人に相違あるまい。どうも神様は明らかなものだ。実に有難(ありがた)い」

と曰(い)って喜び、而(さう)して此の祟(たたり)を清めるには如何(どう)したら宜(よ)からうと謂(い)ふ所から、復(ま)た中座(なかざ)に伺って見ると、

「それは祠(ほこら)を建立して祀(まつ)りをするが宜(よ)い」

と曰(い)った。



全体、余は最初から此事(このこと)には反対であったので、いよいよ祈祷するに就(つい)ては、何か疑はしき所でも有ったらばと思って始終注目して居たが、今無縁仏(むえんぼとけ)と曰(い)ったに就(つい)て、

「其の無縁仏の出た時は、凡(およ)そ何年程前の事でありませうか。祠(ほこら)を建てるにも碑を建てるにも、その時代が知れなければ困ります」

と言ったら、修験者は重ねて中座(なかざ)に伺(うかが)った。すると中座は、

「凡(およ)そ五、六十年以前である」

というたので、又(また)押返して

「五、六十年以前なら、何といふ年号の頃でありますか」

と尋ねたら、中座(なかざ)は

「天保(てんぽう)三年の頃である」

と曰(い)った。



所(ところ)が、天保三年は今より二十三年前の事であるから、其所(そこ)で余は修験者に向ひ、

「只今(ただいま)御聞きの通り、無縁仏(むえんぼとけ)の有無が明らかに知れる位の神様が、年号を知らぬといふ訳(わけ)はない筈(はず)のことだ。斯様(かう)いふ間違(まちがい)があるやうでは、まるで信仰も何も出来るものぢゃない。果たして霊妙に通ずる神様なら、年号ぐらゐ(い)は立派に御解(わか)りにならねばならぬ。然(しか)るに此(こ)の見易(みやす)き年号すらも誤(あやま)る程では、所詮(しょせん)取るに足らぬものであらう」

と詰問(きつもん)の矢を放った。宗助(そうすけ)の母親は横合(よこあひ)から

「其様(そのよう)なことを言ふと神罰が当る」

といふ一言(いちごん)を以(もっ)て自分の言葉を遮(さへぎ)ったが、これは明白の道理で、誰にも能(よ)く解った話だから、自然と満座(まんざ)の人々も興を冷まして修験者の顔を見詰めた。

修験者も間が悪くなったと見えて、

「是(これ)は何でも野狐(のぎつね)が来たのであらう」

と言ひ抜けた。



野狐(のぎつね)といふことなら、猶更(なほさら)祠(ほこら)を建てるの祀(まつ)りをするのといふことは不用だといふので、詰(つま)り何事もせずに止(や)めることになった。

それゆゑ(え)修験者は自分の顔を見て、

「さてさて、悪い少年だ」

と曰(い)はぬばかりの顔付(かほつき)で睨(にら)まへた。

私は勝誇りたる会心の笑(えみ)を禁ずることが出来なかった。



それぎり宗助の母親はぷッつり加持祈祷(かじきとう)といふことを廃(や)めて了(しま)った。

村内の人々は此事(このこと)を伝へ聞いて、以来「修験者の類を村には入れまい」「迷信は打破すべきものぞ」といふ覚悟を有(も)つようになった。







出典:渋沢栄一『論語と算盤』



2015年9月6日日曜日

江戸無血開城、『談判筆記』山岡鉄舟


談判筆記

慶応戊辰三月、駿府大総督府に於て
西郷隆盛氏と談判筆記

全生庵所蔵



 戊辰の年、官軍 我(わが)旧主 徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)御征討の節、官軍と徳川の間(あいだ)隔絶、旧主 家の者 如何とも尽力の途(みち)を失ひ、論議紛紜(ふんうん)、廟堂一人として慶喜の恭順を大総督宮(だいそうとくのみや)へ相(あひ)訴へ候(さふらふ)者無く、日夜 焦心苦慮する而已(のみ)なり。其内(そのうち)譜代の家士(かし)数万人、論議決定致さず 或(あるい)は官軍に抗せんとする者あり。又は脱走して事を計らんとする者あり。其勢(いきほひ)言語に尽す能(あた)はざるなり。

 旧主 徳川慶喜儀は、恭順謹慎、朝廷に対し、公正無二の赤心(せきしん)にて、譜代の家士(かし)等に示すに、恭順謹慎の趣旨を厳守すべきを以てす。「若(も)し不軌(ふき)の事を計る者あらば、予に刃(じん)するが如し」と達したり。故に余(よ)旧主に述(のぶ)るに、「今日切迫の時勢、恭順の趣旨は如何なる考(かんがえ)に出で候(さふらふ)哉」と伺ふ。旧主示すに、「予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すと雖(いへど)も、朝敵の命下りし上は、とても予が生命を全(まった)ふする事は成るまじ。斯く迄(かくまで)衆人に悪(にく)まれし事、返す返すも嘆かはしき事」と落涙せられたる。

 余旧主に述るに、「何を弱きつまらぬ事を申さるるや。謹慎とあるは詐(いつ)はりにても有らんか。何か外(ほか)にたくまれし事にても有るべきか」。旧主曰く、「予は別心なし」。「如何なる事にても朝廷へ貫徹し、御疑念氷解は勿論なり。鉄太郎に於て其辺は屹(きっ)と引受(ひきうけ)、必ず赤心徹底致すべき様尽力致すべし。鉄太郎 眼(まなこ)の黒き内は、決して配慮これ有る間敷(まじく)」と断言す。

 爾後(じご)自ら天地に誓ひ、死を決し、只(ただ)一人官軍の営中に至り、大総督宮へ此(この)衷情を言上し、国家の為に無事を計らんと欲す。大総督府本営に到る迄(まで)、若(も)し余が命を絶つ者あらば曲(きょく)は彼にあり。予は国家百万の生霊に代り、生を捨つるは素(もと)より余が欲する所なりと、心中(しんちゅう)青天白日(せいてんはくじつ)の如く、一点の曇(くもり)なき赤心を一二の重臣に計れども其事(そのこと)決して成難(なりがた)しとて肯(がへん)せず。



 当時 軍事総裁(ぐんじそうさい)勝安房(かつ・あは)は余(よ)素(もと)より知己ならずと雖(いへど)も、曾(かつ)て其(その)胆略あるを聞く。故に行(ゆき)て是を安房に計る。安房、余が粗暴の聞(きこ)へあるを以て、少しく不信の色あり。安房は余に問ふて曰く、「足下(そっか)如何なる手立(てだて)を以て官軍の営中にへ行くや」と。

 余曰く、「官軍の営中に到れば、彼等は必ず余を斬(ざん)するか縛(ばく)するかの外(ほか)なかるべし。其時、余は双刀を渡し、縛すれば縛につき、斬らんとせば我(わが)旨意(しい)を一言(いちごん)大総督宮へ言上(ごんじゃう)せん。若(も)し其言(そのげん)の悪(あし)くば直(ただち)に首を斬るべし。其言のよくば此の処置を余に任すべしと云はん而已(のみ)。是非を問はず、只(ただ)空しく人を殺すの理なし。何の難(かた)きことか之あらん」と云(いふ)。

安房(あは)其精神不動の色を見て断然同意し、余が望(のぞみ)に任す。夫(それ)より余家に帰りしとき、薩人(さつじん)益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)来り、同行せん事を乞ふ。依(より)て同行を承諾し、直(ただ)ちに駿府(すんぷ)に向ひて急行す。



 既に六郷河(ろくがうがは)を渡れば、官軍の先鋒、左右皆な銃隊(じゅうたい)。其(その)中央を通行するに止(とど)むる人なし。隊長の宿営と見ゆる家に到り、案内を乞(こ)はずして立入り、隊長を尋ぬるに、是(これ)なるべしと思ふ人あり(後聞けば篠原国幹なり)。則ち大音(だいおん)にて、「朝敵(ちょうてき)徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と断はりしに、其人(そのひと)「徳川慶喜、徳川慶喜」と、二声(ふたこえ)小音(こごえ)にて云ひしのみ。此(この)家に居合す人、凡(およ)そ百人計(ばか)りと思へども、何(いづ)れも声も出さず唯(た)だ余が方を見たる許(ばか)りなり。依(よっ)て其の家を出で、直(ただ)ちに横浜の方へ急ぎ行きたり。其時(そのとき)益満(ますみつ)も後(あと)に添(そひ)て来れり。

