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2015年9月6日日曜日

江戸無血開城、『談判筆記』山岡鉄舟


談判筆記

慶応戊辰三月、駿府大総督府に於て
西郷隆盛氏と談判筆記

全生庵所蔵



 戊辰の年、官軍 我(わが)旧主 徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)御征討の節、官軍と徳川の間(あいだ)隔絶、旧主 家の者 如何とも尽力の途(みち)を失ひ、論議紛紜(ふんうん)、廟堂一人として慶喜の恭順を大総督宮(だいそうとくのみや)へ相(あひ)訴へ候(さふらふ)者無く、日夜 焦心苦慮する而已(のみ)なり。其内(そのうち)譜代の家士(かし)数万人、論議決定致さず 或(あるい)は官軍に抗せんとする者あり。又は脱走して事を計らんとする者あり。其勢(いきほひ)言語に尽す能(あた)はざるなり。

 旧主 徳川慶喜儀は、恭順謹慎、朝廷に対し、公正無二の赤心(せきしん)にて、譜代の家士(かし)等に示すに、恭順謹慎の趣旨を厳守すべきを以てす。「若(も)し不軌(ふき)の事を計る者あらば、予に刃(じん)するが如し」と達したり。故に余(よ)旧主に述(のぶ)るに、「今日切迫の時勢、恭順の趣旨は如何なる考(かんがえ)に出で候(さふらふ)哉」と伺ふ。旧主示すに、「予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すと雖(いへど)も、朝敵の命下りし上は、とても予が生命を全(まった)ふする事は成るまじ。斯く迄(かくまで)衆人に悪(にく)まれし事、返す返すも嘆かはしき事」と落涙せられたる。

 余旧主に述るに、「何を弱きつまらぬ事を申さるるや。謹慎とあるは詐(いつ)はりにても有らんか。何か外(ほか)にたくまれし事にても有るべきか」。旧主曰く、「予は別心なし」。「如何なる事にても朝廷へ貫徹し、御疑念氷解は勿論なり。鉄太郎に於て其辺は屹(きっ)と引受(ひきうけ)、必ず赤心徹底致すべき様尽力致すべし。鉄太郎 眼(まなこ)の黒き内は、決して配慮これ有る間敷(まじく)」と断言す。

 爾後(じご)自ら天地に誓ひ、死を決し、只(ただ)一人官軍の営中に至り、大総督宮へ此(この)衷情を言上し、国家の為に無事を計らんと欲す。大総督府本営に到る迄(まで)、若(も)し余が命を絶つ者あらば曲(きょく)は彼にあり。予は国家百万の生霊に代り、生を捨つるは素(もと)より余が欲する所なりと、心中(しんちゅう)青天白日(せいてんはくじつ)の如く、一点の曇(くもり)なき赤心を一二の重臣に計れども其事(そのこと)決して成難(なりがた)しとて肯(がへん)せず。



 当時 軍事総裁(ぐんじそうさい)勝安房(かつ・あは)は余(よ)素(もと)より知己ならずと雖(いへど)も、曾(かつ)て其(その)胆略あるを聞く。故に行(ゆき)て是を安房に計る。安房、余が粗暴の聞(きこ)へあるを以て、少しく不信の色あり。安房は余に問ふて曰く、「足下(そっか)如何なる手立(てだて)を以て官軍の営中にへ行くや」と。

 余曰く、「官軍の営中に到れば、彼等は必ず余を斬(ざん)するか縛(ばく)するかの外(ほか)なかるべし。其時、余は双刀を渡し、縛すれば縛につき、斬らんとせば我(わが)旨意(しい)を一言(いちごん)大総督宮へ言上(ごんじゃう)せん。若(も)し其言(そのげん)の悪(あし)くば直(ただち)に首を斬るべし。其言のよくば此の処置を余に任すべしと云はん而已(のみ)。是非を問はず、只(ただ)空しく人を殺すの理なし。何の難(かた)きことか之あらん」と云(いふ)。

安房(あは)其精神不動の色を見て断然同意し、余が望(のぞみ)に任す。夫(それ)より余家に帰りしとき、薩人(さつじん)益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)来り、同行せん事を乞ふ。依(より)て同行を承諾し、直(ただ)ちに駿府(すんぷ)に向ひて急行す。



 既に六郷河(ろくがうがは)を渡れば、官軍の先鋒、左右皆な銃隊(じゅうたい)。其(その)中央を通行するに止(とど)むる人なし。隊長の宿営と見ゆる家に到り、案内を乞(こ)はずして立入り、隊長を尋ぬるに、是(これ)なるべしと思ふ人あり(後聞けば篠原国幹なり)。則ち大音(だいおん)にて、「朝敵(ちょうてき)徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と断はりしに、其人(そのひと)「徳川慶喜、徳川慶喜」と、二声(ふたこえ)小音(こごえ)にて云ひしのみ。此(この)家に居合す人、凡(およ)そ百人計(ばか)りと思へども、何(いづ)れも声も出さず唯(た)だ余が方を見たる許(ばか)りなり。依(よっ)て其の家を出で、直(ただ)ちに横浜の方へ急ぎ行きたり。其時(そのとき)益満(ますみつ)も後(あと)に添(そひ)て来れり。

