2017年2月7日火曜日
The Reason I Jump[東田直樹]
話:東田直樹
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会話はすごく大変です。気持ちを分かってもらうために、僕は、知らない外国語をつかって会話しなくてはいけないような毎日なのです。
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僕たちは、自分の体さえ自分の思い通りにならなくて、じっとしていることも、言われた通りに動くこともできず、まるで不良品のロボットを運転しているようなものです。
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自分が何のために生まれたのか、話せない僕はずっと考えていました。
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自分のせいで他人に迷惑をかけていないか、いやな気持ちにさせていないか。そのために人といるのが辛くなって、ついひとりになろうとするのです。僕たちだって、みんなと一緒がいいのです。
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人の批判をしたり、人をばかにしたり、人をだましたりすることでは、僕たちは笑えないのです。僕たちは、美しい物を見たり、楽しかったことを思い出したりした時、心からの笑顔が出ます。
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ずっと昔に起こって、もう終わってしまったことなのに、どうすることもできなかった気持ちが、あふれてあふれて抑えられなくなるのです。その時には泣かせて下さい。泣いて泣いて心を軽くすれば、僕らはまた、立ち直ることができます。
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自分がやりたくても、やれない時もあります。体がいうことをきいてくれない時です。体がどこか悪いのではありません。なのに、まるで魂以外は別の人間の体のように、自分の思い通りにはならないのです。それは、みんなには想像できないほどの苦しみです。僕たちは、見かけではわからないかも知れませんが、自分の体を自分のものだと自覚したことがありません。
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僕たちは、何のために人としてこの世に生まれたのだろうと、疑問を抱かずにはいられません。側にいてくれる人は、どうか僕たちのことで悩まないで下さい。自分の存在そのものを否定されているようで、生きる気力が無くなってしまうからです。僕たちが一番辛いのは、自分のせいで悲しんでいる人がいることです。自分が辛いのは我慢できます。しかし、自分がいることで周りを不幸にしていることには、僕たちは耐えられないのです。
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ずっと「僕も普通の人になりたい」そう願っていました。障害者として生きるのが辛くて悲しくて、みんなのように生きていけたらどんなにすばらしいだろう、と思っていたからです。でも、今ならもし自閉症が治る薬が開発されたとしても、僕はこのままの自分を選ぶかもしれません。どうしてこんな風に思えるようになったのでしょう。ひと言でいうなら、障害のある無しにかかわらず人は努力しなければいけないし、努力の結果幸せになれることが分かったからです。
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文字を書いている間は、何もかも忘れることができます。そして、文字と一緒の僕は、ひとりではないのです。
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手足がいつもどうなっているかが、僕はよく分かりません。僕にとっては、手も足もどこから付いているのか、どうやったら自分の思い通りに動くのか、まるで人魚の足のように実感の無いものなのです。
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物は、すべて美しさを持っています。僕たちは、その美しさを自分のことのように喜ぶことができるのです。
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僕たちにとって時間は、例えば、行ったことのない国を想像するくらい難しいことなのです。(中略)僕たちの一秒は果てしなく長く、僕たちの24時間は一瞬で終わってしまうものなのです。
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僕たちは、おかしいほどいつも、そわそわしています。一年中まるで夏の気分なのです。(中略)まるで、急がないと夏が終わってしまう蝉のようなものです。
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自分がくるくる回るのが好きだし、何でもかんでも回しては喜んでいます。(中略)回転するものは、とても刺激的です。僕たちから言わせると、それは見ているだけで、どこまでも続く永遠の幸せのようなものです。見ている間、回転するものは規則正しく動き、何を回してもその様子は変わりません。変わらないことが心地よいのです。それが美しいのです。
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並ぶことは愉快です。水などが流れ続けることも快感です。
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僕たちには、いつも目や耳からの刺激が多すぎて、1秒がどれだけで、1時間がどれだけなのか見当もつきません。
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どうして、みなさんはコマーシャルに興味がないのですか? あんなに何度も繰り返し見せられると、まるで友達が遊びに来てくれたような感覚になりませんか?