 横浜を出(いで)、神奈川駅に到れば、長州の隊となれり。是(これ)は兵士旅営(りょえい)に入り、駅の前後に番兵を出せり。此所(ここ)にては益満(ますみつ)を先となし、余は後(あと)に従ひ、薩州藩(さっしうはん)と名乗り急ぎ行くに、更に支(さそ)ふる者なし。夫(それ)より追々(おひおひ)薩藩(さっぱん)と名乗れば、無印鑑なれども、礼を厚(あつく)し通行させたり。

 小田原駅に着(ちゃく)せし頃、江戸の方に兵端(へいたん)を開けりとて、物見(ものみ)の人数路上に絶えず、東に向ひて出張す。戦争は何処にて始まりしと尋ねしに、甲州勝沼の辺なりと云ふ。仄(ほのか)に聞(きく)。近藤勇(こんどう・いさむ)甲州へ脱走せしが、果(はた)して是(これ)なるべしと心に思ふたり。



 昼夜兼行、駿府(すんぷ)に到着。伝馬町(でんまちょう)某家を旅営とせる大総督府下、西郷吉之助(さいごう・きちのすけ)方(かた)に行きて面謁(めんえつ)を乞ふ。同氏、異議なく対面す。余、西郷氏の名を聞事(きくこと)久し。然れども曾(かつ)て一面識なし。

 余、西郷氏に問(とふて)曰(いはく)、「先生、此度(このたび)朝敵征討の御旨意(ごしい)は、是非を論ぜず進撃せらるるか。我(わが)徳川家にも多数の兵士あり。是非に関(かかは)らず、進軍とあるときは、主人徳川慶喜、東叡山(とうえいざん)菩提寺(ぼだいじ)に恭順謹慎(きょうじゅん・きんしん)致し居り、家士(かし)共に厚く説諭(せつゆ)すと雖(いへど)も、終(つい)には鎮撫(ちんぶ)行届(ゆきとど)かず、或(あるひ)は朝意(ちょうい)に背(そむ)き、又は脱走不軌(ふき)を計(はか)る者多からん。左(さ)すれば主人徳川慶喜は、公正無二の赤心(せきしん)、君臣の大義を重んずるも、朝廷へ徹せず。故(ゆへ)に余(よ)其の事を嘆(たん)し、大総督宮へ此事(このこと)を言上(ごんじょう)し、慶喜の赤心を達せん為(た)め是迄(これまで)参りしなり」と。

西郷氏曰(いはく)、「最早(もはや)甲州にて兵端を開きし旨(むね)注進あり。先生の言ふ所とは相違なり」と云ふ。余曰(いはく)、「夫(それ)は脱走の兵のなす処(ところ)なり。縦令(たとひ)兵端を開きたりとも何の仔細(しさい)もなし」と云ひければ、西郷氏曰、「夫(それ)なればよし」と云(いふ)て後(あと)を問はず。

余曰、「先生に於ては戦(たたかひ)を何時(いつ)迄も望まれ、人を殺すを専一(せんいち)とせらるるか。夫(それ)では王師(わうし)とは云ひ難し。天子は民の父母なり。理非(りひ)を明らかにするを以(もっ)て王師とす」と。西郷氏曰、「唯(た)だ進撃を好むにあらず。恭順の実効さえ立てば、寛典(くわんてん)の御処置あらん」。余曰、「其(その)実効と云ふは如何なる事ぞ。勿論(もちろん)慶喜に於(おい)ては朝命には背かざるなり」。

西郷氏曰、「先日来(せんじつらい)静寛院宮(じゃうくわんいん)天璋院(てんしょういん)殿の使者来り、慶喜殿、恭順謹慎の事、嘆願すと雖(いへど)も、只(ただ)恐懼して更に条理(でうり)分らず、空(むなし)く立戻(たちもど)りたり。先生、是迄(これまで)出張、江戸の事情も判然し、大(おほい)に都合よろし、右の趣(おもむき)大総督宮へ言上(こんじゃう)致すべく、此処(このところ)に控へ居(お)るべし」とて、宮へ伺候(しかう)す。



暫(しばら)くありて西郷氏、帰営し、宮より五箇条の御書(ごしょ)御下げ有(あり)たり。其文(そのぶん)に曰、

一、城を明渡(あけわた)す事

一、城中の人数を向島(むかふじま)に移す事

一、兵器を渡す事

一、軍艦を渡す事

一、徳川慶喜を備前へ預くる事


西郷氏曰(いはく)、「右の五箇条、実効相(あい)立つ上は、徳川家寛典(かんてん)の御処置も之(これ)有るべく」と。余曰、「謹んで承(うけたまは)りたり。然れども右五ヶ条の内に於(おい)て、一ヶ条は拙者に於て何分にも御請(おう)け致し難(がた)き旨(むね)之(これ)有り候(そうろう)」。西郷氏曰、「夫(それ)は何(ど)の箇条なるか」。

余曰、「主人慶喜を独り備前へ預(あづく)る事、決して相(あい)成(なら)ざる事なり。何(なん)となれば此場(このば)に至り、徳川恩顧の家士(かし)、決して承伏(しょうふく)致さざるなり。詰(つま)る処(ところ)兵端(へいたん)を開き、空(むな)しく数万の生命を絶つ。是(これ)王師(わうし)のなす所にあらず。さすれば先生は只(ただ)の人殺しなるべし。故に拙者、此条(このじょう)に於いては決して肯(がえんぜ)ざるなり」。

西郷氏曰、「朝命(ちょうめい)なり」。余曰、「縦令(たとひ)朝命なりと雖(いへど)も、拙者に於て決して承伏せざるなり」と断言す。西郷氏又(また)強(しひ)て、「朝命なり」と云(いふ)。

余曰、「然れば先生と余と、其(その)位置を置き易(か)へて暫(しばら)く之を論ぜん。先生の主人島津公、若(もし)誤りて朝敵の汚名を受け、官軍征討の日に当り、其君(そのきみ)恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為め尽力するに、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速(すみやか)に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何(いかが)ぞや。此儀(このぎ)に於ては鉄太郎、決して忍ぶ事能(あた)はざる所なり」と激論せり。

西郷氏、黙念(もくねん)暫(しばら)くありて曰、「先生の説、尤(もっと)も然り。然らば即ち徳川慶喜殿の事に於ては、吉之助(きちのすけ)屹(きっ)と引受け取計(とりはから)ふべし。先生必ず心痛する事勿(なか)れ」と誓約せり。

 後(のち)に西郷氏、余に謂(い)ふ。「先生、官軍の陣営を破り此(ここ)に来(きた)る。縛(ばく)するは勿論(もちろん)なれども縛せず」と。余答(こたへて)曰、「縛(ばく)につくは余が望むところ、早く縛すべし」と。西郷氏笑(わらっ)て曰、「先(ま)づ酒を酌まん」と。数杯を傾け暇(いとま)を告ぐれば、西郷氏、大総督府(だいそうとくふ)陣営通行の符(ふ)を与ふ。之を請(うけ)て去る。



 帰路(きろ)急行、余神奈川駅を過(すぐ)る頃、乗馬五六匹を牽(ひき)行くあり。何(いづ)れの馬なるかと尋ねしに、江川太郎左衛門(えがわ・たろうざえもん)より出す処の官軍用馬なりと。其馬二匹を貸すべしと云ひ、直(ただ)ちに益満(ますみつ)と共に其馬に跨(またが)り、馳(はせ)て品川駅に到る。

 官軍先鋒、既に同駅に在り。番兵、余に馬をとどめよと云ふ。余、聞かずして行く。急に二三名走り来(きた)り、一人余が乗(のり)たる馬の平首(ひらくび)に銃を当て、胸間(きょうかん)へ向け放発(ほうはつ)せり。奇なる哉(かな)、雷管(らいくわん)発して弾丸発せず。益満(ますみつ)驚きて馬より下(お)り其兵の持(もち)たる銃を打落(うちおと)し、西郷氏に応接の云々(うんぬん)を示すに、聞かず。伍長(ごちょう)体(てい)の人、出で来(きた)り、其兵士を諭す。兵、不伏(ふふく)ながら退く。[薩藩、山本某と云ふ人なり]

