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2015年9月4日金曜日

山岡鉄舟伝(修身二十則)『鉄舟随筆』


鉄舟随筆

勝海舟 評論
安部正人 編

東京 光融館蔵版



緒論

精鉄百錬初めて光彩陸離たる利刀を得べし、風霜千年を経ざれば鬱茂たる棟梁の材をなし難し。人生れながらにして聖なるものは、未だ之あらず。切磋琢磨日々新たにして然る後、才識卓発徳望隆起するを得るなり。

米の国父華聖頓(ワシントン)の如き、我維新創業の名臣南洲、海舟、鉄舟先生の如き、固より其天資の衆を抜くものある可しと雖も、其修身励行に由り始て偉業をなすを得しなり。何者の痴漢ぞ古賢豪を見て、徒に其天授にして及ぶ可からざるを称し、毫も自家の修養を務めず、万金換え難きの身を以て、禽獣草木と共に化し終らんとす。嗚呼其志立たず、其行修まらず。其業の成らざる知るべきのみ。

全生院殿鉄舟高歩山岡先生、深く力を修心錬胆に用ふ。彼の卓抜見識の絶代の偉業は、皆之に由て得来りし者なり。人大海の量なくして、何ぞ百川の朝宗を得ん。良何の術なくして、何ぞ紛乱の世に処するを得ん。先生の卓識偉業を見ば、其如何に力を修養に用ひたるかを知るべし。乞ふ世の志士其れ之を下文に鑑みよ。



山岡鉄舟居士伝


居士、名は高歩、字は曠野、通称鉄太郎、鉄舟と号す。本姓は小野氏、世々幕臣と為る。父朝右衛門、仕へて飛騨の代官と為る。母は塚原氏。天保七年六月江戸に生る。既に長じて、出て幕臣山岡氏の後を継ぐ。仕へて大監察に至る。居士、年十三の時、一日慨然として以為く、

士の君に事ふる常に死を視ること帰するが如し。確乎として其心を動さざる者は、然る後ち始めて能く忠を尽すべしとなす。而して心を動かさざるを要せば、則ち先づ心を練らざるべからざるなり。因て生父に問ふに、練心の術を以てす。

父曰く、吾家の先祖、高寛君、剣法を小野治郎右衛門、小太刀半七の二人に学ぶ。又、禅道の蘊奥を究め、以て東照公に仕へ、屡々戦功を著はす。其旗毎に「吹毛不曾動」の五大字を題する者を用ゆ。今汝心を練らんと欲せば、禅学を修むるに如くはなし。

居士、是に於て始めて芝村長徳寺の願翁に参じて十年を歴、願翁未だ肯て許可せず。然れども居士少しも自ら挫けず、志操愈々堅し。又、豆州龍澤寺の星定に参す。寺は州の三島駅の西、一里許に在り。居士暇日毎に必ず払暁江戸を発して、騎して函嶺を過ぐ。夜四更始めて龍澤寺に至る。至れば則ち先づ星定に参し、後乃ち飯を喫す。或は温湯を得ざれば、則ち水を飲で食を下す。祁寒と雖も、未だ曾て難色あらざるなり。曾て独園に語て曰く、吾れ龍澤に往来す。或は夜半を以て函嶺を過ぐ。頗る生涯の平生に殊なるを覚ふるなり。又、滴水、洪川、独園の数人に歴参し、後ち滴水の印可を受く。而して居士剣法の妙、亦之を禅理上より得たり。



蓋し居士甫めて九歳より剣法を学ぶ。初め久須 美閑適齋に従て真影流を受く。後ち井上清虎に就て北辰一刀流を受く。最後乃ち浅利義明の門に入て、以て一刀流の奥義を究んと欲し、苦練すること年あり。其修禅の際に及で一日滴水に参じ、語次剣事に及ぶ。滴水則ち、