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繰り返しは、とても楽しいです。なぜだと聞かれると、僕はこう答えます。「知らない土地で、知っている人に会っておしゃべりすると、すごくほっとするでしょ」
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僕たちは数字が好きなのです。数字は決まっているので、例えば1は、1以外の何も表していません。単純明快が心地いいのです。(中略)僕たちにとっては、目に見えない人間関係やあいまいな表現は、とても理解するのが大変です。
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速く走れないもうひとつの理由は、人に勝つことの喜びがよく分からないことです。みんながそれぞれ自分の力を出し切ることは、とてもすばらしいと思います。それで順位が決まることは理解できますが、それと人に勝つということは、別のことのような気がするのです。
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みんなが緑を見て思うことは、緑色の木や草花を見て、その美しさに感動するということだと思います。しかし、僕たちの緑は、自分の命と同じくらい大切なものなのです。
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僕たちにとって自由というのは、とても不自由な時間なのです。「好きなことをしてもいいよ」と言われたとします。けれども、好きなことと言われても、何をしたらいいのかを探すのが大変です。
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このあいだ家族で鎌倉に行った際、大仏を見たとたん、感動して泣き出してしまいました。大仏様の威厳のあるすばらしさと共に、歴史の重さや人々の思いなどが、一度に僕の心に押し寄せて来て、僕は涙が止まらなかったのです。
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僕の心は、いつも揺れ動いています。どこに行きたいわけでもないのに、目についた場所に飛んで行きたくなる気持ちをおさえられません。周りの人に怒られて自分でも嫌になるのですが、どうやったらやめられるのか分かりません。(中略)誰かが止めても、何が起こっても、その時には悪魔が自分にとりついたかのように、自分が自分でなくなります。どこに解決策があるのでしょう。今も僕は、その衝動と戦っています。
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僕は幼稚園のころ、勝手に家を出てしまい警察に保護されたことがあります。(中略)とにかく、外に出なければ、自分が自分でなくなるのです。なぜだか分からないけれど、どこまでも行かなければならないのです。戻ることは許されません。なぜなら、道には終わりがないからです。
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自閉症の人が繰り返しを好きなのは、自分のやっていることが好きだとか、楽しいからではないのです。(中略)たぶん、脳がそう命令するのです。それをやっている間は、とても気持ち良く、すごく安心できます。(中略)自分の気持ちとは関係なく、いつも脳は、いろんなことを僕に要求します。僕がそれに従わないのならば、まるで地獄に突き落とされそうな恐怖と、戦わなければならないのです。生きること自体が、僕たちにとっては戦いなのです。
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もし、人に迷惑をかけるこだわりをやっているのなら、何とかしてすぐにやめさせて下さい。人に迷惑をかけて一番悩んでいるのは、自閉症の本人自身なのですから。たとえその時、やっている本人が笑っていたり、ふざけていたりしていても、心の中では傷ついているのです。自分の体でありながら、こだわりをやめることもできない僕たちには、どうしようもありません。
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逆に、こだわりが人の迷惑にならなければ、そっと見守って下さい。そのこだわりが永遠に続くことはありません。あんなにやめられなかったのにどうしてと思うほど、ある日突然しなくなります。僕は、きっかけは脳が終了のサインを出すからだと思います。終了のサインは、まるでお菓子を一袋食べてしまった後のように、こだわる必要が何もなくなることです。サインが出れば僕はもう、昨日見た夢を全て忘れてしまった人のように、こだわりから解放されるのです。
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あきらめないで欲しいのです。僕たちと一緒に戦って下さい。一番困っているのは僕たち自身で、僕たちこそ、この鎖から解放されたいと思っているのですから。
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僕はいつでも出口を探しているのです。どこかに行ってしまいたいのにどこにも行けなくて、いつも自分の体の中でもがき苦しんでいます。
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みんなが僕たちを誤解していることのひとつに、僕たちは、みんなのような複雑な感情は無い、と思われていることです。目に見える行動が幼いので、心の中も同じだろうと思われるのです。僕たちだって、みんなと同じ思いを持っています。上手く話せない分、みんなよりもっと繊細かもしれません。思い通りにならない体、伝えられない気持ちを抱え、いつも僕らはぎりぎりのところで生きているのです。