 若(も)し銃弾発すれば其所(そこ)にて死すべきに、幸(さいはひ)に天の余が生命を保護する所なからんと、益満と共に馬上に談じ、急ぎ江戸城に帰り、即ち大総督宮より御下げの五ヶ条、西郷氏と約(やく)せし云々(うんぬん)を、詳(つまびら)かに参政(さんせい)大久保一翁(いちおう)、勝安房(かつ・あわ)等(ら)に示す。両氏其他(そのた)の重臣、官軍徳川の間、事情貫徹(かんてつ)せしことを喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜(きんき)、言語を以て云ふべからず。



 直(ただ)ちに江戸市中に布告(ふこく)を為(な)したり。其大意、此(かく)の如し。

 大総督府下、参謀西郷吉之助殿へ応接相(あい)済(すみ)、恭順謹慎、実効相(あい)立ち候(さふらふ)上は、寛典(かんてん)の御処置相(あい)成り候(さふらふ)に付(つき)、市中一同、動揺致さず、家業致すべし

との高札(こうさつ)を、江戸市中に立つ。是(これ)に依(よっ)て市中の人民、少しく安堵(あんど)の色あり。



 是より後(のち)、西郷氏江戸に着(ちゃく)し、高輪(たかなは)薩摩邸に於て、西郷氏に勝安房(かつ・あわ)と余と相(あい)会し、共に前日約(やく)せし四ヶ条は、必ず実効を奏すべしと誓約す。故に西郷氏承諾、進軍を止(とど)む。

 此時(このとき)徳川家の脱兵(だっぺい)なるか、軍装(ぐんさう)せし者、同邸(どうてい)なる後(うしろ)の海に小舟七八 艘(そう)に乗組(のりくみ)、凡(およ)そ五十人許(ばか)り同邸に向ひ寄せ来(きた)る。西郷氏に付属の兵士、事の出来(いできた)るを驚き奔走す。安房(あは)も余も是(これ)を見て如何(いか)なる者かと思ひたり。西郷氏神色(しんしょく)自若(じじゃく)、余に向ひ笑て曰、「私が殺されると兵隊がふるひます」と云(いひ)たり。其言(そのげん)の確乎(かくこ)として動かざる事、真に感ずべきなり。暫時(しばらく)ありて其兵は何(いづ)れへか去る。全く脱兵と見えたり。

 此(かく)の如きの勢(いきほひ)なれば、西郷氏応接に来(きた)る毎(ごと)に、余往返(わうへん)を護送す。徳川家の兵士、議論百端(ひゃくたん)殺気云ふ可(べか)らざるの秋(とき)、若(も)し西郷氏を途中に殺さんと謀る者あれば、余前約(ぜんやく)に対し甚(はなは)だ之を恥づ。万一不慮の変ある時は、西郷氏と共に死せんと心に盟(ちか)って護送せり。



 此日(このひ)大総督府下参謀より急の御用有り之(これ)出頭すべしと御達(おんたっし)あり。余出頭せしに、村田新八(むらた・しんぱち)出で来(きた)り、「先日官軍の陣営を足下(そくか)猥(みだり)に通行す。其旨(そのむね)先鋒隊より報知(ほうち)す。我と中村半次郎(なかむら・はんじらう)[桐野利秋]と足下を跡より追付(おいつけ)切殺(きりころ)さんとせしが、足下(そくか)早くも西郷方へ到り面会せしに依(よっ)て切損(きりそん)じたり。余り残念さに呼出(よびいだ)し是(これ)を云へるのみ。別に御用向きは無し」と云ふ。

予曰(いはく)、「それはさも有るべし。予は江戸児(えどっこ)なり、足は最も早し貴君(あなた)方は田舎者にてのろま男故(ゆえ)、余が早きにはとても及ぶまじ」と云ふて、共に大笑(おほわら)ひして別れたり。両士も其時軍艦にて陣営を護(まも)りながら、卒然(そつぜん)其職務を失(しく)じりしを遺憾に思ひしと見えたり。

 此(かく)の如きの形勢なれば、予輩(よはい)鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)して、以て旧主徳川慶喜が君臣の大義を重んずるの心を体認(たいにん)し、謹んで四ヶ条の実効を奏し、且(かつ)百般の難件(なんけん)を所置(しょち)する者、是(こ)れ則ち予が国家に報する所以(ゆえん)の微意(びい)なり。



明治十五年三月
山岡鉄太郎 誌(しるす)





出典:児玉四郎『明治天皇の御杖』






解説:[[新訳]鉄舟随感録 「剣禅一如」の精髄を極める]より

『慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』という鉄舟の遺稿がある。維新の際に功績のあった人々に対して、明治政府の論功行賞(ろんこうこうしょう)が始められた時、過去を語ることが少なかった鉄舟は、その勲功(くんこう)調査に応じることを再三固辞したが、ついに右大臣の岩倉具視(いわくら・ともみ)から直接に求められるに及んで、ようやく認(したた)めたものだ。ただし、勲功調査とは別途に、岩倉個人に呈した書だった。己の功を自慢気に述べ立てることを嫌った鉄舟は、歴史の「証言」に資(し)するならば、という条件付きで呈上(ていじょう)したのである。以下、明治16年(1883)記のその『談判筆記』(『鉄舟居士の真面目(しんめんもく)』圓山牧田編集、全生庵発行、大正七年)にしたがって、細部は省略しながら、鉄舟の果たした大仕事を垣間見ることにする。


 上野の寛永寺に閉居していた徳川慶喜は、すでに朝廷に対する恭順の意を固めていたし、譜代の家臣たちに厳命していた。その趣旨に反しようとする者は「余に対して刃(やいば)をふるうに等しい」とまで通達していたのである。

 純粋なその思い、赤心(せきしん)をもって、こうして謹慎しているのだが、朝敵(ちょうてき)の汚名を着せられたからには、もう自分の命はおぼつかないであろうし、「これほどまでに人々に憎まれることになったのは、かえすがえす嘆かわしいことだ」と伺候(しこう)した鉄舟の前で慶喜は落涙(らくるい)した。

 そこで、鉄舟は「どうして、そのようなか弱きことをいわれるのですか」と述べ、「謹慎というのは偽りで、何か企(たくら)まれていることがあるのですか」と問うと、慶喜は「どのようなことがあっても、朝廷に背(そむ)かざる赤心を貫く」と答えた。

 慶喜の強い決意を確かめた鉄舟は、「その誠の赤心のうえでの謹慎ならば、それは朝廷に貫徹して、もちろん疑念は晴れるはずですので、その役目は自分が引き受け、必ず赤心が朝廷に通じるように尽力いたしましょう」と言い、次のように断言したのである。「この鉄太郎の眼の黒いうちは、決して、ご心配には及びませぬ」。



 その後、命をかけて大総督府に慶喜の赤心を伝える自分の考えを、鉄舟は一、二の重臣に打ち明けたが、「そんなことができるはがない」と一蹴されたので、未知の人だが、かねて胆略(たんりゃく)優れた人物という評判を耳にしていた幕府の軍事総裁である勝海舟(かつ・かいしゅう)を訪ねて、粘り強く説得した末に同意を引き出す。そして、海舟の家に預けられていた薩摩人の益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)という者を同行(このことは海舟に請われて鉄舟が承諾したと述べられている)して、直ちに駿府へと向かった。

 さて、六郷川(多摩川)を渡ると、すでにそこまで進軍していた新政府軍(官軍)の先鋒隊の兵が、銃を持って駐屯(ちゅうとん)している。鉄舟はそのど真ん中を通行したが、一人として制止する者がいない。彼は宿営(しゅくえい)と思(おぼ)しき家に乗り込むと、隊長らしい人物に大声で、こう断った。「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と。宿営にいた百人ほどの人間は、一声も発することなく、鉄舟の方に目を向けたばかりであった。



 それより横浜、神奈川、小田原を経て、益満を従えて昼夜歩きつづけた鉄舟は、駿府に着くと、大総督府下の参謀・西郷吉之助(きちのすけ)隆盛(たかもり)の旅営に行った。その名はずいぶん以前から聞き知っていたが、もちろん、一面識もない西郷に面会を許されると、彼は切々とおよそ以下のようなことを訴えたのである。