「両刀交レ鉾不レ須レ避、好手還同二火裏蓮一宛然、自有二衝天気一」

注:「両刀交[#レ]鉾不[#レ]須[#レ]避、好手還同[#二]火裏蓮[#一]宛然、自有[#二]衝天気[#一]」

の句を挙して之れに授く。居士之を紳に書して、居常拈提すること三年、一旦豁然として省悟する所あり。馳せ往て浅利に見へて、角技せんと請ふ。技法神妙、復た前日の比に非ず。浅利乃ち木刀を抛ち、容を改めこれに告て曰く、

「子已に至る矣、以て吾秘を伝ふべし」

と、遂に伝ふるに一刀斎が所謂、無想剣の極致を以てす。時に明治十三年三月三十日なり。居士既に之を伝受して、此より益々拡充精究して、以て古人未発の蘊奥を発し、竟に無刀流の一流を開き、以て其徒に授く。論者以為らく、居士の剣法に於ける、其淵源する所ろ是の如く、邃且つ遠し。而して世の剣客、徒に之を技に求めて、輙ち歩を邯鄲に学ぶ者衆し。亦思はざるの甚しき也。



是より先、居士禅を修し、剣を学ぶ、其志将に大に為すあり。以て忠を事ふる所に尽さんとす。未だその志を果すに及ばすして、而して幕府政を失ひ、国事丕変す。王政維新の初に迨で、官軍大挙して東関東を征す。将に江戸城に臨んとす。居士、勝海舟等と共に、独り其衝に当り、心を同ふし、謀を協せ、死を以て其主徳川慶喜の恭順を白す。当時王師をして刀に血せずして、而して江城を収しめ、江都百万の生霊皆、塗炭を免れ、安堵平日に異らざる者は、居士と海舟等との力なり。事蓋し国史に在り。茲に復た詳かにせず。

居士人となり、慈仁にして剛毅、寛猛相済し、威恵並び行はる。無類の徒と雖も、一たび其化導を被れば、輙ち翻然として過を悔ひ善に還る。居士夙に禅を悦ぶと雖も、然れども度量寛弘にして、党同伐異の見なし、其各宗の緇に於ける、一誠に之を待つ。要仏法を以て宗旨となす。明治の初年に、朝野盛に排仏論を唱ふ。居士夷然として争はずして曰く、天下を挙て皆他教を信ずるも、我一人仏教を信ぜば可なりと。

初め居士幼にして、書法を飛州高山の岩佐一亭に学ぶ。後ち益々精詣して、遂に海公の入木道五十三世の正伝を継ぐと云ふ。是を以て以て世人其書を責重して、争ひ来て之を索む。酬ゆるに金帛を以てす。居士却けずして而して之を受け、悉く資りて以て廃寺を興す。明治二十年七月に至て、始めて揮毫を絶して、復た他の需に応ぜず。願を発して一切蔵経を写す。毎夜必ず燈に就て経を写す。四更に至て而して止む。

嘗て鉄舟、寺を駿州に、全生庵を東京に創す。其徴を蒙りて朝廷に仕るや、擢んで侍従に任ぜられ、宮内少輔に遷り、従三位に累叙し、勲二等に叙せられ、思眷日に渥し、嘗て内帑金五千円を賜ふ。居士即ち之を創する所の二寺に分施す。又人の三千金を贈する者あり。亦二寺に分施す。専ら興仏を以て事と為す。



明治十五年五月、職を辞して家居す。二十一年二月、篤疾に罹かる。事叡聴に達す。特に侍医に詔して日々就て診視す。且厚く物を賜ふて之を優問す。七月中旬に至て疾革まる。自から死期已に迫るを知って、即ち親戚門弟を会して款話す。且つ落語師円朝に打談せしむ。談笑平日の如し。円朝も亦、常に居士に就て禅を問う者也。

是より先き、居士既に写経を以て日課と為す。篤疾と雖も未だ曾て一日も廃輟せず。是の日尚ほ机に倚て課に就く。将に筆管を拈せんとす。臂彎して伸びず。一僧、側に侍して、即ち之を扶けて机上に達せしむ。筆を下すに及で、即ち字々遒健して、毫も常作に殊ならず。観る者、之を驚異す。時に是の月十八日なり。