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僕は、自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のまま生まれてきた人たちなのだと思うのです。これは僕の勝手な作り話ですが、人類は多くの命を殺し、地球を自分勝手に破壊してきました。人類自身がそのことに危機を感じ、自閉症の人たちをつくり出したのではないでしょうか。(中略)僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっての大切な何かを思い出してくれたら、僕たちは何となく嬉しいのです。
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僕は大人になり、自閉症である自分を好きになることができました。
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失敗を繰り返す僕にも、明日という日はやってきます。
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話: David Mitchell
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なぜ、うちの3歳児は床に頭をがんがん打ちつけるのだろう?(中略)『ピングー』のDVDが傷だらけになって再生できなくなったとき、45分間も悲嘆の吠え声をあげつづけるのはどうしてか?(中略)理由はわからず、できるのはただ、なす術もなく見ていることだけだった。
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ある日、妻が日本に注文していた、注目すべき本が届いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』。著者の東田直樹は1992年生まれで、この本が出版されたときにはまだ中学生。直樹の自閉症はかなりの重度で、会話によるコミュニケーションは、現在でもほぼ不可能だ。
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私たちが待ち望んでいたのは、なぜ自閉症の子は独特なふるまいを見せるのか、その理由の、彼による説明だった。まだ片足を子供時代につっこんだ年齢の、しかも自閉症の症状が、私の子と少なくともおなじくらいに困難が多く、生活を左右するものであるような著者によって書かれたこの本は、天の啓示といってもいい、思いがけない贈り物だった。
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この本を読んだとき、直樹の言葉をつうじて、まるでうちの息子が自分の頭の中で起きていることについて、初めて私たちに語ってくれたかのように感じられたのだ。
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本書は自閉症をめぐる最も否定的な常識、自閉症の人々は反社会的で孤独を好み、他人に共感することができないというもの、に対する、意図せぬ反論となっている。東田直樹がくりかえし述べるのは、他人と一緒にいることを、彼が大切にしているということだ。
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本書は私にとって、息子との関係における大きな転換点となったといっても誇張ではない。自分を憐れむことをやめ、私よりも息子にとってこそ、いかに人生がきびしいものであるか、そのきびしさを少しでもやわらげてやるために、私には一体何ができるのか、それを考えるための、まさに私が必要としていた大きなきっかけを、直樹の言葉は与えてくれたのだ。
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アイルランドの私たちとおなじ地方で、自閉症の子供をもつ友人たちにも読めるよう、妻は直樹の本の試訳にとりかかった。ついでウェブ上のグループを通じて、自閉症の子をもつ在外日本人の母親たちが本書の英訳がないことに不満をもっていると知り、私たちは東田直樹にはもっと幅広い読者がいるのではないかと考えるようになった。その結果として生まれたのが『自閉症の僕が跳びはねる理由』の英訳版だ。
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『自閉症の僕が跳びはねる理由』が大西洋の両岸でベストセラーチャートをかけのぼり、数週間にわたってそこに君臨することになるだろうと、もし誰かにいわれていたとしても、私はまるで信じようともしなかっただろう。しかし、たしかにそうなったのだ。
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また私は、本書にこんなにも多くの外国語訳が出るとは考えてもいなかった。2007年に刊行された、13歳の日本人による、自閉症という経験の当事者の立場からの手引書は、現段階で中国語からマケドニア語まで、24言語に翻訳されている(2016年現在では30言語で翻訳)。私が知るかぎり、東田直樹は、現代日本の作家では村上春樹についで広く翻訳されている作家なのだ。
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