「わが主人の徳川慶喜は、恭順の意志をもって謹慎しているが、臣下の者に対する鎮撫(ちんぶ)が行き届かないために、朝廷のお考えに背いている者が多いかもしれず、無二(むに)の赤心(偽りのない心)が朝廷に通じないことを嘆いている。拙者はそれを大総督宮(有栖川宮)に言上(ごんじょう)し、慶喜の赤心を伝えるためにこうしてやって来たのである。先生(西郷)は、それでも江戸へと進軍されるのか。それでは、人殺しではないか。王師(帝王の軍隊)とはいえぬ。天子(天皇)は民の父母であり、理非(りひ)を明らかにするのが、王師というものではないのか」

 すると西郷が、「恭順の実際を示せば、朝廷より寛大な処置が下されるであろう」と言い、大総督宮に伺いを立てて戻って来ると、大総督宮より下された左記の五箇条から成る書を呈した。

一 城(江戸城)を明渡(あけわた)す事

一 城中の人数を向島(むこうじま)へ移す事

一 兵器を渡す事

一 軍艦を渡す事

一 徳川慶喜を備前(岡山県)へ預(あずけ)る事。

 西郷はこの五箇条の実効が成立すれば、徳川家に寛典(かんてん)が下されるであろう、と言うのである。

 鉄舟は「謹んで承(うけたまわ)りました」と言った後で、ただし、慶喜を備前に預けるという条はとうてい承服(しょうふく)できぬ、と言った。なぜならば、「そうなれば徳川恩顧(おんこ)の臣がこれを受け容れず、ついには戦争が始まるし、その結果、数万の生命が絶たれることになる」からであり、その事態に至れば、「先生は単なる人殺しになるであろう」と言うのだった。

 「朝命(ちょうめい)なり」と西郷は頑なに主張するばかりである。鉄舟は激しく食い下がる。彼はこんなことを言った。「もしも、慶喜が先生の主人の島津公で、先生がこの鉄太郎の立場にあったならば、朝命を奉戴(ほうたい)してご主君を差し出し、安閑(あんかん)として事を傍観されるか。どうですか」。この言葉を聞いて、西郷は黙っていたが、やがて口を開いた。「先生(鉄舟)の説はごもっともである。徳川慶喜殿のことは、この吉之助が引き受け申した」と、西郷は言い、あとは二人の間で酒が酌みかわされた。



 それからの経緯は省(はぶ)くが、西郷から与えられた「大総督府陣営の通行の符」を手にして江戸城に帰ると、鉄舟は参政(さんせい)の大久保一翁(忠寛)、勝海舟たちに五箇条の書を示し、加えて、西郷との談判の詳細を報告したのである。そして、江戸市中に高札(こうさつ)が立つ。その布告の大意は、左記の通りであった。

 大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接相済(あいすみ)、恭順謹慎実効相立(あいたち)候上(そうろううえ)は、寛典の御処置相成(あいなり)候に付(つき)、市中一同同様不致(いたさず)、家業可致(いたすべし)。

 後日、高輪(たかなわ)の薩摩藩邸で、勝海舟と西郷隆盛の史上有名な会談が行われる。その席には鉄舟も加わっている。こうして、江戸は戦火を免れたのだった。








2015年9月4日金曜日

山岡鉄舟伝(修身二十則)『鉄舟随筆』


鉄舟随筆

勝海舟 評論
安部正人 編

東京 光融館蔵版



緒論

精鉄百錬初めて光彩陸離たる利刀を得べし、風霜千年を経ざれば鬱茂たる棟梁の材をなし難し。人生れながらにして聖なるものは、未だ之あらず。切磋琢磨日々新たにして然る後、才識卓発徳望隆起するを得るなり。

米の国父華聖頓(ワシントン)の如き、我維新創業の名臣南洲、海舟、鉄舟先生の如き、固より其天資の衆を抜くものある可しと雖も、其修身励行に由り始て偉業をなすを得しなり。何者の痴漢ぞ古賢豪を見て、徒に其天授にして及ぶ可からざるを称し、毫も自家の修養を務めず、万金換え難きの身を以て、禽獣草木と共に化し終らんとす。嗚呼其志立たず、其行修まらず。其業の成らざる知るべきのみ。

全生院殿鉄舟高歩山岡先生、深く力を修心錬胆に用ふ。彼の卓抜見識の絶代の偉業は、皆之に由て得来りし者なり。人大海の量なくして、何ぞ百川の朝宗を得ん。良何の術なくして、何ぞ紛乱の世に処するを得ん。先生の卓識偉業を見ば、其如何に力を修養に用ひたるかを知るべし。乞ふ世の志士其れ之を下文に鑑みよ。



山岡鉄舟居士伝


居士、名は高歩、字は曠野、通称鉄太郎、鉄舟と号す。本姓は小野氏、世々幕臣と為る。父朝右衛門、仕へて飛騨の代官と為る。母は塚原氏。天保七年六月江戸に生る。既に長じて、出て幕臣山岡氏の後を継ぐ。仕へて大監察に至る。居士、年十三の時、一日慨然として以為く、

士の君に事ふる常に死を視ること帰するが如し。確乎として其心を動さざる者は、然る後ち始めて能く忠を尽すべしとなす。而して心を動かさざるを要せば、則ち先づ心を練らざるべからざるなり。因て生父に問ふに、練心の術を以てす。

父曰く、吾家の先祖、高寛君、剣法を小野治郎右衛門、小太刀半七の二人に学ぶ。又、禅道の蘊奥を究め、以て東照公に仕へ、屡々戦功を著はす。其旗毎に「吹毛不曾動」の五大字を題する者を用ゆ。今汝心を練らんと欲せば、禅学を修むるに如くはなし。

居士、是に於て始めて芝村長徳寺の願翁に参じて十年を歴、願翁未だ肯て許可せず。然れども居士少しも自ら挫けず、志操愈々堅し。又、豆州龍澤寺の星定に参す。寺は州の三島駅の西、一里許に在り。居士暇日毎に必ず払暁江戸を発して、騎して函嶺を過ぐ。夜四更始めて龍澤寺に至る。至れば則ち先づ星定に参し、後乃ち飯を喫す。或は温湯を得ざれば、則ち水を飲で食を下す。祁寒と雖も、未だ曾て難色あらざるなり。曾て独園に語て曰く、吾れ龍澤に往来す。或は夜半を以て函嶺を過ぐ。頗る生涯の平生に殊なるを覚ふるなり。又、滴水、洪川、独園の数人に歴参し、後ち滴水の印可を受く。而して居士剣法の妙、亦之を禅理上より得たり。



蓋し居士甫めて九歳より剣法を学ぶ。初め久須 美閑適齋に従て真影流を受く。後ち井上清虎に就て北辰一刀流を受く。最後乃ち浅利義明の門に入て、以て一刀流の奥義を究んと欲し、苦練すること年あり。其修禅の際に及で一日滴水に参じ、語次剣事に及ぶ。滴水則ち、

「両刀交レ鉾不レ須レ避、好手還同二火裏蓮一宛然、自有二衝天気一」

注:「両刀交[#レ]鉾不[#レ]須[#レ]避、好手還同[#二]火裏蓮[#一]宛然、自有[#二]衝天気[#一]」

の句を挙して之れに授く。居士之を紳に書して、居常拈提すること三年、一旦豁然として省悟する所あり。馳せ往て浅利に見へて、角技せんと請ふ。技法神妙、復た前日の比に非ず。浅利乃ち木刀を抛ち、容を改めこれに告て曰く、

「子已に至る矣、以て吾秘を伝ふべし」

と、遂に伝ふるに一刀斎が所謂、無想剣の極致を以てす。時に明治十三年三月三十日なり。居士既に之を伝受して、此より益々拡充精究して、以て古人未発の蘊奥を発し、竟に無刀流の一流を開き、以て其徒に授く。論者以為らく、居士の剣法に於ける、其淵源する所ろ是の如く、邃且つ遠し。而して世の剣客、徒に之を技に求めて、輙ち歩を邯鄲に学ぶ者衆し。亦思はざるの甚しき也。



