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2017年4月26日水曜日

塵と花[碧眼録]





塵未挙 花未開

塵(ちり)未(いま)だ挙(あが)らず

花(はな)未(いま)だ開(ひら)かず


一塵挙 大地収

一花開 世界起

一塵(いちじん)挙(あが)って大地収(おさ)まり

一花(いっか)開(ひら)いて世界起(おこ)る


明珠在掌[碧眼録]





明珠在掌
めいじゅ ざいしょう

明珠(めいじゅ)は掌(たなごころ)に在(あ)り


真に大切なもの(明珠)は自分の手の中にある。



話:齋藤孝『声に出して読みたい禅の言葉』

法華経にある「衣裏(えり)の宝珠(ほうじゅ)のたとえ」

ある人が親しい友人の家に行き、大変ごちそうになり、酒を飲んで酔いつぶれてしまった。そのとき友人は、酔って寝ている友人の着物の裏に高価な宝珠を縫い付けて出て行った。

何も知らない男は翌日から他国を流浪し、やがて金がなくなり生活に困っていた。ある日のこと、ごちそうをしてくれた友人に出会った。その友人は言った。

「おまえは何とバカなやつだ。わたしは昔、おまえに安楽な生活をさせてやろうと思い、どんなものでも手に入る宝珠を、着物の裏に縫い付けた。それは今でもあるはずだ。それを売れば、もう苦しむことはない」






2017年2月15日水曜日

バッハと庖丁、達磨





話:齋藤孝

…

バッハは、どうしたらそんなにうまくオルガンが弾けるのかと訊かれて、

「楽譜どおりに定められたタイミングで、定められたところに指を置くだけ」

と言ったという逸話が残っています。いま置くべき位置に置くべき指を置く。つぎのタイミングでも置くべき位置に指を置く。ひたすらこれを積み重ねていくことがすばらしい演奏につながる。一つ一つの鍵盤タッチだけを考え、後のことも先のことも考えない。

…

『荘子』に庖丁(ほうてい)という料理の名人の話が載っています。彼の刀は19年使っても刃こぼれがしなかったといいます。肉の筋にそってすすーっと求められるがままに切るので、まったく力が入らず、刃こぼれがしなかったからだそうです。

頭で考えずに、瞬間瞬間に求められるがままに手を動かしているゆえのことです。

…

達磨(だるま)は、

「外に所縁(さまざまな因縁)を止(とど)め、内に心が喘(あえ)がぬこと、心は牆壁(しょうへき、囲い)のようになって、はじめて道に入ることができる」

と説いています。達磨から数えて六代目の祖(六祖)慧能(えのう)も、外に向かって心の思いが起こらないのを「坐」と言い、自分の内側に本性を見て動じないのを「禅」と言うと定義しています。

不動の壁を見つづけることで、外に向かっていた心が内に向かい、何事にも動じない不動の心になり、雑念や妄念に惑わされない境地に落ち着いていく。自分があたかも壁のようになり、自分が壁を見ているのか、壁が自分を見ているのかわからなくなる。

達磨の「壁観(へきかん)」を柳田聖山氏は、

「壁が観(み)るのである、壁を観るのではない。壁となって観るのである。何を観るのか、空を観るのである」

と説いています。





…


出典:声に出して読みたい禅の言葉




2016年9月20日火曜日

ブッダの「パン」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆


…


パンは小麦粉からつくられます。

オーブンに入れたときに、小麦粉がどのようにパンになるのかが、ブッダにとっては最も大事なことでした。私たちは、どのように悟りをひらくのか、ここがブッダの最大の関心でした。悟りをひらいた人、というのはブッダにとっても、また他の人にとっても、完全で望ましい人でした。

人間は、どのように理想的な人格を発達させることができるのでしょうか。どのようにして過去の聖者たちは、聖者となったのでしょうか。パンの生地が、どのように完全なパンになるのかを見つけるために、ブッダは自分で何度も何度もパンをつくってみたのです。そして、ついに成功したのです。それがブッダの修行でした。






しかし、毎日おなじものを何度も何度もつくるというのは、あまりおもしろいことではないかもしれません。あまりにも単調だ、とあなた方は言うかもしれません。繰り返し行うという精神を失うと、修行はとても難しくなります。しかし元気で強い気持ちがあれば、難しくありません。