翌日疾を力めて早く起き、将に浴室に赴かんとす。門人某、扶持せんと擬す。居士、之を揮ひ去て、独歩して室に入り、澡浴常よりも周ねし。既に罷んで内子に命じて衣を取らしむ。常服を奉ず、肯んぜず。内子、之を覚りて、泣いて予備する所の白衣を奉ず。居士、自ら之を服して、復た病床に坐し、喫烟すること一次。乃ち身を起して更に坐し、結跏すること儀の如し。且つ金剛経一巻を取て之を懐にす。右の手に座傍の一団扇を執り、左の手に念珠を持す。是に於て、従容として左右を顧視す。遂に親戚門弟に永訣して曰く、

諸君好在、吾れ今日先つて逝ん

と言い卒って微笑して瞑す。坐容変ぜず。𠑊然として平日の如しと云う。享年五十有三、越へて三日。谷中全生庵に葬る。



事聞へて今上震悼し玉ひ、特に勅して、祭粢料金二千円を賜ふ。皇后亦五百円を賜ふ。時人、之を栄とす。居士の卒するや、遠近之を弔祭する者、勝て数ふべからず。其京都に在ては、即ち門人、北垣国道、小倉庄之助等、諸有志相謀って、是の歳八月初一日を卜して、其霊を万年山に弔祭す。独園、居士に於いて道契最も深し。其拈香偈に曰く、

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

是の日、来会供養する者、緇素凡そ千五百有余人。法会の盛なる、近年其の比罕なりと云ふ。



修身二十則

一  うそいふ可からず候

二  君の御恩は忘る可からず候

三  父母の御恩は忘る可からず候

四  師の御恩は忘る可からず候

五  人の御恩は忘る可からず候

六  神仏並に長者を粗末にす可からず候

七  幼者をあなどる可からず候

八  己れに心よからざることは、他人に求む可からず候

九  腹を立つるは、道にあらず候

十  何事も不幸を喜ぶ可からず候

十一 力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候

十二 他をかへりみずして、自分の善き事ばかりす可からず候

十三 食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し。すべて草木土石にても、粗末にす可からず候

十四 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得ふ可く候

十五 礼儀を乱る可からず候

十六 何時何人に接するも、客人に接する様に心得ふ可く候

十七 己れの知らざる事は、何人にてもならふ可く候

十八 名利の為めに、学問技芸す可からず候

十九 人にはすべて、能不能があり。いちがゐに人をすて、或は、わらふ可からず候

二十 己れの善行を、ほこりがほに、人に知らしむ可からず。すべて我心に恥ぢざるに務む可く候


嘉永三年庚戌正月 行年十五才の春 謹記
小野鐵太郎


評論:勝海舟


…

まァ能く考へて見給へ。此(この)修身二十則などは、今時(いまどき)の学者が見たならば、へでもないと云ふだらうよ。こんな馬鹿げた事は、世人には五月蝿(うるさ)くて、見もしないだらうよ。

併(しか)し之を逆に戻して、己れの目から無遠慮に云ふて見れば、こんな馬鹿な事は、実践するものもあるまいよ。口先計(ばか)りの小理屈で、桶の輪の様(よう)に周囲はよいが、お腹の内は明き巣(あきす)だらうよ。も少し真面目に云ふて見れば、実践は愚か、十四五才の小供では、此位(このくらい)な事も容易に云ひえないものが多からうよ。

処(ところ)が山岡などは馬鹿正直にも、実践して居るからナー。詰(つま)る処(ところ)、彼が小供の時分よりの志が中々(なかなか)殊勝なるものよ。まァ、ご覧よ。此(この)二十則の中に、忠孝を冒頭に呼出してあるが、之(こ)れが後日の山岡鉄舟だよ。



彼が頑固と訾(そし)らるるも、馬鹿正直と云はるるも、或(あるい)は生仏(いきぼとけ)と拝せらるるも、将又(はたまた)君命を奉して、駿府(すんぷ)の使(つかひ)を全(まった)ふし、平穏無事の間に、維新の革命を成就せしめたのも、或(あるい)は朝廷に奉仕して、明治の和気清麿(わけのきよまろ)と、己れが云ふのも、総(すべ)て爰(ここ)にあるのだ。これが骨髄の処(ところ)で、後の附言(つけごと)は注解サ。