是より先、居士禅を修し、剣を学ぶ、其志将に大に為すあり。以て忠を事ふる所に尽さんとす。未だその志を果すに及ばすして、而して幕府政を失ひ、国事丕変す。王政維新の初に迨で、官軍大挙して東関東を征す。将に江戸城に臨んとす。居士、勝海舟等と共に、独り其衝に当り、心を同ふし、謀を協せ、死を以て其主徳川慶喜の恭順を白す。当時王師をして刀に血せずして、而して江城を収しめ、江都百万の生霊皆、塗炭を免れ、安堵平日に異らざる者は、居士と海舟等との力なり。事蓋し国史に在り。茲に復た詳かにせず。

居士人となり、慈仁にして剛毅、寛猛相済し、威恵並び行はる。無類の徒と雖も、一たび其化導を被れば、輙ち翻然として過を悔ひ善に還る。居士夙に禅を悦ぶと雖も、然れども度量寛弘にして、党同伐異の見なし、其各宗の緇に於ける、一誠に之を待つ。要仏法を以て宗旨となす。明治の初年に、朝野盛に排仏論を唱ふ。居士夷然として争はずして曰く、天下を挙て皆他教を信ずるも、我一人仏教を信ぜば可なりと。

初め居士幼にして、書法を飛州高山の岩佐一亭に学ぶ。後ち益々精詣して、遂に海公の入木道五十三世の正伝を継ぐと云ふ。是を以て以て世人其書を責重して、争ひ来て之を索む。酬ゆるに金帛を以てす。居士却けずして而して之を受け、悉く資りて以て廃寺を興す。明治二十年七月に至て、始めて揮毫を絶して、復た他の需に応ぜず。願を発して一切蔵経を写す。毎夜必ず燈に就て経を写す。四更に至て而して止む。

嘗て鉄舟、寺を駿州に、全生庵を東京に創す。其徴を蒙りて朝廷に仕るや、擢んで侍従に任ぜられ、宮内少輔に遷り、従三位に累叙し、勲二等に叙せられ、思眷日に渥し、嘗て内帑金五千円を賜ふ。居士即ち之を創する所の二寺に分施す。又人の三千金を贈する者あり。亦二寺に分施す。専ら興仏を以て事と為す。



明治十五年五月、職を辞して家居す。二十一年二月、篤疾に罹かる。事叡聴に達す。特に侍医に詔して日々就て診視す。且厚く物を賜ふて之を優問す。七月中旬に至て疾革まる。自から死期已に迫るを知って、即ち親戚門弟を会して款話す。且つ落語師円朝に打談せしむ。談笑平日の如し。円朝も亦、常に居士に就て禅を問う者也。

是より先き、居士既に写経を以て日課と為す。篤疾と雖も未だ曾て一日も廃輟せず。是の日尚ほ机に倚て課に就く。将に筆管を拈せんとす。臂彎して伸びず。一僧、側に侍して、即ち之を扶けて机上に達せしむ。筆を下すに及で、即ち字々遒健して、毫も常作に殊ならず。観る者、之を驚異す。時に是の月十八日なり。

翌日疾を力めて早く起き、将に浴室に赴かんとす。門人某、扶持せんと擬す。居士、之を揮ひ去て、独歩して室に入り、澡浴常よりも周ねし。既に罷んで内子に命じて衣を取らしむ。常服を奉ず、肯んぜず。内子、之を覚りて、泣いて予備する所の白衣を奉ず。居士、自ら之を服して、復た病床に坐し、喫烟すること一次。乃ち身を起して更に坐し、結跏すること儀の如し。且つ金剛経一巻を取て之を懐にす。右の手に座傍の一団扇を執り、左の手に念珠を持す。是に於て、従容として左右を顧視す。遂に親戚門弟に永訣して曰く、

諸君好在、吾れ今日先つて逝ん

と言い卒って微笑して瞑す。坐容変ぜず。𠑊然として平日の如しと云う。享年五十有三、越へて三日。谷中全生庵に葬る。



事聞へて今上震悼し玉ひ、特に勅して、祭粢料金二千円を賜ふ。皇后亦五百円を賜ふ。時人、之を栄とす。居士の卒するや、遠近之を弔祭する者、勝て数ふべからず。其京都に在ては、即ち門人、北垣国道、小倉庄之助等、諸有志相謀って、是の歳八月初一日を卜して、其霊を万年山に弔祭す。独園、居士に於いて道契最も深し。其拈香偈に曰く、

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

是の日、来会供養する者、緇素凡そ千五百有余人。法会の盛なる、近年其の比罕なりと云ふ。



修身二十則

一  うそいふ可からず候

二  君の御恩は忘る可からず候

三  父母の御恩は忘る可からず候

四  師の御恩は忘る可からず候

五  人の御恩は忘る可からず候

六  神仏並に長者を粗末にす可からず候

七  幼者をあなどる可からず候

八  己れに心よからざることは、他人に求む可からず候

九  腹を立つるは、道にあらず候

十  何事も不幸を喜ぶ可からず候

十一 力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候

十二 他をかへりみずして、自分の善き事ばかりす可からず候

十三 食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し。すべて草木土石にても、粗末にす可からず候

十四 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得ふ可く候

十五 礼儀を乱る可からず候

十六 何時何人に接するも、客人に接する様に心得ふ可く候

十七 己れの知らざる事は、何人にてもならふ可く候

十八 名利の為めに、学問技芸す可からず候

十九 人にはすべて、能不能があり。いちがゐに人をすて、或は、わらふ可からず候

二十 己れの善行を、ほこりがほに、人に知らしむ可からず。すべて我心に恥ぢざるに務む可く候


嘉永三年庚戌正月 行年十五才の春 謹記
小野鐵太郎


評論:勝海舟


…

まァ能く考へて見給へ。此(この)修身二十則などは、今時(いまどき)の学者が見たならば、へでもないと云ふだらうよ。こんな馬鹿げた事は、世人には五月蝿(うるさ)くて、見もしないだらうよ。

併(しか)し之を逆に戻して、己れの目から無遠慮に云ふて見れば、こんな馬鹿な事は、実践するものもあるまいよ。口先計(ばか)りの小理屈で、桶の輪の様(よう)に周囲はよいが、お腹の内は明き巣(あきす)だらうよ。も少し真面目に云ふて見れば、実践は愚か、十四五才の小供では、此位(このくらい)な事も容易に云ひえないものが多からうよ。

処(ところ)が山岡などは馬鹿正直にも、実践して居るからナー。詰(つま)る処(ところ)、彼が小供の時分よりの志が中々(なかなか)殊勝なるものよ。まァ、ご覧よ。此(この)二十則の中に、忠孝を冒頭に呼出してあるが、之(こ)れが後日の山岡鉄舟だよ。



彼が頑固と訾(そし)らるるも、馬鹿正直と云はるるも、或(あるい)は生仏(いきぼとけ)と拝せらるるも、将又(はたまた)君命を奉して、駿府(すんぷ)の使(つかひ)を全(まった)ふし、平穏無事の間に、維新の革命を成就せしめたのも、或(あるい)は朝廷に奉仕して、明治の和気清麿(わけのきよまろ)と、己れが云ふのも、総(すべ)て爰(ここ)にあるのだ。これが骨髄の処(ところ)で、後の附言(つけごと)は注解サ。

だがモ一歩文句を引出して云ふて見れば、此(この)文中に腹を立つるは道にあらず(これが恰(あたか)も維新前後、世人多くは山岡は叛逆者(むほんもの)、狼藉者とて万衆に訾(そし)られて平気で居た所だ)と云ふ事が、中々(なかなか)小供ながら考へたものサ。

夫(そ)れから何事も不幸を喜ぶな、力の及ぶ限り、善(よ)き方につくすべし(これが駿府に使して天下の太平を祈った処だ)と記し、終にすべて我心に恥ぢざるに務むべし(此処(ここ)で始めて全くなるのだ。乃ち万衆の訾(そしり)も平気に受け流し、生死を顧(かへり)みず、虎口を忍んで使命を果たした、彼の心中には毀誉(きよ)皆(みな)皮相、只(ただ)我心に恥ぢざるに務めたのだ)とあるのが肉だ。其外(そのほか)は、皮を以(もっ)て骨肉を包んだのサ。