いずれにしろ私たちは、じっとしていることはできません。なにかをしなければならない。そのとき、自分を観察し、注意し、そして今、ここの、自分に気づいていることです。

私たちの方法は、パンの生地をオーブンに入れ、そして注意して見守ることなのです。どのようにパンの生地がパンになるのかわかれば、悟りを理解できるようになるでしょう。この身体がどのようにして聖者になるのかということが、私たちのもっとも大事な関心です。

小麦粉がなにか、生地がなにか、聖者とはなにか、ということはそれほど興味がないのです。聖者は聖者です。人言の本性に関する形而上学的な説明がポイントなのではありません。

少なくとも、おいしくて見た目がよいパンをつくることには関心はあるべきです! 実際の修行は、あなたがパンをどう焼き上げるのか見つけるまで続きます。私たちの道には、秘密はありません。ただ、坐禅を行い、私たち自身をオーブンに入れるだけなのです。


…








引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「いつも同じ線路」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆


…


菩薩の道は「一途の道」と呼ばれています。

あるいは「何千マイルもつづき線路を行く」ともいいます。

線路はいつも同じです。線路が広くなったり狭くなったりしたら大変です。いつも、どこへ行こうとも、同じ線路なのです。それが菩薩の道です。太陽が西から昇ったとしても、菩薩は同じ道を行きます。その道とは、一瞬一瞬におのれの真の性質、「誠実さをあらわす」という道なのです。





わたしたちは「線路」などといいますが、もちろん、実際にそんなものはありません。「真剣さ」「誠実さ」が線路です。私たちが列車から見ている景色は変わります。しかし、同じ線路の上を走っています。その線路には、始まりも終わりもありません。「始まりのない、終わりのない線路」です。そこには出発点というものはありません。そこで得るものもありません。線路の上を走るのが、私たちの修行なのです。

しかし、線路自体に興味をもつと危険です。線路自体を見るべきではありません。線路を見るとめまいがします。列車からの景色そのものを楽しむのです。乗客が線路のことを心配する必要はありません。線路は誰かが面倒をみてくれています。



しかし私たちは、ときには線路を説明しようとします。本当にいつも同じなのか、知りたいという気持ちになるのです。「本当に菩薩の道はいつも同じなのか。なぜそれが可能なのか。その秘密はなんなのか?」。

しかし、そこには秘密はありません。誰の本性も、線路がいつも同じように、同じなのです。


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引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「劣った馬」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆


…


ある経典に、4種類の馬の話があります。
[サンユクタ・アーガマ vol.33]

4種とは、
「卓越した馬」
「優秀な馬」
「普通の馬」
そして「劣った馬」です。

「卓越した馬」は、ムチの音が聞こえる前に、騎手の意志にしたがって早足や並足、あるいは左右に走ります。

「優秀な馬」は、ムチがちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに、卓越した馬と同じように走ります。

「普通の馬」は、身体にムチの痛みを感じたときに走ります。

「劣った馬」は、痛みが骨の髄まで達したとき、ようやく走ります。



この話を聞くと、誰もが「卓越した馬」になりたいと思います。「卓越した馬」になることはできなくても、せめて「優秀な馬」になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。

しかしここには、禅についての誤解があります。坐禅の修行を、「卓越した馬」になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。それは正しい理解ではありません。正しい方法で禅を修行すれば、「卓越した馬」でも「劣った馬」でも関係ありません。

ブッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、「劣った馬」こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心もしっかりとした基礎ができるのです。そこで私は、ときに最高の馬は最悪の馬かもしれないし、最悪の馬は最高の馬かもしれないと考えるのです。



道元禅師は

将錯就錯
(しょう・しゃく・じゅ・しゃく)

といわれました。錯(しゃく)とは「やりそこなう」「間違う」という意味です。「将錯就錯」とは「間違いを間違いで受け継ぐ」という意味です。あるいは「間違いをつづけてしまう」という意味です。

道元によれば、ずっと続く間違いが、禅でもありえます。禅の老師の一生とは、長い年月の「将錯就錯」ともいえるのです。それは長い年月、間違えても間違えてもひたむきに続ける、ということです。



…





引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「無秩序」と「雑草」 [鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆


…


バランスが失われれば私たちは死にますが、同時に私たちは成長します。育つのです。そこで禅では、ときには生きることのアンバランス、あるいは秩序のない状態を強調することがあります。

かつての画家たちは、芸術的に故意に無秩序に、紙の上に点を描く練習をしました。これは意外と難しいのです。無秩序にしようとしても、なんらか秩序だって点が並んでしまうのです。自分で描く点々を、まったく無秩序に並べることはほとんどできません。

同じことが、毎日の生活にもいえます。まわりの人々をコントロールしようと思っても、できません。一番いいのは、好きなようにさせることです。このとき、みんなは広い意味でコントロールされています。羊や牛をコントロールするには、広々とした余裕のある草地に放すことです。人についてもいえます。好きなようにさせておいて、そして見守るのです。これが一番いいやり方です。

無視することは、よくありません。それは一番よくないやり方です。二番目によくないのは、コントロールしようとすることです。人についていえば、一番よいのは、コントロールしようとしないで見守ること。ただ見守る、ということです。

自分自身をコントロールしようとするときも、同じ方法が役立ちます。坐禅をして完全な落ち着きを得たいと求めるなら、そのときは、心を横切るいろいろなイメージに邪魔されないようにします。イメージは、起こっては消えていきます。起こっては消える、そのままにしておくのです。そのようにしておけば、コントロールができます。

私たちが見ているどんなことも、変化しています。バランスを失っています。なにもかも美しく見えるのは、それら一つ一つがバランスを失っているからです。しかし、その背景はつねに完璧な調和をなしています。完璧なバランスという背景に対して、バランスを失いながら生きているのです。


…


「抜いた雑草は、植物の肥料になる」

といいます。雑草を抜いて植物の近くに埋め、肥料にします。

坐禅で、難しさを感じても、また座っているときに心の波を感じても、そうした波自身があなた方をたすけるのです。心の波を気にかける必要はありません。むしろ「心の雑草」には感謝すべきです。やがては、あなたの修行を豊かにするものだからです。

もし心の雑草が栄養に変化する経験をしたならば、あなたの修行は目覚ましい進歩を遂げたことになります。しかし、それだけでは十分ではないのです。私たちは「雑草がどのように栄養になっていくか」、実際にそれを経験しなければなりません。

厳密にいえば、どのような努力も修行のためにはよくありません。それが心に波をつくりだすからです。しかしながら、なんらの努力もなしに、心の絶対の静寂を得ることもできません。努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。

どのような気づきの意識さえもなしに、心は非常に落ち着いています。この「非-意識(意識のない意識)」のなかでは、努力も観念も思考も消えています。私たちは、すべての努力が消え去る最後の瞬間まで自分を励まし、努力することが必要なのです。



…






引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




完全自立、完全依存 [鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆


…


中国の有名な禅の老師である洞山(とうざん)禅師はいいました。


青い山は、白い雲の父である。

白い雲は、青い山の息子である。

一日中、互いに依存することなく、寄り添っている。

白い雲はいつも白い雲であり、青い山はいつも青い山である。


これは、清らかな、しかもはっきりとした人生の解釈です。

「白い雲」と「青い山」のようなものはたくさんあります。「男」と「女」、「師」と「弟子」。お互いに寄り添っています。しかし、互いに依存することはありません。「白い雲」は「青い山」にわずらわされません。また「青い山」も「白い雲」にわずらわされるべきではないのです。

お互いに極めて自立しながらも、お互いに寄り添っています。これが私たちの生き方であり、これが坐禅の修行のやり方です。



私たちが真の自己であるとき、すべてから自立しながらも、完全にすべてに依存しているのです。

私たちは、お互いに純粋に自立しながらも、完全に依存しているのです。



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引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「ビギナーズ・マインド」 [鈴木俊隆]




話:鈴木俊隆


…


日本語では「初心」と言いますが、それは「Beginer's mind(初めての人の心)」という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままに保つことにあります。

たとえば、たった一度「般若心経」を唱えたとしましょう。そのとき、とてもよく唱えられたかもしれません。けれども2度目、3度目、あるいはそれ以上唱えるときはどうでしょう。だんだん、初めて唱えたときの心を忘れていきます。