 横浜を出(いで)、神奈川駅に到れば、長州の隊となれり。是(これ)は兵士旅営(りょえい)に入り、駅の前後に番兵を出せり。此所(ここ)にては益満(ますみつ)を先となし、余は後(あと)に従ひ、薩州藩(さっしうはん)と名乗り急ぎ行くに、更に支(さそ)ふる者なし。夫(それ)より追々(おひおひ)薩藩(さっぱん)と名乗れば、無印鑑なれども、礼を厚(あつく)し通行させたり。

 小田原駅に着(ちゃく)せし頃、江戸の方に兵端(へいたん)を開けりとて、物見(ものみ)の人数路上に絶えず、東に向ひて出張す。戦争は何処にて始まりしと尋ねしに、甲州勝沼の辺なりと云ふ。仄(ほのか)に聞(きく)。近藤勇(こんどう・いさむ)甲州へ脱走せしが、果(はた)して是(これ)なるべしと心に思ふたり。



 昼夜兼行、駿府(すんぷ)に到着。伝馬町(でんまちょう)某家を旅営とせる大総督府下、西郷吉之助(さいごう・きちのすけ)方(かた)に行きて面謁(めんえつ)を乞ふ。同氏、異議なく対面す。余、西郷氏の名を聞事(きくこと)久し。然れども曾(かつ)て一面識なし。

 余、西郷氏に問(とふて)曰(いはく)、「先生、此度(このたび)朝敵征討の御旨意(ごしい)は、是非を論ぜず進撃せらるるか。我(わが)徳川家にも多数の兵士あり。是非に関(かかは)らず、進軍とあるときは、主人徳川慶喜、東叡山(とうえいざん)菩提寺(ぼだいじ)に恭順謹慎(きょうじゅん・きんしん)致し居り、家士(かし)共に厚く説諭(せつゆ)すと雖(いへど)も、終(つい)には鎮撫(ちんぶ)行届(ゆきとど)かず、或(あるひ)は朝意(ちょうい)に背(そむ)き、又は脱走不軌(ふき)を計(はか)る者多からん。左(さ)すれば主人徳川慶喜は、公正無二の赤心(せきしん)、君臣の大義を重んずるも、朝廷へ徹せず。故(ゆへ)に余(よ)其の事を嘆(たん)し、大総督宮へ此事(このこと)を言上(ごんじょう)し、慶喜の赤心を達せん為(た)め是迄(これまで)参りしなり」と。

西郷氏曰(いはく)、「最早(もはや)甲州にて兵端を開きし旨(むね)注進あり。先生の言ふ所とは相違なり」と云ふ。余曰(いはく)、「夫(それ)は脱走の兵のなす処(ところ)なり。縦令(たとひ)兵端を開きたりとも何の仔細(しさい)もなし」と云ひければ、西郷氏曰、「夫(それ)なればよし」と云(いふ)て後(あと)を問はず。

余曰、「先生に於ては戦(たたかひ)を何時(いつ)迄も望まれ、人を殺すを専一(せんいち)とせらるるか。夫(それ)では王師(わうし)とは云ひ難し。天子は民の父母なり。理非(りひ)を明らかにするを以(もっ)て王師とす」と。西郷氏曰、「唯(た)だ進撃を好むにあらず。恭順の実効さえ立てば、寛典(くわんてん)の御処置あらん」。余曰、「其(その)実効と云ふは如何なる事ぞ。勿論(もちろん)慶喜に於(おい)ては朝命には背かざるなり」。

西郷氏曰、「先日来(せんじつらい)静寛院宮(じゃうくわんいん)天璋院(てんしょういん)殿の使者来り、慶喜殿、恭順謹慎の事、嘆願すと雖(いへど)も、只(ただ)恐懼して更に条理(でうり)分らず、空(むなし)く立戻(たちもど)りたり。先生、是迄(これまで)出張、江戸の事情も判然し、大(おほい)に都合よろし、右の趣(おもむき)大総督宮へ言上(こんじゃう)致すべく、此処(このところ)に控へ居(お)るべし」とて、宮へ伺候(しかう)す。



暫(しばら)くありて西郷氏、帰営し、宮より五箇条の御書(ごしょ)御下げ有(あり)たり。其文(そのぶん)に曰、

一、城を明渡(あけわた)す事

一、城中の人数を向島(むかふじま)に移す事

一、兵器を渡す事

一、軍艦を渡す事

一、徳川慶喜を備前へ預くる事


西郷氏曰(いはく)、「右の五箇条、実効相(あい)立つ上は、徳川家寛典(かんてん)の御処置も之(これ)有るべく」と。余曰、「謹んで承(うけたまは)りたり。然れども右五ヶ条の内に於(おい)て、一ヶ条は拙者に於て何分にも御請(おう)け致し難(がた)き旨(むね)之(これ)有り候(そうろう)」。西郷氏曰、「夫(それ)は何(ど)の箇条なるか」。

余曰、「主人慶喜を独り備前へ預(あづく)る事、決して相(あい)成(なら)ざる事なり。何(なん)となれば此場(このば)に至り、徳川恩顧の家士(かし)、決して承伏(しょうふく)致さざるなり。詰(つま)る処(ところ)兵端(へいたん)を開き、空(むな)しく数万の生命を絶つ。是(これ)王師(わうし)のなす所にあらず。さすれば先生は只(ただ)の人殺しなるべし。故に拙者、此条(このじょう)に於いては決して肯(がえんぜ)ざるなり」。

西郷氏曰、「朝命(ちょうめい)なり」。余曰、「縦令(たとひ)朝命なりと雖(いへど)も、拙者に於て決して承伏せざるなり」と断言す。西郷氏又(また)強(しひ)て、「朝命なり」と云(いふ)。