どーだい、今時の奴でこんな事を云ふ奴はあるかも知れぬが、実際行ふ奴は誰れだらうよ。さうなると指が折れまいよ。

以下評論として、己れの所感を物語るから、篤(とく)と脳味噌を澄まして聞き給へ。呆れて居っては分からなくなるからよ。

…





出典:安部正人『鉄舟随筆』


2014年5月30日金曜日

「正坐」と言わない夏目漱石




引用:矢田部英正『日本人の坐り方』



…



 「正坐」という言葉は、明治期の礼法教育が日本全国に普及させたひとつの坐り方を、唯一の正しい基準として結び固める役割を果たした。まさにそれは学校教育が新たに制定した近代日本の文化基盤のひとつとして、いまなお私たち日本人の意識を支配している。私たちが伝統文化であると思っていた「正坐」とは、まぎれもなく近代日本の教育推進策の産物だったのである。



 坐り方に関する言葉については、文学の世界に目を転じてみても、作家の世代によって明確な差があらわれているようにみえる。

 たとえば夏目漱石の小説には「正坐」という言葉が出てこない。武蔵大学で言語学を教えておられる小川栄一教授からご指摘をいただいて、全集を調べ直してみると確かにその通りであった。登場人物の坐り方をあらわす表現に、漱石は「端座(たんざ)」「かしこまる」、それから「跪坐」と書いて「かしこまる」と読ませたりする。



 たとえば明治38年(1905)から翌年にかけて書かれた『吾輩は猫である』を見ると、


此座布団の上に後ろ向きにかしこっまて居るのが主人である。

六尺の床を正面に一個の老人が粛然と端座して控えて居る。


などと出てくるが、「かしこまる」「端座」とは、いまでいう「正坐」の坐り方にちがいない。

※端座とは、端正に坐るということの他にも、坐次(席順)を重視した殿中の儀礼においては「下座の端から坐る」という折り目正しさも求められたことを意味している。







 登場人物はどちらもキモノを着ていたことが文脈から想像されるけれども、漱石が小説を発表しはじめる明治の終わり頃には、西洋化の国策が徐々に社会に浸透しはじめ、学校の教員も日常的にスーツやスラックスを着用して教壇に立つようになってきていた。

 小説のなかでは洋服で「正坐」をすることの不具合も描かれていて、たとえば『坊っちゃん』に出てくる酒宴の場面では、


おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐ胡座(あぐら)をかいた。

うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンの儘かしこまって、一盃差し上げた。


とある。舞台となる四国の中学校教員の姿は、袴とズボンとそれぞれの出で立ちが描かれているけれども、やはり畳に床坐の場面では、洋服という服装は何かと「窮屈」を強いるものであったことが読み取れる。

 坊ちゃんの穿いていた、当時のスラックスがどのような形のものであったのか、想像の域を出ないけれども、腿や腰の身幅がピッタリとしたノータックのストレートスラックスだったかも知れない。とくにテーラー仕立てのスラックスの類いは、前後に足をまっすぐ見せるための折りたたみ線が入っているから、床に坐ると皺が定着して型崩れを起こしてしまう。

 いずれにせよ洋服は、床に坐ることを想定してつくられていないから、日本の伝統的な生活スタイルとは容易には折り合いがつかず、その微妙な感覚のズレを、どうも寛げない、落ち着けない、窮屈だとして、何となくからだが感じ取っていた時代の様子を、こうした小説の件(くだり)からも垣間見ることができる。







 「かしこまる」という言葉が内包する抑制感を、「正坐」と切り離せないものとして、漱石は捉えている。そして、慶応三年(1867)、つまり江戸時代の最後の年に生まれた夏目漱石の言語感覚には、「端座」「かしこまる」といった古来の呼び名が定着していて、「正坐」という近代の言葉は、馴染まなかったか、もしくは存在しなかったようである。

 ところがその弟子である寺田寅彦は、昭和七年(1932)に書いた「夏目漱石先生の追憶」という随筆のなかで、自宅における漱石の居ずまいを次のようにあらわしている。


 先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。

しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。


 寅彦の描く「端然として正座」する漱石の坐り方は、かつて「端座」と言われていたものだろう。「端正」「端然」といった形容のなかにも、無駄のない、洗練された、古来の力強い形式が、生活空間のなかで静かに息づいている様子がみえるようだけれども、漱石の作品を読んだ後に、「正座」という言葉を普通に使っている寅彦の随筆を読むと、文体そのものにも近代的な明るさが感じられないだろうか。



 それに比べると、漱石の初期の小説は、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』などにしても、内容はいたってユーモラスだけれども、「端坐」「かしこまる」といった人物を描くときの言葉遣いからして、だいぶ寅彦より古風な印象を受ける。

 もっとも夏目漱石は、英文学者から小説家へと転向し、漢文や俳句の素養もそなわった文化人である。一方、寺田寅彦は物理学者としての業績を残すかたわらで、随筆などに優れた才を発揮した人物であった。もとの頭脳が科学者である寅彦の明晰さは、その文体からも推し量れないではないが、二人の文豪の間にそうした素養のちがいはあったにせよ、「正坐」という言葉をめぐる両者の言語感覚の相違は、当時の日本に存在した全体的な言葉の潮流のあらわれと言える面もあるように思う。







 しかしながら、くり返し言うが、「正しい基準」というのは、それが定まると同時に基準と対立する「正しくないもの」を排除してしまう。

 近代以前は、「胡座(あぐら)」も「安坐」も「立て膝」も有用な坐り方として生活のなかに位置づけられていたのだが、「正坐」が正しい基準になってからというもの、いつのまにか基準から外れた「崩れた作法」とのレッテルを貼られてしまった感がある。しかしそれは永い永い日本の伝統から考えれば、ごく最近につくられた近代文化のなかの基準のひとつにすぎない、というのが本当のところではないだろうか。



…






出典:矢田部英正『日本人の坐り方』



2013年7月3日水曜日

「長州ファイブ」と森有礼。「5」の不思議



幕末最末期、長州の「田舎の若者5人組」は海外渡航の禁を犯して、イギリスへと辿り着く。

のちに「長州ファイブ」と呼ばれる5人組である。彼らはロンドン大学に入学し、西洋文明の最新知識を存分に吸収して日本へと戻って来る。



この5人のうち、「伊藤博文」は明治新政府の初代首相に就任。

ほか、「井上馨」は外務卿、「遠藤謹助」は造幣局長、「井上勝」は鉄道庁長官、「山尾庸三」は工部卿と、近代日本の礎を築く人材となるのであった。








彼ら長州ファイブに見られる数字「5」。

この数字は日本に馴染み深い。たとえば江戸時代の隣保制度である「五人組」。これは古代律令国家時代からの「五保の制度」と基本的には同じである。

いまでも田舎の地方などでは、結婚式などに「向こう三軒両隣」を招くしきたりが残る。それは、正面(向こう)の「三軒」と左右両隣「二軒」の合わせて「五軒」を指している。



なぜ「5」なのか?