だがモ一歩文句を引出して云ふて見れば、此(この)文中に腹を立つるは道にあらず(これが恰(あたか)も維新前後、世人多くは山岡は叛逆者(むほんもの)、狼藉者とて万衆に訾(そし)られて平気で居た所だ)と云ふ事が、中々(なかなか)小供ながら考へたものサ。

夫(そ)れから何事も不幸を喜ぶな、力の及ぶ限り、善(よ)き方につくすべし(これが駿府に使して天下の太平を祈った処だ)と記し、終にすべて我心に恥ぢざるに務むべし(此処(ここ)で始めて全くなるのだ。乃ち万衆の訾(そしり)も平気に受け流し、生死を顧(かへり)みず、虎口を忍んで使命を果たした、彼の心中には毀誉(きよ)皆(みな)皮相、只(ただ)我心に恥ぢざるに務めたのだ)とあるのが肉だ。其外(そのほか)は、皮を以(もっ)て骨肉を包んだのサ。



どーだい、今時の奴でこんな事を云ふ奴はあるかも知れぬが、実際行ふ奴は誰れだらうよ。さうなると指が折れまいよ。

以下評論として、己れの所感を物語るから、篤(とく)と脳味噌を澄まして聞き給へ。呆れて居っては分からなくなるからよ。

…





出典:安部正人『鉄舟随筆』


2015年8月30日日曜日

念流「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」


〜話:念流二十五世、樋口十郎右衛門源定仁〜


 念流(ねんりゅう)は

「後手必勝(ごて・ひっしょう)」

徹底的な護身を旨とした自衛の剣です。その理念として、すべての人生に通ずる剣法であること、和の剣法であり、人を倒すことを目的とせず、

「十分の負けに十分の勝ちあり」

の精神をもつことを掲げています。念流十四世定高の

「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」

の教えのように、「勝つことを求めず、守りに徹し、最後に相手の負けを認めさせる」剣術です。あくまでも争うことを善とせず、「剣は身を守り、人を助けるために使うもの」と考えています。



 当流に入門した門弟は、後ろ足に重心を置いた八文字型の「足捌き(あし・さばき)」を学びます。上体は常に相手を真正面で受け止めるため、体を開くことはありません。加えて全身、とくに下半身の鍛錬を行います。これを「体作り(たい・づくり)」と言います。当流の業(わざ)は、すべてこの所作の上に成り立っているため、これを身に付けなければ、数々の業を身に付けることはできません。

 当流の「気合(きあい)」は古来より連綿と継承され、そこに「手の裏(うち)」の極意があります。「気合」は単に声を出しているわけではなく、全身の動作と連動した呼吸法です。体の動きは「形(かた)」、呼吸は「気合」で覚えます。当流の「気合」と「手の裏」は、道場で先輩を真似ることで身に付くのが理想です。これを「見盗り稽古(みとり・けいこ)」と言います。



 当流の初心者への稽古は、体得を主体とし、言語による指導はできるかぎり避けています。指導者が言語化した情報はそれを体得した者は理解できるのですが、初心者にとっては理解不能どころか、誤解を生む可能性があります。身に付いてきたと思う時期に、指導者の言語でその動きを体系化しながら頭に刷り込む作業は必要です。しかし、基本は単純だからと、言語で教えようとしてもまったく身に付きません。

 基本に忠実、そして人の動きを見て覚えると上達は早いものです。頭で覚えたことは、それを修正したときに狂いが生じます。当流では一度できあがりつつある形を、もう一度崩すくらいの激しい稽古をしつつ、本当の業と体の習得を目指します。これを何度も繰り返していくのが念流の稽古です。それには10年、20年かかります。