余曰、「然れば先生と余と、其(その)位置を置き易(か)へて暫(しばら)く之を論ぜん。先生の主人島津公、若(もし)誤りて朝敵の汚名を受け、官軍征討の日に当り、其君(そのきみ)恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為め尽力するに、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速(すみやか)に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何(いかが)ぞや。此儀(このぎ)に於ては鉄太郎、決して忍ぶ事能(あた)はざる所なり」と激論せり。

西郷氏、黙念(もくねん)暫(しばら)くありて曰、「先生の説、尤(もっと)も然り。然らば即ち徳川慶喜殿の事に於ては、吉之助(きちのすけ)屹(きっ)と引受け取計(とりはから)ふべし。先生必ず心痛する事勿(なか)れ」と誓約せり。

 後(のち)に西郷氏、余に謂(い)ふ。「先生、官軍の陣営を破り此(ここ)に来(きた)る。縛(ばく)するは勿論(もちろん)なれども縛せず」と。余答(こたへて)曰、「縛(ばく)につくは余が望むところ、早く縛すべし」と。西郷氏笑(わらっ)て曰、「先(ま)づ酒を酌まん」と。数杯を傾け暇(いとま)を告ぐれば、西郷氏、大総督府(だいそうとくふ)陣営通行の符(ふ)を与ふ。之を請(うけ)て去る。



 帰路(きろ)急行、余神奈川駅を過(すぐ)る頃、乗馬五六匹を牽(ひき)行くあり。何(いづ)れの馬なるかと尋ねしに、江川太郎左衛門(えがわ・たろうざえもん)より出す処の官軍用馬なりと。其馬二匹を貸すべしと云ひ、直(ただ)ちに益満(ますみつ)と共に其馬に跨(またが)り、馳(はせ)て品川駅に到る。

 官軍先鋒、既に同駅に在り。番兵、余に馬をとどめよと云ふ。余、聞かずして行く。急に二三名走り来(きた)り、一人余が乗(のり)たる馬の平首(ひらくび)に銃を当て、胸間(きょうかん)へ向け放発(ほうはつ)せり。奇なる哉(かな)、雷管(らいくわん)発して弾丸発せず。益満(ますみつ)驚きて馬より下(お)り其兵の持(もち)たる銃を打落(うちおと)し、西郷氏に応接の云々(うんぬん)を示すに、聞かず。伍長(ごちょう)体(てい)の人、出で来(きた)り、其兵士を諭す。兵、不伏(ふふく)ながら退く。[薩藩、山本某と云ふ人なり]

 若(も)し銃弾発すれば其所(そこ)にて死すべきに、幸(さいはひ)に天の余が生命を保護する所なからんと、益満と共に馬上に談じ、急ぎ江戸城に帰り、即ち大総督宮より御下げの五ヶ条、西郷氏と約(やく)せし云々(うんぬん)を、詳(つまびら)かに参政(さんせい)大久保一翁(いちおう)、勝安房(かつ・あわ)等(ら)に示す。両氏其他(そのた)の重臣、官軍徳川の間、事情貫徹(かんてつ)せしことを喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜(きんき)、言語を以て云ふべからず。



 直(ただ)ちに江戸市中に布告(ふこく)を為(な)したり。其大意、此(かく)の如し。

 大総督府下、参謀西郷吉之助殿へ応接相(あい)済(すみ)、恭順謹慎、実効相(あい)立ち候(さふらふ)上は、寛典(かんてん)の御処置相(あい)成り候(さふらふ)に付(つき)、市中一同、動揺致さず、家業致すべし

との高札(こうさつ)を、江戸市中に立つ。是(これ)に依(よっ)て市中の人民、少しく安堵(あんど)の色あり。



 是より後(のち)、西郷氏江戸に着(ちゃく)し、高輪(たかなは)薩摩邸に於て、西郷氏に勝安房(かつ・あわ)と余と相(あい)会し、共に前日約(やく)せし四ヶ条は、必ず実効を奏すべしと誓約す。故に西郷氏承諾、進軍を止(とど)む。

 此時(このとき)徳川家の脱兵(だっぺい)なるか、軍装(ぐんさう)せし者、同邸(どうてい)なる後(うしろ)の海に小舟七八 艘(そう)に乗組(のりくみ)、凡(およ)そ五十人許(ばか)り同邸に向ひ寄せ来(きた)る。西郷氏に付属の兵士、事の出来(いできた)るを驚き奔走す。安房(あは)も余も是(これ)を見て如何(いか)なる者かと思ひたり。西郷氏神色(しんしょく)自若(じじゃく)、余に向ひ笑て曰、「私が殺されると兵隊がふるひます」と云(いひ)たり。其言(そのげん)の確乎(かくこ)として動かざる事、真に感ずべきなり。暫時(しばらく)ありて其兵は何(いづ)れへか去る。全く脱兵と見えたり。

 此(かく)の如きの勢(いきほひ)なれば、西郷氏応接に来(きた)る毎(ごと)に、余往返(わうへん)を護送す。徳川家の兵士、議論百端(ひゃくたん)殺気云ふ可(べか)らざるの秋(とき)、若(も)し西郷氏を途中に殺さんと謀る者あれば、余前約(ぜんやく)に対し甚(はなは)だ之を恥づ。万一不慮の変ある時は、西郷氏と共に死せんと心に盟(ちか)って護送せり。