対人関係が「2人」や「3人」の場合、その各点を結んでできる図形は、2人なら直線、3人なら三角形。その内部に「対角線」は生じない。つまり、2や3ではその関係性はその数字を上回ることがない。

ところが、「5つの点」を結べば外形は「五角形」で、その内部には「星形」の対角線が現れる。つまり、線は5本ではなく対角線も含めた「10本」。これを人間関係に当てはめれば、5人が「10通り」の多彩さに彩られるのである。

それが「5人の人間関係」の生む可能性である。



「口数が少ない物知りもいれば、気は優しくて力持ちもいる。スポーツは駄目でもメカには滅法強い奴もいたり、誰よりも情報の早い奴などなど、そんな多様な人材が不思議な関係を構築する。その『下限人数が5人』なのです」と、占部賢志教授(中村学院教授)は言う。

かの「長州ファイブ」もお互いの個性が強すぎて、国内では対立が絶えなかったという。ところが海の外ロンドンでは互いに切磋琢磨、意気投合。



同時期、ロンドンには新政府の文部大臣となる森有礼(もり・ありのり)もいたというが、彼は「薩摩藩士」。当時の長州藩士とは犬猿の仲である。ところが両者、ロンドンでは交流が芽生え、協力関係も生まれたという。

のちに森有礼の所蔵アルバムからは「長州ファイブ」の写った写真が発見される。撮影されたのは幕末の1863年、場所はイギリス・ロンドン。この写真は、「友情の証」にと長州藩士から贈られたものだった。

日本の「薩長同盟」を先立つこと3年、藩士同士は遠くロンドンの地で不思議な邂逅を果たしていたのであった。








(了)






ソース:致知2013年7月号
「甦れ、向こう三軒両隣の文化 占部賢志」

2013年5月23日木曜日

情緒をもった「純粋な日本人」、岡潔




「人は皆、不死である。そのことがわからずに説明できることは何もない」

「岡潔(おか・きよし)」、直筆の色紙にはそうある。







彼は「数学者」であり、そして「純粋な日本人」であった。

「僕は、論理も計算もない数学をやってみたい」と語っていた三高時代。表面的なことを追いかけるだけでは、答えが見えてこないと感じていた。

フランスに留学すると、「幾何・代数・解析が三位一体となった美しい理論」を見事に展開。

その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられずに、「岡潔」というのは数学者集団によるペンネームであろうと思われていたという。



大学の教壇では「日本民族」を講義したという岡潔。

日本は「自他弁別・合理主義・物質主義」によって「無明」に位置してしまっていると述べている。

「無明」というが仏教用語である通り、岡は仏教に帰依していた。



「真善美妙を大切にせよ」と言った岡。

真には「知」、善には「意」、美には「情」が対応し、それらを「妙」が統括すると考えた。

日本民族は「知」が不得手であるとし、その代わりに「情」を大切にせよ、「日本民族は人類の中でもとりわけ『情の民族』だ」と述べている。



数学者としての岡は、まさにその「情」をもって数学的世界を創造したのであった。

数学であれ仏教であれ、岡にとってそれは表裏一体のものであったという。







そんな彼の理想は、日本の「神代」にあった。

素戔嗚尊(スサノオ)の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」という歌に代表されるのように、神代の日本には「矛盾のない知情意」があったのだ、と岡は言う。

日本に「無明」がはじまるのは、仏教伝来とともに「氏姓制度」が入ってきてから。自分と他人を隔てる「氏」が悪習となった、と岡は考えていた。



その無明は時代が下るとともに、広く広く広まっていく。

平安時代末期の僧・西行の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」は、美しくも弱々しく

武士の世となった源実朝の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」で、すっかり無明に呑まれてしまった、と岡は言う。

江戸時代の松尾芭蕉は、辛うじて神代の「情」を保ったものの、やがて不得手の「知」が暴走したがために、明治時代以降、日本民族は戦争漬けとなってしまったのだ、と岡は言う。



「氏」が日本に入り、自分と他人の区別が明確になり、それは「自他の対立」を生むことになった。「氏」という悪習に取り憑かれた日本民族は「小我」になってしまったと、岡は嘆く。

その「小我」から脱そうとしたのが「武士道」であり「大和魂」である。さらに進めば、自他を対立させずに衆善奉行できる「真我」や「大我」につながる、と岡は言う。



外側に参照する基準はない。唯一の基準は心の中に宿っており、日本民族にとってそれは「情(情緒)」だと、岡は言っている。

その情緒を大切にすることで、分別智と無分別智が働かせ、その上で「知」を身につけるべきだ、と岡は提唱している。

それが「日本の心」だ、と。







出典:Wikipedia「岡潔」


2013年4月5日金曜日

福沢諭吉と新渡戸稲造の「せんべい話」



「一身独立して、一国独立する」

明治時代を生きた福沢諭吉は、著書「学問のススメ」の中でそう繰り返している。

諭吉は言う、「人間が自分で衣食住をまかなうのは難しいことではない。そんなことはアリでさえやっている」と。



ところが、開国後の日本には「お上(かみ)頼りの百姓根性」が蔓延していた。

このままだと日本は「先導する人のいない盲人の行列」に成り果ててしまう。そう危惧した諭吉は、日本国民に発奮を促した。

「政府が悪いのではない。愚民が自分で招いた結果なのだ」と。

そして断言する。「この国民あってのこの政治なのだ!」。



「心事ばかりが高大で、働きが乏しい者は、常に不満を抱かざるを得ない」

それは「蠢愚(しゅんぐ)」、思うだけで動かなければ、それは無知で愚かなのだと、諭吉は痛烈であった。







そんな諭吉の話を、新渡戸稲造は子ども時分に聞いていた。

「福沢先生は、皆にお煎餅を配りながら話してくれた」

のちに「武士道」を記すこととなる新渡戸は、明治維新の時にはまだ6歳。武士として育てられた経験はあっても、武士として生きた体験はなかった(一方の諭吉は元々武士である)。



江戸時代の終焉とともに、日本からは「お上(かみ)」という価値観が消えた。

ところが、それに代わる新しい価値観がない。ゆえに当時、発狂する人が増えたのだ、と諭吉は指摘する(文明とは、たとえば聖書やコーランなどのように、何か帰依するものがないと上手く回らぬものであろうか)。

そんな迷妄の闇にあって、武士道というのは一つの光であったのかもしれない。



明治初期という時代は、江戸の侍の香りがまだ濃厚であった。

「日本人を一皮むけば、まだ侍だった」

ゆえにイザとなると日本は強かった。清(中国)よりもロシアよりも…。



新渡戸もまた熾烈である。

「食っていけないなら食うな。それでも学者なら死ぬまで学問を教え続けろ」と彼は言う。

「最後には腹を切れ」とまで、恐ろしい徹底さの中に彼はいた。



死が日常だった侍の世界。それは、「80くらいまでは生きるだろう」と漠然と思っている現代とは明らかに異なる。途中で殺されることも、ままあったのだ。

「武士に二言はない」というのは、そうした世界の中から生まれるものであり、現代の「謝れば許してもらえる」という謝罪文化はきっと、せせら笑われるであろう。



新渡戸稲造の著書「武士道」は、切腹の意義をこう記す。

「私は魂が鎮座している場所を開き、あなたにその様子を見せましょう。私の魂が清らかなのか、それとも汚れているのか。どうぞご自身でご確認下さい」と。



もしかしたら、新渡戸は武士を美化しすぎていたのかもしれない。それでも、彼はその香りに酔いしれたのだ。

「何年もの歳月が流れ、武士道の習慣が葬り去られ、その名さえ忘れ去られる日が来たとしても、その香りは空中を漂っているでしょう」

そして新渡戸はこう続ける。

「私たちはいつでも、遥か遠くの見えない丘から漂ってくるその香りを嗅ぐことができるのです」と…。






出典:致知2013年5月号
「日本復活の鍵は名著にあり 夏川賀央・奥野宣之」

2012年11月27日火曜日

歴代天皇のお仕事とは?


皇室が果たされている役割とは?

千年を超える歴代天皇のお仕事とは?



「皇室は『祈り』でありたい」

皇后陛下はそうおっしゃった。

現在、皇室の執り行う祭儀は「恒例・臨時を併せると実に60回にも及ぶ」という。



その数ある宮中祭儀のうちでも最も古く、最も重要なのが「新嘗祭(にいなめさい)」。その年に新しく穫れた穀物を神々に供えて、天皇自らも召し上がる祭祀である。

「祭典は11月23日の午後6時から8時の間の『夕(よい)の儀』、次いで午後11時から翌午前1時ごろにかけて行われる『暁(あかつき)の儀』からなる」

明治天皇の御製に「我が国は神の末なり、神まつる昔の手振り、忘るなよゆめ」という一首があるが、祭祀の作法(神まつる昔の手振り)というのは、「いささかも忽(ゆるが)せにせず受け継がれている」ということだ。



明治時代のある新嘗祭(にいなめさい)の当夜、シンシンと冷え込み、篝火(かがりび)が焚かれてもなお、参列者たちは冷気に震えが止まらなかった。昔ながらの作法を大切にする祭祀の場には暖房設備などはもちろんない。

ところが、祭儀がお済みになった明治天皇は「汗をかかれていた」という。

「陛下には全身全神経を神のご奉仕に御尽くしになった御しるしと拝するより仕方がなかった」と当時の掌典長・宮地厳夫は語る。陛下は休息もなく激しく神事に務められたのだとのこと。