 剣の動き、体の動き、これはその人のこころの表れです。当流では、お互いの気合が合えば「剣と剣がクモの糸で引かれ合うように動いていく」と言われます。無駄のない剣の動き、その体の動きには、その人の瞬時のこころを感じるときがあります。恐れ、怒り、気負いがあれば、剣と体は離れ、その動きはぎこちなく、無駄に速くなったりするものです。こころ静かに相手の動きを見て、気合、気配を感じながらその流れに逆らわずに剣を使えば、速くも遅くもなく、剣と体は同体となり無駄なく動きます。

 当流には「気位(きぐらい)」という言葉があります。「気位」とは相手が感じるものであって、自分が感じるものではありません。自分で感じてしまっては、うぬぼれや自信過剰です。相手に剣を向けるとき、この時点では勝負は誰にもわかりません。勝ちを意識しても負けを意識しても、体と思考は硬直してしまいます。自分の剣の「心」を信じ、相手の剣と交わるまでは体の力も抜いて、臨機応変に変化できるように気を保ちます。「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」の精神が「気位」につながります。



 剣はその刃で人を殺(あや)めることのできる道具です。剣はその剣尖を相手に向けた瞬間よりその意味が生まれます。木剣であれ、当流の袋竹刀(ふくろ・じない)であれ、その剣には刃があります。

 しかし、道場では往往にしてその刃の存在を忘れて単なる棒の稽古になる場面があります。剣術の稽古で危険なのは、この剣の意識の低いときです。相対した者の意識と、剣に対する恐れを感じ、自らは「気位」を保ち、相手の「心」をとることが当流の修行です。

 当流の剣術は、その人を育てる慈しみのこころを持つ師の剣を受けること、そして信頼関係のある門弟同志が剣を交えることでしか修行できません。それこそが、当流が「和の剣」と言われた所以であり、念流創始者である慈恩和尚の名前の由来と私は信じています。




出典:月刊「武道」2015年9月号
樋口十郎右衛門源定仁「念流随想」


2015年7月10日金曜日

「玉簾不断」 [榊原鍵吉と山田一徳斎]


〜話:大森曹玄〜


…

 先師山田一徳斎先生が、まだ榊原鍵吉先生の門下生として修行中のこと、一日、大雪の降る中を先生のお供をして九段坂下にさしかかったとき、どうしたハズミか榊原先生の足駄の鼻緒がプツリと切れた。

 さすがの剣豪もこの不意打ちには身をかわす間もなく、横倒しにドッと投げ出された、と見えた一刹那、ヌッと片腕をのばして倒れんとする師の巨躯を支えたのが、お供の山田次朗吉であった。しかも一方の手ですばやく自分の下駄をとって、榊原先生の足の下にさしこんだ。頑固者で有名な榊原先生もこの石火のはたらきには辞する余裕もなく、ノメル足を弟子の下駄の上でふみこたえるほかはなかった。

 このときの気合、間髪容れざる動作、これこそ剣の至極であるとして、そのことがすぐれた剣技とともに、のちに山田先生が直心影流十五世の的伝者となる一因をなしたのである。


 
 このように前後を裁断して、絶対現在になりきり、そこに全生命力を最高度に発揮する剣境を、辻月丹の無外流では「玉簾不断」と呼んでいる。玉簾とはいうまでもなく滝のことである。滝は一条の連続した水流のように見えるが、実は一滴一滴断絶した水滴の重なり合ったものである。その一滴一滴を充実することによって、はじめて連続不断の瀑流が成り立つのである。

 白隠和尚が正念相続とは、数珠玉の一顆一顆になりきることで、それに通してある紐のようにのべつくまなしになることではない、という意味のことをいっているのも、思い合わされて興味深いものがある。

…



引用:大森曹玄『剣と禅 (禅ライブラリー)』




「睡中かゆきをなづ」 [伊藤一刀斎]


〜話:大森曹玄〜


…

 足利末期の剣者として特筆すべきものに伊藤一刀斎がある。かれは通称を弥五郎と呼び、伊豆の人とも関西の生まれともいわれ、生国も死処も明らかでないが、身の丈は群を抜き、眼光は炯々として、いつもふさふさとした惣髪をなでつけ、ちょっと見ると山伏かなにかのような風態で、実に堂々とした偉丈夫だったという。