 此日(このひ)大総督府下参謀より急の御用有り之(これ)出頭すべしと御達(おんたっし)あり。余出頭せしに、村田新八(むらた・しんぱち)出で来(きた)り、「先日官軍の陣営を足下(そくか)猥(みだり)に通行す。其旨(そのむね)先鋒隊より報知(ほうち)す。我と中村半次郎(なかむら・はんじらう)[桐野利秋]と足下を跡より追付(おいつけ)切殺(きりころ)さんとせしが、足下(そくか)早くも西郷方へ到り面会せしに依(よっ)て切損(きりそん)じたり。余り残念さに呼出(よびいだ)し是(これ)を云へるのみ。別に御用向きは無し」と云ふ。

予曰(いはく)、「それはさも有るべし。予は江戸児(えどっこ)なり、足は最も早し貴君(あなた)方は田舎者にてのろま男故(ゆえ)、余が早きにはとても及ぶまじ」と云ふて、共に大笑(おほわら)ひして別れたり。両士も其時軍艦にて陣営を護(まも)りながら、卒然(そつぜん)其職務を失(しく)じりしを遺憾に思ひしと見えたり。

 此(かく)の如きの形勢なれば、予輩(よはい)鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)して、以て旧主徳川慶喜が君臣の大義を重んずるの心を体認(たいにん)し、謹んで四ヶ条の実効を奏し、且(かつ)百般の難件(なんけん)を所置(しょち)する者、是(こ)れ則ち予が国家に報する所以(ゆえん)の微意(びい)なり。



明治十五年三月
山岡鉄太郎 誌(しるす)





出典:児玉四郎『明治天皇の御杖』






解説:[[新訳]鉄舟随感録 「剣禅一如」の精髄を極める]より

『慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』という鉄舟の遺稿がある。維新の際に功績のあった人々に対して、明治政府の論功行賞(ろんこうこうしょう)が始められた時、過去を語ることが少なかった鉄舟は、その勲功(くんこう)調査に応じることを再三固辞したが、ついに右大臣の岩倉具視(いわくら・ともみ)から直接に求められるに及んで、ようやく認(したた)めたものだ。ただし、勲功調査とは別途に、岩倉個人に呈した書だった。己の功を自慢気に述べ立てることを嫌った鉄舟は、歴史の「証言」に資(し)するならば、という条件付きで呈上(ていじょう)したのである。以下、明治16年(1883)記のその『談判筆記』(『鉄舟居士の真面目(しんめんもく)』圓山牧田編集、全生庵発行、大正七年)にしたがって、細部は省略しながら、鉄舟の果たした大仕事を垣間見ることにする。


 上野の寛永寺に閉居していた徳川慶喜は、すでに朝廷に対する恭順の意を固めていたし、譜代の家臣たちに厳命していた。その趣旨に反しようとする者は「余に対して刃(やいば)をふるうに等しい」とまで通達していたのである。

 純粋なその思い、赤心(せきしん)をもって、こうして謹慎しているのだが、朝敵(ちょうてき)の汚名を着せられたからには、もう自分の命はおぼつかないであろうし、「これほどまでに人々に憎まれることになったのは、かえすがえす嘆かわしいことだ」と伺候(しこう)した鉄舟の前で慶喜は落涙(らくるい)した。

 そこで、鉄舟は「どうして、そのようなか弱きことをいわれるのですか」と述べ、「謹慎というのは偽りで、何か企(たくら)まれていることがあるのですか」と問うと、慶喜は「どのようなことがあっても、朝廷に背(そむ)かざる赤心を貫く」と答えた。

 慶喜の強い決意を確かめた鉄舟は、「その誠の赤心のうえでの謹慎ならば、それは朝廷に貫徹して、もちろん疑念は晴れるはずですので、その役目は自分が引き受け、必ず赤心が朝廷に通じるように尽力いたしましょう」と言い、次のように断言したのである。「この鉄太郎の眼の黒いうちは、決して、ご心配には及びませぬ」。



 その後、命をかけて大総督府に慶喜の赤心を伝える自分の考えを、鉄舟は一、二の重臣に打ち明けたが、「そんなことができるはがない」と一蹴されたので、未知の人だが、かねて胆略(たんりゃく)優れた人物という評判を耳にしていた幕府の軍事総裁である勝海舟(かつ・かいしゅう)を訪ねて、粘り強く説得した末に同意を引き出す。そして、海舟の家に預けられていた薩摩人の益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)という者を同行(このことは海舟に請われて鉄舟が承諾したと述べられている)して、直ちに駿府へと向かった。

 さて、六郷川(多摩川)を渡ると、すでにそこまで進軍していた新政府軍(官軍)の先鋒隊の兵が、銃を持って駐屯(ちゅうとん)している。鉄舟はそのど真ん中を通行したが、一人として制止する者がいない。彼は宿営(しゅくえい)と思(おぼ)しき家に乗り込むと、隊長らしい人物に大声で、こう断った。「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と。宿営にいた百人ほどの人間は、一声も発することなく、鉄舟の方に目を向けたばかりであった。



 それより横浜、神奈川、小田原を経て、益満を従えて昼夜歩きつづけた鉄舟は、駿府に着くと、大総督府下の参謀・西郷吉之助(きちのすけ)隆盛(たかもり)の旅営に行った。その名はずいぶん以前から聞き知っていたが、もちろん、一面識もない西郷に面会を許されると、彼は切々とおよそ以下のようなことを訴えたのである。