同じことが、禅のほかの修行でも起こります。しばらくの間は「初心者の心」を保ちつづけますが、2年、3年と修行をつづけていくうちに、向上するところもあるかもしれませんが、初心のもっている無限の可能性を失いやすくなるのです。



禅の修行でいちばん大事なことは「二つにならない」ということなのです。私たちの「初心」は、そのなかに全てを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この「それ自体で満ち足りている状態」を失ってはいけません。

これは、心を閉ざしてしまう、という意味ではありません。そうではなく、空〈empty〉の心、それゆえ、つねにどんなことも受け入れる用意がある心です。心が〈空〉であるとき、それはどんなことも受け入れる、どんなことにも開かれている、という状態にあります。

初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。

In the beginner's mind there are many possibilities, but in the expert's there are few.





引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




鈴木俊隆の『禅マインド』




鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
ヒューストン・スミスの『序文(Preface)』より抜粋引用



二人の「鈴木」。

鈴木大拙(すずき・だいせつ)の禅は「劇的」である。

鈴木俊隆(すずき・しゅんりゅう)の禅は「日常」である。



鈴木大拙の場合、悟りが焦点となっていた。そして、大拙の書くものが、あれほど人を引きつけたのは、大部分、その「非日常」的な状態に対して魅惑されたためであった。






鈴木俊隆の場合、悟り、あるいは、ほとんどその同義語といっていい見性(けんしょう)という言葉はほとんど出てこない。

師が亡くなる4ヶ月前、私は、鈴木(俊隆)老師に、その著書に悟りという言葉がほとんど出てこない理由を尋ねる機会があった。奥さんはいたずらっぽく、私の耳にささやいた。

「悟っていないからよ」

老師はあわてたふりをして、扇で奥さんを打ち、口に指を当て「しーっ! それをいってはいけないよ」といった。三人で大笑いしたあとに、師は

「悟りが大事ではない、ということではない。しかし、それは禅において重視しなければならないところではない」

と簡潔にいわれた。





…






鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
リチャード・ベイカーの「はじめに(Introduction)」より抜粋引用


…


鈴木(俊隆)老師は、仏教を語るについて、普通の人の人生の状況からみると非常に難しいけれども、しかし、説得力のある方法をとりました。それはたとえば、

「お茶を飲んでいきなさい」

というようなシンプルな言葉のなかに、全部の教えを込めて伝えようとするものです。


…


鈴木老師は、カエルが非常に好きでした。

座っているときには眠っているようなのに、そばを通る虫には、全部気がついているのです。


…


師の全存在は、今ここのリアリティに生きるということの意味を表しています。

なにも言わなくても、あるいは何もしなくても、こうした人格に出会うことの衝撃は、人の人生を変えてしまうほどの力をもっています。しかし、弟子を本当に驚かせ、そして深めさせるのは、

師の非凡さというよりはむしろ、その完全な平凡さなのです。

師は、ただ自分自身であるだけなのです。


…









鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
松永太郎「訳者あとがき」より抜粋引用


…


アメリカの友人から教えられて、はじめて本書を読んだときの驚きをまだ覚えています。このような視点は、それまで聞いたことがなく、なんだ、そういうことだったのか、と目からウロコが落ちるような気がしたのです。


…


師の弟子であったデヴィッド・チャドウィック氏には、1999年に出版されたすばらしい老師の伝記『曲がったきゅうり(Crooked Cucumber)』があります。

「曲がったきゅうり」とは、たぶん「ボケなす」とか「唐変木」という意味だと思いますが、よくわかりません。鈴木老師の師、玉潤祖温和尚が師につけたアダ名です。

鈴木老師は本書のエピローグの最後に、次のようにいっています。

「東部ではもう、ルバーブを見ました。日本では春になると、きゅうりを食べるのです」


…


ある日、『参同契』の講義録を編集していて、私は

「あるがまま(things as it is)」

という言葉に出会いました。これは「things as they are」が文法的には正しいのではありませんか、とたずねると、師は「いや、私が意味したのは things as it is である」と言われました。


…


接心(せっしん、集中的に坐禅修行をおこなう合宿)4日目、私たちの足は痛み、背中も痛み、「いったいこんな苦痛に値するのかどうか」という疑いなどでいっぱいになったころ、鈴木老師はゆっくりと話をはじめました。