時は下り、昭和天皇の時代。年間60回ほどの宮中祭祀のうち、天皇の御親拝は33回で、ほかは代拝が慣例とされていた。しかるに、昭和天皇は御自身の意志で自ら行う親拝を57回にまで増やされたのだという。

昭和5年、冬季に入った旬祭は、例年になく「30cm以上の積雪」に見舞われた。それでも昭和天皇は定刻通りに御拝をなさったのだそうな。降り積もる雪を踏み分けて…。

「降る雪に心清めて、安らけき世をこそ祈れ、神の広間へ」

時は世界恐慌、満州事変勃発の前夜。激動の世に突入しつつあった…。



そして、日本が国際連盟を脱退する前年の昭和7年。

その年の新嘗祭(にいなめさい)の当日、昭和天皇は風邪を召されており、「あまりの高熱」に侍医は新嘗祭の出御とりやめを言上していた。

それでも陛下の御意志は固かった。「お前たちには分からぬ。この御祭はどうしても自分がやらなければならぬのだ…!」。そして、陛下は高熱のままに祭儀を完璧に務められたそうである。

「天地(あめつち)の神にぞ祈る、あさなぎの海のごとくに波たたぬ世を」



皇室の役割とは?

天皇陛下のお仕事とは?



「神がきに朝参りして祈るかな、国と民との安からむ世を」

これは明治天皇の御製の一首である。





出典:致知2012年12月号
「昔の手ぶり忘るなよゆめ」

2012年11月13日火曜日

苦渋のポーツマス条約。羨望と警戒


日本はロシアと戦う前から、「講和」を考えていた。

戦争する期間は1年間ぐらい、6分4分の勝ちで良し。

それが小国日本が大国ロシアとの決戦に踏みきれた理由でもあった。



その講和の絶好のチャンスとなったのが、日本海海戦(1905年5月)における日本軍の大勝利。ロシアが最後の望みを託していたバルチック艦隊が壊滅してしまったのだ。

しかし、それでも不十分だと考えたのがアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領。のちに日露間の講和を斡旋することになる彼は、金子堅太郎にこう言った。

「日本軍は今のところ、何もロシアの領土を占領していない」



そこで急遽、日本軍は「樺太」へと兵を進め、1ヶ月もかけずにアッという間に占領してしまう。

この樺太占領は、ロシアを講和のテーブルに着かせるためだけの、いわば「付け焼刃」であったという。



さて、いよいよポーツマスで日露の講和会議が行われることになるが、ロシアは不利な戦局におかれながらも、がぜん強気である。

ロシア皇帝ニコライ2世はあらかじめ、「1ルーブルの賠償金も、1ピチャージの土地も日本に渡してはならない」と全権大使ウィッテに言い含めていた。

有利な戦闘を展開していた日本とて、講和を急がなければならない理由がある。なにせ、日露戦争の戦費は当初予算の7倍にも膨れ上がっており、長期的な戦闘継続はほぼ不可能であった。



莫大な戦費による財政の大穴を埋めるため、ぜひにも賠償金が欲しい日本。それをビタ一文とて支払いたくないロシア。頑ななるウィッテは「ここには勝者も敗者もいない」と豪語する。

この絶望的な交渉はおよそ1ヶ月、10回の会議の末にようやく結論をみる。それは、アメリカの駐露大使の説得が奏功し、ロシア皇帝ニコライ2世が「樺太の南半分」を譲ることに渋々同意したからであった。しかし、賠償金を支払うことは断固として拒否した。



「賠償金はまったくなく、全島占領したはずの樺太も南半分だけ」

これが、大国ロシアに日本の勝利を認めさせた条件だった。

納得いかぬのは日本国民。日比谷公園に集った市民は暴徒化し、各所を襲撃して回った。この日露戦争における日本人の死傷者は22万7,000人(うち戦死者8万4,000人)。これほど犠牲甚大なる大戦争が、無に帰してしまったことに我慢がならなかった。



それでも、大国ロシアに勝利したという日本の「名声」は世界に鳴り響いた。

それまで未開国とされていた日本が、世界に「一等国」と認められるようになるのは、この日露戦争以後のことである。日本はアジア・中近東・アフリカなど「これからの国」に先駆けて、羨望と模範の的となったのだ。

しかしその一方で、欧米列強からは「警戒の目」で見られるようにもなる。とりわけ日米関係はこじれにこじれ、アメリカでの日本人移民排斥運動は激化、悪化の一途をひた走るのであった…。





出典:歴史人 2012年 01月号
「日本はいかにして日露戦争を終結させたのか?」

2012年11月11日日曜日

不敵なる東郷ターン、バルチック艦隊を殲滅


ロシアのバルチック艦隊を眼前にした日本海軍。

その旗艦「三笠」のヤードには「Z旗」が翻った。この旗の意味するところは「皇国の興廃、この一戦にあり」という悲壮なる覚悟である。



そして、Z旗が掲げられた10分後、司令長官・東郷平八郎は右手を高々と上げ、左回しに回した。

「長官、取り舵ですか?」

参謀長の加藤友三郎は念のために聞き返した。東郷の命に従えば、それは敵艦の射程距離内での「敵前回頭」となり、常識的な海戦術では自殺行為とされるものであった。



「さよう」

東郷に迷いはない。

のちに「東郷ターン」とよばれる敵前大回頭のはじまりである。





「しめた」

バルチック艦隊を率いるロシアのロジェストヴェンスキーは、即座に一斉砲撃を命ずる。回頭中の戦艦「三笠」率いる日本海軍第一・第二艦隊は、静止した的のように狙いが定め易い。

無防備にハラを晒した「三笠」の右舷には敵弾が面白いように命中する。司令長官・東郷の乗る「三笠」は右舷側に40発、左舷側に8発を被弾した。その激震や凄まじい。ところが不思議なことに、艦橋最上部(司令塔)には当たらなかった。



奇跡的に魔の5分間を凌ぎ切った戦艦「三笠」は、ついに反撃を開始する。

日本海軍の砲撃はロシア軍のそれとは比較にならぬほど正確で、ロシアの旗艦「スワロフ」の司令塔をあっという間に吹き飛ばす。この時、その司令塔にいたバルチック艦隊の司令長官・ロジェストヴェンスキーは重傷を負ってしまう。



「勝敗は最初の30分で決まった」

そう言われる通り、大胆不敵な「東郷ターン」は絶大な功を奏した。皮を切らせて、骨を断ったのだ。

バルチック艦隊は38隻で日本海にやって来たわけだが、わずか2日間のうちに日本海軍は16隻を撃沈、6隻を捕獲、6隻は自沈という大戦果。ロシア港ウラジオストックまでたどり着けたのはわずか3隻だけだった。

まさに「殲滅」。完全勝利である。「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳、世界空前の大捷(大勝利)、敵艦隊全滅」。当時の新聞にはそう報じられた。



「まさか…」

世界の列強はその第一報が信じられなかった。「極東の小国が大国ロシアの艦隊に大勝するはずがない…」。そのため、日本の同盟国だったイギリスでさえ、事実を再確認するために新聞の発行を遅らせたほどだった。



重傷を負っていたロシアの司令長官・ロジェストヴェンスキーは、白旗を掲げて降伏した艦の中で苦しんでいた。そしてその後、佐世保の海軍病院に移送されて手厚い看護を受けていた。

そのロジェストヴェンスキーを見舞った日本海軍の司令長官・東郷平八郎。

敬意ある東郷のいたわりに対して、ベッド上のロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが唯一の慰めである」と慇懃に答えたという。



日露の講和条約が結ばれた後、東郷は日本海軍の解散式を行い、「解散の辞」を読み上げる。

「連合艦隊はここに解散することになった。(中略)。武力は艦船兵器のみにあるのではなく、これを活用する『無形の実力』にある。『百発百中の一砲』は、百発一中の敵砲に対抗しうる…」

この文を起草したのは参謀の秋山真之と伝わるが、アメリカ大統領ルーズベルトはこの辞にいたく感銘を受け、英訳文を将兵に配布させたとのことである。



この「解散の辞」は、こう締めくくられる。

「古人曰く、勝ってカブトの緒を締めよと」










(了)






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出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す!」