「わが主人の徳川慶喜は、恭順の意志をもって謹慎しているが、臣下の者に対する鎮撫(ちんぶ)が行き届かないために、朝廷のお考えに背いている者が多いかもしれず、無二(むに)の赤心(偽りのない心)が朝廷に通じないことを嘆いている。拙者はそれを大総督宮(有栖川宮)に言上(ごんじょう)し、慶喜の赤心を伝えるためにこうしてやって来たのである。先生(西郷)は、それでも江戸へと進軍されるのか。それでは、人殺しではないか。王師(帝王の軍隊)とはいえぬ。天子(天皇)は民の父母であり、理非(りひ)を明らかにするのが、王師というものではないのか」

 すると西郷が、「恭順の実際を示せば、朝廷より寛大な処置が下されるであろう」と言い、大総督宮に伺いを立てて戻って来ると、大総督宮より下された左記の五箇条から成る書を呈した。

一 城(江戸城)を明渡(あけわた)す事

一 城中の人数を向島(むこうじま)へ移す事

一 兵器を渡す事

一 軍艦を渡す事

一 徳川慶喜を備前(岡山県)へ預(あずけ)る事。

 西郷はこの五箇条の実効が成立すれば、徳川家に寛典(かんてん)が下されるであろう、と言うのである。

 鉄舟は「謹んで承(うけたまわ)りました」と言った後で、ただし、慶喜を備前に預けるという条はとうてい承服(しょうふく)できぬ、と言った。なぜならば、「そうなれば徳川恩顧(おんこ)の臣がこれを受け容れず、ついには戦争が始まるし、その結果、数万の生命が絶たれることになる」からであり、その事態に至れば、「先生は単なる人殺しになるであろう」と言うのだった。

 「朝命(ちょうめい)なり」と西郷は頑なに主張するばかりである。鉄舟は激しく食い下がる。彼はこんなことを言った。「もしも、慶喜が先生の主人の島津公で、先生がこの鉄太郎の立場にあったならば、朝命を奉戴(ほうたい)してご主君を差し出し、安閑(あんかん)として事を傍観されるか。どうですか」。この言葉を聞いて、西郷は黙っていたが、やがて口を開いた。「先生(鉄舟)の説はごもっともである。徳川慶喜殿のことは、この吉之助が引き受け申した」と、西郷は言い、あとは二人の間で酒が酌みかわされた。



 それからの経緯は省(はぶ)くが、西郷から与えられた「大総督府陣営の通行の符」を手にして江戸城に帰ると、鉄舟は参政(さんせい)の大久保一翁(忠寛)、勝海舟たちに五箇条の書を示し、加えて、西郷との談判の詳細を報告したのである。そして、江戸市中に高札(こうさつ)が立つ。その布告の大意は、左記の通りであった。

 大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接相済(あいすみ)、恭順謹慎実効相立(あいたち)候上(そうろううえ)は、寛典の御処置相成(あいなり)候に付(つき)、市中一同同様不致(いたさず)、家業可致(いたすべし)。

 後日、高輪(たかなわ)の薩摩藩邸で、勝海舟と西郷隆盛の史上有名な会談が行われる。その席には鉄舟も加わっている。こうして、江戸は戦火を免れたのだった。








2015年9月4日金曜日

山岡鉄舟伝(修身二十則)『鉄舟随筆』


鉄舟随筆

勝海舟 評論
安部正人 編

東京 光融館蔵版



緒論

精鉄百錬初めて光彩陸離たる利刀を得べし、風霜千年を経ざれば鬱茂たる棟梁の材をなし難し。人生れながらにして聖なるものは、未だ之あらず。切磋琢磨日々新たにして然る後、才識卓発徳望隆起するを得るなり。

米の国父華聖頓(ワシントン)の如き、我維新創業の名臣南洲、海舟、鉄舟先生の如き、固より其天資の衆を抜くものある可しと雖も、其修身励行に由り始て偉業をなすを得しなり。何者の痴漢ぞ古賢豪を見て、徒に其天授にして及ぶ可からざるを称し、毫も自家の修養を務めず、万金換え難きの身を以て、禽獣草木と共に化し終らんとす。嗚呼其志立たず、其行修まらず。其業の成らざる知るべきのみ。

全生院殿鉄舟高歩山岡先生、深く力を修心錬胆に用ふ。彼の卓抜見識の絶代の偉業は、皆之に由て得来りし者なり。人大海の量なくして、何ぞ百川の朝宗を得ん。良何の術なくして、何ぞ紛乱の世に処するを得ん。先生の卓識偉業を見ば、其如何に力を修養に用ひたるかを知るべし。乞ふ世の志士其れ之を下文に鑑みよ。



山岡鉄舟居士伝


居士、名は高歩、字は曠野、通称鉄太郎、鉄舟と号す。本姓は小野氏、世々幕臣と為る。父朝右衛門、仕へて飛騨の代官と為る。母は塚原氏。天保七年六月江戸に生る。既に長じて、出て幕臣山岡氏の後を継ぐ。仕へて大監察に至る。居士、年十三の時、一日慨然として以為く、

士の君に事ふる常に死を視ること帰するが如し。確乎として其心を動さざる者は、然る後ち始めて能く忠を尽すべしとなす。而して心を動かさざるを要せば、則ち先づ心を練らざるべからざるなり。因て生父に問ふに、練心の術を以てす。