…

 彼がまだ鬼夜叉と呼ばれた青年のころ、ある日、師の鐘巻自斎に向かってこう言ったものである。

「先生、わたくしは剣の妙機を自得しました」

これを聞いた自斎は大いに怒って「未熟者が何をいうか」とののしったが、かれは平然として、

「しかし先生、妙とは心の妙である以上、自分みずから悟る外はないではありませんか。決して、師から伝えられるものではないと思います」

と抗弁して一歩もゆずらなかった。こんな押し問答がなんべんか繰り返されたのち、それではというので師弟の間で技をたたかわせることになった。ところが師の自斎は三度たたかって三度とも敗れてしまったので、大いに驚いてそのわけを聞くと、かれは曰く、

「人は眠っている間でも、足のかゆいのに頭をかく馬鹿はありません。人間には自然にそういうはたらきをする機能が具わっているのです。その機能を完全にはたらかせることが剣の妙機というものだと思います。先生が私を打とうとされるとき、先生の心は虚になっています。それに反し、わたくしはいま申したような自然の機能(はたらき)で危害をふせぎますから実です。実をもって虚に対すれば勝つのは当然でしょう」

 そう説明されてみれば、いかにも当然の理屈なので、自斎もうなずくほかはなかった。

 この「睡中かゆきをなづ」という言葉は、千葉周作の『剣法秘訣』の中にもあったと記憶するが、鏡が物体を写すような無心のはたらきを表わす言葉として、古来の剣客が好んで用いたものかもしれない。







 その後、一刀斎は剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈ったことがある。三七二十一日の間、至誠をかたむけて参籠精進したが、ついに期待したような奇蹟は現われなかった。満願の日になっても、依然として神示はなかった。失望したかれは、自分の誠心の足らぬためかと、悄然として拝殿を降りて帰りかけた。

 そのとき、物蔭に黒い影がチラリと動く気配が感じられた。途端に、あたかも睡中にかゆいところをなでるように、無意識の間に手が動き、刀が鞘走ってその影を斬りすてていた。いや影を見た−−というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに間髪を容れない心・手一如の速さだった。

 かれは振り向きもせずその場を立ち去ったが、後年その出来事を回顧して「あれこそ自分が八幡宮に祈って得られなかった夢想の場である」と気づき、その時の体験を組織して夢想剣と名づけたと伝えられている。



 この話の真実性は疑わしいともいわれているが、その内容には否定しがたい剣禅の妙機がふくまれている。このときの一刀斎のはたらきは、その直感、思惟、行為の三つが何のズレもなく、一刹那のあいだに即一的に行われたのである。もちろんこれには剣技が反射作用的に無意識的に発揮できるまでに、千錬万鍛されていなければならないことはいうまでもないが、同時に一刀流の言葉でいえば、無念にして対者の想を写しとるところの「水月移写」という、心境の錬磨が十分にできていなければなし得ないはずである。

 「水月移写」ということについて『一刀斎先生剣法書』には

「月、無心にして水に移り、水、無念にして月を写す、内に邪を生ぜざれば、事よく外に正し」

と説明している。

…





引用:大森曹玄『剣と禅 (禅ライブラリー)』




2015年7月1日水曜日

盲人、丸太橋をわたる [剣客禅話]



〜話:加藤咄堂〜


無眼流

 無眼流(むがんりゅう)の開祖・反町無格(そりまちむかく)、諸国武者修行の途、或る山間を過ぎ谿間(けいかん)に一独木橋の架せるに遇ふ。渡らんとすれば橋揺(ゆる)ぎ、脚下を見れば懸崖数十丈、水激して岩を噛む。渡らんとして渡る能(あた)わず。

 如何(いかが)はせんと佇(たたず)みしに、偶々(たまたま)来り合わせし一盲人の、橋の袂(たもと)にて下駄を脱ぎ、これを杖に通して帯の後(うしろ)に差し、匍匐して何の苦もなく渡り過ぎしを見。おもへらく眼の開(あ)きたる者は、心その為めに動かされ、恐怖の念、内に満ちて渡る能(あた)わざるも、 眼なき者は他に動かさるるものなきが故に、かえって虚心坦懐、もって胆力を養ふべし。