「いま、君たちが経験している問題というのは … 」

もうすぐなくなる、私たち誰もが、そう言われるものと思いました。

「 … 一生つづく」

と老師は言われたのです。

その言い方で、私たちはみな爆笑したのです。


…


ある女性の弟子が、感情にかられ、泣きながら問いました。

「なぜ、こんなに苦しみがあるのでしょうか?」

鈴木老師は答えました。

「特別、理由などはない」


…


ある弟子が尋ねました。

「もし、森のなかで木が倒れ、誰も聞いていなかったとしたら、木は音を立てたのでしょうか?」

鈴木老師の答え。

「どうでもよい」


…


鈴木老師の畳の部屋で、弟子が対面しています。弟子は、

「台所へ行って、盗み食いがやめれれないのです」

と言いました。鈴木老師は机の下からジェリービーンズを出して、

「すこし、どうかね」

と言われました。





…


最初の接心の初日が終わる前に、「私は到底できっこない」と思いました。主人の独参の日でしたが、主人は老師に、代わりに私に会ってくれるようにと頼んだのです。

「これは何かの間違いです。私にはできません。ただ主人と一緒に来ただけなのです」

「間違いではありません。もちろん、お帰りになるのはご自由です。ですが、どこにも行くところはありませんよ」


…


「海のむこうで戦争しているのに、私たちは、ここで何をしているのですか?」

弟子のジョン・スタイナーが言いました。

老師は突然、猫がネズミを襲うよりもすばやく上座から飛び降りて、ジョンの後ろに回り、警策(きょうさく)で何度もジョンを打ち、叫びました。

「愚か者! 愚か者! 時間を無駄にしておる!」

老師は何度もジョンを打ったので、ジョンは前のめりに倒れてしまいました。

「夢を見ているのだ! 夢を見ているのだ! なんの夢を見ているのだ!?」



師が声を荒げたことを一度も聞いたことがなかった聴衆は、驚愕のあまり口も聞けませんでした。

師は息切れして、ほとんど聞き取れない声でいいました。

「怒っているわけではない。ただ … 」

息をついでから

「自分の靴ヒモも結べないのに、何をしようというのだ」


…








引用:鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)』



2015年12月15日火曜日

グーグル社の、最も静かな夕食 [Mindful Eating]



Lilian Cheung, D.Sc, R.D.

「私たちハーバード大学の栄養士たちが、オリビアと全力を尽くして取り組みつづけてきたことは、グーグルのみなさんに健康的な食生活をするための科学的根拠にのっとった情報を提供するということです。

しかしオリビアは、それ以上にグーグルのキャンパスにおいて "食物を味わう食べ方(mindful eating)、今ここに生きる生き方(mindful living)" を提案していくことが必要だと言い、そうすることによって従業員のみなさんの人生がより豊かになっていくための助けとなると考えているのです。



話の流れで、私は彼女に禅マスターであるティク・ナット・ハンと一緒に本(『Savor: Mindful Eating, Mindful Life』)を書いたことを話すと、

"ティク・ナット・ハンを呼ぶことはできるかしら?"

と聞いてきたのです。ティク・ナット・ハンは、

"条件付きなら"

ということでOKしてくれました。それは

グーグルのみなさんが半日、マインドフルネス(今ここにあること)を共にすると約束してくれたら

というものでした」






Olivia Wu

「私たちは皆、『完全に今ここに在る(fully present)』感覚をより深めていきたいと思い、今日ここに集まりました。非常にシンプルであり、それでいて幻想的でもある目覚め(awareness)という状態を深めていきたいと思っているわけです。それが "今この瞬間を100%あるがままに自覚する" 生き方につながっていきます。

ここシリコンバレーに仏教僧のなかでもこのように偉大なる師が、私たちのために来て下さったことはとても貴重なことだと思います。ティク・ナット・ハンは私たちの精神(who we are)を理解してくださり、また、"今この瞬間を100%あるがままに自覚する" こと(mindfulness)によって、私たちの意識が新たなものになることもご存知なのだと思います」







ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)

「もしあなたが、誰かを幸せにしたいと思ったら、その人に何かを与えなくてはなりません。なにか美味しいものを作ってあげて、一緒に食べるということかもしれません。しかし、あなたが人に与えることのできる最も貴重なものは、あなたがスーパーで買えるようなものではありません。それは『あなたが "今ここ" にあること(your true presence)』なのです。