父曰く、吾家の先祖、高寛君、剣法を小野治郎右衛門、小太刀半七の二人に学ぶ。又、禅道の蘊奥を究め、以て東照公に仕へ、屡々戦功を著はす。其旗毎に「吹毛不曾動」の五大字を題する者を用ゆ。今汝心を練らんと欲せば、禅学を修むるに如くはなし。

居士、是に於て始めて芝村長徳寺の願翁に参じて十年を歴、願翁未だ肯て許可せず。然れども居士少しも自ら挫けず、志操愈々堅し。又、豆州龍澤寺の星定に参す。寺は州の三島駅の西、一里許に在り。居士暇日毎に必ず払暁江戸を発して、騎して函嶺を過ぐ。夜四更始めて龍澤寺に至る。至れば則ち先づ星定に参し、後乃ち飯を喫す。或は温湯を得ざれば、則ち水を飲で食を下す。祁寒と雖も、未だ曾て難色あらざるなり。曾て独園に語て曰く、吾れ龍澤に往来す。或は夜半を以て函嶺を過ぐ。頗る生涯の平生に殊なるを覚ふるなり。又、滴水、洪川、独園の数人に歴参し、後ち滴水の印可を受く。而して居士剣法の妙、亦之を禅理上より得たり。



蓋し居士甫めて九歳より剣法を学ぶ。初め久須 美閑適齋に従て真影流を受く。後ち井上清虎に就て北辰一刀流を受く。最後乃ち浅利義明の門に入て、以て一刀流の奥義を究んと欲し、苦練すること年あり。其修禅の際に及で一日滴水に参じ、語次剣事に及ぶ。滴水則ち、

「両刀交レ鉾不レ須レ避、好手還同二火裏蓮一宛然、自有二衝天気一」

注:「両刀交[#レ]鉾不[#レ]須[#レ]避、好手還同[#二]火裏蓮[#一]宛然、自有[#二]衝天気[#一]」

の句を挙して之れに授く。居士之を紳に書して、居常拈提すること三年、一旦豁然として省悟する所あり。馳せ往て浅利に見へて、角技せんと請ふ。技法神妙、復た前日の比に非ず。浅利乃ち木刀を抛ち、容を改めこれに告て曰く、

「子已に至る矣、以て吾秘を伝ふべし」

と、遂に伝ふるに一刀斎が所謂、無想剣の極致を以てす。時に明治十三年三月三十日なり。居士既に之を伝受して、此より益々拡充精究して、以て古人未発の蘊奥を発し、竟に無刀流の一流を開き、以て其徒に授く。論者以為らく、居士の剣法に於ける、其淵源する所ろ是の如く、邃且つ遠し。而して世の剣客、徒に之を技に求めて、輙ち歩を邯鄲に学ぶ者衆し。亦思はざるの甚しき也。



是より先、居士禅を修し、剣を学ぶ、其志将に大に為すあり。以て忠を事ふる所に尽さんとす。未だその志を果すに及ばすして、而して幕府政を失ひ、国事丕変す。王政維新の初に迨で、官軍大挙して東関東を征す。将に江戸城に臨んとす。居士、勝海舟等と共に、独り其衝に当り、心を同ふし、謀を協せ、死を以て其主徳川慶喜の恭順を白す。当時王師をして刀に血せずして、而して江城を収しめ、江都百万の生霊皆、塗炭を免れ、安堵平日に異らざる者は、居士と海舟等との力なり。事蓋し国史に在り。茲に復た詳かにせず。

居士人となり、慈仁にして剛毅、寛猛相済し、威恵並び行はる。無類の徒と雖も、一たび其化導を被れば、輙ち翻然として過を悔ひ善に還る。居士夙に禅を悦ぶと雖も、然れども度量寛弘にして、党同伐異の見なし、其各宗の緇に於ける、一誠に之を待つ。要仏法を以て宗旨となす。明治の初年に、朝野盛に排仏論を唱ふ。居士夷然として争はずして曰く、天下を挙て皆他教を信ずるも、我一人仏教を信ぜば可なりと。

初め居士幼にして、書法を飛州高山の岩佐一亭に学ぶ。後ち益々精詣して、遂に海公の入木道五十三世の正伝を継ぐと云ふ。是を以て以て世人其書を責重して、争ひ来て之を索む。酬ゆるに金帛を以てす。居士却けずして而して之を受け、悉く資りて以て廃寺を興す。明治二十年七月に至て、始めて揮毫を絶して、復た他の需に応ぜず。願を発して一切蔵経を写す。毎夜必ず燈に就て経を写す。四更に至て而して止む。

嘗て鉄舟、寺を駿州に、全生庵を東京に創す。其徴を蒙りて朝廷に仕るや、擢んで侍従に任ぜられ、宮内少輔に遷り、従三位に累叙し、勲二等に叙せられ、思眷日に渥し、嘗て内帑金五千円を賜ふ。居士即ち之を創する所の二寺に分施す。又人の三千金を贈する者あり。亦二寺に分施す。専ら興仏を以て事と為す。



明治十五年五月、職を辞して家居す。二十一年二月、篤疾に罹かる。事叡聴に達す。特に侍医に詔して日々就て診視す。且厚く物を賜ふて之を優問す。七月中旬に至て疾革まる。自から死期已に迫るを知って、即ち親戚門弟を会して款話す。且つ落語師円朝に打談せしむ。談笑平日の如し。円朝も亦、常に居士に就て禅を問う者也。