 我もまた盲人の如くにして渡るべしと、渡り終って大いに悟るところありて、ついに一流を工夫して無眼流と名づけしと、談は『剣道』に出(い)でたり。かくの如きもまた禅家のいわゆる無念無想の趣(おもむき)を得たるものにあらずや。

…



引用:加藤咄堂『剣客禅話』




当意即妙 [宮本武蔵]



〜話:加藤咄堂〜


 宮本武蔵の剣機禅機については、勝海舟の『氷川清話』に当意即妙の一話を挙ぐ。

 宮本武蔵と云ふ人は大層な人物であったらしい。剣法に熟達しておったことは勿論の話だが、それのみならずこの人は仇(かたき)があったので、初めは決して腰から両刀を離さなかったが、一旦豁然として大悟するところがあって、人間は決して他人に殺されるものでないと云ふ信念ができ、それからといふものは、まるで是迄(これまで)の警戒を解いて、何時(いつ)も丸腰で居(お)ったそうだ。

 ところが或る時、武蔵が例の通り無腰で庭前の涼台(すずみだい)に腰をかけて団扇(うちわ)であおぎながら、余念もなく夏の夜の景色に見とれていたのを、一人の弟子が先生を試さんと思って、いきなり短刀を抜いて涼台の上に飛び上った。武蔵はアッといって忽(たちま)ち退くと同時に、涼台に敷いてあった筵(むしろ)の端をつかまへて引っ張った。すると、そのはずみで弟子は涼台から真っ逆さまに倒れ落ちたのを見向きもせずに、平然として「何をするか」と一言いったばかりであったそうだ。

 人間も此(この)極意に達したらどんな場合に出合っても大丈夫なものさ。いわゆる心を明鏡止水(めいきょうしすい)のごとく磨き澄ましておきさえすれば、何時(いつ)如何なる事変が襲って来ても、それに処する方法は自然と胸に浮かんで来る。いわゆる物(もの)来りて順(じゅん)応するのだ云々。

…



引用:加藤咄堂『剣客禅話』




猿の剣術 [剣客禅話]



〜話:加藤咄堂〜


 新井白蛾の『牛馬問』に柳生但馬守、猿殿を二疋(ひき)飼いたまひ、常々打太刀(うちだち)にして剣術したまひしに、この猿ども至極(しごく)業(わざ)に通じて、初心の弟子衆はいつも此の猿に負けしとなり。

 ここに或る浪人、槍を自慢にて何とぞ柳生公へ出合(であひ)たしと思ひ、縁を求めて至り対面の後、「さて私儀、少々槍を心がけ居り候(さふろう)。憚(はばか)りながら御覧くだされ」と言ふ。但州公、聞きたまひ、

「安きことながら、まづ此の猿と立ち合ひ見られよ」

とある時、件(くだん)の浪人、大いに腹だちし顔色にて「これはあまりなること」と申すに、「もっともなれども先(ま)づ立合(たちあひ)見られよ」とある故、是非なく竹刀(しない)を持ちかかりければ、猿も竹具足に面をかけ小さき竹刀を持って、互いに立ち合ふ。

 かの者ただ一突(ひとつき)につき倒さんとかかりしに、猿つかつかとくぐって何の造作もなく件(くだん)の男を打ちたり。案に相違し、今一度と望みければ、また一疋の猿を出(い)ださるるに、立合ひてまた猿にたたかる。

 大いに面目を失い帰り、それより四五十日ほどは夜をもって日につぎ精心に工夫をつくし、また柳生の許(もと)へ行き対面の上、「さて件(くだん)の猿と立合い申したく」と望みければ、但州聞きたまひ、見申すに

