「『翻訳』の仕事は読書とはまるで別物で、大変なストレスのかかる仕事である。何百時間、何千時間にもわたって、ひたすら相手の話を聞き続けるようなもので、それはフルマラソンをするよりも遥かに苦しみを伴うものである」
「亀山郁夫(かめやま・いくお)」氏が、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の翻訳に投じた時間は、3,000時間以上(一日8時間としても一年以上)だという。
それでも、物語後半のラストスパートに入ると、その昂揚感は何ものにも代えがたいものがあったという。
「なぜ、これほどまで面白いのか!」
その抑えがたい興奮から、「この面白さが皆にも分からないはずがない」という確信が芽生えた、と亀山氏は語る(のちにこの書はミリオンセラーに…!)。
ドストエフスキー作品の多くには、人間のもつ原罪とともに、「やむにやまれず犯してしまう罪」が描かれている。
「はたして、ドストエフスキーが小説を書く上で、重要視した倫理観とは何だったのか?」
亀山氏の仮説の一つは「使嗾(しそう)」。すなわち、他者を唆(そそのか)すことによって、欲望を実現すること。
「『罪と罰』の主人公のように、自分の手を汚す犯罪には、まだ救いがあるように感じるが、人を唆(そそのか)すという行為には、人間の悪魔的な原理が存在しているのではないか」と、亀山氏は考えた。
そして、3,000時間という翻訳の時を経て、亀山氏の仮説は確信に変わる。
と同時に、「カラマーゾフの兄弟」の最終的なテーマが、使嗾(しそう)ではなく「黙過(もっか)」であることに気づかされる。
「つまり、我が身は完全に安全地帯に置いた上で、この世の悪や不幸な人を知らぬ風をして、そのままにしておくことの犯罪性。それをドストエフスキーは『悪の根源』と捉えていたのではなかろうか」と亀山氏。
ドストエフスキーの生きた19世紀後半、ロシアはアレクサンドル2世の統治下で、さまざまな不幸が氾濫していた。
「実際に目の前にいる不幸な人々を、神はなぜ救わないのか? われわれ人間は神から見捨てられ、黙過された存在ではないのか?」
そんな思いを強烈に抱いていたドストエフスキーは、20代後半で国家反逆罪を問われて「死刑宣告」を受け、酷寒の地シベリアへと送還されてしまう。
幸いにも、ドストエフスキーには恩赦が下された。
そして、解放された彼はこう叫ぶ。
「人間というのは、生きられるものなのだ!」
出典:致知2013年3月号
「人間というのは生きられるものなのだ! 亀山郁夫」
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