是より先き、居士既に写経を以て日課と為す。篤疾と雖も未だ曾て一日も廃輟せず。是の日尚ほ机に倚て課に就く。将に筆管を拈せんとす。臂彎して伸びず。一僧、側に侍して、即ち之を扶けて机上に達せしむ。筆を下すに及で、即ち字々遒健して、毫も常作に殊ならず。観る者、之を驚異す。時に是の月十八日なり。

翌日疾を力めて早く起き、将に浴室に赴かんとす。門人某、扶持せんと擬す。居士、之を揮ひ去て、独歩して室に入り、澡浴常よりも周ねし。既に罷んで内子に命じて衣を取らしむ。常服を奉ず、肯んぜず。内子、之を覚りて、泣いて予備する所の白衣を奉ず。居士、自ら之を服して、復た病床に坐し、喫烟すること一次。乃ち身を起して更に坐し、結跏すること儀の如し。且つ金剛経一巻を取て之を懐にす。右の手に座傍の一団扇を執り、左の手に念珠を持す。是に於て、従容として左右を顧視す。遂に親戚門弟に永訣して曰く、

諸君好在、吾れ今日先つて逝ん

と言い卒って微笑して瞑す。坐容変ぜず。𠑊然として平日の如しと云う。享年五十有三、越へて三日。谷中全生庵に葬る。



事聞へて今上震悼し玉ひ、特に勅して、祭粢料金二千円を賜ふ。皇后亦五百円を賜ふ。時人、之を栄とす。居士の卒するや、遠近之を弔祭する者、勝て数ふべからず。其京都に在ては、即ち門人、北垣国道、小倉庄之助等、諸有志相謀って、是の歳八月初一日を卜して、其霊を万年山に弔祭す。独園、居士に於いて道契最も深し。其拈香偈に曰く、

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

前之無敵後無物。五十三年不曾禅。莫道出生還入死。薫風香動碧池蓮。恭惟全生院殿鉄舟高歩大居士。稀代英傑。蓋世大人。為君振勇。則横行於百万軍中。如往無人之地。為道忘躯。則跋渉於三百余里。如遊比隣之家。雖日坐撃剣道場。而途中家舎。竹椅蒲団為座。雖常在簪桜社会。而江山風月。虚懐氷襟為伍。此乃人天化生。為法而来。是故病苦之際。快然以書 写一代蔵経。此是世間了事凡夫。亦謂菩薩応世。殺身自若。以謀衆生安寧。老僧托公以了残生。不料先我一箸而鉄舟寺。優曇華開全生庵。偈

是の日、来会供養する者、緇素凡そ千五百有余人。法会の盛なる、近年其の比罕なりと云ふ。



修身二十則

一  うそいふ可からず候

二  君の御恩は忘る可からず候

三  父母の御恩は忘る可からず候

四  師の御恩は忘る可からず候

五  人の御恩は忘る可からず候

六  神仏並に長者を粗末にす可からず候

七  幼者をあなどる可からず候

八  己れに心よからざることは、他人に求む可からず候

九  腹を立つるは、道にあらず候

十  何事も不幸を喜ぶ可からず候

十一 力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候

十二 他をかへりみずして、自分の善き事ばかりす可からず候

十三 食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し。すべて草木土石にても、粗末にす可からず候

十四 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得ふ可く候

十五 礼儀を乱る可からず候

十六 何時何人に接するも、客人に接する様に心得ふ可く候

十七 己れの知らざる事は、何人にてもならふ可く候

十八 名利の為めに、学問技芸す可からず候

十九 人にはすべて、能不能があり。いちがゐに人をすて、或は、わらふ可からず候

二十 己れの善行を、ほこりがほに、人に知らしむ可からず。すべて我心に恥ぢざるに務む可く候


嘉永三年庚戌正月 行年十五才の春 謹記
小野鐵太郎


評論:勝海舟


…

まァ能く考へて見給へ。此(この)修身二十則などは、今時(いまどき)の学者が見たならば、へでもないと云ふだらうよ。こんな馬鹿げた事は、世人には五月蝿(うるさ)くて、見もしないだらうよ。

併(しか)し之を逆に戻して、己れの目から無遠慮に云ふて見れば、こんな馬鹿な事は、実践するものもあるまいよ。口先計(ばか)りの小理屈で、桶の輪の様(よう)に周囲はよいが、お腹の内は明き巣(あきす)だらうよ。も少し真面目に云ふて見れば、実践は愚か、十四五才の小供では、此位(このくらい)な事も容易に云ひえないものが多からうよ。

処(ところ)が山岡などは馬鹿正直にも、実践して居るからナー。詰(つま)る処(ところ)、彼が小供の時分よりの志が中々(なかなか)殊勝なるものよ。まァ、ご覧よ。此(この)二十則の中に、忠孝を冒頭に呼出してあるが、之(こ)れが後日の山岡鉄舟だよ。



彼が頑固と訾(そし)らるるも、馬鹿正直と云はるるも、或(あるい)は生仏(いきぼとけ)と拝せらるるも、将又(はたまた)君命を奉して、駿府(すんぷ)の使(つかひ)を全(まった)ふし、平穏無事の間に、維新の革命を成就せしめたのも、或(あるい)は朝廷に奉仕して、明治の和気清麿(わけのきよまろ)と、己れが云ふのも、総(すべ)て爰(ここ)にあるのだ。これが骨髄の処(ところ)で、後の附言(つけごと)は注解サ。

だがモ一歩文句を引出して云ふて見れば、此(この)文中に腹を立つるは道にあらず(これが恰(あたか)も維新前後、世人多くは山岡は叛逆者(むほんもの)、狼藉者とて万衆に訾(そし)られて平気で居た所だ)と云ふ事が、中々(なかなか)小供ながら考へたものサ。

夫(そ)れから何事も不幸を喜ぶな、力の及ぶ限り、善(よ)き方につくすべし(これが駿府に使して天下の太平を祈った処だ)と記し、終にすべて我心に恥ぢざるに務むべし(此処(ここ)で始めて全くなるのだ。乃ち万衆の訾(そしり)も平気に受け流し、生死を顧(かへり)みず、虎口を忍んで使命を果たした、彼の心中には毀誉(きよ)皆(みな)皮相、只(ただ)我心に恥ぢざるに務めたのだ)とあるのが肉だ。其外(そのほか)は、皮を以(もっ)て骨肉を包んだのサ。



どーだい、今時の奴でこんな事を云ふ奴はあるかも知れぬが、実際行ふ奴は誰れだらうよ。さうなると指が折れまいよ。

以下評論として、己れの所感を物語るから、篤(とく)と脳味噌を澄まして聞き給へ。呆れて居っては分からなくなるからよ。

…





出典:安部正人『鉄舟随筆』


2015年7月15日水曜日

山岡鉄舟と西郷隆盛



〜話:行徳哲男〜


…

 ピーター・ドラッカーは日本民族こそ「世界最強の”問題処理民族”である」と言っている。日本民族は大化改新、応仁の乱、蒙古襲来、明治維新、第二次世界大戦、オイルショックなどさまざまな国難をことごとく乗り切ってきたのだ、と。






 ドラッカーは明治維新を称えてこう言う。「明治維新は人類がなした最高の奇跡である」と。明治維新はなぜ”維新”であって革命ではないのか。革命とは火と血がともなうものだが、維新には一条の炎も燃えず、一滴の血も流れなかった。まさに無血革命という奇跡が明治維新なのである。

 江戸城の無血開城といえば勝海舟と西郷隆盛が主役だが、幕府方の使者として命懸けで敵陣を突破して駿府に赴き、西郷を涙ながらにかき口説いて江戸攻めをやめさせた「山岡鉄舟」の存在も忘れてはならない。鉄舟がいなければ間違いなく江戸は火の海になっていた。そうなれば、日本は戦乱に乗じた外国勢力の植民地となっていたであろう。まさに西郷と鉄舟の会談こそ、日本の一大転換点であったのだ。






 本陣で西郷と面談した山岡は「官軍は無理無体に人民を殺すのですか」と迫る。「朝敵を討つためだ」と答える西郷に、山岡は「江戸には朝敵など一人もおりません」と食ってかかる。「徳川慶喜がおるじゃないか!」「徳川慶喜は恭順の者でございます」「恭順の誠が見えぬ!」「それはあなたが耳を覆い目をふさいでいるからだ」。火花を散らす会話が続き、ついに「今さら退けぬわ」と西郷が山岡をはね返すと、「不忠だ、西郷殿、日本一の逆賊になりますぞ」と山岡は叫ぶ。しばしの睨み合いののち、西郷は山岡に問う。

「敵陣深く一人で乗り込んできて、その場で斬られたらどうするつもりだった」。

答えて山岡、

「もとより覚悟の上」

この一言を聞いて、西郷は江戸攻めの中止を決める。覚悟ある人間同士が交わった瞬間である。






 江戸攻めを中止するために総督府は五ヶ条の命令を出す。その最後の一ヶ条を山岡は承服しない。それは「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条文であった。大恩ある主君を敵藩に監禁させるなどできないというのが拒絶の理由であった。対立は平行線を描き、西郷は席を立とうとする。そこで山岡は涙ながらに訴えるのである。

「西郷先生、仮にあなたの御主君の島津公が朝敵の汚名を着せられ、その汚名をそそぐ方法がないまま、朝命によって敵藩に差し出せと迫られたら、先生は平気で島津公を人質としてお出しになりますか」

 西郷は涙ながらの一言に胸打たれた。そして、自らも目に涙を浮かべながら、「慶喜公のことは自分が万事引き受けましょう」と申し出る。この涙の場面が日本の夜明けをもたらしたと言っても過言ではない。



 西郷は山岡鉄舟をこう評したという。

「徳川公は偉い宝をお持ちだ。山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。金もいらぬ名誉もいらぬ、命もいらぬといった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に日本の大事を誓い合うわけにはまいりません。本当に無我無私、大我大欲の人物とは、山岡さんのごとき人でしょう」と。







 西郷の推挙により明治天皇の侍従となった山岡は、西洋のものを何でも取り入れようとする明治天皇を諌めた。激怒した天皇は山岡と「相撲で決着をつけよう」と言い、巨漢の山岡に土俵に叩きつけられてしまう。憤然として自室に戻る天皇を見て、誰もが山岡にお沙汰が下るものと思った。山岡もまた、それを覚悟し、一晩中廊下で禅を組んだ。しかし、気を鎮めた天皇は「鉄舟こそ本当の忠臣だ」として、何もとがめをせず、逆に侍従長に抜擢した。

…




引用:行徳哲男『感奮語録』