私たちは、いつも不安がいっぱいで、怒っていて、幸せではないのです。ですから、私たちのハート、自分の周りにスペースをつくる練習をするのです。人は、自分のハートに自由が芽生え、自分の内面にスペースができるまでは、幸せになることはできません。ですから、愛するということはスペースを与えること(offer space)なのです。自分自身にスペースがなければ、どうして愛する人にスペースを与えることができるのでしょうか。


『歩く瞑想(walking meditation, mindful walking)』の練習をするのもいいでしょう。一歩一歩、気を配って歩くのです。息を吸いながら一歩踏み出し、一歩一歩に意識を向けて歩くのです。自分の足で、今この瞬間に、ある生命に触れている、という感覚です。始めて数分で、すぐに効果がわかるでしょう。吸う息にだけ意識を向け、吐く息で、過去、未来、すべての計画を解放するのです。


"今ここに100%あること(mindfulness)" を練習するために、お寺に行く必要はありません。駐車場からオフィスに向かって歩いていく時、意識を向けて歩くことを楽しむこともできるでしょう。一歩一歩、すべてを楽しめるかもしれません」







Lilian Cheung

「私たちは最後に、100%意識を向けて夕食(mindful dinner)をとりました。とても静かな食事(silent meal)でした。これはグーグルでは珍しく、携帯電話その他の電子機器も持たない時間(no gadget with you)でした。

100%食べることに意識をもっていくということ(mindful eating)は、本当の意味で "食べる" ということで、それは自分に栄養を与え、また、食べている食物をじっくり味わうということです。

グーグル社にとって、このように社員ひとりひとりを大切にするということは、とても大切なことです。ストレス問題の根元に働きかけるからです。そうすることによって、あなた自身が世界の注目する会社の代表となるからで す」










引用:YouTube
『100%今を味わう生き方』~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン




2015年11月2日月曜日

The burglar and the Zen method 禅と夜盗 [鈴木大拙]



話:鈴木大拙
『禅と日本文化 - Zen and Japanese Culture』


…


The following story told by Goso Hoyen (Fa-yen; died 1104), of the Sung dynasty, will help us greatly in our understanding the Zen method and Zen spirit which have been described as being against teaching based on intellect, logic, and verbalism.

宋代の五祖法演(1104歿)によって説かれた次の説話は、知力・論理・文字言語を基とする説教とは相反するものといわれる禅的方法と禅の精神を、われわれが理解する上に多大の助けとなろう。(註、原文は『五祖録』という禅宗語録に出ている)


…


If people as me waht Zen is like, I will say that it is like learning the art of burglary.

人が「禅とはいかなるものか」と問えば、自分は「禅とは夜盗の術をまなぶに似たるもの」と答えるであろう。



The son of a burglar saw his father growing older and thought,

ある夜盗の息子が自分の父の年老いたるを見て思った。

'If he is unable to carry out his profession, who will be the bread-winner of this family, except myself? I must learn the trade.'

「親父が商売をやれぬとすれば、この己より外に自家(うち)の稼ぎ手はないわけだ。己が商売をおぼえねばなるまい」

He intimated this idea to his father, who approved of it.

彼はこの考を父親にひそかにもらし、父親もこれを承知した。



One night the father took the son to a big house, broke through the fence, entered the house, and, opening one of the large chests, told the son to go in and pick out the clothings.

一夜、父は悴(せがれ)を伴い、ある豪家に至り、塀を破り、屋内に入り、大きな長持(ながもち)の一つを開き、息子に「この中に入って衣服を取り出せ」と命じた。

As soon as he got into it, the lid was dropped and the lock securely applied.

息子がなかに入るや否や、父はその蓋をおろして鍵をかたく掛けた。

The father now came out to the court-yard, and loudly knocking at the door woke up the whole family, whereas he himself quietly slipped away from the former hole in the fence.

そして中庭にとびだし、「泥棒だ」と大呼し、戸を叩いて、家中のものを起こした上で、さて己はさきの塀の穴から悠々と逃げ去ってしまった。



The residents got excited and lighted candles, but found that the burglar had already gone.