「その方、工夫先日よりも殊(こと)の外(ほか)上達なり。今度は猿でもなかなか勝つこと成りがたし。それとも立合い見られ候(さふら)へ」

とて、猿を出さるるに、互いに相向かひ、いまだ槍を出(い)ださざるに猿大いに啼きて逃げしとなり。件(くだん)の男も、但州の門弟となり、奥義を伝へたりといふ。これ猿さへも学ぶところを知れば、人中の有無を知る云々となり。槍いまだ出でざるに心機まづ彼れを突く剣の心法なるもの之にても知り得べきか。

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 引用:加藤咄堂『剣客禅話』




2015年6月30日火曜日

右眼を打たれ、左眼を押さえる [柳生十兵衛]



〜話:加藤咄堂〜

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 柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)が、其の子の十兵衛の技量を試みんとて、突然石をもって右眼を打つと、ハッと云ひつつ左の眼を押へたといふ。

 右を打たれるば右を押へるが人情。されど既に打たれたる右は詮なし、この上は左を打たれざるこそ肝要なるは理の当然。これを機一髪間に行ふたといふのは、心に物なきが故に、自然に変に応じ得たので、少しでも物があればそれに奪われて、妙用自然なることを得ないのである。

 真空妙有(しんくうみょうう)は仏法の極意。何にも無きところに物あり、心に物なきが故に何物をも容るることができて融通無碍(ゆうづうむげ)なることができるのである。

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引用:加藤咄堂『剣客禅話』




心に物なき売卜先生 [剣客禅話]



〜話:加藤咄堂〜

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 神田は柳原の辺の大道易者、今日は朝から一人の客もなく、夕餉(ゆうげ)の料も得難(えがた)きに、フト思ひつきたるは、当時剣術の道場にては試合に来りし修行者には勝っても負けても飯を食はして何程(なにほど)かの草鞋銭をくれることで、

「こは妙計なり、我れ修行者となって道場に赴かん、負けるはもとより定まりたれど、一つ打たれさへすれば夕餉の心配はない」

と大胆にも柳生但馬(やぎゅう・たじま)の道場へと出かけて、同じ打たれるならと覚悟を決めて

「先生と試合したし、御弟子は御免こうむる」

と言ふに、道場にては「さては名ある剣道者の来りしならん」と、この由(よし)を但馬(たじま)に通じ、但馬は出て一礼するに、別段武芸者らしい所もなし。不審ながらも立ち合ふに、売卜(ばいぼく)先生は打たれる覚悟、恐れげもなく木刀持って立てるを、但馬、小癪なりと同じく木刀は取りしものの、相手の体は全くのスキだらけ。

「サァ打て」

と掛け声したる売卜先生の態度は、どこに変化の手あるやと、己が腕に覚えのあるだけ力負けして容易に手を下さぬに、此方(こなた)は打たれさへすればよいと、

「ヤァ!」

と掛声する。但馬はますます驚きて、手の下さんやうもなし。一足二足、後(あと)へよると、此方(こなた)は「ヤァ、ヤァ」と進む。余程の腕前と木刀投げ棄て、

「驚き入ったる貴殿の腕前。そもそも何流を御修行ありし」

と言ふに売卜先生も驚きて、顔赤らめながら事の始終を語りしに、但馬は黙然として我が修行の足らざるをかこち、

「剣は心にあり、彼れ打たるると覚悟を定めて勝敗に念なし、この念なきが故に我が術も施すあたはざりしか」

と言ふたといふ話がある。心に物なきの力ほど大なるものはない。

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引用:加藤咄堂『剣客禅話』




虎と沢庵和尚 [剣客禅話]



〜話:加藤咄堂〜

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 徳川家光の代に、朝鮮より虎を上覧に供せし時、柳生但馬守(やぎゅう・たじまのかみ)は其の檻の中に入って、よく虎を睨みて尻込(しりごみ)せしめしに、沢庵(たくあん)和尚は静かに其の檻の中に入って、虎の頭を撫でて出て来たといふ。

 一は気をもって彼を制し、他は和をもって之を服したので、これこの時、己を忘れ、物を忘れ、いわゆる無物の境にあり、神武にして殺さざるもの剣道の極意、その妙、口言うあたはざるものがあるのである。

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 引用:加藤咄堂『剣客禅話 』