家人は立騒いで灯をつけたが、盗人はすでに逃げたことが判った。

The son who remained all the time in the chest securely confined thought of his cruel father. 

その間に、長持のなかに固く閉込められた悴は、父親の無情をうらんだ。

He was greatly mortified, when a fine idea flashed upon him.

彼はひどく煩悶したあげく、名案が不意に浮かんだ。



He made a noise which sounded like the gnawing of a rat. The family told the maid to take a candle and examine the chest.

鼠の物を噛るような音を立てると、家人は下婢に「灯を取って長持を調べよ」と命じた。

When the lid was unlocked, out came the prisoner, who blew out the light, pushed away the maid, and fled.

蓋を開けるやいなや、ここに閉込められていた捕虜は飛びだした。灯を吹消した。下婢を突飛ばした。そして一目散に逃出した。



The people ran after him.

人々は彼を追いかけた。

Noticing a well by the road, he picked up a large stone and threw it into the water.

彼は路傍に井戸を認めたので、大石を抱き上げてこれをその水中に投じた。

The pursuers all gathered around the well trying to find the burglar drowning himself in the dark hole.

すると、暗い井のなかに、盗人が入水したのだと思って、追手はことごとく井戸の周囲に集まった。

In the meantime he was safely back in his father's house.

そのうちに彼は無事自家(うち)に戻った。



He blamed his father very much for his narrow escape.

彼は「危機一髪のところだった」と言って、父親の非道を鳴らした。

Said the father, 'Be not offended, my son. Just tell me how you got off.'

父親が言った。「まァ、憤るナ、どうして逃げてきたか、ちょっと話してみろ」

When the son told him all about his adventures, the father remarked,

そこで悴がその冒険の一部始終を語り終った時、父親は言った。

'There you are, you have learned the art.'

「それだ。お前は夜盗術の極意をおぼえ込んだ!」





引用:『対訳 禅と日本文化 - Zen and Japanese Culture』




2015年10月30日金曜日

フンドシの霊力か[玄侑宗久]



話:玄侑宗久
『サンショウウオの明るい禅』



ふんどしの霊力


私は高校以来、下着は褌(ふんどし)しかつけたことがない。それがどうしたと言われそうだが、これから書くことはそんな褌(ふんどし)慣れした私でも驚いたという褌(ふんどし)の話。






さて驚いたというのは、厄払いのため、日本三大奇祭の一つといわれる会津柳津(やないづ)の裸祭りに行ったときのことだ。1月7日のそのお祭りには、毎年お経をあげる僧侶として拝請(はいしょう)していただくのだが、その年は厄年なので裸になって鰐口(わにぐち)の前の綱をよじ登ることになった。何人かの同級生たちも一緒に参加した。



数組の夫婦で酒を飲みながら夕食をとり、さて褌(ふんどし)を締める段になったのだが、

「神聖な儀式のための褌(ふんどし)であるから、熟練者に締めてもらえ」

という。大勢の男たちが数珠つなぎに登るから、

「未熟な緩い締め方では途中で外れ、失敬になる」

というのだ。



中居さんに言われた部屋に行ってみると、熟練者といわれる人も大勢の連れと飲んでいた。しかし気軽に引き受けてくれ、当たり前のことのように言った。

「はいはい、じゃあ全部脱いで」

女性も混じった大勢の中で全裸になり、回転しながら締込(しめこみ)をしてもらったのも未曾有(みぞう)のことだが、じつはもっと驚くべきことが、その後で起こった。



頭がクラクラするくらい緊(きつ)く締められ、思わず裸足の足を爪先立ちにして雪の道を早足に進み、石段を登る。

その間、何が起こったのか?

石段を登りきって習(なら)わしどおり、大きな手水鉢(ちょうずばち)に身を浸したが、

「ぬるい」

そして本堂の綱も、女房の計測によれば「8秒」で登りきってしまった。夕方試しに登りかけた時には、まったく登れなかったのに、である。



あれは一体なんだったのか?

昔から褌(ふんどし)は

「締めれば締めるほど神に近づく霊力を発揮する」

という。今となっては、あの神業(かみわざ)のような勇姿が「褌(ふんどし)の霊力」だったとしか思えないのである。


…







引用:玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅』